寡黙堂ひとりごと

詩吟と漢詩・漢文が趣味です。火曜日と木曜日が詩吟の日です花も酒も好きな無口な男です。

十八史略 聖人寸陰を惜しむ。衆人当に分陰を惜しむべし

2012-02-28 08:53:35 | 十八史略

侃性聰敏恭勤。嘗曰、大禹聖人。乃惜寸陰。衆人當惜分陰。取諸參佐酒器蒱博具、悉投於江曰、樗蒱者牧猪奴戲耳。嘗造船、籍竹頭木屑而掌之。後正會雪霽地濕。以木屑布地。及後有征蜀之師、得侃竹頭作釘裝船。其綜理微蜜類此。
帝崩。在位三年。改元者一、曰太寧。太子立。是爲顯宗成皇帝。

侃の性、聡敏恭勤なり。嘗て曰く、「大禹(たいう)は聖人なり。乃ち寸陰を惜しめり。衆人は当(まさ)に分陰(ふんいん)を惜しむべし」と。諸々の参佐(さんさ)の酒器蒱博(ほはく)の具を取って、悉く江に投じて曰く「樗蒱(ちょほ)は牧猪奴(ぼくちょど)の戯れのみ」と。嘗て船を造るや、竹頭木屑(ちくとうぼくせつ)を籍(せき)して之を掌(つかさど)らしむ。後正会(せいかい)に雪霽(は)れ地湿う。木屑を以って地に布(し)く。後に蜀を征する師あるに及んで、侃の竹頭を得て釘を作り船を装す。其の綜理(そうり)の微蜜(びみつ)なること此れに類せり。
帝崩ず。在位三年。改元する者(こと)一、太寧と曰う。太子立つ。是を顯宗成皇帝となす。

禹 伝説上の聖王、夏の始祖といわれる。 寸陰 一寸の光陰、寸暇。 参佐 部下、下役人。 蒱博 博奕ばくち。 樗蒱 さいころバクチ、ちょぼいち。 綜理 統一して管理すること。 籍 記録すること。 正会 新年の朝会。 綜理 総合的処理。 

陶侃は聡明で鋭敏なうえ、慎み深く勤勉であった。あるとき「大禹は聖人でありながら、一寸の光陰も惜しんだ。まして凡人は一分の光陰も惜しまねばならない」といった。また多くの部下の酒器やばくち道具をすべて揚子江に投げ入れてこう言った「賭博などは豚飼いのする遊びだ」と。
あるとき、船を造っていて余った竹の切れ端や木屑を記録して保管させた。その後正月の朝見の際に、雪は上がったがぬかるんだ地面に、とっておいた木屑を敷いた。また蜀を征伐する軍をおこしたとき、竹の切れ端で釘を作り、軍船を修理した。陶侃が統括するにあたって緻密なことは、万事がこのようであった。
明帝が崩じた。在位三年。改元すること一回、太寧といった。太子が立った。これを顕宗成皇帝といった。


十八史略 陶侃

2012-02-25 08:06:40 | 十八史略
吾、力を中原に致さんとす。故に労を習う以陶侃都督荊・湘等州諸軍事。侃少孤貧。孝廉范逵過之。侃母湛氏、截髪賣爲酒食。逵薦侃。遂知名。初爲荊州都督劉弘所用、討義陽叛蠻張昌、又討破江東叛將陳敏、又撃破湘州劇賊杜弢、自江夏太守、爲荊州刺史。王敦疾之、左遷廣州刺史。侃在州、朝運百甓於齋外、暮運於齋内。人問其故。答曰、吾方致力中原。故習勞耳。至是復鎭荊州。士女相慶。

陶侃(とうかん)を以って荊・湘等の州の諸軍事を都督せしむ。侃少にして孤貧なり。孝廉の范逵(はんき)之に過(よぎ)る。侃の母湛(たん)氏、髪を截(き)って売って酒食と為す。逵、侃を薦む。遂に名を知らる。初め荊州都督の劉弘の用うる所と為り、義陽の叛蛮(はんばん) 張昌を討ち、又江東の叛将陳敏を討ち破り、又湘州劇賊杜弢(ととう)を撃ち破り、江夏(こうか)の太守より、荊州の刺史と為る。王敦之を疾(にく)んで、広州の刺史に左遷す。侃州に在って、朝に百甓(へき)を齋外(さいがい)に運び、暮れに齋内に運ぶ。人其の故を問う。答えて曰く「吾方(まさ)に力を中原に致さんとす。故に労を習うのみ」と。是に至って復た荊州に鎮(ちん)す。士女相慶す。

