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寡黙堂ひとりごと

詩吟と漢詩・漢文が趣味です。火曜日と木曜日が詩吟の日です花も酒も好きな無口な男です。

唐宋八家文 韓愈 李元賓墓銘

2013-05-30 09:20:28 | 唐宋八家文
李元賓墓銘
李觀字元賓。其先隴西人也。始來自江之東、年二十四擧進士、三年登上第。又擧博學宏詞、得太子校書一年、年二十九客死于京師。既歛之三日、友人博陵崔弘禮葬之于國東門之外七里。郷曰慶義、原曰崇原。友人韓愈、書石以誌之。辭曰、
 已虖元賓、壽也者吾不知其所慕。夭也者吾不知其所惡。生而不淑、孰謂其壽。死而不朽、孰謂之夭。已虖元賓、才高乎當世、而行出乎古人。已虖元賓、竟何爲哉、竟何爲哉

李観、字(あざな)は元賓。その先(せん)は隴西(ろうせい)の人也。始め江の東より来るや、年二十四にして進士に挙げられ、三年にして上第(じょうだい)に登る。また博学宏詞に挙げられ、太子校書を得て一年、年二十九にて京師に客死(かくし)す。既に歛(れん)するの三日、友人博陵の崔弘礼、国の東門の外七里に葬る。郷を慶義と曰い、原(げん)を崇原と曰う。友人韓愈、石に書して以ってこれを誌(しる)す。辞に曰く、
  已虖(やんぬるかな)元賓、
  寿なるものは、吾その慕う所を知らず。
  夭なる者は吾その悪(にく)む所を知らず。
  生きて淑(よ)からずんば 孰(たれ)かそれを寿と謂わん。
  死して朽ちずんば 孰かこれを夭と謂わん。
  已んぬるかな元賓、
  才は当世に高くして 行いは古人に出でたり。
  已んぬるかな元賓、
  竟(つい)に何為(いかん)ぞや。
  竟に何為ぞや。


隴西 長安西方今の甘粛省南東部。 上第 優秀な成績で及第する。 博学宏詞 科挙の上級試験。 太子校書 皇太子府の校正官。 客死 他国で死ぬこと。 歛する もがり、小歛は死者に着物を着せること大歛は棺に納めること。 已虖 已乎の古風で荘重な言い方、もうどうしようもない。

李観は字を元賓という。祖先は隴西の出である。江南の地から長安に上って二十四歳で進士の受験資格を与えられ、三年目で優等で進士に及第した。さらに博学宏詞に及第し、太子校書の官に就き一年、二十九歳で長安に客死してしまった。納棺の三日目に友人の博陵出身の崔弘礼が東門の外七里に埋葬した。その村を慶義といい、その原を崇原という。友人の私韓愈が墓碑に銘を書き誌した。その銘に曰く

  已んぬるかな元賓よ
  長生きが好ましいわけを私は知らぬ
  短命がいとわしいわけも私は知らぬ
  長く生きても生き方が良くなければ誰が長寿と言おうか
  夭逝しても名が不朽なら誰がそれを短命と言おうか
  已んぬるかな元賓よ
  才能は当世に抜きんで 徳行は古人を凌ぐ
  已んぬるかな元賓よ
  なんとしたことか
  ああ なんとしたことか。


貞元十一年(795年)韓愈二十八歳の作。序の部分を簡潔に銘の部分に哀悼と賞賛の感情を込めた作品で数ある韓愈の墓誌銘の最も早い時期のもの。

十八史略 微賊恕すべからず

2013-05-30 09:13:50 | 十八史略

河東都將楊弁作亂、逐節度使。遣中馬元實、暁諭且覘之。元實受賂還、於衆中大言、相公須早與之節。自牙門柳子列十五里、曳地光明甲、若之何取之。裕詰之。辭屈。奏微賊決不可恕。如國力不支、寧捨劉稹。河東兵出戍者、聞朝廷令客軍取太原、恐妻孥被屠。乃歸擒弁送京師、斬之。未幾劉稹勢窮蹙。潞人殺稹以降。澤・潞平。加裕太尉衞國公、貶牛僧孺爲循州長史、流李宗閔於封州。

