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寡黙堂ひとりごと

詩吟と漢詩・漢文が趣味です。火曜日と木曜日が詩吟の日です花も酒も好きな無口な男です。

十八史略 安帝

2011-07-30 08:27:30 | 十八史略
盤根錯節に遇わずんば、以って利器を別つ無し。
孝安皇帝、名祜、清河王慶之子、章帝孫也。未冠迎即位。后仍臨朝、騭爲大將軍。時邊軍多事。騭欲棄涼州并力北邊。郎中虞詡以爲不可曰、關西出將、關東出相。烈士武夫、多出涼州。衆皆從詡議。騭惡詡欲陥之。會朝歌賊攻殺、州郡不能禁。以詡爲朝歌長。故舊皆弔之。詡曰、不遇盤根錯節、無以別利器。及到官募壯士。攻劫者爲上、傷人偸盜者次之。収得百餘人、使入賊中、誘令劫掠、伏兵殺數百人。又潛遣貧人能縫者、傭作賊衣、以綵線縫其裾、有出市里者、輒禽之。賊駭散、縣境皆平。太后知詡有將帥之略、以爲武都太守。

孝安皇帝、名は祜(こ)、清河王慶の子にして、章帝の孫なり。未だ冠せずして迎えられて位に即く。后、仍(なお)朝に臨み、騭(とうしつ)、大将軍と為る。時に辺軍多事なり。騭、涼州を棄てて力を北辺に併せんと欲す。郎中虞詡(ぐく)以って不可と為して曰く、関西は将を出だし、関東は相を出だす。烈士武夫(ぶふ)は、多く涼州より出ず、と。衆皆詡の議に従う。騭、詡を悪(にく)んで、之を陥れんと欲す。会(たま)ゝ朝歌(ちょうか)の賊、(ちょうり)を攻め殺して、州郡禁ずる能(あた)わず。詡を以って朝歌の長と為す。故旧皆之を弔(ちょう)す。詡曰く、盤根錯節(ばんこんさくせつ)に遇わずんば、以って利器を別(わか)つ無し、と。官に到るに及んで、壮士を募る。攻劫(こうこう)する者を上と為し、人を傷つけ偸盜(とうとう)する者之に次ぐ。百余人を収め得て、賊中に入らしめ、誘(いざの)うて劫掠(こうりゃく)せしめ、兵を伏(ふく)して数百人を殺す。又潜(ひそか)に貧人の能(よ)く縫う者を遣わして、賊衣を傭作(ようさく)せしめ、綵線(さいせん)を以って其の裾を縫い、市里に出づる者有れば、輒(すなわ)ち之を禽(とりこ)にす。賊駭(おどろ)き散じて、県境皆平らぐ。太后、詡が将帥(しょうすい)の略有るを知り、以って武都の太守と為す。

孝安皇帝、名は祜である。清河王の慶の子で章帝の孫にあたる。未だ冠礼を済まさないうちに迎えられて帝位に即いた。太后が引き続き朝廷に出て政治を執りおこない、騭が大将軍になった。このころ辺境の情勢は多事にわたった。騭は、涼州の地を放棄して匈奴に委ね、力を北の辺境に集中させようとした。郎中の虞詡が反対して意見を述べた。「古来、函谷関より西の地は将軍を輩出し、東は大臣を出している。烈士武勇のもののふは多く涼州の出身であります」と。虞詡の意見に賛成する者が多かったので騭はこれを憎み、陥れようとした。たまたま朝歌の賊が県のを攻め、これを殺したが、州も郡も手が出せない状態であった。騭はそこで虞詡を朝歌県の長官に任命した。旧知の人たちは同情して慰めに来たが、詡は笑って、「盤根錯節があって刃物の切れ味はわかるものさ」と答えた。着任するとすぐさま屈強のならず者を集めた。まず強盗を第一に、人を傷つけ盗みを働く者をその次にした。百人余りがあつまると賊の中にもぐりこませて、そそのかして掠奪に向わせ、あらかじめ兵を伏せて、数百人を殺した。またこっそり貧民の裁縫のできる者を送り込んで、賊の衣服の繕いをさせ、色のついた糸で裾を縫って、賊が町中に出てくるのを捕えた。賊はわけがわからず散りぢりになり、すっかり静かになった。太后は虞詡が大将の器であることを見抜き、武都郡の太守に任命した。

