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寡黙堂ひとりごと

詩吟と漢詩・漢文が趣味です。火曜日と木曜日が詩吟の日です花も酒も好きな無口な男です。

唐宋八家文 柳宗元 韓愈に与えて史官を論ずる書(五ノ一)

2014-07-31 09:07:11 | 唐宋八家文
與韓愈論史官書(五ノ一)
正月二十一日、某頓首。十八丈退之侍者。前獲書言史事、云具與劉秀才書。及今乃見書藁、私心甚不喜。與退之往年言史事甚大謬。若書中言退之不宜一日在下。安有探宰相意、以爲苟以史榮一韓退之耶。若果爾、退之豈宜虡受宰相榮己、而冒居下近密地、食奉養、役使掌故、利紙筆爲私書、取以供子弟費。古之志於道者、不宜若是。
 
韓愈に与えて史官を論ずる書(五ノ一)
正月二十一日、某頓首。十八丈退之の侍者。前(さき)に書を獲(え)たるに史事を言い、劉秀才に与うる書に具(ぐ)すと云えり。今乃ち書藁を見るに及んで、私心甚だ喜ばず。退之の往年史事を言えると甚だ大いに謬(あやま)れり。書中の言の若(ごと)くんば退之は宜しく一日も館下に在るべからず。安(いずく)んぞ宰相の意を探りて、以って苟(いやし)くも史を以って一の韓退之を栄とすると為すこと有らんや。若(も)し果たして爾(しか)らば、退之は豈宜しく宰相の己を栄とするを虚受(きょじゅ)して、館下近密の地に冒居し、奉養を食(は)み、掌故(しょうこ)を役使し、紙筆を利して私書を為(つく)り、取りて以って子弟の費に供すべけんや。古の道に志す者は、宜しく是(かく)の若くなるべからず。


某 柳宗元。 十八丈 韓愈の排行、丈は敬称。 侍者 側近の者。 史事 歴史のこと。 劉秀才 秀才は科挙の地方試験に及第し、中央の受験資格を持つ者、劉軻のこと。 具 つぶさに。 書藁 藁は稿に同じ、下書き。 虚受 資格が無いのに受けること。 館下 歴史編纂所。 冒居 居るべきでないところに居ること。 掌故 故実をつかさどる官。 

正月二十一日、私宗元謹んで韓退之どののお側の方に申し上げます。先に戴いた手紙に歴史のことが書いてあり、「劉秀才に送った手紙に詳しく書いておいた」とありました。今その手紙の元稿を拝見して甚だおもしろくありません。あなたが以前歴史について言われたことと大変くいちがっているからであります。
あなたの本心が手紙の言葉どおりであるならば、あなたは一日でも史館に居るべきではありません。どうして「宰相の意向を推量して、史官に任命してこの私に栄誉を与えてくれた」などと考えることがありましょうか。もしそうとすれば、あなたはどうして宰相に過分の栄誉を与えられ、それを資格もないのに受けて、史館という政治の中枢に接した地位に割り込み、俸給を受け、故実を掌る下役を使い、紙筆を使って個人的な書物をつくり、それをもって子弟の養育に供す。などあってよいのでしょうか。古の道を守ろうと志す者がこんなことであってはならないと思うのです。


十八史略 女真・回鶻・于闐・高麗来貢す。

2014-07-29 08:14:27 | 十八史略
趙普薊人。遇上於滁州。用爲節度掌書記。上即位後、專與謀議、倚信之。
女眞貢馬。 囘鶻・于闐、來貢。 建隆三年、泉州留從效卒。衙將陳洪進、推張漢思領軍務。 定難節度使周西平王李彝興貢馬。 武平・武安鎭帥周行逢卒。子保權領軍府。衡州太守張文表作亂、起兵據潭州。保權表請救于宋。 荊南高寶勗卒。兄子繼冲代之。 高麗來貢。

趙普(ちょうふ) 薊(けい)の人なり。上(しょう)に滁州(じょしゅう)に遇う。用いて節度掌書記と為す。上即位後、専ら与(とも)に謀議し、之を倚信(いしん)す。
女真馬を貢(こう)す。
回鶻(かいこつ)・于闐(うてん)来貢す。
建隆三年、泉州留従效(りゅうじゅうこう)卒す。衙将(がしょう)陳洪進、張漢思を推して軍務を領せしむ。
定難の節度使周の西平王李彝興(りいこう)馬を貢す。
武平・武安の鎮帥(ちんすい)周行逢卒す。子の保権軍府を領す。衡州(こうしゅう)の太守張文表乱を作し、兵を起こして潭州(たんしゅう)に拠る。保権、表して救いを宋に請う。
荊南の高宝勗(こうほうきょく)卒す。兄の子継冲(けいちゅう)之に代る。
高麗来貢す。


