goo blog サービス終了のお知らせ 

寡黙堂ひとりごと

詩吟と漢詩・漢文が趣味です。火曜日と木曜日が詩吟の日です花も酒も好きな無口な男です。

十八史略 郭子儀卒す

2013-03-30 10:49:09 | 十八史略
尚父大尉中書令、汾陽忠武王郭子儀卒。子儀以身爲天下安危者三十年。功蓋天下、而主不疑。位極人臣、而衆不疾。嘗遣使至魏博。田承嗣西望拜之曰、茲膝不屈於人久矣。今爲公拜。校中書令、凡二十四考。家人三千人、八子七壻皆顯。諸孫數十人、毎問安不能盡辨。額之而已。年八十三而終。
平盧李正己卒。子納自領鎭。朱滔・田悦・王武俊・李納、先後皆反。
三年、四人皆自稱王。 李希烈反。 兩河用兵。府庫不支數月。先括富商錢、諸道税。四年、行税架・除陌錢等法。

尚父大尉(しょうほたいい)中書令、汾陽(ふんよう)の忠武王郭子儀卒す。子儀身を以って天下の安危(あんき)を為す者(こと)三十年。功、天下を蓋うも而(しか)も主疑わず。位(くらい)人臣を極むるも、而も衆疾(にく)まず。嘗て使いをして魏博に至らしむ。田承嗣、西望(せいぼう)して之を拝して曰く「茲(こ)の膝、人に屈せざること久し。今、公の為に拝す」と。中書令を校すること、凡べて二十四考なり。家人三千人、八子七壻皆顕(あらわ)る。諸孫数十人、安を問う毎に、尽くは辨ずる能わず。之を額(がく)するのみ。年八十三にして終(お)う。
平盧の李正己卒す。子の納、自ら鎮を領す。朱滔(しゅとう)・田悦・王武俊・李納、先後して皆反す。三年、四人皆自ら王と称す。李希烈反す。両河に兵を用う。府庫支えざること数月。先ず富商の銭を括(かっ)し、諸道の税を増す。四年、税間架(ぜいかんか)・除陌銭(じょはくせん)等の法を行う。


尚父 郭子儀を尊んで徳宗が呼んだ。 汾陽 山西省の地。 疾 嫉妬。 魏博 藩鎮の名。 校 職能考査、毎年末に行われた。 考 考課 上上から下下まで九等級あった。 壻 婿。顕わる 顕官になる。辨 弁別。 額 うなずく。 平盧 山東省の一部の藩鎮。 朱滔 幽州盧龍軍・田悦 魏博天雄軍・王武俊 恒冀成徳軍・李納 淄青平盧軍の節度使。 括 調べること、検括。 税架 家屋に課税すること。 除陌銭 物品税

尚父大尉中書令で、汾陽の忠武王、郭子儀が没した。子儀は一身、天下の安否を荷うこと三十年。功業天下にあまねく、しかも天子に何らの疑念をも抱かせなかった。位、人身を極めたけれど衆人から妬みの声は聞かれなかった。
嘗て使者として河北の魏博藩鎮に遣わされた。すると節度使の田承嗣が西のかたを望んで子儀を待って拝礼してこう言った「私めのこの膝、久しく曲げておりませんでしたが、今日はあなた様のためにまげさせていただきました」と。中書令の考査を受けること二十四回、何れも最上であった。一族あわせて三千人、八人の子、七人の婿、いずれも顕官となり、孫は数十人にのぼり、挨拶に来ても全ては見分けられず、ただうなづいているだけであった。八十三歳で没した。
平盧の節度使、李正己が死んだ。子の李納が藩鎮を支配した。この頃、相前後して朱滔・田悦・王武俊・李納が叛いた。
建中三年(782年)、四人がすべて独立して王と名乗った。淮西彰義軍の李希烈も叛いた。河南、河北に戦乱が広がると、戦費がかさみ数ヶ月にわたって国庫が窮乏した。そこでまず富商の財産を調べて余分を借りることとし、天下諸道の税率を引き上げた。また翌年には、家屋に課税し、金銭の流通にも課税した。