涼州 甘粛省中部の州。 侍中 天子の側仕え。 朝歌 河南省の地名。  禄高六百石(せき)以上の者。 故旧 以前からの馴染み。 盤根錯節 絡まり合った根と入り組んだ節、転じて解決し難い事柄、試練。 攻劫 強盗。 偸盜 偸も盜もぬすむ。 劫掠 おどしとる。 傭作 やとわれて物をつくる。 綵線 色糸。 武都 甘粛省南部の郡。

十八史略 水清ければ大魚無し、宜しく蕩佚簡易なるべし 

2011-07-28 09:31:08 | 十八史略
徴班超還京師。卒。超起自書生、投筆有封侯萬里外之志。有相者。謂曰、生燕頷虎頭、飛而食肉、萬里侯相也。自假司馬入西域、章帝時、爲西域將兵長史。至上、以超爲西域都護騎都尉、平定諸國。在西域三十年、以功封定遠侯。至是以年老乞歸。願生入玉門關。上許之。任尚代爲都護、請教。超曰、君性嚴急。水清無大魚。宜蕩佚簡易。尚私謂人曰、我以、班君當有奇策。今所言平平耳。尚後果失邊和。如超言。
上在位十八年崩。改元者二、曰永元・元興。太子立。是爲孝殤皇帝。
孝殤皇帝名隆、生百餘日即位。改元延平。在位八閲月而崩。時皇太后氏臨朝、與騭定策立嗣。是爲孝安皇帝。

班超を徴(め)して京師に還らしむ。卒す。超、書生より起こり、筆を投じて万里の外に封侯たるの志有り。相者有り。謂いて曰く、生は燕頷虎頭(えんがんことう)、遠くまで飛んで肉を食(くら)う。万里侯の相なり、と。仮司馬より西域に入り、章帝の時、西域の将兵の長史と為る。上(しょう)に至って、超を以って西域の都護騎都尉と為し、諸国を平定せしむ。西域に在ること三十年、功を以って定遠侯に封ぜらる。是(ここ)に至って年老いたるを以って帰らんことを乞う。願わくは生きて玉門関に入らん、と。上、之を許す。任尚(じんしょう)代って都護と為り、教えを請う。超曰く、君が性厳急なり。水清ければ大魚無し。宜しく蕩佚(とうてつ)簡易なるべし、と。尚私(ひそか)に謂って曰く、我以(おも)えらく、班君当(まさ)に奇策有るべしと。今言う所は平平たるのみ、と。尚、後果たして辺和を失す。超の言の如し。
上、位に在ること十八年にして崩ず。改元する者(こと)二、永元・元興と曰う。太子立つ。是を孝殤皇帝と為す。
孝殤皇帝(こうしょうこうてい)名は隆、生まれて百余日にして位に即く。元を延平と改む。位に在ること八閲月(えつげつ)にして崩ず。時に皇太后氏朝に臨み、騭(とうしつ)と策を定めて嗣(し)を立つ。是を孝安皇帝と為す。