孝廉 孝行、廉直であるとして各地方から推挙されて朝廷に出仕した孝廉科。 過る 立ち寄る。 叛蠻 謀反を起こした蛮族。 劇賊 劇は激しく強いこと。 百甓 甓は敷き瓦。 

明帝は陶侃を荊州・湘州の諸軍事を都督させた。陶侃は幼いとき父を亡くして、貧しい暮らしをしていた。あるとき孝廉科に推挙された范逵が立ち寄ったとき、陶侃の母湛氏が髪を売って食事のもてなしに充てた。范逵はそれに感じて陶侃を推挙し、名を知られるようになった。初め荊州都督の劉弘の配下となり、義陽で謀反した張昌を討ち、次に江東の叛将陳敏を討ち破り、さらに湘州の強賊杜弢を撃破した。それで江夏郡の太守から荊州の刺史に昇進したが、王敦ににくまれて広州の刺史に左遷された。そのころ陶侃は毎朝百枚の敷き瓦を部屋から運び出し、毎晩それを部屋に運び入れた。ある人がその訳を尋ねると、「いずれ中原に力を振るうときがくる。そのときに備えて辛苦に馴れておくのだよ」と答えた。こうして又、荊州を鎮め治めることになった。荊州の人々は互いに喜びあった。

十八史略 王敦死す

2012-02-23 09:04:51 | 十八史略
黄鬚鮮卑の児来たれるか
以王導爲司徒、加大都督、督諸軍討敦。敦復反、發兵而病。使郭璞筮之。璞曰、明公起事、禍必不久。敦大怒曰、卿壽幾何。璞曰、命盡今日日中。敦斬之。帝自出覗敦軍。敦晝夢日環其營、驚悟曰、黄鬚鮮卑兒來耶。帝母鮮卑出也。亟遣人追之、不及。帝帥諸軍、出屯南皇堂、夜募壯士渡水、掩敦兄王含軍、大破之。敦聞含敗曰、我兄老婢耳。門戸衰、世事去。因作勢起欲自行、困乏復臥、尋卒。敦黨悉平。發敦屍斬之。有司奏罪王氏兄弟、詔曰、司徒導以大義滅親。將十世宥之。悉無所問。

王導を以って司徒と為し、大都督を加え、諸軍を督して敦を討つ。敦復た反し、兵を発して病む。郭璞(かくはく)をして之を筮(ぜい)せしむ。璞の曰く、「明公事を起こさば、禍(わざわい)必ず久しからじ」と。敦大いに怒って曰く、「卿の寿(じゅ)幾何(いくばく)ぞ」と璞の曰く「命、今日の日中に尽きん」と。敦之を斬る。
帝、自ら出でて敦の軍を覗(うかが)う。敦、昼、日その営を環(めぐ)ると夢み、驚き悟(さ)めて曰く「黄鬚(こうしゅ)鮮卑の児来たれるか」と。帝の母は鮮卑の出なり。亟(すみやか)に人をして之を追わしめしかど、及ばざりき。帝、諸軍を帥(ひき)いて、出でて南皇堂に屯し夜、壮士を募って水を渡り、敦の兄の王含が軍を掩(おお)って、大いに之を破る。敦、含の敗れしことを聞いて曰く「我が兄は老婢のみ。門戸衰え、世事去りぬ」と。因(よ)って勢いを作(な)し、起って自ら行かんと欲し、困乏して復た臥し、尋(つ)いで卒(しゅっ)す。敦の党悉く平らぐ。敦の屍(しかばね)を発(あば)いて之を斬る。有司、王氏の兄弟(けいてい)を罪せんと奏す。詔(みことのり)して曰く「司徒導は大義を以って親(しん)を滅せり。将(まさ)に十世之を宥(ゆる)さんとす」と。悉く問う所無かりき。


