goo blog サービス終了のお知らせ 

寡黙堂ひとりごと

詩吟と漢詩・漢文が趣味です。火曜日と木曜日が詩吟の日です花も酒も好きな無口な男です。

十八史略 此の江の如きもの有らん

2012-01-31 08:45:05 | 十八史略

洛陽祖逖、少有大志。嘗與劉琨同寝。中夜聞鷄聲、蹴琨起曰、此非惡聲也。因起舞。及是南渡、請兵於睿。睿素無北伐之志。以逖爲豫州刺史、與兵千人、不給鎧杖。逖渡江、中流撃楫而誓曰、祖逖不能清中原、而復濟者、有如此江。
愍帝又以睿爲丞相、都督中外諸軍事。長安陥。睿出師露次、移檄北征。實不行。羣臣勸即晉王位。明年遂即皇帝位。

洛陽の祖逖(そてき)、少(しょう)より大志有り。嘗て劉琨(りゅうこん)と同じく寝(い)ぬ。中夜鶏声を聞き、琨を蹴って起(た)って曰く、「此れ悪声に非ざるなり」と。因って起って舞う。是(ここ)に及んで南に渡り、兵を睿(えい)に請う。睿、素(もと)より北伐の志無し。逖を以って予州の刺史と為し、兵千人を与えて、鎧杖(がいじょう)を給せず。逖、江を渡り、中流にして楫(かじ)を撃って誓って曰く、「祖逖、中原を清むること能(あた)わずして、復済(わた)らば、此の江の如きもの有らん」と。愍帝、又睿を以って丞相と為し、中外の諸軍事を都督せしむ。
長安陥ちる。睿、師を出だして露次し、檄を移して北征せんとす。実は行かず。群臣、勧めて晋王の位に即かしむ。明年遂に皇帝の位に即く。


鎧杖 防具と武具。 此の江の如きもの この流れのように元に戻らない、生きて帰らぬこと。 

洛陽の祖逖は若い頃より大志を抱いていた。ある時劉琨と同じ部屋に寝ていたが、夜中に鶏の声を聞いて、劉琨を蹴飛ばして言った「夜中に鶏が鳴くのは乱世の兆しというが俺には吉兆の美声に聞こえるぞ」と言って踊りだした。この時になって、南に向かい、揚子江を渡り、司馬睿に奪回の兵を請うた。睿は北伐の意志はなかったので、祖逖を予州の刺史に任命して兵千人を与えたが、甲冑や武器を支給しなかった。祖逖は江を渡るとき、中流にさしかかった時、楫を叩いて誓った「この祖逖がもし中原を平定することができずに再びここを渡るようなことになったら、この揚子江の流れが二度と帰らないように、生きてはいないだろう」と。
愍帝は又睿を丞相とし、中外のすべての軍事を統率させた。やがて長安が陥落すると、睿は兵を出して、露営させ、檄をとばして北伐の構えを見せたが、実際には動かなかった。さらに臣下達に勧められると晋王の位に即き、翌年愍帝が殺されるの報がはいると、遂に皇帝の位に即いた。


十八史略 共に神州を復すべし

2012-01-28 09:15:26 | 十八史略
前回の記事で補足すべき事項がありました。睿爲安東將軍、都督揚州諸軍(事)、鎭建業。となっているテキストがあります。この場合は睿、安東將軍、都督揚州諸軍事と為り、建業に鎮すと読みます。

桓彝避亂過江、見睿微弱憂之。既而見導、退謂周曰、江左有官夷吾。吾無憂矣。諸名士遊宴新亭。中坐而歎曰、風景不殊、擧目有江河之異。因相視流涕。導曰、當勠力王室、共復神州。何至作楚囚對泣邪。
愍帝以睿爲左丞相。

桓彝(かんい)乱を避けて江を過ぎ、睿(えい)の微弱なるを見て之を憂う。既にして導を見、退いて周(しゅうがい)に謂って曰く、「江左に管夷吾(かんいご)有り。吾憂い無し」と。諸の名士新亭に遊園す。、中坐にして歎じて曰く、「風景殊(こと)ならざれども、目を挙ぐれば江河(こうか)の異あり」と。因(よ)って相視て涕(なみだ)を流す。導曰く、「当(まさ)に力を王室に勠(あわ)せて、共に神州を復すべし。何ぞ楚囚(そしゅう)と作(な)って対泣(たいきゅう)するに至らんや」と。愍帝(びんてい)、睿を以って左丞相と為す。

