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寡黙堂ひとりごと

詩吟と漢詩・漢文が趣味です。火曜日と木曜日が詩吟の日です花も酒も好きな無口な男です。

十八史略 晋王、帝となり唐を号す

2013-09-26 08:18:51 | 十八史略
晉王攻抜其四寨。已而大擧伐梁、戰于胡柳。晉周威敗死。晉王収兵復戰、大破梁軍。晉築勝南北兩城。梁攻之不克。梁招討王瓚爲晉所敗。梁河中降晉。鎭州將弑趙王王鎔。晉王討平之。先是呉・蜀屢書勸晉王稱帝。晉王自謂、先王有遺言。當務復唐社稷。既而得傳國寶於魏州。將佐皆賀、勸進不已。遂即帝位於魏、國號唐。

晋王攻めて其の四塞を抜く。已にして大挙して梁を伐ち、胡柳に戦う。晋の周徳威、敗死す。晋王、兵を収めて復た戦い、大いに梁軍を敗る。晋、徳勝南北の両城を築く。梁之を攻めて克たず。梁の招討王瓚(おうさん)、晋の敗る所と為る。梁の河中、晋に降る。鎮州の将、趙王王鎔(おうよう)を弑す。晋王、討って之を平らぐ。是より先、呉・蜀しばしば書もて晋王に勧めて帝と称せしむ。晋王自ら謂(おも)えらく、「先王遺言(いげん)有り。当(まさ)に務めて唐の社稷を復すべし」と。既にして伝国の宝を魏州に得たり。将佐皆賀し、勧進して已(や)まず。遂に帝位に魏に即(つ)き、国を唐と号す。

寨 とりで、塞。 徳勝南北の城 黄河に接した徳勝嶺の南北に築いた城塞。 招討 招討使、降る者は招き入れ、叛する者は討つの意。 社稷 国家。将佐 将官・佐官。 

晋王は更に攻めて、梁の四つの砦を陥落させた。その後大挙して梁を攻撃し、胡柳で戦ったが、晋の将軍周徳威が敗れて死んだので、晋王は一旦兵を引いたが、再び戦いを挑み大いに梁軍を破った。晋は河北の徳勝嶺に南北の二城を築いた。梁はこれを攻めたが勝てず、梁の招討使の王瓚は晋に敗られ、河中は晋に降った。時に鎮州の大将が趙王の王鎔を弑殺したので、晋王はこれを討って平定した。これより先、呉と蜀の主がたびたび書面を送って、晋王に帝位に即くよう勧めたが、晋王が自ら思うに「先王から唐の朝廷の再興に務めよと遺言されている」として拒んできたが、間もなく唐の伝国の玉璽を魏州で手に入れた。将軍以下高級武官がこれを慶賀し、しきりに勧めたので、遂に魏において帝位に即き、国号を唐とした。

唐宋八家文 韓愈 温処士の河陽軍に赴くを送る序二ノ二

2013-09-24 15:29:45 | 唐宋八家文
送温處士赴河陽軍序 二ノ二
士大夫之去位而巷處者、誰與嬉遊。小子後生、於何考而問業焉。搢紳之東西行過是都者、無所禮於其廬。若是而稱曰大夫烏公一鎭河陽、而東都處士之廬無人焉、豈不可也。
 夫南面而聽天下、其所託重而恃力者、惟相與將耳。相爲天子得人於朝廷、將爲天子得文武士於幕下、求内外無治不可得也。愈縻於玆、不能自引去。資二生以待老。今皆爲有力者奪之。其何能無介然於懷邪。生既至拜公於軍門、其爲吾以前所稱爲天下賀、以後所稱爲吾致私怨於盡取也。留守相公、首爲四韻詩、歌其事。愈因推其意而序之。

士大夫の位を去りて巷処(こうしょ)する者、誰と与(とも)にか嬉遊(きゆう)せん。小子後生、何くに於いてか徳を考えて業を問わん。搢紳(しんしん)の東西に行きて是の都を過(よぎ)る者、その廬に礼する所無からん。是(かく)の若くにして称して大夫烏公、一たび河陽を鎮して、東都処士の廬に人無しと曰うも、豈(あに)不可ならんや。
夫(そ)れ南面して天下に聴き、その重きを託して力を恃(たの)む所の者は、惟だ相と将とのみ。相は天子の為に人を朝廷に得、将は天子の為に文武の士を幕下に得ば、内外治まること無きを求むとも、得べからざるなり。
愈は茲(ここ)に縻(つな)がれ、自ら引き去る能わず。二生に資(たよ)りて以って老を待てり。今皆力有る者の為にこれを奪わる。それ何ぞ能く懐(おも)いに介然(かいぜん)たること無からんや。
生既に至り、公を軍門に拝せば、それ吾が爲に前(さき)に称する所を以って天下の爲に賀し、後に称する所を以って吾が爲に私怨を尽く取らるるに致せ。
留守相公、首(はじ)めに四韻の詩を爲り、その事を歌う。愈因ってその意を推してこれに序す。