班超を召し出して、洛陽に帰らせたが、間もなく死んだ。班超ははじめ学問で身を立てようとしたが、紙筆をなげうち武人となって万里の辺境で武功を立て、封侯になろうと志を立てた。ある人相見に「あなたは燕のような顎と虎の頭を持っている。飛んで肉のくらう、万里侯の相です」と言われた。後に仮司馬となって西域に入り、章帝の時に西域の将兵のとなったが、和帝の時になって、班超を西域の都護騎都尉に任じ西域諸国を平定させた。辺境に在ること三十年、功によって定遠侯に封ぜられた。そこで高齢を理由に「できれば生きて玉門関に入りとうございます」と願い出て、帝は超の希望を受け入れた。任尚が代って都護となり、超に教えを請うた。超は「君は厳格で性急すぎる。水がきれいすぎると大魚は棲めない。だからのんびりと大まかにするがよろしい」と答えた。任尚はひそかに人に語って「私は班君には何か奇策があると思って聞いてみたが実にありきたりの話だったよ」ともらした。ところがその後任尚は辺境の平和を保つことができず、班超の言葉どおりになってしまった。
和帝は位に在ること十八年で崩じた。改元すること二回、永元・元興がそれである。皇太子が位に即いた。これが孝殤皇帝である。
孝殤皇帝の名は隆である。生まれて百余日で帝位に即き、年号を延平と変えた。在位わずか八か月で崩じた。時に皇太后の氏が朝廷に臨んで政治を執っていたが、兄の騭と図って後嗣を立てた。これが孝安皇帝である。


相者 人相見。 燕頷虎頭 燕のおとがいと虎の頭。 長史 州の監察官刺史の補佐官。 蕩佚 寛大でゆるやか。(とういつ)と読むとしまりがないさま。 八閲月 閲は経過する、八ヶ月。

十八史略 和帝

2011-07-26 09:58:05 | 十八史略
孝和皇帝名肇、母梁氏。竇皇后子之。年十歳即位。竇后臨朝。竇憲以外戚侍中。用事。有罪。求出撃北匈奴以自贖。后從之。大破匈奴、登燕然山、刻石勒功而還。入爲大將軍。四年、父子兄弟、竝爲卿校、充滿朝廷。有逆謀。上知之、遂與宦者鄭衆定議、勒兵収憲印綬、迫令自殺。以衆爲大長秋、常與議政。宦官用權自此始。
先是漢兵撃北單于。走死。漢立其弟。後叛。追斬滅之。鮮卑徙據北匈奴地。自此漸盛。

孝和皇帝名は肇(ちょう)、母は梁氏。竇皇后(とうこうごう)之を子とす。年十歳にして位に即く。竇后朝(ちょう)に臨む。竇憲(とうけん)外戚を以って侍中たり。事を用う。罪有り。出でて北匈奴を撃って以って自ら購(あがな)わんことを求む。后之に従う。大いに匈奴を破り、燕然山に登り、石に刻み功を勒(ろく)して還る。入って大将軍と為る。四年、父子兄弟並びに卿校(けいこう)と為り、朝廷に充満す。逆謀(ぎゃくぼう)有り。上(しょう)之を知り、遂に宦者鄭衆(ていしゅう)と議を定め、兵を勒(ろく)して憲が印綬を収め、迫って自殺せしむ。衆を以って大長秋と為し、常に予(とも)に政を議す。宦官の権を用うる、此れより始まる。
是より先漢兵北単于を撃つ。走って死す。漢其の弟を立つ。後に叛(そむ)く。追うて斬って之を滅す。鮮卑徒(うつ)って北匈奴の地に拠(よ)り、此れより漸く盛んなり。


孝和皇帝は名を肇といい、母は梁氏、竇皇后が自分の子として育てた。年十歳で帝位に即いたので、竇太后が朝廷に出て政治を執った。太后の兄の竇憲は外戚ということで侍中となり、政権を専らにした。たまたま竇憲が罪を犯して太后から誅せられるところを、北匈奴の討伐を申し出ることによって罪をあがないたいと願い出たので、竇太后はこれを許した。この討伐は大勝利をおさめた。燕然山に登って、石に自らの功績を刻んで凱旋し、大将軍となった。
永平四年(92年)には竇憲の親兄弟がそろって九卿や校尉となり、朝廷に満ちあふれた。やがて竇憲は謀叛を企てるに至った。和帝はこれを察知して、宦官の鄭衆と相談して兵をととのえ、憲の印綬を取り上げてさらに迫って自殺させた。
帝は鄭衆を大長秋に任じて以後政治の相談をした。宦官が権勢を振るうのはこれより始まった。
これより以前、漢の兵が北単于を攻め、敗走させて死に至らしめた。漢は弟を単于に立てたが、後に叛いたので追って斬り殺した。鮮卑族が移って北匈奴の地を拠点にして次第に強大になっていった。