河東の都將楊弁、乱を作(な)し、節度使を逐う。中使馬元実(ばげんじつ)をして、暁諭(ぎょうゆ)し、且つ之を覗わしむ。元実、賄(まいない)を受けて還り、衆中に於いて大言す「相公須(すべか)らく早く之に節を与うべし。牙門(がもん)より柳子列に至るまで十五里、地に光明甲(こうみょうこう)を曳く、之を若何(いかん)ぞ之を取らん」と。徳裕之を詰(なじ)る。辞、屈す。奏(そう)すらく「微賊(びぞく)決して恕(じょ)す可からず。如(も)し国力支えずんば、寧ろ劉稹を捨てん」と。河東の兵出でて戍(まも)る者、朝廷、客軍をして太原を取らしむと聞いて、妻孥(さいど)の屠(ほふ)られんことを恐る。乃ち帰って弁を擒(とりこ)にして京師に送る。之を斬る。未だ幾(いくば)くならずして劉稹の勢、窮蹙(きゅうしゅく)す。潞人(ろひと) 稹を殺して以って降る。沢・潞平らぐ。徳裕に太尉衛国公を加え、牛僧孺を貶(へん)して循州(じゅんしゅう)の長史となし、李宗閔を封州に流す。

都将 軍を統御する官 軍官。 中使 禁中の使者、勅使。 暁諭 さとすこと。 節 使者の証、牛の尾の付いた旗じるし旄(ぼう)。 牙門 大将のいる門。 柳子列 地名、太原の東南。 光明甲 鉄の鎧。 恕 許す。 客軍 他国の軍。 妻孥 妻子、眷属。 窮蹙 行き詰まる。 太尉 三公の筆頭。 循州長史 広東省の刺史の副官。 封州 広東省の地名。


河東の軍官楊弁が反乱を起こして節度使を追い出した。朝廷では馬元実封州を勅使として派遣し、帰順を諭させると共に、様子を探らせた。ところが元実は楊弁から賄賂を受けて、長安に帰ると満座のなかで大音声をはりあげた。「宰相閣下、楊弁はすぐに節度使に任ずべきであります。本営の牙門から柳子列まで十五里は鉄の鎧に埋め尽くされております。これを攻略するなど、思いもよらぬことです」と。徳裕はその報告に疑いを持って、細かい点を糾すとついに返事に窮してしまった。徳裕は上奏して「微々たる小賊と見過ごしてはいけません。もし国力が不安であればむしろ劉稹は後回しにすべきであります」と申し上げた。すると河東の兵で都の護りに来ている者たちは、朝廷が他国の軍を派遣して太原せめさせようとしていることを聞きつけて、妻子が殺戮されることを恐れ、太原に帰って楊弁を捕えて長安に送りつけてきた。それで楊弁を斬り殺した。それから間もなくして劉稹は行き詰まった。潞州の人たちが劉稹を殺して投降してきた。こうして沢州潞州は平定した。徳裕はこの功績によって太尉に進み衛国公を加えられた。牛僧孺を循州の長史とし、李宗閔を封州に流した。

唐宋八家文 韓愈 科目に応ずる時人に与うる書

2013-05-28 10:10:11 | 唐宋八家文
應科目時與人書
月日。愈再拜。天池之濱、大江之濆、曰有怪物焉。蓋非常麟凡介之品彙匹儔也。其得水變化風雨、上下于天不難也。
其不及水蓋尋常尺寸之耳。無高山大陵曂途絶險爲之關隔也。然其窮不能自致乎水、爲獱獺之笑者、蓋十八九矣。如有力者哀其窮而運轉之、蓋一擧手一投足之勞也。
 然是物也、負其異於衆也、且曰、爛死於沙泥吾寧樂之。若俛首帖耳搖尾而乞憐者、非我之志也。是以有力者遇之、熟視之若無覩也。其死其生固不可知也。今又有有力者、當其前矣。聊試仰首一鳴號焉。庸詎知有力者不哀其窮、而忘一擧手一投足之勞、而轉之波乎。其哀之命也。其不哀之命也。知其在命而且鳴號之者、亦命也。
 愈今者實有類於是。是以忘其疎愚之罪、而有是説焉。閤下其亦憐察之。