司徒 丞相のこと。 大都督 全軍の総司令官。 明公 地位のある人に対する尊称。 有司 司(役目)がある、官吏、役人のこと。

明帝は、王導を司徒とし、大都督を加え、全軍を指揮して王敦を討たせた。王敦は再び謀叛を企てたが、挙兵間際に病にかかった。郭璞を呼んで企ての成否を占わせた。郭璞は「公が事を起こされるなら必ず禍が公に及びましょう」と占いの結果を申し上げた。王敦は激怒して「ならばその方の寿命はあとどれだけか」と聞いた。郭璞は「今日の昼の内に尽きるでしょう」王敦は郭璞を斬り殺した。
明帝は自ら王敦の陣を探りに出かけた。王敦は昼寝していて陽が陣営の周りをめぐる夢を見て、「さては黄色い鬚の鮮卑の小僧が来たか」といった。明帝の母
明帝は諸軍を率いて出陣し、南皇堂に陣を布いた。勇者を募って夜半に河を渡り王敦の兄の王含の軍を襲撃し、散々に打ち破った。王敦は王含の敗報を聞くと、「兄貴は老いぼれの下婢と同じだ。何の役にも立たずに一門は衰え、天下の事もこれで終わった」と歎きつつも気力を振り絞って起ちあがり、自ら出陣しようとしたが、力尽きて臥し、次いで息をひきとった(324年)。王敦の残党がことごとく平らげられたうえ、王敦の墓もあばかれ、死体が斬に処せられた。王氏の同族をすべて処罰すべきだとの上奏が出されたが、明帝は「王導は大義のために肉親の情を断ち切った、これより先十世まで罪を許す」と詔を下し、罪を問わなかった。


十八史略 明帝

2012-02-21 10:02:16 | 十八史略
布衣の交わり
肅宗明皇帝名紹。幼而聰慧。嘗有使者從長安來。元帝問紹曰、長安近歟、日近。紹曰、長安近。但聞人從長安來、不聞人從日邊來。元帝奇其對。一日與羣臣語及之、復以問紹。紹曰、日近。元帝愕然曰、何異者之言邪。紹曰、擧頭見日、不見長安。元帝奇之。及長仁孝。喜文辭善武藝、好賢禮士、受規諌、與廋亮・温嶠等、爲布衣交。敦在石頭。以其有勇略、欲誣以不孝而廢之。頼嶠等衆論沮其謀、至是即位。敦謀簒位、移屯姑熟、自領揚州牧。

粛宗明皇帝、名は紹。幼にして聡慧(そうけい)なり。嘗て使者有って長安より来たる。元帝、紹に問うて曰く、「長安近きか、日近きか」と。紹の曰く、「長安近し。但だ人の長安より来るを聞けども、人の日辺より来るを聞かず」と。元帝其の対(こたえ)を奇とす。一日群臣と語って之に及び、復た以って紹に問う。紹の曰く、「日近し」と。元帝、愕然として曰く、「何ぞ間者(このごろ)の言に異なるか」と。紹の曰く、「頭を挙ぐれば日を見て、長安を見ず」と。元帝益々之を奇とす。長ずるに及んで仁孝なり。文辞を喜び、武芸を善くし、賢を好み士を礼し、規諌(きかん)を受け、廋亮(ゆりょう)・温嶠(おんきょう)等と布衣(ふい)の交りを為す。
敦、石頭に在り。其の勇略あるを以って、誣(し)うるに不孝を以ってし之を廃せんと欲す。嶠等の衆論に頼(よ)って其の謀(はかりごと)を沮(はば)みしが、是(ここ)に至って位に即きぬ。敦、位を簒(うば)わんことを謀(はか)り、屯(とん)を姑熟(こじゅく)に移して、自ら揚州の牧を領す。


間者 先日。 布衣の交り 身分を超えた交り、布衣は無位無冠の者が着る。 誣 誣告(ぶこく)、罪をでっちあげること。 牧 地方長官。

粛宗明皇帝は名を紹といった。幼い頃から聡明で、利発であった。嘗て長安から使者が来たとき、元帝が紹に、「ここから長安は近いかな、それともお日様の方が近いかな」と問いかけると、紹は「長安の方が近いです。長安から人が来ることは聞きますけど、お日さまの辺りから人が来たとは聞いたことがございません」と答えた。帝は大変喜んで、あるとき群臣を前にこの話を持ち出して、また紹を呼んで同じことを聞いた。紹は「お日さまが近いです」と答えたので元帝は大変驚いて、「どうしてこの前と違うのか」と言うと紹は「頭をあげるとお日さまは見えますけれど、長安は見ることができません」と答えたので、元帝はますます感心した。成長するにつれて慈悲深く、孝心篤く文章に親しみ、武芸にも秀で、賢者を好み、士を礼遇して、諫言を聞き入れて、廋亮や温嶠らと身分を超えた交友を結んだ。
王敦は、石頭城にいたころ、紹が勇気機略に富んでいることを危惧し、親に叛こうとしていると、中傷して廃位にしようと画策したが、温嶠ら多くの人々の反論に遇ってつぶされてしまった。元帝が崩じて紹が帝位に即いた(323年)。
王敦はなおも帝位の簒奪を謀り、姑熟に駐屯地を移して、自ら揚州の長官となった。