江左 揚子江の左、江東地方。 管夷吾 戦国時代斉の名宰相管仲。管鮑の交わり。 中坐 座をはずすことではなく座中の意。 風景 風と光。 江河 揚子江と黄河。 神州 自国の美称。 楚囚 囚人。楚の鐘儀の故事が左伝にある。

このころ、桓彝は乱を避けて揚子江を越えて来たが、睿の微弱な様を見て心もとなく思っていたが、王導に会って退出して後、周に向かって言うには「江東にはあの管仲にも比すべき人物が後見している、何も心配することは無い」。また多くの亡命貴族が揚子江辺の新亭で宴会を開いたとき、周が宴のさ中ため息をついて「この風もこの光も同じなのに、よく見れば黄河と揚子江はやはり違うものだなあ」坐中の人々は互いに顔を見合わせて涙を流した。この時王導は「今こそ力を合わせて王室を援け神州の地を回復しなければならず、囚われの身になって一緒に泣くような醜態をさらすことだけは避けねばならない」と一同を励ました。
やがて愍帝は司馬睿を左丞相に任命した。


十八史略 東晉

2012-01-26 08:32:17 | 十八史略

西晋の滅亡に際して多くの貴族が江南の地に疎開して、呉の旧都建業に同じ司馬氏を推戴して東晋を建てた(317年)。同時に中原の文化も移入され、江南の風土と融合して独自の文化を生み出した。

中宗元皇帝名睿、瑯琊王伷之孫也。宣帝懿生伷、伷生覲。或曰、睿母實與瑯琊小吏牛金通而生睿。嗣覲爲王。於惠・懐爲再從兄弟。懐帝時、睿爲安東將軍、都督揚州諸軍、鎭建業。睿以王導爲謀主、毎事咨焉。睿名論素輕。呉人初不附。導勷用諸名勝。顧榮・賀循・紀瞻等爲掾屬、撫綏新舊。江東歸心焉。後又得庾亮・卞壺等百餘人。謂之百六掾。

中宗元皇帝名は睿、瑯琊王伷(ろうやおう、ちゅう)の孫なり。宣帝懿(い)伷を生む。伷覲(きん)を生む。或いは曰く、「睿の母、実は瑯琊の小吏牛金と通じて睿を生めり」と。覲に嗣(つ)いで王と為る。恵・懐に於いては再従兄弟たり。懐帝の時、睿、安東將軍、揚州の諸軍に都督(ととく)し、建業に鎮(ちん)す。睿、王導を以って謀主(ぼうしゅ)と為し、事毎に咨(と)う。睿、名論素(もと)より軽し。呉人初め附かず。導、勧めて諸々の名勝を用う。顧栄(こえい)・賀循(がじゅん)・紀瞻(きせん)等掾属(えんぞく)と為り、新旧を撫綏(ぶすい)す。江東心を帰す。後又、庾亮(ゆりょう)・卞壺(べんこ)等百餘人を得たり。之を百六掾(えん)と謂う。

都督 地方の軍隊をとりしまる官。 再従兄弟 またいとこ。 鎮す 一地域を守備する。 謀主 主となって政策をめぐらす人、参謀。 名論 名誉と評判。 名勝 名望の勝れたひと、名士。 掾属 下役、属官。 撫綏 人民を安んずること。 

中宗元皇帝は名を睿という。瑯琊王伷の孫である。宣帝の懿が伷を生み、伷が覲を生んだ。或いは「睿の母は、実は瑯琊の小役人牛金と密通して睿を生んだ」という者もいた。覲の後を嗣いで王となった。恵帝と懐帝とは再従兄弟のあいだ柄である。懐帝の時に睿は安東將軍となり、揚州の諸軍を統率し、建業を守備していた。睿は王導を参謀にして何事によらず相談した。睿は名声、評判もそれほどはなく、初めから呉の人は心服していた訳ではなかった。そこで王導が勧めて、多くの地元の名士を用いることとし、顧栄・賀循・紀瞻等を補佐官に任用して、新天地に落ち着いた民と、旧くからの者を共にいつくしんだので、江東の人々も心を寄せるようになった。その後庾亮や卞壺ら百余人の名望家を得た。これを百六掾といった。