巷処 巷に住む。 嬉遊 喜んで交際する。 小子後生 若者。 搢紳 搢は挟む、紳は大帯 帯に勺を挟むから転じて高位の人。 廬 いおり、家。 南面 天子の座。 二生 石洪と温造。 介然 こだわること。 留守相公 東都留守の鄭余慶のこと。

官位を去って市井に住む処士は、誰と楽しみを分かち合えばよいでしょうか。若者たちは何処をたずねて道徳を聞き、学問を受けたらよいのでしょうか。朝廷の高官が洛陽に立ち寄っても、礼をもって訪問する所も無いでしょう。このようなありさまでは「烏公が河陽の節度使になるや、洛陽に士人が居なくなってしまった」と言ってもさしつかえないでしょう。
天子が南面して政治を執るとき、重きをおかれる人は宰相と将軍だけです。宰相は天子の為に朝廷に人材を登用し、将軍は天子の為に文武に優れた人物を幕下に抱えます。朝廷の内外も地方も治まらないよう願っても、国はおのずと治まる道理であります。
 私は官職に縛られて引退することもできず、石君、温君の二人をたよりに、隠居する日を待っていました。今、有力者に二君を奪われ、心にわだかまりを抱かずにおられましょうか。温君が河陽に至って烏公に挨拶するときには、私の代りに前に言ったことを述べて天下の為にお祝いを申し上げ、後に私がくどくどとかきくどいた愚痴を申し上げてください。
 東都留守の鄭余慶閣下が、四韻八句の詩をつくられた。そこで私がその詩の内容を推量して、この序を書いたのであります。


元和五年、七月に石洪を送った数ヵ月後にはまた温造が烏公の参謀となって赴任するのを送ることになった。石洪の推奨によるものだが、導入部で伯楽を引き合いに出して名馬がいなくなると言い、友人がいなくなるさびしさ、と困惑を述べ、後半では烏公の人物登用を怨んでいるが、終りに二君の登用を祝い、参謀に加えた烏公を賞賛している。送別詩の序文の手本とされてきた。

十八史略 晋、梁と連歳兵を交う

2013-09-24 11:18:42 | 十八史略
廣州劉巖稱越王。已而稱帝、改國號曰漢。后又更名龔。
呉徐温、徙治昇州。以徐知誥入輔呉政。 蜀主王建殂。子宗衍立。
呉主楊隆演卒。弟溥普立。 梁以錢鏐爲呉越國王。
晉與梁連歳交兵。梁魏州降晉。晉王入魏、抜州・澶州。梁劉鄩襲晉陽、不克而還。攻鎭・定營、晉師敗之。鄩攻魏州。晉王又敗之。梁又遣兵襲晉陽。晉人撃郤之。晉克衞・磁・洛・相・邢・滄・貝州、掠濮・鄆。梁人決河以限晉。

広州の劉巌越王と称す。已にして帝を称し、国号を改めて漢と曰う。のちに又更(あらた)めて龔(きょう)と名づく。
呉の徐温、徙(うつ)って昇州を治(ち)す。徐知誥(じょちこう)を以って入って呉の政を輔(たす)けしむ。
蜀主王建殂(そ)す。子の宗衍(そうえん)立つ。
呉主楊隆演(ようりゅうえん)卒(しゅっ)す。弟溥普(ふふ)立つ。 
梁、銭鏐(せんりゅう)を以って呉越国王と為す。
晋、梁と連歳兵を交う。梁の魏州、晋に降る。晋王、魏に入って、徳州・澶州(せんしゅう)を抜く。梁の劉鄩(りゅうじん)晋陽を襲い、克(か)たずして還る。鎮・定の営を攻むるや、晋の師之を敗(やぶ)る。鄩、魏州を攻む。晋王、又之を敗る。梁、又兵を遣わして晋陽を襲う。晋人撃って之を郤(しりぞ)く。晋、衛・磁・洛・相(しょう)・邢(けい)・滄・貝(ばい)の州に克ち、濮(ぼく)・鄆(うん)を掠(かす)む。梁人、河を決して以って晋を限る。


