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寡黙堂ひとりごと

詩吟と漢詩・漢文が趣味です。火曜日と木曜日が詩吟の日です花も酒も好きな無口な男です。

十八史略 鄭五宰相となる、時事知るべし。

2013-08-31 11:32:54 | 十八史略
上自即位、非不夢想賢豪。卒不用之。嘗有朝士鄭綮。好恢諧。多爲歇後詩嘲時事。上意其有所蘊。手注班簿、以爲相。堂吏走告不信。已而賀客至。綮掻首曰、歇後鄭五作宰相。時事可知矣。
上在位十七年。改元者七、曰龍紀・大順・景福・乾寧・光化・天復・天祐。子立。是爲哀皇帝。

上、位に即いてより、賢豪を夢想せざるに非ず。卒に之を用いず。嘗て朝士(ちょうし)鄭綮(ていけい)というもの有り。恢諧(かいかい)を好む。多く歇後(けつご)の詩を為(つく)って時事を嘲(あざけ)る。上、其の所蘊(しょうん)有るを意(おも)う。手ずから班簿を注して、以って相と為す。堂吏走って告ぐれども信ぜず。已にして賀客至る。綮、首(こうべ)を掻いて曰く「歇後の鄭五、宰相と作(な)る。時事知る可し」と。
上、在位十七年。改元する者(こと)七、龍紀・大順・景福・乾寧・光化・天復・天祐と曰う。子立つ。是を哀帝と為す。


賢豪 賢者と豪傑と。 朝士 朝廷の士大夫。 恢諧 諧謔、冗談。 歇後の詩 半分だけ言って人に推量させる法。 所蘊 蘊はつつむ、含蓄。 班簿 官吏の序列を記した名簿。 堂吏 中書省の役人。 鄭五 排行、鄭家の五番目。 

昭帝は即位して以来、賢者と豪傑の士を得たいと思わないではなかったが、遂に用いることができなかった。ある時、士大夫の中に鄭綮という諧謔を好む者がいて、よく歇後の詩を作って、当世を皮肉っていた。帝はその詩を読まれて、含蓄のあるのを気に入って、自ら筆を取って、官吏名簿に彼の名を書き込んで宰相に任命した。 中書省の役人がその旨を告げたが、信用しなかった。祝賀の客が来るに及んで、鄭綮はあたまを掻いて「歇後の詩を作っている鄭五が宰相になるとは、天下の事は推して知る可しだな」と言った。
昭帝は在位十七年、改元すること七回で龍紀・大順・景福・乾寧・光化・天復・天祐といった。子が立った。これが哀帝である。


唐宋八家文 韓愈 李秀才に答うる書

2013-08-31 10:50:37 | 唐宋八家文
答李秀才書
 愈白。故友李觀元賓、十年之前、示愈別呉中故人詩六章。其首章則吾子也。盛有所稱引。元賓行峻潔、其中狭隘、不能苞容於尋常人、不肯苟有論説。因究其所以、於是知吾子非庸衆人。時吾子在呉中、其後愈出在外。無因縁相見。元賓既歿、其文可貴重。思元賓而不見。見元賓之所與者、則如元賓焉。
 今者、辱惠書及文章。觀其姓名、元賓之聲容、怳若相接。讀其文辭、見元賓之知人、交道之不汚。甚矣子之心、有似於吾元賓也。子之言、以愈所爲不違孔子、不以琢雕爲工、將相從於此。愈敢自愛其道、而以辭譲爲事乎。然愈之所志於古者、不惟其辭之好、好其道焉爾。讀吾子之辭、而得其所用心。將復有深於是者。與吾子樂之況其外之文。乎。愈頓首。