科目に応ずる時人に与うる書
月日。愈、再拝。天池の浜、大江の濆(ふん)、怪物有りと曰う。蓋(けだ)し常鱗凡介の品彙匹儔(ひんいひっちゅう)に非ざるなり。その水を得るや、風雨を変化し、天に上下すること、難(かた)からざるなり。
 其の水に及ばざるは、蓋し尋常尺寸の間のみ。高山大陵、曂途絶険(こうとぜっけん)のこれが関隔(かんかく)を為す無きなり。然れどもその窮涸(きゅうこ)して自ら水に致すこと能わず。獱獺(ひんだつ)の笑いと為るもの、蓋し十に八九なり。如し力有る者のその窮を哀れみてこれを運転せば、蓋し一挙手一投足の労なり。
然れども是の物や、その衆に異なるを負(たの)めり。且つ曰く、沙泥に爛死(らんし)すとも、吾寧ろこれを楽しまん。首(こうべ)を俛(ふ)し耳を帖(た)れ、尾を揺るがして憐れみと乞うが若きは、我の志に非らざるなりと。是を以って力有る者のこれに遇い、これを熟視するも覩(み)る無きが若くなり。その死、その生、固(まこと)に知るべからざるなり。
今また力有る者有りて、その前に当たれり。聊か試みに首(こうべ)を迎(あ)げて一たび鳴号(めいごう)す。庸詎(いずく)んぞ力有る者のその窮せるを哀れみて、一挙手一投足の労を忘れ、これを清波に転ぜざるを知らんや。
そのこれを哀れむも命なり。そのこれを哀れまざるも命なり。その命に在るを知りて而も且つこれに鳴号するものも、亦た命なり。
愈今や実(まこと)に是に類する有り。是を以ってその疎愚(そぐ)の罪を忘れて、是の説有り。閤下(こうか)それ亦たこれを憐察(れんさつ)せよ。


科目 科挙の科目。 天池 想像上の大海。 濆 ほとり、みぎわ。 常鱗凡介 普通の魚介。 品彙 品類。 匹儔 匹敵する。 尋常尺寸 長さの単位だがわずかの距離。 関隔 閉ざし隔てる。 窮涸 獱獺 獱も獺もかわうそ。 乾き苦しむ。 運転 運ぶ。 負 自負する。 爛死 焼けただれて死ぬこと。 鳴号 泣き叫ぶ。 庸詎 いずくんぞ、反語。 閤下 閣下。

某月某日。韓愈、再拝して申し上げます。大海の浜辺、大江のほとりに怪物が居るということであります。思うにそれは普通の魚の分類に入りきらないもので、水を得たときは風雨を起すことも天に行き来することもできます。
 しかし、その水を得ないときは、ほんの僅かな距離でも、例えば高い山や大きな丘、遥か険しい道のりが行く手を隔てているわけではないのに、渇きに苦しみ自力で水に辿りつけず、かわうその笑いになることがほとんどであります。もし力ある人がその苦を哀れみ、水場に運んでさえ下されば、ほんの僅かな労力で済むことなのです。
 しかし、この怪物は普通の魚と違うところがあって、「たとえ砂泥の中で渇き死んでもむしろそれを誇りに思います。首を下げ耳を垂れて尾を振って哀れみを乞うことを望みません」と言っているのです。そのような訳で力のある人がこの怪物を目にしても見つけられないありさまです。ですからすぐに死んでしまうか運よく生き延びられるか全く予測がつきません。
 今たまたま力有る人が目の前に立たれたのであります。そこで首をあげて一声鳴いてみました。力あるひとがこの怪物の窮状を憐れんで、ほんの僅かな力添えをいとわず、清らかな水に運んでくれるかもしれないのです。
 その人が憐れんでくれるのも運命であります。憐れんでくれないのも運命であります。運命であることを知りながら、それでもなお鳴きかけるのもこれまた運命なのであります。
私の現状もこの怪物に似ております。このため自らの愚かさをかえりみず、このような話を申し上げました。閣下なにとぞ憐れとお察しください。


貞元九年(792年)二十六歳の作、前年進士科に及第、さらに上級の博学宏詞科に落第していた時、二度目の受験に際して試験官に送ったのがこの手紙であった。当時このように受験者が試験官に詩文をおくるのは普通に行われていたようである。
 自分を怪物に、官位を水に、試験官を有力者にたとえ、卑屈にながされず自身の才能を信じ、主張している。

十八史略 輔車の勢いを存せしむる勿れ

2013-05-28 09:58:32 | 十八史略
昭義節度使劉從諌卒。姪稹自領軍府。裕謂、澤・潞事體、與河朔三鎭不同。河朔習亂已久。累朝置之度外。澤・潞近在心腹。若又困而授之、威令不履行於諸鎭諸矣。上問、何以制之。曰、稹所恃者三鎭。但得鎭・魏不與之同、稹無能爲也。遣重臣諭鎭・魏討之。詔曰、澤・潞一鎭、與卿事體不同。勿爲子孫之謀、使存輔車之勢鎭・魏勢悚息聽命。二鎭兵、與朝廷所遣行營將王宰・石雄、各進討。