殂・卒 死ぬこと。 溥普 楊溥。普は誤って入ったか。 河を決して 黄河を決壊して。 限る 区切りとする。

広州の劉巌が越王と称した。その後帝を称して、国号を改めて漢といった。のちに又龔と改めた。
呉の徐温は、潤州から徙って昇州を治め、徐知誥を遣って呉の政治を輔けさせた。
蜀主の王建が死んで子の宗衍が立った。 
呉主楊隆演が死んで、弟の楊溥が立った。 
梁が、銭鏐を呉越国王に任命した。
晋と梁とは毎年戦いを交えていた。梁の魏州が晋に降ると、晋王は魏に入って、徳州、澶州を攻略した。梁の劉鄩が晋陽を襲ったが、敗れて引き上げた。さらに鎮州・定州の陣営を攻めたが、晋軍がこれを破った。劉鄩は今度は魏州を攻めたが、再び晋王に敗れた。梁は又もや晋陽を急襲したが、晋人がこれを撃退した。晋軍は衛・磁・洛・相・邢・滄・貝の州を落とし、濮州・鄆州を掠め取った。梁人は黄河の堤防を決懐して晋の侵攻を食い止めた。


唐宋八家文 韓愈 温処士の河陽軍に赴くを送るの序 一

2013-09-21 11:54:04 | 唐宋八家文
送温處士赴河陽軍序 二ノ一
 伯樂一過冀北之野、而馬羣遂空。夫冀北馬多天下。伯樂雖善知馬、安能空其羣邪。解之者曰、吾所謂空、非無馬也、無良馬也。伯樂知馬。遇其良輒取之、羣無留良焉。苟無良、雖謂無馬、不爲虚語矣。
 東都固士大夫之冀北也。恃才能深藏而不市者、洛之北涯曰石生、其南涯曰温生。大夫烏公、以鈇鉞鎭河陽之三月、以石生爲才、以禮爲羅、羅而致之幕下。未數月也、以温生爲才、於是以石生爲媒、以禮爲羅、又羅而致之幕下。
 東都雖信多才士、朝取一人焉抜其尤、暮取一人焉抜其尤。自居守河南尹、以及百司之執事與吾輩二縣之大夫、政有所不通、事有所可疑、奚所諮而處焉。

 伯楽一たび冀北(きほく)の野(や)を過ぎて、馬群遂に空(むな)し。夫れ冀北の馬は天下に多し。伯楽善く馬を知ると雖も、安(いずく)んぞ能くその群れを空しゅうせんや。
これを解する者曰く「吾が所謂空しとは、馬無きに非ざるなり、良馬無きなり。伯楽は馬を知る。その良に遇(あ)わば輒(すなわ)ちこれを取り、群れに良を留むること無し。苟(いやし)くも良無くんば、馬無しと雖も、虚語とは為さざらん」と。
東都は固(もと)より士大夫の冀北なり。才能を恃(たの)み、深く蔵して市(う)らざる者、洛の北涯なるを石生と曰い、その南涯なるを温生と曰う。大夫烏公、鈇鉞(ふえつ)を以って河陽を鎮するの三月、石生を以って才と為し、礼を以って羅(ら)と為し、羅してこれを幕下に致せり。未だ数月ならざるに、温生を以って才と為し、是(ここ)に於いて石生を以って媒(ばい)と為し、また羅してこれを幕下に致す。
東都は信(まこと)に才子多しと雖も、朝(あした)に一人を取りてその尤(ゆう)を抜き、暮れに一人を取りてその尤を抜く。居守なる河南の尹(いん)より、以って百司の執事と、吾輩二県の大夫とに及ぶまで、政(まつりごと)通ぜざる所有り、事疑うべき所有らば奚(いず)くに諮(はか)りて処する所あらん。


温処士 温造。 伯楽 馬の良否を見極める者。 冀北 名馬の産地、今の山西省、河北省北部。 鈇鉞 天子から軍中の全権を委ねる証として賜るおのとまさかり。 羅 網、網で捕る。 尤 とりわけ優れる。 居守 留守居役。 尹 長官。