李秀才に答うる書 
 愈白(もう)す。故友李観元賓(りかんげんぴん)、十年の前に、愈に「呉中の故人に別るる詩」六章を示す。その首章は則ち吾子(ごし)なり。盛んに称引する所有り。元賓は行い峻にして潔清、その中(うち)は狭隘(きょうあい)にして、尋常の人を苞容する能わず、苟(いやしく)も論説すること有るを肯(がえ)んぜず。因(よ)ってその所以(ゆえん)を究め、是(ここ)に於いて吾子の庸(つね)の衆人に非ざるを知れり。時に吾子は呉中に在り、その後愈は出でて外に在り。相見るに因縁(いんえん)無し。
 元賓既に歿し、その文益々貴重すべし。元賓を思えど見えず。元賓の与(くみ)する所の者を見れば、則ち元賓の如し。
 今、辱(かたじけな)くも書及び文章を恵まる。その姓名を観るに、元賓の声容、怳(こう)として相接するが若(ごと)し。その文辞を読むに、元賓の人を知り、交道の汚(けが)れざるを見る。甚だしいかな子(し)の心、吾が元賓に似たること有るや。
 子の言に愈の為す所、孔子に違わず、琢雕(たくちょう)を以って工(たくみ)と為さざるを以って、将(まさ)に此に相従わんとすと。愈敢えて自らその道を愛(お)しみ、辞譲を以って事と為さんや。然れども愈の古(いにしえ)に志す所のものは、惟だその辞をこれ好むのみならず、その道を好むのみ。
 吾子の辞を読みて、その心を用うる所を得たり。将に復た是よりも深きもの有らんとす。吾子(ごし)とこれを楽しまん。況(いわ)んやその外(そと)の文をや。愈、頓首。


李観 字は元賓、韓愈の最も信頼した友人。墓誌銘を書いている。称引 引き合いに出して誉める。 怳 おぼろげ。 琢雕 詩や文に磨きをかけること。辞譲 謙遜して出さないこと。 外の文 思想が表に現れた文学。

私の古い友人の李観元賓が十年前に、私に「呉中の故人に別るる詩」六章を見せてくれました。その初めの章に、あなたの名を出して盛んに誉めていた。そもそも元賓は行い峻厳で清潔、その心のうちに己の相容れないものには頑なで、かりそめにも俗人と論談するなど考えられないことであります。それであなたが衆人とは異なる人物と知った訳です。
その頃あなたは呉中に在り、私は外に出ていて、互いに遇うことが無かった訳です。
元賓はすでに歿して、その文章は益々貴重です。すでに会うことはできません。ただ元賓と親しくしていた人に会うことができれば、元賓に会ったと同じことでしょう。
 今、あなたからの手紙と文章、ありがたく拝受いたしました。あなたの姓名を見るにつけ、元賓の声や容貌をおぼろに見る心地がします。その文章を見るにつけ、元賓が人物をよく知り、交友の清らかだったことがわかります。あなたの心に元賓に似たところがお有りですね。
 あなたの言葉の中に、私愈の行為が孔子の教えに外れず、また私の文学が技巧第一を優れていると考えていない、だから自分もそれに従おうとしている。とありました。私は自身の守るべき道を謙遜して出し惜しみしているわけではありません。ですが私の古代に寄せる思いは、ただその文章を好むのみならず、その信念を好むのであります。
あなたの文章を拝見して、あなたが目指しているものが解りました。あなたはさらに深い思想を持たれることでしょう。私もあなたと供にそれを楽しみたいと思います。もとよりそれは内なる思想が外に現れた文学であることはいうまでもありません。愈頓首。

西暦804年、韓愈三十七歳の作、前の年京兆の尹、李実を弾劾して陽山(いまの広東省)に左遷されて、二月に着任した。早世した親友の知己からの手紙に、志を同じくする喜びを率直に表している。

十八史略 朱全忠、昭宗を弑す。

2013-08-29 11:27:14 | 十八史略
全忠由東平王、進爵梁王還汴。全忠威震天下。有簒奪之志。胤懼爲之備。全忠表、請除胤、密使其黨殺之、遂請上遷都東京、促百官東行。驅徙士民。上謂侍臣曰、鄙語云、紇干山頭凍殺雀。何不飛去生處樂。朕今漂泊不知竟落何所。泣下沾巾。上至洛陽。李茂貞等移檄、以興復爲辭。全忠將西討。以上有英氣、恐生變、遣人入洛弑之。

