十九年、上發洛陽至定州、進諸軍。上渡遼水、抜遼東城、降白巌城、攻安市城、大破其救兵於城下。安市城險兵精、堅守不下。議者欲抜烏骨城、渡鴨緑水、直取平壌。覆其本根、則餘可不戰而降。或又謂、親征異於諸將。不可乘危。上以遼左早寒、草枯水凍、士馬難久留、且糧將盡、勅班師。是行抜十城、徙戸口七萬、三大戰、斬首四萬餘級。然戰士死者、幾三千人。戰馬死什七八、不能成功。深悔之、歎曰、魏徴若在、不使我有此行也。命馳驛祠徴以少牢、復立所製碑。
十九年、上(しょう)洛陽を発し定州に至り、諸軍を進む。上、遼水を渡り、遼東城を抜き、白巌城を降し、安市城を攻め、大いに其の救兵を城下に破る。安市城険にして兵精(すぐ)れ、堅く守って下らず。議する者、「烏骨城(うこつじょう)を抜き、鴨緑水(おうりょくすい)を渡り、直(ただち)に平壌を取らんと欲す。其の本根を覆さば、則ち余は戦わずして降すべし」と。或いは又謂う、「親征は諸将に異なり。危うきに乗ずべからず」と。上、遼左は早く寒く、草枯れ水凍って、士馬久しくは留め難く、且つ糧将(まさ)に尽きんとするを以って、勅(みことのり)して師を班(かえ)す。是の行(こう)、十城を抜き、戸口七万を徙(うつ)し、三たび大いに戦い、首を斬ること四万余級なり、然れども戦士の死する者、幾(ほと)んど三千人、戦馬の死する、十に七八にして、功を成すこと能わず。深く之を悔い、歎じて曰く、「魏徴若(も)し在らば、我をして此の行有らしめじ」と。命じて駅を馳せ、徴を祠(まつ)るに少牢を以ってせしめ、復た製する所の碑を立てしむ。
救兵 高句麗からの救援の兵。 班師 軍隊を返すこと。 駅 継ぎ馬。 少牢 羊と豚のいけにえ。
貞観十九年(645年、わが国の年号の初め、大化元年)太宗は洛陽を出発して河北の定州に到着し、軍をまとめて進発させた。遼水を渡り、遼東城を抜き、白巌城を降し、安市城を攻めて、高句麗からの援兵を大破した。しかし安市城そのものは堅固をほこり守兵も精悍なので、落とすことができなかった。そこで軍議を開くと、「まず烏骨城を攻略し、鴨緑江を渡って直に本拠の平壌を占領すれば、あとは戦わずして降すことができよう」と唱える者があり、またある者は「天子の親征は諸将の出陣とは違う。危険を冒すべきではない」と主張した。帝は遼東の地は冬が早く、草は枯れ、川は凍って、兵士も馬も長く駐留することはできない。その上糧秣も底を尽きかけているとして、勅を下して撤退した。この遠征では十の城を抜き、七万の人口を唐の地に移し、三度戦って敵の首四万余りも斬った。しかし唐の兵士も死者三千人にちかく、軍馬の十頭中七~八頭が死んだ。それでも目的を達せられなかったので帝は深く悔いて「もし魏徴が生きていればきっとわしを止めたろうに」と歎じた。早馬を長安に走らせ、少牢の生贄で魏徴を祀らせ、先に引き倒した碑を元通りに立てさせた。