竇皇后 章帝の后。 事を用う 竇太后の寵臣を暗殺したこと。 勒 おもがい、くつわ、おさえる、統率する、彫る、刻む等の意味をもつ。前者は石に彫る 勒銘、後者は 統率する 勒兵。 大長秋 皇后宮の卿。

十八史略 章帝の治

2011-07-23 10:04:07 | 十八史略
上崩。在位十三年、改元者三、曰建初・元和・章和。壽三十一。上繼明帝察察之後、知人厭苛切、事從寛厚、文之以禮樂。嘗議貢擧法。韋彪議曰、國以簡賢爲務。賢以孝行爲首。求忠臣、必於孝子之門。上然之。廬江毛義、以行義稱。張奉候之。府檄適至、以義守安陽令。義捧檄入、喜動顔色。奉心賤之。後義母死。徴辟皆不至。奉乃歎曰、往日之喜、爲親屈也。上下詔褒寵之。州郡得人。如廉范在蜀郡、弛禁以便民。民歌之曰、廉叔度來何暮。不禁火、民安作。昔無襦、今五袴。當時皆以平徭簡賦。忠恕長者爲政、終上之世、民頼其慶。太子立。是爲孝和皇帝。

上(しょう)崩ず。在位十三年、改元する者(こと)三、建初・元和・章和と曰う。寿三十一。上、明帝察々の後を継ぎ、人の苛切(かせつ)を厭(いと)うを知り、事寛厚に従い、之を文(かざ)るに礼楽を以ってす。嘗て貢挙(こうきょ)の法を議す。韋彪(いひょう)議して曰く、国は賢を簡(えら)ぶを以って務めと為す。賢は、孝行を以って首(はじめ)と為す。忠臣を求むるは、必ず孝子(こうし)の門に於いてす、と。上、之を然りとす。廬江の毛義、行いの義なるを以って称せらる。張奉(ちょうほう)之を候(こう)す。府檄(ふげき)適々(たまたま)至り、義を以って安陽の令に守(しゅ)たらしむ。義、檄を捧げて入り、喜び、顔色に動く。奉、心に之を賤(いや)しむ。後に義の母死す。徴辟(ちょうへき)に皆至らず。奉乃(すなわ)ち歎じて曰く、往日の喜は、親の為に屈するなり、と。上、詔を下して之を褒寵(ほうちょう)す。州郡人を得たり。廉范(れんばん)の蜀郡に在るが如き、禁を弛めて以って民に便す。民之を歌うて曰く、廉叔度来る何ぞ暮(おそ)きや。火を禁ぜず、民安作(あんさく)す。昔は襦(じゅ)無く、今は五袴、と。当時、皆以って徭(よう)を平(へい)にし、賦を簡にす。忠恕(ちゅうじょ)の長者政(まつりごと)を為し、上の世を終るまで、民其の慶に頼(よ)る。太子立つ、是を孝和皇帝と為す。

章帝が崩じた(88年)。在位十三年、改元すること三回。建初・元和・章和である。歳は三十一であった。章帝は明帝の些細な過失をあげつらった治世の後を承け、人々が苛酷な政治を嫌っていることを知り、何事も寛大温厚にして、礼楽で完成させようとした。あるとき官吏推挙の方法について議論があったとき、韋彪が「国は賢者を登用することが務めであります。賢者を選ぶには第一に親孝行でなくてはなりません。忠臣を得るためには、必ず孝子の中から選ぶべきであります」と申しあげた。章帝はこれをよしとした。
廬江の毛義は行いが義にかなっていると評判であった。張奉という者が毛義を訪れたところ、ちょうど役所から安陽の県令に任命するという通達が届いた。毛義はその通達をおしいただいて、喜色満面であった。張奉は内心これをさげすんだ。後に毛義の母が死ぬと、もうどのような召喚にも応じなかった。張奉はそこではっと気づいた。あの時の喜びようは母親の為にした心ならずのものだったのか、と。これを伝え聞いた章帝は褒賞の詔勅を下した。
州や郡の官吏にはすぐれた人が多かった。廉范が蜀郡の太守であったときなどは、禁令を弛めて人々の便宜をはかったので、こんな歌が歌われた。