薊 今の北京の地。 滁州 安徽省滁県。 節度掌書記 節度使の秘書官。 倚信 信用して頼る。 女真 黒竜江附近に居た、後に金を建国。 回鶻 ウイグル、甘粛新疆地方のトルコ系民族。 于闐 新疆ウイグルの一国。 衙将 宮城護衛の兵の将、衙は牙旗。 定難 西夏の節度使の治めた軍名。 武平 潭州。 武安 朗州の軍名。 鎮帥 節度使のこと。 鎮帥 節度使のこと。 衡州 今の湖南省衡陽県の地。 高麗 朝鮮王朝の一。

趙普は 薊の人である。太祖とは滁州で巡り会った。太祖は趙普を用いて節度掌書記に任命した。帝が即位した後には、専ら謀議に参画させて、信頼を寄せていた。
女真が馬を献上した。
回鶻と于闐が来貢した。
建隆三年(962年)に泉州の留従效が死去し、近衛の将の陳洪進が、張漢思を推薦したので軍務を管領させた。
定難の節度使で後周の西平王李彝興が馬を献上した。
武平武安の節度使の周行逢が死去し、子の保権が軍府を管掌した。
衡州(こうしゅう)の太守張文表が謀叛を起し、兵を挙げて潭州に立て籠もった。保権は上表して救いを宋に請うた。
荊南の高宝勗が死去し、兄の子の継冲がこれに代った。
高麗が来貢した。


唐宋八家文 柳宗元 韋中立に答えて師道を論ずる書六の六

2014-07-26 13:49:01 | 唐宋八家文
答韋中立論師道書 六ノ六
本之書以求其質、本之詩以求其恆、本之禮以求其宜、本之春秋以求其斷、本之易以求其動。此吾所以取道之原也。參之穀梁氏、以其氣、參之孟荀、以暢其支、參之莊老、以肆其端、參之國語、以広博其趣、參之離騒、以致其幽、參之太史公、以著其潔。此吾所以旁推交通、而以爲之文也。
凡若此者、果是耶非耶、有取乎、抑其無取乎。吾子幸觀焉擇焉。有餘以告焉。苟亟來以廣是道。子不有得焉、則我得矣。又何以師云爾哉。取其實而去其名。無招越蜀吠怪、而爲外廷所笑、則幸矣。宗元白。

これを書にもとづけて以ってその質を求め、これを詩にもとづけて以ってその恒(こう)を求め、これを礼にもとづけて以ってその宜(ぎ)を求め、これを春秋にもとづけて以ってその断(だん)を求め、これを易にもとづけて以ってその動を求む。此れ吾が道を取る所以の原(もと)なり。これを穀梁氏に参(かんが)えて、以ってその気を励まし、これを孟・荀に参がえて、以ってその支を暢(の)べ、これを荘・老に参がえて以ってその端を肆(ほしいまま)にし、これを国語に参がえて、以ってその趣きを博(ひろ)くし、これを離騒に参えて、以ってその幽を致し、これを太史公に参えて、以ってその潔を著す。此れ吾が旁(あまね)く推し交々(こもごも)通じて、以ってこれが文を為(つく)る所以なり。
凡そ此(かく)の若きものは、果たして是か非か、取る有るか、抑々(そもそも)それ取る無きか。吾子幸いに観て択(えら)べ。余有らば以って告げよ。苟(いやしく)も亟(すみやか)に来たって以って是の道を広めよ。子(し)得る有らずんば、則ち我れ得ん。また何を以って師と爾(しか)云わんや。その実を取ってその名を去らんのみ。越・蜀の怪に吠ゆるを招き、外廷の笑う所と為る無くんば、則ち幸いなり。宗元白(もう)す。

書 書経。 詩 詩経。 恒 変わらぬ法。 礼 礼記。 宜 応用。 穀梁氏 春秋穀梁伝。 参え 参照。 孟・荀 孟子・荀子。 支を暢べ 枝葉を展ばす。 荘・老 荘子・老子。 端を肆にす 発想の糸口を展開する。 離騒 屈原の叙事詩。 太史公 太史公書司馬遷の史記のこと。 旁 あまねく、広く。 

