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寡黙堂ひとりごと

詩吟と漢詩・漢文が趣味です。火曜日と木曜日が詩吟の日です花も酒も好きな無口な男です。

十八史略 高句麗攻略頓挫す

2012-11-29 08:30:47 | 十八史略

十九年、上發洛陽至定州、進諸軍。上渡遼水、抜遼東城、降白巌城、攻安市城、大破其救兵於城下。安市城險兵精、堅守不下。議者欲抜烏骨城、渡鴨緑水、直取平壌。覆其本根、則餘可不戰而降。或又謂、親征異於諸將。不可乘危。上以遼左早寒、草枯水凍、士馬難久留、且糧將盡、勅班師。是行抜十城、徙戸口七萬、三大戰、斬首四萬餘級。然戰士死者、幾三千人。戰馬死什七八、不能成功。深悔之、歎曰、魏徴若在、不使我有此行也。命馳驛祠徴以少牢、復立所製碑。

十九年、上(しょう)洛陽を発し定州に至り、諸軍を進む。上、遼水を渡り、遼東城を抜き、白巌城を降し、安市城を攻め、大いに其の救兵を城下に破る。安市城険にして兵精(すぐ)れ、堅く守って下らず。議する者、「烏骨城(うこつじょう)を抜き、鴨緑水(おうりょくすい)を渡り、直(ただち)に平壌を取らんと欲す。其の本根を覆さば、則ち余は戦わずして降すべし」と。或いは又謂う、「親征は諸将に異なり。危うきに乗ずべからず」と。上、遼左は早く寒く、草枯れ水凍って、士馬久しくは留め難く、且つ糧将(まさ)に尽きんとするを以って、勅(みことのり)して師を班(かえ)す。是の行(こう)、十城を抜き、戸口七万を徙(うつ)し、三たび大いに戦い、首を斬ること四万余級なり、然れども戦士の死する者、幾(ほと)んど三千人、戦馬の死する、十に七八にして、功を成すこと能わず。深く之を悔い、歎じて曰く、「魏徴若(も)し在らば、我をして此の行有らしめじ」と。命じて駅を馳せ、徴を祠(まつ)るに少牢を以ってせしめ、復た製する所の碑を立てしむ。

救兵 高句麗からの救援の兵。 班師 軍隊を返すこと。 駅 継ぎ馬。 少牢 羊と豚のいけにえ。 

貞観十九年(645年、わが国の年号の初め、大化元年)太宗は洛陽を出発して河北の定州に到着し、軍をまとめて進発させた。遼水を渡り、遼東城を抜き、白巌城を降し、安市城を攻めて、高句麗からの援兵を大破した。しかし安市城そのものは堅固をほこり守兵も精悍なので、落とすことができなかった。そこで軍議を開くと、「まず烏骨城を攻略し、鴨緑江を渡って直に本拠の平壌を占領すれば、あとは戦わずして降すことができよう」と唱える者があり、またある者は「天子の親征は諸将の出陣とは違う。危険を冒すべきではない」と主張した。帝は遼東の地は冬が早く、草は枯れ、川は凍って、兵士も馬も長く駐留することはできない。その上糧秣も底を尽きかけているとして、勅を下して撤退した。この遠征では十の城を抜き、七万の人口を唐の地に移し、三度戦って敵の首四万余りも斬った。しかし唐の兵士も死者三千人にちかく、軍馬の十頭中七~八頭が死んだ。それでも目的を達せられなかったので帝は深く悔いて「もし魏徴が生きていればきっとわしを止めたろうに」と歎じた。早馬を長安に走らせ、少牢の生贄で魏徴を祀らせ、先に引き倒した碑を元通りに立てさせた。

十八史略 新羅救援を乞う

2012-11-27 09:10:02 | 十八史略

太子承乾不才。魏王泰多能有寵。潛有奪嫡之志。侯君集負功怨望。以承乾暗劣欲釁、因勸之反。事覺。廢爲庶人。君集坐誅。泰亦以險詐不立。立晉王治爲太子。魏徴嘗薦君集。上始疑徴阿黨。又有言。徴自録前後諌辭、示起居郎褚遂良。上愈不悦。徴臨終、上面指公主、欲妻其子叔玉、至是停其婚、踣所立碑。
十八年、上親征高麗。先是高麗泉蓋蘇文弑其君。新羅又遣使言、百濟與高麗、連兵謀絶新羅入貢之路。乞兵救援。上遂討之、先如洛陽。