 廉叔度さま、もっと早くに来てほしかった。
 あなたが灯のおゆるしあって、おかげでわしらは夜なべにはげむ。
 肌着一枚ない日もあった、今じゃもんぺも五六枚。

当時はみな労役は公平で、租税も軽かった。誠実で思いやりのある長者が政を行ったので、章帝の世が終るまで民はその余慶にあずかった。皇太子が位に即いた。これが孝和皇帝である。

貢挙 地方から人材を推挙する。 候 たずねる。 府檄 役所からの通達。
徴辟 徴は朝廷から召されること、辟は州県から召されること。 褒寵 褒めてめぐむ。廉叔度 廉范のあざな、洛県の慶鴻と刎頸の交わりをむすぶ。「前に管鮑ありて後に慶廉がある」と謳われた。 徭 労役。 賦 年貢。 忠恕 忠実で同情心が厚いこと。



十八史略 章帝

2011-07-21 11:10:47 | 十八史略
孝章皇帝名烜、母賈氏、馬皇后養之。立爲太子。至是即位。
西域攻没都護。北匈奴圍己校尉、又圍耿恭。詔遺兵。罷都護及戊己校尉官。惟班超上疏請兵、欲遂平西域。上知功可成從之。
北匈奴五十八部來降。時北匈奴衰耗、黨衆離畔。南部攻其前、丁零寇其後、鮮卑撃其左、西域攻其右。不復自立。乃遠引而去。鮮卑撃斬北單于。故部衆有來降者。

孝章皇帝、名は烜(けん)、母は賈氏(かし)、馬皇后之を養う。立てて太子と為す。是(ここ)に至って位に即く。
西域、都護を攻没(こうぼつ)す。北匈奴(ほくきょうど)、己校尉(きこうい)を囲み、又耿恭を囲む。詔(みことのり)して兵を遣わす。都護及び戊己校尉(ぼきこうい)の官を罷(や)む。惟(ひと)り班超上疏(じょうそ)して兵を請い、遂に西域を平らげんと欲す。上、功の成る可きを知って之に従う。
北匈奴の五十八部来降す。時に北匈奴衰耗(すいこう)し、党衆離畔(りはん)す。南部其の前を攻め、丁零(ていれい)其の後に寇(あだ)し、鮮卑(せんぴ)其の左を撃ち、西域其の右を攻む。復自立せず。乃(すなわ)ち遠く引いて去る。鮮卑撃って北単于を斬る。故に部衆来降する者有り。


孝章皇帝、名は烜、母は賈氏である。馬皇后が養育した。皇太子に立てられていて、ここに至って即位した。
西域の車師が叛いて漢の都護を攻めて殺した。北匈奴は己校尉を包囲し、又戊校尉の耿恭をもとり囲んだ。帝は詔勅を下して軍隊を派遣し、これを救って都尉及び戊己校尉の官を廃止した。ただ班超だけは書をたてまつって、派兵を願い出でて西域を平定しようとした。帝は成功の見込みをつけると、要求を取り上げた。
北匈奴の五十八部が降参して来た。その頃北匈奴は衰退して、部族間で離反していた。この機に乗じて南匈奴が前から攻め、丁零国が後ろを脅かし、鮮卑が左から撃って、西域が右を攻めた。北匈奴はもはや自立できずに兵を引いて去った。そこを鮮卑が追撃して北匈奴の単于を斬り殺した。それで多くの部族たちが漢に来り降ったのである。


烜 後漢書には火へんに旦とある。 馬皇后 明帝の后、馬援の娘。 丁零 北トルコ系遊牧民の一。 鮮卑 モンゴル系遊牧民族。