これを書経によってその本質を求め、詩経によってその常法を求め、礼記によってその応用を求め、春秋によってその判断を求め、易経によってその変化を求めるこれが私の道義を求め、得るための方法の根本です。また穀梁伝を参照して気力を励まし、孟子・荀子を参照して枝葉を伸展し、荘子や老子を参照して発想の糸口を展開し、国語を参照して趣きを広くし、屈原の離騒を参照して深奥を極め、史記を参照して潔白さをあらわす。これが私の広く古典を渉猟し、理解を深めて文章をつくる方法です。
およそ私のこのような方法が良いのか悪いのか採り入れるものがあるのか無いのか解りません。あなた自身でよく見て択んでください。そのほかに気付いたところがあればそのことを私に教えてください。できれば早速にもこの道を広めるようにつとめて欲しいのです。たといあなたに得るものが無くても私には得るものがあると思うからです。これでどうして私があなたの先生などと言えるのでしょうか、実を取って名を捨てるだけのことなのです。あの越や蜀の犬が雪を怪しんで吠えたことや、孫昌胤のように外廷で人々の笑いものにされることがなければ幸いです。宗元申す。

十八史略 白駒の隙を過ぐるが如し

2014-07-24 08:33:24 | 十八史略

守信等頓首曰、陛下何爲出此言。天命已定。誰敢有異心。上曰、汝曹雖無異心、如麾下之人欲富貴何。一旦以黄袍加汝之身、雖不欲爲、其可得乎。皆頓首泣曰、臣等愚不及此。惟陛下哀衿、指示可生之途。上曰、人生如白駒過隙。所爲好富貴者、不過欲多積金錢、厚自娯樂、使子孫無貧乏耳。汝曹何不釋去兵權、出守大半藩、擇便好田宅、爲子孫計。多置歌童舞女、日飮酒相安、不亦善乎。皆拜謝曰、陛下念臣等至此。所謂生死而肉骨也。明日皆稱疾請罷。

守信等頓首(とんしゅ)して曰く「陛下何為れぞ此の言を出す。天命已に定まる。誰か敢て異心有らんや」と。上曰く「汝ら曹(ともがら)、異心無しと雖も、麾下の人の富貴を欲するを如何(いかん)せん。一旦黄袍(こうほう)を以って汝が身に加えば、為すを欲せずと雖も、それ得可けんや」と。皆頓首して泣いて曰く「臣等愚にして(ここ)に及ばず。惟陛下哀衿(あいきょう)して、生く可きの途(みち)を指示せよ」と。上曰く「人生は白駒(はっく)の隙(げき)を過ぐるが如し。富貴を好むを為す所の者は、多く金銭を積んで、厚く自ら娯楽し、子孫をして貧乏なる無からしめんと欲するに過ぎざるのみ。汝が曹、何ぞ兵権を釈(と)き去って、出でて大藩(たいはん)を守り、便好(べんこう)の田宅(でんたく)を択んで、子孫の計を為さざる。多く歌童舞女を置き、日々に酒を飲んで相安んぜば、亦善(よ)からずや」と。皆拝謝して曰く「陛下、臣等を念(おも)うて此(ここ)に至る。所謂(いわゆる)死を生かして骨に肉つくるなり」と。明日(めいじつ)皆疾(やまい)と称して罷(や)めんことを請う。

頓首 頭を地につけて敬意を示すこと。 麾下 麾は大将の旗、旗本。 黄袍 天子が着る上掛け。 哀衿 あわれむ。 

守信等は頓首して「陛下は何ゆえこのようなことをおっしゃるののですか、天命はすでに定まっております。誰が敢て謀叛の心を起しましょうか」と言うと、帝は「そなた達に謀叛の心がなくても部下の者が富貴を欲したら何といたす。一たび天子の上掛けを着せられたら、そなた等が欲しなくともならずに居られまい」と言った。守信等は皆頭を垂れて、泣いて言うには「臣等は愚かにしてそこまで考えが及びませんでした。ただただ陛下には臣等を哀れと思し召されて、無事に生きる道すじをお示しください」と。そこで帝が「人生は白い馬が走り過ぎるのを板戸の隙間から覗くようなもので、その短い人生に富貴になりたいと思う者は多くの金銭を蓄えて、自ら楽しみ、子孫が貧乏にならないように願うだけなのである。そうとすればそなた達はどうして兵権など放り出して大きな藩の節度使として良い田地邸宅をえらんで、子孫繁栄を計ろうとしないのか。多くの歌舞童女を置いて毎日酒を飲んで安楽に暮らせたら、こんな良いことはあるまいに」と言うと、皆拝して謝し「陛下には臣等を深く思ってくださる。これこそ死者を生き返らせ、骨に肉を付けるというものです」と言った。翌日一同病気と称して辞職を願い出た。