太子承乾(しょうけん)不才なり。魏王泰、多能にして寵あり。潜(ひそか)に嫡を奪うの志有り。侯君集、功を負(たの)んで怨望す。承乾の暗劣なるを以って、釁(きん)に乗ぜんと欲し、因(よ)って之に反を勧む。事覚(あら)わる。廃して庶人と為す。君集坐して誅せらる。泰も亦険詐(けんさ)を以って立てられず。晋王治(ち)を立てて太子と為す。魏徴嘗て君集を薦(すす)む。上(しょう)始めて徴が阿党(あとう)せしかと疑う。又言う者有り。「徴、自ら前後の諌辞(かんじ)を録して、起居郎の褚遂良に示す」と。上、愈々悦ばず。徴、終わりに臨むとき、上、公主を面指して、その子叔玉に妻(めあ)わさんと欲せしが、是(ここ)に至って、その婚を停(とど)め、立つる所の碑を踣(たお)せり。
十八年、上親(みずか)ら高麗を征す。是より先、高麗の泉蓋蘇文(せんがいそぶん)其の君を弑す。新羅又使を遣わして言う、「百済と高麗と、兵を連ねて新羅入貢(にゅうこう)の路を絶たんことを謀る」と。兵の救援を乞う。上、遂に之を討たんとし、先づ洛陽に如(ゆ)く。


怨望 高昌遠征の折、戦利品を私した罪に問われたことを怨んでいたこと。 釁 すきま、釁隙(きんげき)仲たがい。 険詐 陰険でたくらみが多い。 晋王治 太宗の第九子。 阿党 おもねり与すること。 起居郎 天子の行動を記録する官。 踣 倒す。 

承乾は太子としてふさわしく無く、第三子の魏王泰は多才で、帝の寵愛も篤かったので、太子の位を窺う心が芽生えていた。たまたま侯君集が高昌を破った功績を鼻にかけ、あまつさえ罪に問われたことを怨んでいたが、太子承乾の不才をよいことに、魏王泰との確執につけ込んで太子に謀叛をそそのかした。しかし事が露見し、太子は廃嫡されて庶民におとされ、君集は誅殺された。一方魏王泰もたくらみが多いとして太子には立てられず、第九子の晋王治を立てた。この事件があらぬ方向に顕われた。魏徴が生前この君集を宰相に推薦したことがあった。それで魏徴が君集と徒党を組んだのではないかという疑いを抱いたのである。そこに「魏徴はかつて天子に対する諫言を書き留めて起居郎の褚遂良に見せた」と知らせる者がいた。それで太宗は一層不快になった。魏徴が臨終のとき、太宗は自分の娘を指して、徴の子の叔玉に妻あわそうとまで言っていたが、この事で取り止めにしたうえで魏徴顕彰の碑を引き倒してしまった。
貞観十八年(644年)太宗自ら高句麗を征討した。これより前、高句麗の泉蓋蘇文が主君栄留王を弑殺した。また新羅は使者を遣わして、「百済と高句麗が兵を合わせて、唐への朝貢への道を遮断しようとしております」と兵の救援を乞うた。そこで帝は高句麗の討伐にふみきり、まず洛陽に赴いた。


十八史略 魏徴没して一鏡を亡う

2012-11-24 10:00:00 | 十八史略

高昌王麴文泰、先是多遏絶西域朝貢、及拘留中國人。以侯君集爲交河大總管、將兵撃之。至是滅高昌、以其地爲西州。
十五年、吐蕃求婚。以文成公主嫁之。
十七年、鄭公魏徴卒。上曰、以銅爲鏡、可正衣冠。以古爲鏡、可見興替。以人爲鏡、可知得失。徴没朕亡一鏡矣。徴葬、上自製碑書石。
圖畫功臣長孫無忌・趙軍王孝恭・杜如晦・魏徴・房玄齢・高士廉・尉遅敬・李・蕭瑀・段志玄・劉弘基・屈突通・殷開山・柴紹・長孫順・張亮・侯君集・張公謹・程知節・虞世南・劉政會・唐儉・李勣・秦叔寶等於凌煙閣。