全忠、東平王より爵を梁王に進めて汴(べん)に還る。
全忠、威、天下に震う。簒奪(さんだつ)の志有り。胤懼れて之が為に備う。全忠表して、胤を除かんと請い、密かに其の党をして之を殺さしめ、遂に上に請うて都を東京(とうけい)に遷し、百官を促がして東行せしめ、士民を駆徙(くし)す。上、侍臣に謂って曰く「鄙語(ひご)に云う、紇干山頭(こっかんさんとう)雀を凍殺(とうさつ)す。何ぞ飛び去って生処(せいしょ)に楽しまざる、と。朕今漂泊して竟(つい)に何の所に落つるを知らず」と。泣(なみだ)下って巾を沾(うるお)す。上、洛陽に至る。李茂貞等檄を移し、興復(こうふく)を以って辞と為す。全忠将(まさ)に西討せんとす。上の英気有るを以って、変を生ぜんことを恐れ、人を遣わして洛に入って之を弑せしむ。


東京 長安の西に位置した洛陽のこと。 鄙語 世俗のことば。 駆徙 駆りたてうつす。

朱全忠はこの度の功により、東平王から爵を梁王に進められて汴に還った。
こうして全忠の威勢は天下を震撼させた。密かに天下を奪って帝位に就こうとの野心を抱いた。これを察知した崔胤は対策に取りかかった。全忠は上表して崔胤を除くよう願い出た。一方で密かに部下を使って崔胤を殺し、昭宗に請い都を洛陽に遷し百官をせき立てて東に向かわせ、士民をも駆りたてて洛陽に移らせた。このとき昭宗は近侍の者に「俗に紇干山は寒さが厳しくて雀も凍え死ぬという、雀よどうして生きやすい所に飛んでいかないのかというが、朕も今はどこまで落ちて行くことやら」と歎き泣いて手巾きをぬらした。帝が洛陽に着くと、李茂貞等が檄を発して唐室の復興を訴えた。朱全忠はこれに対して西に迎え討とうとしたが、帝には優れた英気がある、洛陽を手薄にするのは危険とみて、人を遣わして帝を弑させた。


十八史略 朱全忠 宦官を誅殺す

2013-08-27 09:48:40 | 十八史略
同平章事崔胤、説神策將、討誅季述。上復位。宦官謀去胤。時朱全忠有挾天子令諸侯之意。胤以書召之。全忠擧兵來。宦者韓全誨等、劫上如鳳翔。全忠圍之。李茂貞遂殺全誨等、奉上還長安。全忠以兵驅宦官、盡殺之。其出使外方者、詔所在誅之。存黄衣幼弱三十人、備洒掃。宦官自文宗已後、廢置在其掌握。至有定策國老・門生天子之號。及是大被誅殺。

同平章事崔胤(さいいん)、神策の将に説いて、季述を討誅す。上、位に復す。宦官、胤を去らんと謀る。時に朱全忠、天子を挟(さしはさ)んで諸侯に令するの意有り。胤、書を以って之を召(まね)く。全忠兵を挙げて来る。宦者韓全誨(かんぜんかい)等、上を劫(おびやか)して鳳翔に如(ゆ)かしむ。全忠之を囲む。李茂貞遂に全誨等を殺し、上を奉じて長安に還る。全忠、兵を以って宦官を駆(か)り、尽く之を殺す。其の出でて外方に使する者は、所在に詔(みことのり)して之を誅す。黄衣の幼弱なるもの三十人を存して洒掃(さいそう)に備う。宦官、文宗より已後、廃置其の掌握に在り。定策国老・門生天子の号有るに至る。是に及んで大いに誅殺せらる。

神策 宮廷警備の羽林軍のこと。 駆る 追い立てる。 黄衣 身分の低い宦官の服。 洒掃 掃除。 廃置 天子の廃位と存置。 定策国老 定策は天子を立てること。国老は国の元老。 門生天子 門生は門下生。

同平章事の崔胤が神策の将に説いて、劉季述を誅した。昭帝は再び位に復した。宦官等が崔胤を除こうとした。時に朱全忠は天子を奉戴して諸侯に号令する野心をもっていたので、崔胤は書を送ってこれを招いた。全忠は兵を率いて長安に向かった。宦官の韓全誨等は無理やり昭帝を鳳翔に行かせた。すると全忠が鳳翔を囲んだ。鳳翔節度使の李茂貞は韓全誨等を殺し、上を奉じて長安に還った。朱全忠は兵を率いて、宦官を残らず追いたて、皆殺しにした。外に使いする者も勅令を下して誅した。黄衣を着けた幼少の宦官三十人だけを残して掃除にあたらせた。文宗以後、天子の廃立まで宦官に掌握されていた。世間では宦官を定策国老(天子を決める国老)・門生天子(門下生の天子)と揶揄するまでになった。ここに至って宦官は根こそぎ誅殺されたのである。

