寡黙堂ひとりごと

詩吟と漢詩・漢文が趣味です。火曜日と木曜日が詩吟の日です花も酒も好きな無口な男です。

十八史略 晋朝混乱す

2011-12-29 08:51:41 | 十八史略
太子遹非賈后所生。后廢殺之。征西大將軍趙王倫、矯詔勒兵入宮、廢后殺之、殺張華・裴頠。倫爲相國。淮南王允、率兵討倫、不克死。倫殺衞尉石崇。崇有愛妾緑珠。倫嬖人孫秀求之。不與。秀誣崇、奉允爲亂。収之。崇曰、奴輩利吾財耳。収者曰、知財爲禍、何不早散之。遂被殺。倫自加九錫、逼帝禪位。黨與皆爲卿相、奴卒亦加爵位。毎朝會、貂蝉盈坐。時人語曰、貂不足、狗尾續。齊王冏鎭許昌、成都王頴鎭鄴、河王顒、鎭關中。各擧兵討倫。倫伏誅。

太子遹(いつ) 賈后の生む所に非らず。后、廃して之を殺す。征西大将軍趙王倫(りん)、詔を矯(いつわ)り、兵を勒(ろく)して宮に入り、后を廃して之を殺し、張華・裴頠(はいき)を殺す。倫、相国と為る。淮南王允いん)、兵を率いて倫を討つ。克たずして死す。倫、衞尉石崇(せきすう)を殺す。崇に愛妾緑珠あり。倫の嬖人(へいじん)孫秀、之を求む。与えず。秀、崇を誣(し)う、「允を奉じて乱をなさんとす」と。之を収(とら)う。崇曰く、「奴輩、吾が財を利するのみ」と。収うる者曰く、「財の禍たるを知らば、何ぞ早く之を散ぜざる」と。遂に殺さる。倫、自ら九錫を加え、帝に逼(せま)って位を禅(ゆず)らしむ。党与(とうよ)皆卿相(けいしょう)と為り、奴卒(どそつ)も亦爵位を加う。朝会(ちょうかい)する毎に、貂蝉(ちょうせん)坐に盈(み)つ。時人(じじん)語して曰く、「貂足らず、狗尾(こうび)続(つ)ぐ」と。斉王冏(けい)、許昌に鎮(ちん)し、成都王頴(えい) 鄴(ぎょう)に鎮し、河間王顒(ぎょう)、関中に鎮す。各々兵を挙げて倫を討つ。倫、誅に伏す。

衞尉 九卿の一、宮城防衛を司った。 嬖人 気に入りの家来。 誣う 誣告、事実を偽って、告訴する。 吾が財 愛妾緑珠のこと。 貂蝉 てんの尾と蝉の翅で飾った冠、高位高官。 

解説文は年が改まってからとさせてください。今年一年辛抱強くご覧いただきましてありがとうございました。

皆様よいお年をお迎えください。

十八史略 三語の掾

2011-12-29 08:51:41 | 十八史略
三語の掾
戎與時浮沈、無所匡救。性復貪吝。田園遍天下。執牙籌晝夜會計。家有好李。恐人得其種、常鑚其核。凡所賞抜、專事虡名。阮咸之子瞻見戎。戎問曰、聖人貴名教、老莊明自然。其旨異同。瞻曰、將無同。戎咨嗟良久。遂辟之。時號三語掾。是時王衍・樂廣、皆善清談。衍神情明秀。少時山濤見之曰、何物老嫗、生寧馨兒。然誤天下蒼生者、未必非此人也。衍弟澄、及阮咸・咸從子脩・胡毋輔之・謝鯤・畢卓等、皆以任放爲達、醉裸不以爲非。比舎郎釀熟。卓夜至甕盜飮、爲守者所縛。旦視之畢吏部也。樂廣聞而笑之曰、名教中自有樂地。何必乃爾。初魏時、何晏等立論。以天地萬物、皆以無爲本。衍等愛重之。裴頠著崇有論、不能救。

