寡黙堂ひとりごと

詩吟と漢詩・漢文が趣味です。火曜日と木曜日が詩吟の日です花も酒も好きな無口な男です。

余命

2014-09-30 09:33:30 | 自由律俳句
余命一年 空が高い      

 検査の結果肝臓にも転移しているとのこと、今日は久しぶりの秋晴れ。

妻の繰り言 みょうが刻む

 そうめんにでもしましょうか。


十八史略 豈他人の鼾睡を容れんや  

2014-09-30 09:16:37 | 十八史略
八年、曹彬圍金陵急。李遣徐鉉入貢、求緩兵。鉉言、以小事大、如子事父。其説累數百。上曰、爾謂父子、爲兩家可乎。鉉不能對還。尋復至奏言、江南無罪。辭氣。上怒按劍曰、不須多言、江南亦有何罪。但天下一家。臥榻之側、豈容他人鼾睡乎。鉉惶恐而退。金陵受圍、自春徂冬。勢愈窮蹙。彬終欲降之。累遣人告曰、某日城必破。宜早爲之所。

八年、曹彬金陵を囲むこと急なり。李(りいく)徐鉉(じょげん)をして入貢せしめ、兵を緩(ゆる)うせんことを求む。鉉言わく「、小を以て大に事(つか)えること、子の父に事うるが如し」と。其の説数百を累(かさ)ぬ。上曰く「爾(なんじ)、父子と謂う、両家を為して可ならんや」と。鉉、対(こた)える能わずして還る。尋(つ)いで復た至り奏して言わく「江南罪無し」と。辞気益々(はげ)し。上、怒って剣を按(あん)じて曰く「多言を須(もち)いず、江南亦た何の罪か有らん。但天下は一家なり。臥榻(がとう)の側(かたわら)、豈他人の鼾睡(かんすい)を容れんや」と。鉉、惶恐(こうきょう)して退く。金陵、囲みを受けて、春より冬に徂(ゆ)き、勢い愈々窮蹙(きゅうしゅく)す。彬、終(つい)に之を降さんと欲す。累(しき)りに人を遣わしに告げて曰く「某日城必ず破れん。宜しく早く之が所を為すべし」と。

臥榻 寝床。 鼾睡 いびきをかいて眠ること。 惶恐 おそれる。 窮蹙 苦しみ縮まる。 

開宝八年(975年)に曹彬は金陵を囲むことますます激しくなった。江南国主の李は徐鉉を遣わして入朝させて、攻撃の手を緩めてもらいたいと申し入れた。徐鉉が言うには「わが李が小国を以って大国の宋朝につかえることは子が父につかえるよう従順でございました」と数百言を累ねて弁明に努めた。帝は「そなたは父子と言われるが、父子が両家に分かれてよいものであろうか」と切り返した。徐鉉は返事に窮して江南に還っていった。続いて再び入朝して「江南の人民に罪はありません」と語気を荒げて言ったので、帝は怒って剣の柄に手をかけながら「つべこべ言うでない。もとより江南の民に罪があろうか、ただ天下は一家でなければならない。わしの寝台の側で他人の高いびきを我慢できようか」と言い返した。徐鉉は恐れ慄いて退いた。金陵は囲まれたまま春から冬に及び、形勢はますます厳しくなった。曹彬はあくまで降伏を目指して、しきりに使いを遣って李に告げて「某日にはきっと落城するから、早々に準備をしておくがよろしかろう」申し送った。

柳宗元 婁圖南(ろうとなん)秀才の淮南に遊び将に道に入らんとするを送る序

2014-09-27 15:27:24 | 唐宋八家文
送婁圖南秀才遊淮南將入道序 三の一
僕未冠、求進士。聞婁君名甚熟。其所爲歌詞傳詠都中。通數經及羣書、當時爲文章、若崔比部于衞尉、相與稱其文。衆目曰、納言曾孫也。而又有是。咸推讓爲先登。
後十餘年、僕自尚書郎謫來零陵。覯婁君、猶爲白衣。居無室宇、出無僮御。僕深異而訊之。乃曰、今夫取科名者、交貴勢、倚親戚、合則挿翮、生風濤、沛焉而有餘。吾無有也。不則饜飮食、馳堅良、以驩于朋徒、相貿爲資、相易爲名。有不諾者、以氣排之。吾無有也。不則多筋力、善造請、朝夕屈折於恆人之前、走高門、邀大車、矯笑而僞言、卑陬而姁婾、偸一旦之容以售其伎。吾無有也。自度卒不能堪其勞。故舍之而游。逾湖江、出豫章、至南海、復由桂而下也。少好道士言、餌藥爲壽、未盡其術。故往旦求之。