唐宋八家文 韓愈 十二郎を祭る文(三の三) 

2013-08-24 08:55:22 | 唐宋八家文
祭十二郎文 三ノ三
 嗚呼、汝病吾不知時、汝歿吾不知日。生不能相養以共居。歿不得撫汝以盡哀。歛不慿其棺、窆不臨其穴。吾行負神明、而使汝夭。不孝不慈、而不得與汝相養以生、相守以死。一在天之涯、一在地之角。生而影不與吾形相依、死而魂不與吾夢相接。吾實爲之、其又何尤。彼蒼者天、曷其有極。
 自今已往、吾其無意於人世矣。當求數頃之田於伊潁之上、以待餘年。教吾子與汝子、幸其成。長吾女與汝女、待其嫁。如此而已。嗚呼、言有窮而情不可終。汝其知也邪、其不知也邪。嗚呼哀哉。尚饗。

 嗚呼、汝の病むに吾時を知らず、汝の歿するに吾日を知らず。生きては相養いて以って共に居ること能わず。歿しては汝を撫して以って哀しみを尽すを得ず。歛(れん)するにその棺に憑(よ)らず窆(へん)するにその穴に臨まず。吾が行い神明に負(そむ)いて汝をして夭せしむ。不孝不慈にして、汝と相養いて以って生き、相守りて以って死するを得ず。一(いつ)は天の涯に在り、一は地の角に在り。生きて影の吾が形と相依らず、死して魂の吾が夢と相接せず。吾実(まこと)にこれを為せり、それまた何をか尤(とが)めん。彼(か)の蒼たるものは天、曷(いつ)かそれ極まり有らん。
 今より已往(いおう)、吾それ人生に意無し。当に数頃(すうけい)の田を伊潁(いえい)の上(ほとり)に求めて、以って余年を待つべし。吾が子と汝が子を教えて、その成るを幸(ねが)わん。吾が女(むすめ)と汝が女とを長じて、その嫁するを待たん。此の如きのみ。嗚呼、言窮まり有って情終(お)うべからず。汝それ知れるか、それ知らざるか。嗚呼哀しいかな。尚(ねが)わくは饗(う)けよ。


歛 納棺。 窆 穴に埋める。不孝不慈 孝は親に対する孝行、慈は年少者に対する慈しみ。 已往 以後。 頃 百畝。 伊潁 川の名。 

ああ、そなたの病気になったのも知らず、そなたの死んだ日も知らない。生きている時は扶養して同居することもできなかった。死んでもそなたにとりすがって哀しみを尽すこともできず、柩に納めるときも側に居てやれず、埋葬にも立ち会うことができなかった。私の行いが神に背いたためにそなたを若死にさせてしまた。先祖に対しては不孝、そなたに対しては不慈であり、そなたと一緒に生活することも、そなたの柩を守ることもできなかった。一方は天の涯て一方は地のすみに遠く離れて、生きていたときも幼い日のように影が形に添うように暮らすことができなかった。死んでもそなたの霊魂が私の夢に現れて相逢うことも適わない。これみな私の所為なのだからこの上なにをとがめよう。蒼蒼たる天よ私の悲しみはいつになったら終わるのであろうか。
これから後、私はこの世界に居たくない。手ごろな広さの田を伊水か潁水のほとりに持って残された年を送りたい。吾が子とそなたの子を教え、一人前になるのを願い、吾が娘とそなたの娘が成長してともに嫁に行くのを待ちたい。これだけが望みだ。ああ言葉は限り有るが、情は尽きることが無い。そなたに私の言葉がわかるだろうか。あるいはわからないであろうか。ああ哀しいかな御霊よ願わくは饗(う)けよ。


貞元十九年(803年)韓愈三十六歳の夏の作。叔父甥といっても兄弟同様に育った年齢の近い甥の韓老成が急逝したことの驚き、痛恨の思いあふれる文章である。老成の子湘と子の昶は韓愈が存命中に進士に及第したので、亡兄への責任は果たしたと言える。