戎(じゅう)、時と与(とも)に浮沈し、匡救(きょうきゅう)する所無し。性、復貪吝(たんりん)なり。田園天下に遍(あまね)し。牙籌(がちゅう)を執(と)って昼夜会計す。家に好李有り。人の其の種を得んことを恐れて、常に其の核を鑚(き)る。凡そ賞抜(しょうばつ)する所、専(もっぱ)ら虚名を事とす。阮咸(げんかん)の子瞻(せん)戎に見(まみ)ゆ。戎問うて曰く、「聖人は名教を貴び、老荘は自然を明らかにす。其の旨異なるか、同じきか」と。瞻曰く、「将(はた)同じこと無からんや」と。戎、咨嗟(しさ)すること良(やや)久し。遂に之を辟(め)す。時に三語の掾(えん)と号す。是(こ)の時、王衍(おうえん)・樂廣(がくこう)、皆清談を善くす。衍、神情(しんじょう)明秀なり。少(わか)き時、山濤之を見て曰く、「何物の老嫗(ろうう)か寧馨兒(ねいけいじ)を生める。然れども天下の蒼生(そうせい)を誤る者は、未だ必ずしも此の人に非らずんばあらざるなり」と。衍の弟澄(ちょう)、及び阮咸・咸の従子脩・胡毋輔之(こぶほし)・謝鯤(しゃこん)・畢卓(ひったく)等、皆任放を以って達(たつ)と為し、酔裸(すいら)して以って非と為さず。舎を比(なら)ぶる郎が醸熟す。卓、夜、甕の間に至って盗み飲み、守者の縛する所と為る。旦(あした)に之を視れば畢吏部なり、樂廣聞いて之を笑って曰く、「名教(めいきょう)の中自(おのずか)ら楽地有り。何ぞ必ずしも乃(すなわ)ち爾(しか)るや」と。初め魏の時、何晏(かあん)等論を立つ。以(おも)えらく、天地万物、皆無を以って本と為すと。衍等之を愛重(あいちょう)す。裴頠(はいき)、崇有論(すうゆうろん)を著(あら)わせども、救うこと能わず。

匡救 悪いところをただし救う。 貪吝 むさぼり、出し惜しみ。 田園 田畑。 牙籌 象牙で作ったそろばん。 鑚る 穴を開ける。 賞抜 賞誉抜擢すること。 名教 人として守るべき道を明らかにする教え、儒教。 咨嗟 ためいきをつく。 辟す 官吏に取り立てる。 掾 三等官、した役。 神情 顔色容姿。 寧馨兒 寧馨はこのような、神童。 蒼生 人民。 比舎 隣家。 

王戎は時勢と共に移り変わる人物で、悪政をただし世を救うことをせず、利を貪り、施すことをしなかった。至る所に田畑を持ち、昼夜を分かたず、象牙のそろばんを弾いていた。家に良い実をつけるすももの木があったが、その種が人の手に渡るのを恐れて、いつも種に穴をあけていた。人を抜擢するときも虚名を重んじた。阮咸の子の阮瞻と会ったとき、王戎が「聖人は人として守るべき道を教え、老荘は無為自然を教えたが、その本質は異なるのか、はた同じであるのか」と問うた。阮瞻は「どうして同じでないといえましょうか」と答えた。王戎はしばし、ためいきをついていたが、遂に瞻を取り立てた。世間では{三語の役人}と呼んだ。
この頃、王衍・楽広らが清談にかぶれていた。王衍は顔つきが端正で、若い頃山濤がこれを見て「どんな母親だろうかこのような子をうんだのは。しかし後々天下の人々を誤らせるのはきっとこの人に違いない」と言った。
王衍の弟王澄、及び阮咸・咸の甥の阮脩・胡毋輔之・謝鯤・畢卓等は皆気ままな振るまいを闊達であるとして、酔って裸になることも平気だった。隣の家の酒がちょうど飲み頃になったのを知り、夜更けに忍び込んで盗み飲みをしていて、番人に見つかり縛りあげられてしまった。朝になって視ると吏部郎の畢卓であった。楽広がこれを聞いて「聖人の説く名教の中にだって、自ずと楽しい境地があるというのに、何もこんなことまでしなくて良いのに」と笑って言った。
嘗て魏の時代に何晏等が天地万物すべて 無 を根本であるという論を立てた。王衍らはこの節を信奉していた。そこで裴頠が崇有論を著したが、世の風潮を変えることはできなかった。