高昌王麴文泰(きくぶんたい)、是より先、多く西域の朝貢(ちょうこう)を遏絶(あつぜつ)し、中国人を拘留するに及ぶ。侯君集を以って交河大総管と為し、兵に将として之を撃たしむ。是に至って高昌を滅ぼし、その地を以って西州と為す。
十五年、吐蕃(とばん)婚を求む。文成公主を以って之に嫁(か)せしむ。
十七年、鄭公魏徴卒す。上曰く、「銅を以って鏡となさば、衣冠を正すべし。古(いにしえ)を以って鏡と為さば、興替(こうたい)を見るべし。人を以って鏡と為さば、得失を知るべし。徴没して、朕、一鏡を亡えり」と。徴葬るとき、上、自ら碑を製して石に書せり。
功臣長孫無忌・趙軍王孝恭・杜如晦・魏徴・房玄齢・高士廉・尉遅敬(うつちけいとく)・李・蕭瑀(しょうう)・段志玄・劉弘基・屈突通・殷開山・柴紹・長孫順・張亮・侯君集・張公謹・程知節・虞世南・劉政會・唐儉・李勣(りせき)・秦叔寶等を凌煙閣に図画せしむ。


遏絶 遮りとどめる。 交河 高昌の都。 大総管 総督。 興替 興亡代替。

高昌王の麴文泰が帰服したにも拘わらず、西域諸国が唐に朝貢する通行を妨げ、また唐の人を抑留するなどした。そこで侯君集を交河大総管に任命して、兵を率いて攻撃させた。ここに至って高昌を滅ぼし、この地を西州とした。
貞観十五年(641年)に吐蕃が唐室との婚姻を申し入れてきたので文成公主を降嫁させた。
十七年、鄭公魏徴が没した。帝は、「銅を鏡にすれば衣冠の乱れを正すことができる。いにしえを鏡にすれば王朝の盛衰の原因を知ることができる。人を鏡とすれば、己の施策の当否を知ることができる。魏徴が死んでわしは鏡を一つ失った」と嘆き、葬儀のとき自ら撰文して石に刻ませた。また帝は功臣の長孫無忌・趙軍王孝恭・杜如晦・魏徴・房玄齢・高士廉・尉遅敬徳・李・蕭瑀・段志玄・劉弘基・屈突通・殷開山・柴紹・長孫順徳・張亮・侯君集・張公謹・程知節・虞世南・劉政会・唐倹・李勣・秦叔宝等の肖像画を凌煙閣に画かせた。


十八史略 孔穎達、五経正義を撰す

2012-11-22 08:49:03 | 十八史略
十三年、夏旱。詔五品以上言事。魏徴言、陛下比貞觀初、漸不克終者十條。上深奬歎。
十四年、上詣國子監、親釋奠。是時大徴天下名儒爲學官、數幸國子監、使之講論。學生能明一經已上者、皆得補官。築學舎、千二百、學生滿三千二百六十員。自屯營・飛騎、亦給博士授經、有能通經者、聽得貢擧。於是四方學者、雲集京師。乃至高麗・百濟・新羅・高昌・吐蕃諸酋長、亦遣子弟、請入國學。升講筵者、至八千餘人。上以師説多門、章句繁雜、命孔穎達、與諸儒定五經疏。謂之正義。

十三年、夏旱(ひでり)す。五品以上に詔(みことのり)して事を言わしむ。魏徴言う、「陛下、貞観の初めに比するに、漸く終わりを克(よ)くせざる者十條あり」と。上(しょう)、深く奨歎す。
十四年、上、国士監に詣(いた)り、親(みずか)ら釈奠(せきてん)す。是の時、大いに天下の名儒を徴して学官と為し、数しば国士監に幸(みゆき)し、之をして講論せしむ。学生能く一経(いっけい)已上(いじょう)に明らかなる者は、皆官に補せらるるを得。学舎を増築すること、千二百間、学生を増して三千二百六十員に満たしむ。屯営・飛騎よりして、亦博士を給して経を授け、能く経に通ずる者有れば、貢挙(こうきょ)を得ることを聴(ゆる)す。是(ここ)に於いて四方の学者、京師に雲集す。乃(すなわ)ち高麗・百済・新羅・高昌・杜番の諸酋長に至るまで、亦子弟を遣わし、請うて国学に入らしむ。講筵(こうえん)に升(のぼ)る者、八千余人に至る。上、師説多門にして、章句繁雑なるを以って、孔穎達(くえいたつ)に命じて、諸儒と五経の疏(そ)を定めしむ。之を正義と謂う。


事を言わしむ 至らぬ点を言わせた。 国士監 国士学、太学、またそれを総管する中央官庁。 釈奠 孔子を祀る典礼。 一経已上 五経のうちの一つ以上。 屯営・飛騎 天子親衛の武官。 貢挙 貢進、推挙された者。 高昌 トルファン地域に建てた漢族の殖民国家。 講筵 講義の席。 五経 詩経・書経・易経・礼記・春秋。 疏 注釈をさらに詳述したもの。