十八史略 王敦叛し、元帝崩ず

2012-02-18 09:14:03 | 十八史略
幽冥の間、此の良友に負く
導不知恨之。帝召見導。導稽首曰、亂臣賊子、何代無之。不意今者近出臣族。帝跣而執其手曰、茂弘、方寄卿以百里之命。以爲前鋒大都督。敦至石頭城據之。曰、吾不復得爲盛事矣。協・隗等分道出戰、大敗而還、帝令百官詣石頭見敦。敦殺周。導不救。後料撿中書故事、見表、執之流涕曰、吾雖不殺伯仁、伯仁由我而死。幽冥之、負此良友。敦不朝而去、還武昌。帝憂憤成疾而崩。在位六年。改元者三。曰建武・大興・永昌。太子立。是爲肅宗明皇帝。

導知らずして之を恨む。帝召して導を見る。導稽首(けいしゅ)して曰く、「乱臣賊子、何れの世にか之無からん。意(おも)わざりき、今者(いま)近く臣が族に出でんとは」と。帝、跣(せん)して其の手を執って曰く、「茂弘、方(まさ)に卿に寄する百里の命を以ってせん」と。以って前鋒大都督と為す。敦、石頭城に至って之に拠(よ)る。曰く、「吾復盛徳の事を為すを得ず」と。協・隗(かい)等道を分って出でて戦い、大いに敗れて還る。
帝、百官をして石頭に詣(いた)って敦を見しむ。敦、周を殺す。導救わず。
後、中書の故事を料撿(りょうけん)しての表を見、之を執って流涕して曰く、「吾、伯仁を殺さずと雖も、伯仁我に由(よ)って死す。幽冥の間、此の良友に負(そむ)く」と。敦、朝(ちょう)せずして去り、武昌に還る。帝、憂憤して疾(やまい)を成して崩ず。在位六年。改元する者(こと)三、建武(けんぶ)・大興・永昌と曰う。太子立つ。是を肅宗明皇帝と為す。


稽首 首が地に着くほど深く拝すること。 跣して はだしで駆け寄ること。 茂弘 王導のあざな。 百里の命 百里四方の行政区の政令。 盛徳 すぐれた徳。 導救わず 周が王敦に捕えられたとき、王敦から王導に打診があったが王導は答えず、助命しなかったこと。 料撿 調査。 幽冥の間 幽冥はかすかで暗いこと、知らない間。

王導はそれと知らずに周に恨みをいだいた。元帝は程なく王導を召しだした。王導は額を地に付かんばかりにひれ伏して「乱臣賊子はいつの世にもあるものでございます。それが私めの身内から出ようとは思いもしませんでした」と申し上げた。元帝は履もはかずに駆け寄り、その手をとって「茂弘よ、そなたにこの国の政治を託そうと思っていたところぞ」と言い、前鋒大都督に任命した。
一方王敦は石頭城に至ってそこに立て籠もり「もうこうなっては後には引けぬ、徳高い振るまいなどできない」と言った。劉愧と刁協は二手に分かれて王敦と戦い大敗して還った。元帝は百官を石頭に遣って王敦を説得したが、その折、周等を捕えて殺したが、王導はあえて助命しなかった。
その後、王導が中書省で記録を調べていたところ、嘗ての周の上書を見つけた。王導はそれを手に握ったまま、涙を流してこう言った「私は伯仁を殺しはしなかったが、彼は私のせいで死んだのだ、ああ何も知らぬ間に真実の友に背いてしまった」と。結局王敦は参代もしないで石頭を去り、武昌に戻ってしまった。元帝は心痛のため病いを発して崩御してしまった。在位六年で改元すること三度、建武・大興・永昌がそれである。太子が帝位に就いた。肅宗明皇帝である。