婁圖南(ろうとなん)秀才の淮南に遊び将に道に入らんとするを送る序
僕未だ冠せず、進士を求めしとき、婁君の名を聞くこと甚だ熟せり。その為(つく)る所の歌詩は都中に伝詠す。数経及び群書に通じ、当時文章を為るもの、崔比部・于衞尉の若(ごと)き、相与(とも)にその文を称す。衆皆曰く「納言(のうげん)の曾孫なり。而してまた是れ有り」と。咸(みな)推讓(すいじょう)して先登(せんとう)と為す。
後十余年、僕尚書郎より謫(たく)せられて零陵に来る。婁君に覯(あ)うに、猶白衣たり。居るに室宇(しつう)無く、出ずるに僮御(どうぎょ)無し。僕深く異(あやし)んでこれを訊(と)う。乃ち曰く「今夫(か)の科名を取る者は、貴勢(きせい)に交わり、親戚に倚(よ)り、合えば則ち羽翮(うかく)を挿(さしはさ)み、風濤(ふうとう)を生じ、沛焉(はいえん)として余り有り。吾に有ること無きなり。不(しか)らずんば則ち飲食に饜(あ)き、堅良(けんりょう)を馳せて、以って朋徒(ほうと)を驩(よろこ)ばし、相貿(か)えて資と為し、相易(か)えて名を為す。諾せざる者有れば、気を以ってこれを排(はい)す。吾に有ること無きなり。
不(しか)らずんば則ち筋力を多くし、造請(ぞうせい)を善くし、朝夕恒人(こうじん)の前に屈折し、高門に走り、大車を邀(むか)え、矯笑(きょうしょう)して偽言し、卑陬(ひすう)して姁婾(くゆ)し、一旦の容を偸(ぬす)みて以ってその伎(わざ)を售(う)る。吾に有ること無きなり。自ら度(はか)るに卒にその労に堪(た)うる能わず。故にこれを舎(す)てて遊ぶ。湖江を逾(こ)え、予章(よしょう)に出で、南海に至り、復た桂(けい)よりして下るなり。少(わか)きより道士の言を好み、薬を餌(じ)して寿を為すも、未だその術を尽さず。故に往きて且(まさ)にこれを求めんとす」と。


熟す ゆきわたる。 数経 易・書・詩・春秋・礼・楽 の六経の一部。 崔比部・于衞尉 比部朗中の崔鵬と衞尉寺長官の于邵のこと。 納言 正三品の侍中と同じ、則天武后の時代曽祖父の婁師徳がこの職にあった。 咸 ことごとく。 推讓 道を譲ること。 先登 第一人者。 謫 流罪になること。 零陵 永州、今の湖南省零陵県。 覯う 思いがけなく出会う。 白衣 官位の無いもの、布衣。 室宇 部屋。 僮御 召使いと御者。 羽翮を挿し つばさを生やす。 沛焉 勢いの強いさま。 饜きる 飽きる。 堅良 堅車良馬。 驩 よろこぶ。 造請 ごきげん伺い。 恒人 常人。 屈折 身をかがめる。 嬌笑 愛想笑い。 偽言 世辞を言う。 卑陬すみっこ。 姁婾 和らぎ喜ぶ振り。 偸む ごまかす。 伎を售る 技能を売りこむ。湖江 洞庭湖と長江。 予章 江西省の地。 南海 広東省沿岸部。 桂 江西の桂林。 餌 服用する。 