伯楽がひとたび冀北を訪れると馬の群れが空になってしまうという。冀北の馬は天下一たくさんいる。伯楽が馬の群れ全てを空にする訳ではない。これを説明する者が言う「吾が言うところのからっぽとは、馬が居なくなってしまうことではない。良い馬が居なくなることである。伯楽は馬をよく知っている。良馬をみつければ、選び取って群れの中に良馬を残しておかない。良馬が居ないとすれば、馬が居ないといっても、あながち嘘ともいわれまい。
 東都は知識人の冀北とも言える。才能に自信を持ち、これを隠して人に知らせない人が洛水の北に石君が居て、南岸に温君が居る。御史大夫の烏公が節度使に任命され、河陽に赴任されてから三ヶ月目に、石君の才能を認め礼を以って網として幕下に加えてしまった。それから何ヶ月も経たずに今度は温君を、石君の仲立ちをもって同じく幕下に取り込んでしまった。
 東都洛陽はたしかに才能ある人物が多いけれど朝に一人、夕べに一人と選んで抜き取る。こうされては、洛陽留守居役の河南の長官から、その部下の各官庁の役人たち、吾等二県の知事に至るまで政事にわからぬことがあって、判断に窮したとき、誰に相談して処置したらよいのでしょうか。


十八史略 契丹の耶律阿保機、台頭す

2013-09-21 08:53:42 | 十八史略

均王名友貞、初爲東都指揮使。友珪簒弑、起兵誅之、而即位於汴、更名瑱。
晉王入幽州、執燕劉仁恭及守光、歸斬之。梁賜荊南節度使高李昌爵爲王。
契丹阿保機稱帝。古東胡種也。其國先在横山南、本鮮卑舊地。元魏時自號契丹。初大賀氏有八子。號八部大人。推一人爲主、三歳一代。唐開元中、有邵固者、統衆。詔許襲王。至是諸部以耶律斡里少子阿保機爲主、幷奚・渤海諸國、始建元不復受代。國人謂之天皇王。

均王、名は友貞、初め東都指揮使たり。友珪の簒弑(さんしい)するや、兵を起こして之を誅し、汴(べん)に即位して、名を瑱(てん)と更(あらた)む。
晋王、幽州に入り、燕の劉仁恭及び守光を執(とら)え、帰って之を斬る。
梁、荊南の節度使高季昌に爵を賜うて王と為す。
契丹の阿保機(あぼき)帝と称す。古(いにしえ)の東胡の種なり。其の国、先に横山の南に在って、本鮮卑の旧地なり。元魏の時自ら契丹と号す。初め大賀氏八子有り。八部大人と号す。一人を推して主と為し、三歳に一たび代る。唐の開元中、邵固(しょうこ)という者有り、衆を統(す)ぶ。詔(みことのり)して襲(つ)いで王たるを許す。是に至って諸部、耶律斡里(やりつあつり)の少子阿保機を以って主と為し、奚(けい)・渤海(ぼっかい)の諸国を併せ、始めて元を建て、復代りを受けず。国人之を天皇王(てんこうおう)と謂う。


均王友貞 太祖の第三子。 東都 汴。 簒弑 殺して奪う。 幽州 今の河北省の一部。 荊南 湖北省荊州。 元魏 南北朝時代の北魏。 奚・渤海 中国北東部の国。 建元 元号を建てること。

均王は名を友貞といい、初め東都の指揮使となったが、兄友珪が父を殺して位を奪った際、兵を起こして兄を殺して、汴にて即位し、名を瑱と改めた。
晋王が幽州に侵攻し、燕の劉仁恭と守光を捕えて帰り、これを斬った。
梁、荊南の節度使高季昌に爵を賜って王とした。
契丹の阿保機が帝と称した。契丹は昔の東胡の一種である。其の国は、先に横山の南に在って、もとは鮮卑族の旧地であった。南北朝の元魏の時、自ら契丹と号した。初め契丹の長の大賀氏に八人の子があり、八部大人と号してその中の一人を長として三年ごとに交替した。唐の開元中に邵固という者が出て、国を統率していたが、唐が詔を下して世襲を認めた。ここに至って諸部族が耶律斡里の末の子阿保機を主と仰いだ。奚と渤海を併合して、初めて元号を建てて神冊とした。以後交替することなく代々受け継ぐこととなった。人々は天皇王といった。