十八史略 恵帝

2011-12-27 08:42:17 | 十八史略
 この座惜しむ可し
孝惠皇帝名衷、性不慧。爲太子時、納妃賈氏。充之女也。多權詐。衞瓘嘗侍武帝、陽醉跪于前、以手撫床曰、此座可惜。武帝悟、密封尚書疑事、令太子決之。賈氏大懼、倩外人具草代對、令太子自寫。武帝悦得不廢。至是即位。賈氏爲皇后預政。皇太后楊氏、乃帝母楊后之從妹。父駿爲太傅。賈后殺駿而廢太后、殺太宰汝南王亮、殺太保衞瓘、殺楚王瑋、以衆望用張華・裴頠・王戎、管機要。華盡忠帝室。后雖凶險、猶知敬重、與頠同心輔政。數年之、雖暗主在上、而朝野安靜。

孝惠皇帝、名は衷(ちゅう)、性不慧(ふけい)なり。太子たりし時、妃賈氏(かし)を納(い)る。充の女(むすめ)なり。権詐(けんさ)多し。衞瓘(えいかん)、嘗て武帝に侍し、陽(いつわ)り酔うて前に跪(ひざまづ)き、手を以って床(しょう)を撫(ぶ)して曰く「この座、惜しむ可し」と。武帝悟り、尚書の疑事(ぎじ)を密封し、太子をして、之を決せしむ。賈氏大いに懼れ、外人を倩(やと)い、草(そう)を具して代って対(こた)えしめ、太子をして自ら写さしむ。武帝悦(よろこ)び、廃せざるを得たり。是(ここ)に至って即位す。賈氏、皇后と為って政(まつりごと)に預かる。皇太后楊氏は乃ち帝の母楊后(ようこう)の従妹なり。父の駿は太傅(たいふ)たり。賈后、駿を殺して、太后を廃し、太宰(たいさい)汝南王亮を殺し、太保(たいほ)衞瓘(えいかん)を殺し、楚王瑋(い)を殺し、衆望を以って張華・裴頠(はいき)・王戎を用いて、機要(きよう)を管せしむ。華、忠を帝室に尽す。后、凶険なりと雖も、猶敬重(けいちょう)することを知り、頠と心を同じうして政を輔(たす)く。数年の間、暗主上(かみ)に在りと雖も、而も朝野(ちょうや)安静なり。

不慧 慧はさとい事。 権詐 いつわり。 陽 うわべ。 床 牀、寝台。 疑事 判断しがたい事。 外人 部外の人。 草を具し 草稿を用意する。 太傅 三公の一、天子の補佐役太師の次位。太宰 百官の長、総理大臣。 太保 三公の一、天子や皇太子の教育係、太傅の次位。 機要 枢機。 

孝惠皇帝、名は衷で生来愚鈍であった。皇太子だった時、賈充の娘を妃としたが、いつわりの多い女だった。ある時、衞瓘が武帝と酒のお相手をしていた時、酔った振りをしてへたれこみ、帝の寝台を擦りながら「もったいないことですなあ、この座を」とつぶやいた。武帝はそれと悟って、尚書から上奏された事案を密封して、太子にこれを裁決させてみる事にした。妃の賈氏はおおいに懼れて外部の者に手をまわして、決裁の草稿を作らせ、太子の自筆で写しとらせた。武帝はそれを見て出来栄えに満足して、廃嫡を免れた。
太子が即位すると、賈妃は皇后となり、政治に参画するようになった。
恵帝の生母楊后は早世したため、いとこを次の皇后にした(皇太后)。その父の楊駿が太傅となっていたが、賈后は楊駿を殺し、皇太后を廃して庶人にした。又太宰の汝南王司馬亮を殺し、太保の衞瓘を殺し、楚王司馬瑋をもつぎつぎに殺した。そして衆望をあつめる張華・裴頠・王戎を用いて枢機にあずからせた。とりわけ張華は帝室に忠誠をつくした。賈皇后は凶悪陰険であったが、それでも人をうやまい尊重することは心得ていた。張華と裴頠は心をあわせて政治を補佐したから、数年間は暗君を戴いているとはいえ、朝廷も世間も安穏な日がつづいた。


