尚父大尉中書令、汾陽忠武王郭子儀卒。子儀以身爲天下安危者三十年。功蓋天下、而主不疑。位極人臣、而衆不疾。嘗遣使至魏博。田承嗣西望拜之曰、茲膝不屈於人久矣。今爲公拜。校中書令、凡二十四考。家人三千人、八子七壻皆顯。諸孫數十人、毎問安不能盡辨。額之而已。年八十三而終。
平盧李正己卒。子納自領鎭。朱滔・田悦・王武俊・李納、先後皆反。
三年、四人皆自稱王。 李希烈反。 兩河用兵。府庫不支數月。先括富商錢、諸道税。四年、行税架・除陌錢等法。
尚父大尉(しょうほたいい)中書令、汾陽(ふんよう)の忠武王郭子儀卒す。子儀身を以って天下の安危(あんき)を為す者(こと)三十年。功、天下を蓋うも而(しか)も主疑わず。位(くらい)人臣を極むるも、而も衆疾(にく)まず。嘗て使いをして魏博に至らしむ。田承嗣、西望(せいぼう)して之を拝して曰く「茲(こ)の膝、人に屈せざること久し。今、公の為に拝す」と。中書令を校すること、凡べて二十四考なり。家人三千人、八子七壻皆顕(あらわ)る。諸孫数十人、安を問う毎に、尽くは辨ずる能わず。之を額(がく)するのみ。年八十三にして終(お)う。
平盧の李正己卒す。子の納、自ら鎮を領す。朱滔(しゅとう)・田悦・王武俊・李納、先後して皆反す。三年、四人皆自ら王と称す。李希烈反す。両河に兵を用う。府庫支えざること数月。先ず富商の銭を括(かっ)し、諸道の税を増す。四年、税間架(ぜいかんか)・除陌銭(じょはくせん)等の法を行う。
尚父 郭子儀を尊んで徳宗が呼んだ。 汾陽 山西省の地。 疾 嫉妬。 魏博 藩鎮の名。 校 職能考査、毎年末に行われた。 考 考課 上上から下下まで九等級あった。 壻 婿。顕わる 顕官になる。辨 弁別。 額 うなずく。 平盧 山東省の一部の藩鎮。 朱滔 幽州盧龍軍・田悦 魏博天雄軍・王武俊 恒冀成徳軍・李納 淄青平盧軍の節度使。 括 調べること、検括。 税架 家屋に課税すること。 除陌銭 物品税
尚父大尉中書令で、汾陽の忠武王、郭子儀が没した。子儀は一身、天下の安否を荷うこと三十年。功業天下にあまねく、しかも天子に何らの疑念をも抱かせなかった。位、人身を極めたけれど衆人から妬みの声は聞かれなかった。
嘗て使者として河北の魏博藩鎮に遣わされた。すると節度使の田承嗣が西のかたを望んで子儀を待って拝礼してこう言った「私めのこの膝、久しく曲げておりませんでしたが、今日はあなた様のためにまげさせていただきました」と。中書令の考査を受けること二十四回、何れも最上であった。一族あわせて三千人、八人の子、七人の婿、いずれも顕官となり、孫は数十人にのぼり、挨拶に来ても全ては見分けられず、ただうなづいているだけであった。八十三歳で没した。
平盧の節度使、李正己が死んだ。子の李納が藩鎮を支配した。この頃、相前後して朱滔・田悦・王武俊・李納が叛いた。
建中三年(782年)、四人がすべて独立して王と名乗った。淮西彰義軍の李希烈も叛いた。河南、河北に戦乱が広がると、戦費がかさみ数ヶ月にわたって国庫が窮乏した。そこでまず富商の財産を調べて余分を借りることとし、天下諸道の税率を引き上げた。また翌年には、家屋に課税し、金銭の流通にも課税した。
平盧李正己卒。子納自領鎭。朱滔・田悦・王武俊・李納、先後皆反。
三年、四人皆自稱王。 李希烈反。 兩河用兵。府庫不支數月。先括富商錢、諸道税。四年、行税架・除陌錢等法。
尚父大尉(しょうほたいい)中書令、汾陽(ふんよう)の忠武王郭子儀卒す。子儀身を以って天下の安危(あんき)を為す者(こと)三十年。功、天下を蓋うも而(しか)も主疑わず。位(くらい)人臣を極むるも、而も衆疾(にく)まず。嘗て使いをして魏博に至らしむ。田承嗣、西望(せいぼう)して之を拝して曰く「茲(こ)の膝、人に屈せざること久し。今、公の為に拝す」と。中書令を校すること、凡べて二十四考なり。家人三千人、八子七壻皆顕(あらわ)る。諸孫数十人、安を問う毎に、尽くは辨ずる能わず。之を額(がく)するのみ。年八十三にして終(お)う。
平盧の李正己卒す。子の納、自ら鎮を領す。朱滔(しゅとう)・田悦・王武俊・李納、先後して皆反す。三年、四人皆自ら王と称す。李希烈反す。両河に兵を用う。府庫支えざること数月。先ず富商の銭を括(かっ)し、諸道の税を増す。四年、税間架(ぜいかんか)・除陌銭(じょはくせん)等の法を行う。
尚父 郭子儀を尊んで徳宗が呼んだ。 汾陽 山西省の地。 疾 嫉妬。 魏博 藩鎮の名。 校 職能考査、毎年末に行われた。 考 考課 上上から下下まで九等級あった。 壻 婿。顕わる 顕官になる。辨 弁別。 額 うなずく。 平盧 山東省の一部の藩鎮。 朱滔 幽州盧龍軍・田悦 魏博天雄軍・王武俊 恒冀成徳軍・李納 淄青平盧軍の節度使。 括 調べること、検括。 税架 家屋に課税すること。 除陌銭 物品税
尚父大尉中書令で、汾陽の忠武王、郭子儀が没した。子儀は一身、天下の安否を荷うこと三十年。功業天下にあまねく、しかも天子に何らの疑念をも抱かせなかった。位、人身を極めたけれど衆人から妬みの声は聞かれなかった。
嘗て使者として河北の魏博藩鎮に遣わされた。すると節度使の田承嗣が西のかたを望んで子儀を待って拝礼してこう言った「私めのこの膝、久しく曲げておりませんでしたが、今日はあなた様のためにまげさせていただきました」と。中書令の考査を受けること二十四回、何れも最上であった。一族あわせて三千人、八人の子、七人の婿、いずれも顕官となり、孫は数十人にのぼり、挨拶に来ても全ては見分けられず、ただうなづいているだけであった。八十三歳で没した。
平盧の節度使、李正己が死んだ。子の李納が藩鎮を支配した。この頃、相前後して朱滔・田悦・王武俊・李納が叛いた。
建中三年(782年)、四人がすべて独立して王と名乗った。淮西彰義軍の李希烈も叛いた。河南、河北に戦乱が広がると、戦費がかさみ数ヶ月にわたって国庫が窮乏した。そこでまず富商の財産を調べて余分を借りることとし、天下諸道の税率を引き上げた。また翌年には、家屋に課税し、金銭の流通にも課税した。