十八史略 劉晏左遷の後、縊らる

2013-03-28 09:28:57 | 十八史略
崔祐甫卒。
殺忠州刺史劉晏。晏善治財計。自肅宗・代宗以來、領戸部・度支・鑄錢・鹽鐵・轉運等事。以同平章事充使。通漕運、幹鹽利、制百貨之低昂。軍國之用、以充足。然久典利權、衆頗疾之。又與楊炎不相悦。竟貶忠州。人希炎旨、告晏怨望。上遣人縊之。
二年、成李寶臣卒。子惟嶽自領軍務。後、王武俊斬而代之。
楊炎・盧杞、同平章事。炎未幾罷、杞藍面鬼色、有口辯。上悦之。

崔祐甫卒す。
忠州の刺史劉晏を殺す。晏善く財計を治(ち)す。粛宗・代宗より以来、戸部(こぶ)・度支(たくし)・鋳銭・塩鉄・転運等の事を領す。同平章事を以って使に充(あ)つ。漕運を通じ、塩利を斡(あつ)し、百貨の低昂(ていこう)を制す。軍国の用、頼(よ)って以って充足す。然れども久しく利権を典(つかさど)り、衆頗(すこぶ)る之を疾(にく)む。又楊炎と相悦(よろこ)ばず。竟(つい)に忠州に貶(へん)せらる。人、炎が旨(むね)を希い、晏怨望すと告ぐ。上、人を遣わして之を縊(くび)らしむ。
二年、成徳の李宝臣卒す。子惟嶽(いがく)、自ら軍務を領す。後、王武俊、斬って之に代わる。
楊炎、盧杞(ろき)、同平章事たり。炎未だ幾(いくば)くならずして罷(や)む。杞は藍面(らんめん)にして鬼色(きしょく)、口弁有り。上、之を悦(よろこ)ぶ。


戸部、度支、鋳銭、塩鉄、転運 戸籍、賦税、銭の鋳造、塩と鉄の専売、物資の輸送。 使に充つ 長官を兼任する。 斡 つかさどる。 低昂 高低。 縊 首を絞めて殺す。 藍面 顔が藍色。 鬼色 幽鬼の容貌。 口弁 弁舌の才。
建中元年に宰相の崔祐甫が亡くなった。
忠州の刺使の劉晏を殺した。劉晏は財政をよく立て直した。粛宗、代宗の時から、戸籍、税務、鋳銭、塩鉄の専売、流通の諸般にわたって、宰相にありながら、長官として敏腕を発揮した。船による輸送を円滑にし、塩の専売で利を得、物価の高低を抑制して国庫の充足をもたらした。しかし、長年にわたって利権にかかわっていたので、周囲から何かと妬まれた。やがて楊炎と衝突するようになって、遂に忠州に左遷された。そのうえ楊炎に迎合して、「劉晏が逆恨みしています」と告げた者がいた。徳宗は使者を遣わして劉晏を絞殺させた。
建中二年(781年)成徳の節度使、李宝臣が死んだ。子の惟嶽が勝手に軍務を引き継いだが、後に王武俊に斬られてとって代られた。
楊炎と盧杞が同平章事で並び立ち、やがて楊炎が罷免された。盧杞は顔色が蒼く妖怪じみていたが弁舌が巧みで徳宗から気にいられていた。


十八史略 両税法制

2013-03-26 09:15:20 | 十八史略
租庸調制度を廃す
建中元年、始作兩税法。唐初賦斂之法、有田則有租。有身則有庸。有戸則有調。玄宗之末、版籍寖壞、至兵起。所在賦斂、迫趣取辨、無復常準。下戸不勝困弊。率皆逃徙。至是楊炎建議、先計州縣毎歳所用、及上供之數、而賦於人。量出以制入。戸無主客、以見居爲簿、人無丁中、以貧富爲差。爲行商者、在所州縣、税三十之一。居人之税、秋夏兩徴之。其租庸調雜徭悉省。

建中元年、始めて両税の法を作る。唐の初め賦斂(ふれん)の法、田有れば則ち租有り、身有れば則ち庸有り戸(こ)有れば則ち調有り。玄宗の末、版籍寖(ようや)く懐れ、至徳、兵起こる。所在の賦斂、迫趣取弁(はくそくしゅべん)し。復た常準無し。下戸(かこ)困弊(こんぺい)に勝(た)えず。率(おおむ)ね皆逃げ徙(うつ)る。是(ここ)に至って楊炎建議して、先ず州県の毎歳用うる所、及び上供(じょうきょう)の数を計って、人に賦す。出づるを量(はか)って以って入るを制す。戸は主客と無く、見居(げんきょ)を以って簿と為し、人は丁中と無く、貧富を以って差となす。行商を為す者は、在所の州県、三十の一を税す。居人の税は秋夏に之を両徴(りょうちょう)す。其の租庸調雑徭(ざつよう)は悉く省く。