十八史略 武帝崩ず

2011-12-24 08:46:00 | 十八史略
 羊車留まるところ酣宴す
晉代魏十有六年、至太康元年而滅呉、又十年帝崩。帝初即位、嘗焚雉頭裘於太極殿前、以示儉。既而侈緃。後宮數千。常乘羊車。宮人挿竹葉干門、洒鹽以待之。羊車所至、即留酣宴。與羣臣語、未嘗有經國遠謀。自呉既平、謂天下無事、盡去州郡武備。山濤獨憂之。漢魏以來、羌胡・鮮卑降者、多處塞内諸郡。郭欽嘗上疏謂、宜及平呉之威、漸徙内郡雜胡於邊地、峻四夷出入之防、明先王荒服之制。帝不聽。卒爲天下患。帝在位改元者三、曰泰始・咸寧・太康。太子立。是爲孝惠皇帝。

晋、魏に代って十有六年、太康元年に至って呉を滅ぼし、又十年にして帝崩ず。帝初め位に即き、嘗て雉頭裘(ちとうきゅう)を太極殿の前に焚(や)いて、以って倹を示す。既にして侈縦(ししょう)なり。後宮数千あり。常に羊車に乗る。宮人、竹葉を門に挿しはさみ、塩を洒(そそ)いで以って之を待つ。羊車の至る所、即ち留まって酣宴(かんえん)す。群臣と語るに、未だ嘗て経国の遠謀有らず。呉既に平らぎしより、天下無事なりと謂いて、尽く州郡の武備を去る。山濤独り之を憂う。漢魏以来、羌胡(きょうこ)・鮮卑(せんぴ)の降る者、多く塞内の諸郡に処(お)る。郭欽(かくきん)嘗て上疏(じょうそ)して謂う「宜しく呉を平らぐるの威に及んで、漸(ようや)く内郡の雑胡を辺地に徙(うつ)し、四夷(しい)出入の防ぎを峻(たか)くし、先王荒服(こうふく)の制を明らかにすべし」と。帝聴かず。卒(つい)に天下の患(うれ)いを為す。帝、位に在って改元すること三、泰始・咸寧(かんねい)・太康と曰う。太子立つ。是を孝惠皇帝と為す。

雉頭裘 雉の頭の毛でつくった防寒衣。 侈縦 ぜいたくをほしいままにする。 酣宴 酒宴。 経国 国を治めること。 荒服の制 都から最も遠い地域、異民族の居住地区分、五服。

晋、魏に代って十六年、太康元年に呉を滅ぼし、又十年にして帝崩じた。(290年)帝は当初、雉の頭の羽で織った外套を太極殿の前で焚いて節倹の範を示したこともあったが、次第に奢侈にふけるようになった。後宮には宮女数千人を置き、羊に引かせた車で往来していた。宮女たちは竹の葉を門に挿し、塩を振って帝を待った。羊が立ち止まるとそこで酒宴を開くのである。群臣との間で国の経営の遠謀を語ることもなくなり、呉を平定してからは、もはや天下泰平であるからと、州郡の備えを去ってしまった。山濤独りがこれを憂慮した。漢魏以来羌族や鮮卑族の降伏した者が国内に多く住みついていた。郭欽は嘗て上疏して「呉を平定した威光が衰えないうちに、内地に住む異民族を辺地に移し、四方の夷狄の出入りを厳重に防ぎ、先王の定められた五服の区分を明確にすべきであります」と申し上げたが、帝は耳をかさなかった。これが後々天下の禍根となった。武帝は在位中改元すること三回、泰始・咸寧・太康といった。太子が即位した。これが孝恵皇帝である。

十八史略 呉亡ぶ

2011-12-22 09:14:53 | 十八史略
晉大擧伐呉。杜預出江陵、王濬下巴蜀。呉人於江磧要害處、竝以鐵鎖横江截之。又作鐵錐長丈餘、暗置江中、逆拒舟艦。濬作大筏先行、遇錐輒著筏而去。又作大炬、灌以麻油、遇鎖焼之。須臾融液斷絶。於是船無所礙、遂先克上流諸郡。預遣人、率奇兵夜渡。呉將懼曰、北來諸軍、乃飛渡江也。預分兵、與濬合攻武昌降之。預謂兵威已振、譬如破竹。數節之後、迎刃而解。無復著手擧也。遂指授羣帥方略、徑造建業。濬戎卒八萬、方舟百里、擧帆直指建業、鼓譟入石頭城。呉主皓面縛輿櫬降。封歸命侯。遂符庚子入洛之讖。自大帝至是四世、稱帝者、凡五十二年而亡。遡孫策定江東以來、通八十餘年。