十八史略 西晋の終焉

2012-01-24 09:48:53 | 十八史略
孝愍皇帝名業。呉王晏之子、武帝孫也。封秦王。洛陽既陥、荀藩奉王趨許昌。時年十二。已而索綝迎入雍州。刺史賈疋等、奉爲皇太子、建行臺盗殺疋。麹允領雍州。懐帝凶問至。王即位於長安
石勒遣石虎攻鄴、陥而撽之。
漢屢寇長安。麹允・索綝屢敗之。未幾漢兵連陥諸郡逼長安、先陥外城。麹允・索綝退守小城、内外斷絶。城中饑甚。帝出降。漢將劉曜送平陽。聰享羣臣、命帝著青衣、行酒洗爵、又使執蓋。後遇害。帝在位四年。改元者一、曰建興。西晉自武帝至是凡四世、五十二年。瑯琊王立於建業。是爲中宗元皇帝。

孝愍皇帝名は業。呉王晏(あん)の子、武帝の孫なり。秦王に封ぜらる。洛陽既に陥り、荀藩(じゅんはん)、王を奉じて許昌に趨(はし)る。時に年十二。已にして、索綝(さくちん)、迎えて雍州(ようしゅう)に入る。刺史賈疋(かが)等、奉じて皇太子と為し、行台(こうだい)を建つ。盗、疋を殺す。麹允(きくいん)、雍州を領す。懐帝の凶問(きょうぶん)至る。王、長安に即位す。
石勒、石虎を遣わして鄴(ぎょう)を攻めしめ、陥れてこれに拠(よ)る。
漢、屡しば長安に寇(あだ)す。麹允・索綝屡しば之を敗る。未だ幾(いくばく)ならずして、漢の兵、連(しきり)に諸郡を陥れて、長安に逼(せま)り、先ず外城を陥れる。麹允・索綝、退いて小城を守り、内外断絶す。城中饑(う)うること甚だし。帝、出でて降る。漢の将劉曜、平陽に送る。聡、群臣を享し、帝に命じ、青衣を著(つ)けて、酒を行い爵を洗わしめ、又蓋(がい)を執(と)らしむ。後に害に遇(あ)う。帝、在位四年。改元する者一、建興を曰う。西晋は、武帝より是(ここ)に至るまで、凡(すべ)て四世、五十二年。。瑯琊王(ろうやおう)建業に立つ。是を中宗元皇帝と為す。


行台 臨時朝廷、行在所。 雍州 陜西省南部。 盗 賊。 凶問 凶報。 享し 酒宴を開くこと。 青衣 身分の低い者の衣服。 爵 さかずき。 蓋 日よけの傘。

孝愍皇帝名を業という。呉王晏の子で、武帝の孫にあたる。秦王に封ぜられた。洛陽が陥落したので、荀藩が秦王を奉じて許昌に逃れた。時に業は十二歳であった。やがて索綝が王を迎えて雍州に入った。刺史の賈疋等も、王を立てて皇太子とし、行在所を設けた。後に賈疋が賊に殺されたので、麹允が雍州を統治した。やがて懐帝殺害の報が入ったので、秦王は長安で即位した。
石勒は、石虎を遣わして鄴を攻めさせ、陥落させた。そしてここを根拠にした。
漢軍はたびたび長安を攻めた。麹允・索綝、はその都度撃退していたが、間もなく漢軍は諸郡を陥れて長安に迫り、外城を陥落させた。麹允と索綝は退いて小城に立てこもったが、内外の連絡が絶え、すまじい飢餓が襲った。愍帝は遂に城を出て降伏した。漢の将軍劉曜は帝を平陽に送った。劉聡は戦勝を祝って、群臣を饗応した。その折、帝に命じての青い衣を着け、酌をさせ、杯を洗わせたり、日よけの傘を持たせて、さんざんに辱めた上ついに殺した。
帝は在位四年で改元すること一回、建興といった。西晋は武帝からここにいたるまで四世、五十二年であった。その後、瑯琊王が建業で即位した。これが中宗元皇帝である。


十八史略 かならず鋒刃を以ってす可からず

2012-01-21 09:10:52 | 十八史略

太傅東海王越、遣兵入宿衞。仍遣使、以羽檄徴天下兵入援。越自帥兵討石勒、卒于軍。勒兵敗越軍、執太尉王衍等。衍自言、少無宦情、不豫世事。《因勸勒稱尊號、冀以自免。勒曰、君少壯登朝、名蓋四海、身居重任、何得言無宦情邪。破壊天下、非君而誰。命左右扶出。衆人畏死、多自陳述。獨襄陽王範神色儼然、顧呵之曰、今日之事、何復紛紜。勒謂孔萇曰》、吾行天下多矣、未嘗見此輩人。尚可存乎。或曰、彼皆晉之王公。終不爲吾用。勒曰、雖然要不可以鋒刃。夜使人排書墻殺之。
漢主聰遣呼延晏、將兵攻洛陽。劉曜・王彌・石勒皆會。遂陥洛陽、執帝送平陽。尋被殺。
帝在位六年。改元者一、曰永嘉。秦王立於長安。是爲孝愍皇帝。