両税法 秋夏二度徴収する課税法。 賦斂 租税を割り付けて徴集すること。租庸調 租は田に課す税、庸は夫役、調は絹、麻布の物納税。 版籍 土地台帳と戸籍簿。 迫趣取弁 趣は促に同じ、取弁は取り立てること。 主客 主戸は自作農、客戸は小作農。 見居 見は現、現に居る者。 丁中 丁は二十歳からを言い、中は十六歳からを言う。老年は六十歳以上。 雑徭 その他の労役。

建中元年(680年)に始めて両税法を作った。唐の初めの租税割り当てのしくみは、田ごとに租として穀物を、人ごとに庸として夫役かそれに代わる物を、家ごとに調として絹か麻を徴収することになっていた。玄宗皇帝の末年には、地籍、戸籍が乱れ、粛宗の至徳年間には兵乱が起こって、その土地ごとに課税、取り立てが強引になり、基準がでたらめになってきた。等級の低い戸ほど困窮、疲弊し、多くが流民となった。ここに至って楊炎が建議して、まず州県の歳費と朝廷への上納金を算定して、それを住民に割りあてる法、つまり「出をはかって入るを制す」としたのである。戸は自作農と小作農の別なく現に住んでいるかで帳簿をつくり、人は丁と中とに分けるのでなく、貧富の差によって等級をつけた。行商人は商売をした土地で商いの三十分の一を課税し、定住する者は秋と夏の両季節に徴収した。従来の租庸調と夫役の徴発を全て廃止した。

十八史略 徳宗皇帝

2013-03-23 12:01:17 | 十八史略
宗皇帝名适。自雍王爲太子。至是即位。
常袞以欺罔貶。崔祐甫同平章事。祐甫欲収時望。未二百日、除官八百人。上曰、人謗卿所用多渉親故何也。對曰、臣爲陛下擇人。不敢不愼。非親非故、何以諳其才行用之。
淄李正己、畏上威名、表獻錢参十萬緡。崔祐甫請、遣使慰勞湽將士、因以賜之。正己慙服。天下以爲太平庶幾可望。
上方勵精求治。不次用人。祐甫薦楊炎。自司馬除爲同平章事。既而祐甫病不視事。

徳宗皇帝名は适(かつ)。雍王(ようおう)より太子となる。是に至って位に即く。
常袞(じょうこん)、欺罔(きぼう)を以って貶せらる。崔祐甫(さいゆうほ)同平章事たり。祐甫、時望(じぼう)を収めんと欲す。未だ二百日ならざるに、官に除する者八百人なり。上曰く「人、卿が用うる所、多く親故に渉ると謗るは何ぞや」と。対えて曰く「臣、陛下の為に人を択ぶ。敢えて慎まずんばあらず。親に非らず故に非らずんば、何を以ってか其の才行を諳(そら)んじて之を用いんや」と。
淄の李正己、上の威名を畏(おそ)れて、表して銭三十万緡(びん)を献ず。崔祐甫請うて使をして淄の将士を慰労せしめ、因って以って之を賜う。正己、慙服(ざんぷく)す。天下以為(おもえ)らく、太平庶幾(こいねが)わくは望むべしと。
上、方(まさ)に精を励まし治を求む。不次に人を用う。祐甫、楊炎を薦(すす)む。司馬より除せられて同平章事となる。既にして祐甫病んで事を視ず。


欺罔 罔は言い曲げる あざむくこと。 貶 官位をさげる、流謫する。 時望 当時の人気。 除 新たに任用すること、じもく。 淄 淄州と州ともに山東省の地。 緡 銭を通し列ねる紐。 不次 序列によらないこと。

徳宗皇帝、名は适という。雍王から皇太子となり、この時になって即位した。
宰相の常袞が徳宗を欺いた(崔祐甫を貶めた)かどで左遷された。代って崔祐甫が宰相に返り咲き同平章事となった。祐甫は人望を得ようとして、就任して二百日足らずで、新たに任官した者が八百人にのぼった。徳宗が「人はそなたの登用する者はおおかた親戚か友人だと陰口を言っておるぞ」とたしなめると、「臣は陛下の為だけを考えて、人選をしております。慎重にならざるを得ません。親戚、友人でない限りその才能、人品を知り得ませんので」とお答えした。
淄州と州の節度使、李正己が徳宗を畏敬して上表して銭三十万緡を献上してきた。崔祐甫が許しを得て使を遣って淄州と州の将兵を慰労させ、そのために銭を下賜した。正己は羞じて服従するようになった。
人々は、太平の世があるいは望めるのではないかと思いだした。
徳宗も平安を求めて努め励み、序列によらずに人材を登用した。やがて祐甫が楊炎を推挙した。一司馬から宰相の同平章事に抜擢されたのである。間もなく祐甫が病に倒れ、政務は主に楊炎がみることになった。