晋、大挙して呉を伐つ。杜預は江陵より出で、王濬(おうしゅん)は巴蜀より下る。呉人(ごひと)、江磧(こうせき)要害の処に於いて、並びに鉄鎖を以って江に横たえて、之を截(た)つ。又、鉄錐の長さ丈余なるを作り、暗に江中に置き、舟艦を逆(むか)え拒(ふせ)ぐ。濬、大筏(だいばつ)を作り、水を善(よ)くする者をして、筏を以って先行し、錐に遇(あ)えば輒(すなわ)ち筏を著(つ)けて去らしむ。又、大炬(たいきょ)を作り、灌(そそ)ぐに麻油を以ってし、鎖に遇えば之を焼く。須臾に融液して断絶す。是(ここ)に於いて、船礙(さわ)る所無く、遂に先ず上流諸郡に克つ。預、人を遣わし、奇兵を率(ひき)いて、夜、渡らしむ。呉の将懼(おそれ)て曰く「北来の諸軍、乃ち江を飛び渡るや」と。預、兵を分かち、濬と合して、武昌を攻め之を降す。預、謂(おも)えらく、「兵威(へいい)已(すで)に振るう、譬えば竹を破(わ)るが如し。数節の後は、刃(やいば)を迎えて解く。復た手を著(つ)くる処なし」と。遂に群帥(ぐんすい)に方略(ほうりゃく)を指授(しじゅ)し、径(ただ)ちに建業に造(いた)る。濬が戎卒(じゅうそつ)八万、舟を方(なら)ぶること百里、帆を挙げて直ちに建業を指し、鼓譟(こそう)して石頭城に入る。
呉主皓、面縛(めんばく)輿櫬(よしん)して降る。帰命侯に封ず。遂に「庚子洛に入る」の讖(しん)に符す。大帝より是(ここ)に至って四世、帝と称する者(こと)、凡(すべ)て五十二年にして亡ぶ。孫策が江東を定めしより以来に遡れば、通じて八十余年なり。


磧 河原。 礙 障害。 面縛 後ろ手に縛って面をさらすこと。 輿櫬 櫬は棺、棺桶を車に積んで死の覚悟を示すこと。 讖 占いの卦。

晋は大軍を派遣して呉を伐つことになった。杜預は江陵から、王濬は巴蜀から水軍を率いて下った。呉の軍は揚子江の河原の要害に鉄の鎖を張り渡してさえぎり、又一丈に余る鉄の錐を密かに水中に植え、晋の軍船を待ち受け防ごうとした。王濬は大きい筏を作り、水練に長じた兵を選りすぐって筏に乗せて先に行かせて、鉄錐を探して除いた。また大きい松明を作り、胡麻油を注いで鉄鎖に遭うと、これを焼いた。たちまち溶かし切った。こうして船団は障碍をすべて取り除いて上流の諸郡で勝ちをおさめた。一方杜預は部下に、奇兵をひきいて、夜陰にまぎれて揚子江を渡らせた。呉の将は大いに恐れて「北の晋軍は、揚子江を飛んで渡ったのか」と言った。杜預は兵を分け、王濬と合流し、武昌を攻めてこれを降した。この時点で晋軍の中には、一旦兵を収めて来年再度攻めてはどうかの意見もあったが、杜預は「今は兵の士気が上がっている。例えば刃物で竹を割るようなもので、最初に二節ほど刃を入れるだけで、あとは竹が刃を迎え入れるように難なく割れる、力など要らぬものだ」と言って進軍を決して、各部将に戦略を授けて直ちに呉の都の建業を目指させた。王濬の軍勢八万、船を連ねること百里、帆を上げて太鼓を打ち、喚声を挙げて石頭城に突入した。
呉主皓は両手を後ろ手に縛り、顔を前に差し出し、棺桶を載せた車を従えて降参して出た。晋は呉主皓を許し帰命侯に封じた。ここでまさにあの庚子の年洛陽に入るの予言に符合したわけである。太帝孫権からここに至るまで四世、帝を称すること五十二年で亡んだ。孫策が江東を平定してから八十年余りであった。