景退謂人曰、吾常跨鞍對陣、矢石交下、了無怖心。今見蕭公、使人自慴。豈非天威難犯、吾不可以復見此人。梁主爲景所制、飮膳亦被裁損、憂憤成疾。口苦索蜜不得。再曰荷荷遂殂。在位四十八年。改元者七、曰天監・普通・大通・中大通・大同・中大同・太清。壽八十六。先是、太子統、仁明孝儉、好學有文、在東宮三十年而終。梁主舍嫡孫而立別子、至是即位。是爲太宗簡文皇帝。
景、退いて人に謂って曰く、「吾、常に鞍に跨(またが)り陣に対し、矢石(しせき)交々(こもごも)下れども了(つい)に怖るる心無し。今蕭公を見るに、人をして自(おのずか)ら慴(おそ)れしむ。豈天威犯し難きに非ざらんや。吾以って復此の人を見る可からず」と。梁主、景の制(せい)する所となり、飲膳(いんぜん)も亦裁損(さいそん)せられ、憂憤して疾(やまい)を成す。口苦くして蜜を索(もと)むれども得ず。再び荷荷(かか)と曰いて遂に殂(そ)す。在位四十八年、改元すること七、天監・普通・大通・中大通・大同・中大同・太清と曰う。寿八十六。先是、太子統、仁明孝倹、学を好み文有り。東宮に在ること三十年にして終る。梁主、嫡孫を舍(す)てて別子を立つ。是に至って位に即く。是を太宗簡文皇帝と為す。
蕭公 梁の武帝の姓。 制 規制。 裁損 節減。 荷荷 怒鳴る声。
侯景は退出すると、人に「わしはいつも馬に跨って、敵陣に対し、矢や石が降り注いでもついぞ怖れる気はなかった。ところが今蕭公の前に出たとき、身のすくむ思いをした。これこそ天与の威厳というものだろうか、二度と会いたくないものだ」と言った。武帝は侯景からさまざまな制約を受け、飲食をも十分与えられなくなり、憂いと憤りでとうとう病気になった。口が苦く蜜を求めたが与えられず、二度怒声を発してこと切れた(549年)。位に在ること四十八年。改元すること七回、天監(てんかん)・普通・大通・中大通・大同・中大同・太清という。歳は八十六であった。これより前、昭明太子蕭統は仁徳があり、聡明で控えめ、学問を好み、文才があったが、東宮に在ること三十年で世を去った。武帝は嫡孫の歓を嫌い、別の子を立てて皇太子とし、ここに至って即位した。これが太宗簡文皇帝である。
景、退いて人に謂って曰く、「吾、常に鞍に跨(またが)り陣に対し、矢石(しせき)交々(こもごも)下れども了(つい)に怖るる心無し。今蕭公を見るに、人をして自(おのずか)ら慴(おそ)れしむ。豈天威犯し難きに非ざらんや。吾以って復此の人を見る可からず」と。梁主、景の制(せい)する所となり、飲膳(いんぜん)も亦裁損(さいそん)せられ、憂憤して疾(やまい)を成す。口苦くして蜜を索(もと)むれども得ず。再び荷荷(かか)と曰いて遂に殂(そ)す。在位四十八年、改元すること七、天監・普通・大通・中大通・大同・中大同・太清と曰う。寿八十六。先是、太子統、仁明孝倹、学を好み文有り。東宮に在ること三十年にして終る。梁主、嫡孫を舍(す)てて別子を立つ。是に至って位に即く。是を太宗簡文皇帝と為す。
蕭公 梁の武帝の姓。 制 規制。 裁損 節減。 荷荷 怒鳴る声。
侯景は退出すると、人に「わしはいつも馬に跨って、敵陣に対し、矢や石が降り注いでもついぞ怖れる気はなかった。ところが今蕭公の前に出たとき、身のすくむ思いをした。これこそ天与の威厳というものだろうか、二度と会いたくないものだ」と言った。武帝は侯景からさまざまな制約を受け、飲食をも十分与えられなくなり、憂いと憤りでとうとう病気になった。口が苦く蜜を求めたが与えられず、二度怒声を発してこと切れた(549年)。位に在ること四十八年。改元すること七回、天監(てんかん)・普通・大通・中大通・大同・中大同・太清という。歳は八十六であった。これより前、昭明太子蕭統は仁徳があり、聡明で控えめ、学問を好み、文才があったが、東宮に在ること三十年で世を去った。武帝は嫡孫の歓を嫌い、別の子を立てて皇太子とし、ここに至って即位した。これが太宗簡文皇帝である。