私が元服する前、進士の受験に備えていた頃にしばしばあなたの名を耳にしていた。あなたの歌謡や詩はみやこ中に広まり、数種の経書や多くの書物に通じていた。それで当時の文章家の崔鵬や于邵などがあなたの文章を褒めていた。人々は「さすが納言殿の曾孫だ。文才にも秀でていらっしゃる」と言って道を譲り、一番の出世頭と思っていた。
 十年経って私が尚書朗から左遷されて零陵に来たところ思いがけずあなたに出会った。ところがあなたは無官の身、住むに家無く外出に共も御者も居ないという。不思議に思って訊ねてみたところあなたはこう言った「今の世で科挙の名誉を勝ち取る者は、貴顕や権盛と交わり、あるいは血縁に頼る。それが成ると翼を生やし、大風と大波を起し、あり余る勢いを生じる。私にはそれが無いのです。
それでなければ食をむさぼり、立派な車や馬を走らせて仲間の歓心を買い、互いに資力をつくりあい、評判を高めあう。不承知な者は排除してしまう。私にはそんなことはできないのです。また或いはせっせと有力者を訪問して朝な夕なにつまらん人物の前に身を屈め、高貴な家に行き、立派な車を迎え愛想笑いを作って世辞を言う。隅っこに控えてなおご機嫌をとる。時々に態度を変えて自分を売り込む。こんな事は私にはできないのです。
よくよく考えてみると、進士になる苦労に堪えられないのです。だから進士の道を捨てて旅に出るのです。洞庭湖や長江を渡り、江西の予章に出て南海に至り、また桂林から南に下る積もりです。私は若い頃より道教の説を好み、薬を飲んで長寿を求めましたが未だにその術を体得していません。そこで旅をしながら道術を極めようと思っています」と。


江南を伐つ

2014-09-25 15:23:33 | 唐宋八家文
七年、命曹彬伐江南。初上屢遣使、喩江南國主李入朝。不至。乃以彬及潘美等討之、戒以切勿暴略生民、務廣威信、使自歸順、不須急撃。取匣劍授彬曰、副將而下、不用命者斬之。美以下皆失色。自王全斌平蜀多殺人、上毎恨之。彬性仁厚。故專任焉。先是江南樊若水、擧進士不第。上書言事。不報。乃釣魚采石江上、以繩度江廣狹、詣闕陳策。上用其言。令荊南造大艦、爲浮梁以濟師。至是用之、不差尺寸。

七年、曹彬(そうひん)に命じて江南を伐たしむ。初め上、しばしば使いを遣わして、江南国主の李(りいく)に喩(さと)して入朝せしむ。至らず。乃ち彬及び潘美(はんび)等を以って之を討たしめ、戒(いまし)むるに、切に生民を暴略する勿れ、務めて威信を広め、自ら帰順せしめて、急に撃つを須(もち)いざるを以ってす。匣剣を取って彬に授けて曰く「副将より下、命(めい)を用いざる者は之を斬れ」と。美以下、皆色を失う。王全斌(おうぜんひん)、蜀を平らげて多く人を殺せしより、上、毎(つね)に之を恨む。彬の性、仁厚なり。故に専ら任ず。是より先、江南の樊若水(はんじゃくすい)、進士に挙げられて第せず。上書して事を言う。報ぜず。乃ち魚を采石の江上に釣り、縄を以って江の広狭を度(はか)り、闕(けつ)に詣(いた)って策を陳(の)ぶ。上、其の言を用う。荊南に令して大艦を造って、浮梁(ふりょう)と為し、以って師を済(わた)す。是に至って之を用うるに、尺寸(せきすん)を差(たが)えず。