唐宋八家文 柳宗元 韋中立に答えて師道を論ずる書(六ノ五)

2014-07-22 09:32:44 | 唐宋八家文
答韋中立論師道書 六ノ五
始吾幼且少、爲文章、以辭爲工。及長乃知文者以明道。是固不苟爲炳炳烺烺、務采色、夸聲音而以爲能也。凡吾所陳皆自謂近道。而不知道之果近乎遠乎。吾子好道而可吾文。或者其於道不遠矣。故吾毎爲文章、未嘗敢以輕心掉之。懼其剽而不留也。未嘗敢以怠心易之。懼其弛而不嚴也。未嘗敢以昏氣出之。懼其昧没而雑也。未嘗敢以矜氣作之。懼其偃蹇而驕也。抑之欲其奧、揚之欲其明、疎之欲其通、廉之欲其節、激而發之欲其、固而存之欲其重。此吾所以羽翼夫道也。

始め吾、幼にして且つ少なるとき、文章を為(つく)るに、辞を以って工(たくみ)と為せり。長ずるに及んで乃ち文は以って道を明らかにするを知る。是れ固(もと)より苟(いやし)くも炳炳烺烺(へいへいろうろう)、采色に務め、声音を夸(ほこ)るを為して以って能と為さざるなり。凡そ吾が陳(の)ぶる所は皆自ら道に近しと謂(おも)えり。而して道の果して近きか遠きかを知らず。吾子道を好んで吾が文を可とす。或いはそれ道に於いて遠からざらん。
故に吾文章を為る毎(ごと)に、未だ嘗て敢て軽心を以ってこれを掉(ふる)わず。その剽(ひょう)にして留まらざる懼るればなり。未だ嘗て敢て怠心を以ってこれを易(やす)くせず。その弛みて厳ならざるを懼るればなり。未だ嘗て敢て昏気(こんき)を以ってこれを出さす。その昧没(まいぼつ)して雑(まじ)わるを懼るればなり。未だ嘗て敢て矜気(きょうき)を以ってこれを作(な)さず。その偃蹇(えんけん)して驕ることを懼るればなり。これを抑えてその奥(おう)を欲し、これを揚げてその明を欲し、これを疎にしてその通を欲し、これを廉にしてその節を欲し、激してこれを発してその清を欲し、固くしてこれを存してその重きを欲す。これ吾が夫(か)の道を羽翼(うよく)する所以なり。


辞 修辞、語句を飾ること。 道 道義、正しいみちすじ。 炳炳烺烺 明るく輝く。 軽心 軽い心。 剽 剽軽、軽々しいこと。 掉う ふるう、もてあそぶ。 昏気 暗い気持ち。 昧没 暗くて見えなくなる。 矜気 誇る気持ち。 偃蹇 おごり高ぶる。 羽翼 助けること。

 私は年少の頃には、文章をつくるには言葉を飾ることが、第一だと思っていました。成長するにつれて文章は道義を明らかにするものだと知ったのです。もとより文章を輝かせ、音律を誇るのが才能だということではありません。およそ私の言う所は、皆道義に近いと思っています。しかし果たして本当に道義に近いのかあるいは遠いのかわかりません。あなたは道を好み、私の文を良しとしていますから、或いは道義に遠くないのかも知れません。
ですから私が文章を作るときはいつも軽い気持ちで筆を取ったりはしません。浮ついて落ち着かないことを恐れるからです。また怠惰な心で書いたりはしません。弛んで厳密でなくなることをおそれるからです。未だ嘗て暗い気持ちで書き出したりしません。筋道が見えなくなって雑物が混じることを恐れるからです。また人に誇る気持ちで文章を作ったりしません。高慢になって驕りが出ることを恐れるからです。こうした気持ちを抑えて深奥を求め、心を高揚させて明快さを欲し、おおまかにして解り易さを目指し、心清くして節度あるようにと思い、激情を発してなお清謐を求め、志を固く守って重厚であることを欲する。これが私の道義を追求する助けとなると信ずる所以であります。