昭義節度使劉従諌卒す。姪(てつ)稹(しん)自ら軍府を領す。徳裕謂う「沢・潞(ろ)の事体は河朔三鎮と同じからず。河朔は乱に習うこと已に久し。累朝之を度外に置く。沢潞は近く心腹に在り。若し又因って之を授けば、威令復た諸鎮に行われざらん」と。上問う「何を以って之を制せん」と。曰く「稹の恃む所の者は三鎮なり。但だ鎮・魏之と同じからざるを得ば、稹は能くなす無きなり。重臣を遣り、鎮・魏に諭して之を討たん」と。詔して曰く「沢・潞の一鎮は、卿が事体と同じからず。子孫の謀をなして、輔車の勢いを存せしむる勿れ」と。鎮・魏、悚息(しょうそく)して命を聴く。二鎮の兵と朝廷の遣わす所の行営の将王宰・石雄と各々進討す。

昭義節度使 沢州・潞州の藩鎮。 姪 甥のこと。 軍府 軍の中枢。 沢州・潞州 山西省南部。 河朔三鎮 河北の三つの藩鎮、成徳・魏博・幽州。 輔車 輔はほお骨、車はあご骨、密接な関係のこと。(左伝に輔車相依り、唇亡ぶれば歯寒しとある) 悚息 悚はおそれる、息は息をころすこと。鎮・魏 鎮は成徳節度使、魏は魏博節度使

昭義の節度使劉従諌が死んだ。甥の劉稹が勝手に軍を掌握した。李徳裕が文宗に言うことには「沢州と潞州では河朔三鎮とは事情が違います。河北は古くから叛乱が絶えず歴代の朝廷も統治の度外に置いておりました。しかし沢と潞の二州は長安に近く、胸元にあります。もしこのまま追認すれば、他の藩鎮も同じように朝廷の威令を無視するようになりましょう」
文宗は「どうすれば昭義を制圧できるのだ」と問うた。徳裕は「劉稹の頼りは三鎮であります。成徳軍、魏博軍が呼応しなければ何もできないでしょう。重臣を派遣して、鎮州、魏州に昭義を討つよう説得することです」そこで文宗は詔を発して「沢潞の藩鎮はそなた等とは事情が違う、子孫の為を思うなら沢潞と密接な関係を持たぬことだ」と説得した。鎮・魏は恐れ入って命に従った。この二鎮の兵と朝廷から派遣の将軍王宰と石雄がそれぞれ兵を進めた。


十八史略 人主のこれを辨ずるに在り

2013-05-23 08:55:06 | 十八史略

僧孺尋罷。裕入相。宗閔亦罷。宗閔再相。裕又罷。二黨互相擠援。文宗毎歎曰、去河北賊易、去朝廷朋黨難。裕連被貶黜。及上立、召裕相之。裕言於上曰、正人指邪人爲邪、邪人亦指正人爲邪。在人主辨之。上嘉納。裕追論維州事。悉怛謀加褒贈。

僧孺、尋(つ)いで罷め、徳裕入って相たり。宗閔も亦罷む。宗閔再び相たり。徳裕又罷む。二党互いに相擠援(せいえん)す。文宗毎(つね)に歎じて曰く「河北の賊を去るは易く、朝廷の朋党を去るは難し」と。徳裕、連(しきり)に貶黜(へんちゅつ)せらる。上の立つに及んで、徳裕を召して之を相とす。徳裕、上に言って曰く「正人は邪人を指して邪と為し、邪人も亦正人を指して邪と為す。人主(じんしゅ)の之を弁ずるに在り」と。上、嘉納(かのう)す。徳裕、維州の事を追論す。悉怛謀に褒贈(ほうぞう)を加う。

擠援 おしのける事とたすける事。 貶黜 官位を下げて退ける。 人主 天子。 嘉納 進言を喜んで受け入れること。 褒贈 死者に官位を贈ること。

その後、牛僧孺が罷免されると、李徳裕が朝廷に入って宰相になり、李宗閔も宰相を離れた。再び宗閔が返り咲くと徳裕が朝廷を出された。二党は互いに与党は援け、野党は排斥して際限なく抗争を続けた。文宗は歎息して「河北の賊を去るは易しく、朝廷の朋党を解消するのは難しい」と言った。徳裕は何度も官位を落とされたが、武宗が立つに及んで召されて宰相になったのである。
徳裕が武宗に言うには「正しい人は、よこしまな人を、邪と言い、よこしまな人も正しい人を邪ときめつけています。つまりは人に君たる天子がこれを弁別することが肝要でございます」と。帝はその言をほめた。
徳裕は維州事件の誤りを論じて悉怛謀を悼んだ。帝は官位を贈って報いた。