十八史略 代宗崩ず

2013-03-21 09:08:44 | 十八史略

七年、盧龍將殺朱希彩、而以朱領鎭。詔因授之。
九年、朱以弟滔、領鎭、而入朝。
十二年、有告元載圖不軌者。按問賜死。籍其家、胡椒至八百斛。他物稱是。
以楊綰・常袞同平章事。綰素。制下。郭子儀方宴。減坐中聲樂五分之四。京兆尹黎幹、騶從甚盛。即日省之、止存十騎。綰相三月而卒。上痛悼之曰、天乎、不欲朕致太平。何奪朕楊綰之速也。十四年、田承嗣卒。姪悦代之。
淮西將李希烈、逐節度使。詔因以鎭授希烈。
上在位十八年、改元者三、曰廣・永泰・大暦。崩。太子立。是爲宗皇帝。

七年、盧龍(ろりょう)の将、朱希彩を殺して、而して朱(しゅせい)を以って鎮を領せしむ。詔して因(よ)って之に授く。
九年、朱、弟滔(とう)を以って、鎮を領せしめ、而して入朝す。
十二年、元載、不軌を図ると告ぐる者有り。按問して死を賜う。其の家を籍して、胡椒八百斛に至る。他物是に称(かな)う。
楊綰(ようかん)・常袞(じょうこん)を以って同平章事とす。綰素(もと)より清倹なり。制下る。郭子儀方(まさ)に宴す。坐中の声楽五分之四を減ず。京兆の尹(いん)、黎幹(れいかん)、騶従(すうじゅう)甚だ盛んなり。即日之を省して、止(た)だ十騎を存す。綰、相たること三月にして卒す。上、之を痛悼(つうとう)して曰く「天なるか、朕が太平を致すを欲せず。何ぞ朕が楊綰を奪うの速やかなるや」と。十四年、田承嗣卒す。姪(てつ)悦、之に代わる。
淮西(わいせい)の将、希烈、節度使を逐(お)う。詔して因(よ)って鎮を以って希烈に授く。
上、在位十八年、改元する者(こと)三、広徳・永泰・大暦と曰う。崩ず。太子立つ。是を徳宗皇帝となす。


不軌 謀叛。 按問 調べ尋ねること。 籍 籍没、財産を帳簿に記録して官に没収すること。 斛 十斗。 同平章事 宰相の一、 京兆 首都長安。 騶従 外出に際して騎馬で従う者。 姪 甥。 

大暦七年(772年)、盧龍の部将が朱奇彩を殺し、代わりに朱を推挙して藩鎮を支配し、朝廷はこれを認める詔を下した。
大暦九年、朱は弟の朱滔に藩鎮守護を委ねて、自身は夷狄警備の兵を引き連れて朝廷に参内し、代宗を喜ばせた。
大暦十二年、元載が反逆を図っていると告発した者があった。調べて尋問した上で死を賜った。その家を没収すると、貴重な胡椒が八百斛も見つかり、他の物もそれに見合うほどあった。
楊綰と常袞を同平章事にした。楊綰は生来清廉で質素な人であった。任命の詔書が下ると、郭子儀は丁度酒宴の最中であったが、楽人を八割がた減らした。また首都の長官の黎幹は、盛んな共廻りで知られていたが、その日のうちに十騎を残すだけにした。だが残念なことに宰相に在ることわずか三月で世を去った。代宗はひどく悲しみ「天よ、あなたは私が太平の世を望んでいるのをご存じなのに、どうしてこうも早く楊綰を召してしまわれたのですか」と嘆いた。
大暦十四年、田承嗣が亡くなって甥の田悦がこれに代って天雄節度使になった。
淮西藩鎮の将の李希烈が節度使を放逐した。朝廷はまたも後任と認めて、詔を下した。
この年(779年)代宗皇帝が崩じた。在位十八年、改元すること三回、広徳・永泰・大暦という。太子が立った。これが徳宗皇帝である。