匣剣 箱に入れた剣。 進士 科挙の科目の一。 第 及第。 采石 今の安徽省の地。 闕 宮城の門、朝廷。 

開宝七年(974年)に、曹彬に命じて江南を伐たせた。初め帝はしばしば使いを遣わして、江南国主の李に入朝するよう説得したが来なかった。そこで帝は曹彬及び潘美等に命じて江南を討たせ、進発にあたってこう戒めた。「絶対に民に乱暴掠奪を行ってはならぬ。国家の威信を広め、人民自から懐き従うように仕向けてくれ、急いで撃つ必要はない」と。次いで匣入りの剣を取り出して、曹彬に授けて、「副將から下、命に従わない者は斬れ」といった。副將の潘美以下、将兵たちは顔色を変えた。かつて王全斌が蜀を討った際、多くの蜀の人民を殺したので、帝はそれを遺憾に思っていた。それで特に戒めたのである。ところで曹彬は慈悲深い性質だったので、帝は江南討伐にあたって大任を任せたのである。
これに先立って、江南の樊若水という者が進士の試験に推挙されたけれども及第しなかった。上書して時事を建白したが何の知らせもなかった。或る日采石の江上で釣りをした際、縄をもって江の広狭を測り朝廷に出頭して江南攻略の策を献じた。帝はその献策を採りあげ、采石の上流の荊南に命令を下して大艦を造らせそれを浮き橋として軍隊を渡らせた。ここに至って樊若水の計測と実地に比べて尺寸の差もなかった。


唐宋八家文 柳宗元 箕子碑(三ノ三)

2014-09-16 08:47:32 | 唐宋八家文
箕子碑(三ノ三)
蒙難以正、授聖以謨。宗祀用繁、夷民其蘇。
憲憲大人、顯晦不渝。聖人之仁、道合隆汚。
明哲在躬、不陋爲奴。沖譲居禮、不盈稱孤。
高而無危、卑不可踰。非死非去、有懷故都。
時詘而伸、卒爲世模。易象是列、文王爲徒。
大明宣昭、崇祀式孚。古闕頌辭、繼在後儒。

難を蒙るに正を以ってし、聖に授くるに謨(ぼ)を以ってす。
宗祀用(も)って繁く、夷民それ蘇(そ)す。
憲憲たる大人(たいじん)、顕晦(けんかい)渝(かわ)らず。
聖人の仁、道隆汚(りゅうお)に合す。
明哲躬(み)に在り、奴と為るを陋(ろう)とせず。
沖譲(ちゅうじょう)して礼に居り、孤と称するに盈(み)たず。
高けれど危うきこと無く、卑(ひく)けれど踰(こ)ゆべからず。
死に非ず去に非ず、故都を懐(おも)うことあり。
時に詘(くっ)して伸び、卒(つい)に世の模(も)と為る。
易象に是れ列し、文王の徒たり。
大明宣昭(せんしょう)し、崇祀(すうし)それ孚(まこと)あり。
古(いにしえ)は頌辞(しょうじ)を闕(か)く、継ぐは後儒に在り。


謨 法則。 宗祀 先祖をまつる。 夷民 異国朝鮮の民。 蘇 蘇生。 憲憲 明らかな徳。 顕晦 現れることと隠れること。 隆汚 盛衰。 明哲 明知。 躬 身。 陋 賤しい。 沖譲 へりくだり、人に譲る。 孤 王侯の自称。 盈 おごる。 詘して伸び 屈伸。 模 模範。 易象 易経の象伝。 宣昭 輝く。 孚 誠。 頌辞 讃える言葉。

災難に遭うも正義を貫き、聖人に授けるに模範を以ってす。
祖先をまつる子孫は栄え、えびすの民も生き返らせた。
明徳の人は、世に顕われていても、隠れていても態度を変えない。
聖人の仁愛は道義の盛衰と合致し、明知を身に保ち、奴隷となるも賤しいと思わず、
へりくだり、人に譲って礼儀を守り、王侯となっても奢らない。
高貴にあっても危険は無し、卑賤にあっても見下されない。
死なず去らず、故国を想って時に世に隠れ、時に現れて模範となる。
易経の象伝に名を列ね、周の文王のともがらとなった。
偉大な徳は輝きわたり、立派な祭祀は誠心をもって捧げられる。
その昔、讃える言葉は無かったが、これを補うは後の世の儒者の役目。


8月30日、下血で急遽入院することになり、約二週間休載することになりました。
女子医大で検査の結果ワーファリンの利きすぎによる腸管出血と判明。なお暫くは通院して検査を続行とのことでした。ご迷惑をお詫びいたします。