太傅(たいふ)東海王越、兵を遣わし入って宿衛せしむ。仍(よ)って使いを遣わし、羽檄(うげき)を以って天下の兵を徴(め)し、入って援(たす)けしむ。越自ら兵を帥(ひき)いて石勒を討ち、軍に卒(しゅ)っす。勒の兵、越の軍を敗(やぶ)り、太尉王衍等を執(とら)う。衍自ら言う、「少(わか)きより宦情(かんじょう)無く、世事に予(あずか)らず」と。《因(よ)って勒に勧めて尊号を称(とな)え、以って自ら免ぜらるるを冀(ねが)う。勒曰く、「君少壮より朝に登り、名は四海を蓋(おお)う。身は重任に居り、何ぞ宦情無しと言うを得んや。天下を破壊するは君に非ずして誰かせんや」と。左右に命じて扶(ささ)え出だす。
衆人死を畏れ、多くは自ら陳述す。独り襄陽王範、神色儼然(げんぜん)たり。顧み呵(しか)って曰く「今日の事、何ぞ復た紛紜(ふんうん)たる」と。
勒、孔萇(こうちょう)に謂って曰く》「吾、天下を行(めぐ)ることおおけれど、未だ嘗て此の輩の人を見ず。尚存すべきか」と。或る人曰く、「彼皆晋の王公なり。終(つい)に吾が用を為さじ」と。勒曰く「然りと雖も、要(かなら)ず加うるに鋒刃を以ってす可からず」と。夜人をして墻(かき)を排(お)して之を殺さしむ。
漢主聡、呼延晏(こえんあん)を遣わして、兵に将として洛陽を攻めしむ。劉曜・王弥・石勒皆会す。遂に洛陽を陥れ、帝を執(とら)えて平陽に送る。尋(つ)いで殺さる。
帝、在位六年。改元する者(こと)一、永嘉と曰う。秦王長安に立つ。是を孝愍皇帝(こうびんこうてい)と為す。


羽檄 急ぎを示す羽を挿した檄文。 宦情 神色 態度。 儼然 厳然に同じ。 呵 叱ると、嗤うの両方の意味がある。 紛紜 入り乱れる、ごたごたする。 或る人 孔萇。 鋒刃 ほこ、やいば、刃物。 《 》この間は十八史略には無いが、意味の繋がりが不自然なので、資治通鑑(しじつがん)に拠って補填した。

太傅の東海王越が兵を洛陽に派遣して宮中を宿衛させた。さらに使者を出して急ぎの檄をとばして諸国の兵を徴集し、洛陽に送り込んだ。司馬越も自ら兵を率いて、石勒と戦ったが軍中に没した。石勒の兵は越の軍を大敗させて、太尉の王衍等を捕えた。王衍はこの期に及んで延命をこころみた。「自分は若い頃から役所づとめがいやで、世間のことには疎く、まつりごとには預かりませんでした」と。そのうえ石勒に尊号を名乗るよう勧めて、罪を逃れようとした。石勒は「そなたは若年から朝に登り、名は四界にとどろいている。なんで今更役所勤めが本意ではなかったなど言えるのか。晋の天下を滅ぼすのはそなたでなくて誰だと言うのだ」と罵った。左右の者に命じて、王衍を抱え立たせてつれ出した。ともに捕えられた者たちも死罪を恐れてさまざまに述べたてたが、ひとり襄陽王の司馬範だけは、態度が立派で取り乱したところがなく、畏れ慄く者たちを見回して「今日の事は今更しかたないこと、うろたえるでない」と叱った。石勒は、傍らの孔萇に「わしは天下をめぐることが多いが、未だ嘗てこのような人物を見たことがない、生かしておくべきか」と言ったところ、石勒は「彼らは皆晋の王公です、生かしておいても、我々のためにはならないでしょう」と答えた。石勒は「そうは言うものの司馬範だけは決して刃物をもって殺してはならぬ」と命じ、夜、塀を押し倒して殺した。
漢主の聡は、呼延晏という者を派遣して、兵に将として洛陽を攻めさせた。劉曜・王弥・石勒等の軍が皆合流し、遂に洛陽を陥れて帝を捕えて平陽に送った。間もなく命を奪った(313年)
懐帝は在位六年、改元すること一回、永嘉である。秦王が長安で即位した。孝愍皇帝である。