貞観十三年(639年)夏、旱魃があった。太宗は五品以上の官吏にみことのりして、自分の至らぬ点を言わせた。そのとき魏徴が「貞観の初めに比べますと、曖昧に止めを刺さないことが十か条ございました」と各条を申し上げた。太宗は深く称え誉めた。
十四年に帝は国士監に行き、自身で釈奠の典礼を行って孔子を祀った。この時国中の名だたる儒者を召して学官に立てた。その後しばしば国士監に御幸して学官に講義や論議を行わせた。学生のなかで一つ以上の経書を究めた者は官吏に取り立てることができるとした。学舎を千二百室増築し、学生を増やして三千二百六十人を定員とした。近衛武官の屯営や飛騎をはじめ各営所にも博士を派遣して経書の授業をし、それに通ずる者は文官として推挙できるようにした。天下の学を志す者が雲のように集まり、遠く高麗・百済・新羅・高昌・杜番などの部族の長も、子弟を送り込んで国士監に入れることを願い出た。講義の席に連なる者は八千人以上にのぼった。太宗は経書についての学説が多く、解釈も繁雑になるのを憂えて孔穎達に命じて、顔師古ら数人の儒者とともに五経の注釈をさらに詳説して、基準となるものを定めた。これを五経正義という。

十八史略 府兵制を確立す。

2012-11-20 09:11:17 | 十八史略

定府兵、凡十道、置府六百三十四。而關内二百六十一。皆隷諸衞及東宮六率。上府兵、凡千二百人、中府千人、下府八百人。三百人爲團、團有校尉。五十人爲隊、隊有正。十人爲火、火有長、毎人兵甲糧装各有數。輸之庫、征給之。二十爲兵、六十而免。能騎射者爲越騎、其餘爲歩兵。更命統軍・別將、爲折衝・果毅都尉。毎歳季、各折衝都尉、帥以教戰。當給馬者官與直、當宿衞者番上。兵部以遠近給番。遠疎近數。皆一月而更。

府兵を定む。凡(すべ)て十道、府を置くこと六百三十四。而して関内二百六十一。皆諸衛及び東宮の六率(りくそつ)に隷(れい)す。上府の兵は、凡て千二百人、中府は千人、下府は八百人なり。三百人を団と為し、団に校尉有り。五十人を隊と為し、隊に正(せい)有り。十人を火と為し、火に長有り。人毎に兵甲糧装各おの数有り。之を庫(こ)に輸(いた)し、征行(せいこう)には之を給す。二十にして兵と為り、六十にして免ず。能く騎射する者を越騎と為し、其の余は歩兵と為す。統軍・別将を更命して、折衝・果毅都尉(かきとい)と為す。歳の末毎に、各折衝都尉、帥(ひき)いて以って戦を教う。当(まさ)に馬を給すべき者には官より直(あたい)を与え、当に宿衛すべき者は番上せしむ。兵部、遠近を以って番を給す。遠は疎に近は数しばす。皆一月にして更(かわ)る。

府 行政組織の州県と関係なく、兵部所管で地方の治安にあたった、鎮台、長官が折衝都尉、次官が果毅都尉。 隷 従属。 征行 出征。 越騎 卓越した騎兵の意。 統軍 統軍都尉。 別将 別将都尉。 折衝 敵の衝いてくる矛先をくじく意。 果毅 果敢、剛毅の意。 番上 順番に上京させる。

府兵の制度を定めた。全国十道に六百三十四の府を置いた。そのうち、関内道に二百六十一あり、それらはすべて長安警備にあたる親衛軍(左右の羽林・竜武・神武)、及び皇太子護衛の六率(左右の衛率、宗衛率、監門率)に従属させた。府には大小があり、上府は兵員千二百人、中府は千人、下府は八百人である。三百人を団とし、校尉が指揮をを執る。五十人が隊で、正が指揮をし、十人が火で火長が指揮をする。兵士一人ごとに武器・甲冑・糧食・装備の定数があり、庫に準備をして出征に際して支給した。二十歳で兵になり、六十歳になると免除された。騎射に優れた者を越騎とし、他を歩兵にした。統軍都尉を折衝都尉に改称して府の長官とし、別将都尉を果毅都尉と改めて次官とした。毎年末に折衝都尉は府兵を率いて教練にあたった。馬を支給すべき兵には官から代金を支給し、宿営すべき兵は交代で上京させた。兵部では長安からの遠近によって順番を割り当て、遠い者は回数を少なく、近い者は多くし、いずれも一か月で交代することとした。