寡黙堂ひとりごと

詩吟と漢詩・漢文が趣味です。火曜日と木曜日が詩吟の日です花も酒も好きな無口な男です。

十八史略 梁の武帝憤死す

2012-07-31 08:58:02 | 十八史略
景退謂人曰、吾常跨鞍對陣、矢石交下、了無怖心。今見蕭公、使人自慴。豈非天威難犯、吾不可以復見此人。梁主爲景所制、飮膳亦被裁損、憂憤成疾。口苦索蜜不得。再曰荷荷遂殂。在位四十八年。改元者七、曰天監・普通・大通・中大通・大同・中大同・太清。壽八十六。先是、太子統、仁明孝儉、好學有文、在東宮三十年而終。梁主舍嫡孫而立別子、至是即位。是爲太宗簡文皇帝。

景、退いて人に謂って曰く、「吾、常に鞍に跨(またが)り陣に対し、矢石(しせき)交々(こもごも)下れども了(つい)に怖るる心無し。今蕭公を見るに、人をして自(おのずか)ら慴(おそ)れしむ。豈天威犯し難きに非ざらんや。吾以って復此の人を見る可からず」と。梁主、景の制(せい)する所となり、飲膳(いんぜん)も亦裁損(さいそん)せられ、憂憤して疾(やまい)を成す。口苦くして蜜を索(もと)むれども得ず。再び荷荷(かか)と曰いて遂に殂(そ)す。在位四十八年、改元すること七、天監・普通・大通・中大通・大同・中大同・太清と曰う。寿八十六。先是、太子統、仁明孝倹、学を好み文有り。東宮に在ること三十年にして終る。梁主、嫡孫を舍(す)てて別子を立つ。是に至って位に即く。是を太宗簡文皇帝と為す。

蕭公 梁の武帝の姓。 制 規制。 裁損 節減。 荷荷 怒鳴る声。

侯景は退出すると、人に「わしはいつも馬に跨って、敵陣に対し、矢や石が降り注いでもついぞ怖れる気はなかった。ところが今蕭公の前に出たとき、身のすくむ思いをした。これこそ天与の威厳というものだろうか、二度と会いたくないものだ」と言った。武帝は侯景からさまざまな制約を受け、飲食をも十分与えられなくなり、憂いと憤りでとうとう病気になった。口が苦く蜜を求めたが与えられず、二度怒声を発してこと切れた(549年)。位に在ること四十八年。改元すること七回、天監(てんかん)・普通・大通・中大通・大同・中大同・太清という。歳は八十六であった。これより前、昭明太子蕭統は仁徳があり、聡明で控えめ、学問を好み、文才があったが、東宮に在ること三十年で世を去った。武帝は嫡孫の歓を嫌い、別の子を立てて皇太子とし、ここに至って即位した。これが太宗簡文皇帝である。

十八史略 侯景、梁武帝に謁見す。

2012-07-28 09:36:44 | 十八史略

東魏遣慕容紹宗撃景。景敗南走、襲梁壽春、據之請命。梁就以爲南豫州牧。既而東魏求成於梁。意欲得景。景恨梁通東魏、遂反於壽陽、引兵南渡、圍建康。梁主自即位以來、江左久無事。惟崇佛法、屢捨身佛寺。上下化之。及景逼臺城、援兵至者、爲景所敗。梁主遣人與景盟、以爲大丞相。臺城受圍、五月而陥。景入見。引就三公位。梁主神色不變。謂景曰、卿在軍中久。毋乃爲勞。景不敢仰視。流汗不能對。

東魏、慕容紹宗を遣わして景を撃たしむ。景敗れて南に走り、梁の寿春を襲うて、之に拠(よ)って命を請う。梁、就(つ)いて以って南予州の牧と為す。既にして東魏、成(たいらぎ)を梁に求む。意、景を得んと欲するなり。景、梁の東魏に通ぜしを恨み、遂に寿陽に反し、兵を引いて南に渡り、建康を囲む。梁主、位に即いてより以来、江左(こうさ)久しく無事なり。惟仏法を崇(たっと)び、しばしば身を仏寺に捨つ。上下(しょうか)之に化す。景の台城に逼(せま)るに及び、援兵の至る者、景の敗(やぶ)る所となる。梁主、人を遣わして景を盟(ちか)わしめ、以って大丞相と為す。台城囲みを受くること五月にして陥る。景入って見(まみ)ゆ。引いて三公の位に就(つ)かしむ。梁主、神色変ぜず。景に謂って曰く、「卿、軍中に在ること久し。乃(すなわ)ち労を為すこと毋(なか)らんや」と。景、敢えて仰ぎ視ず。汗を流して、対(こた)うる能(あた)わず。

寿春 今の安徽省の地。 成 和議。 寿陽 寿春におなじ。 江左 江東の地。 台城 宮城。 毋らんや 反語、いやあったであろうの意。

東魏は慕容紹宗を派遣して侯景を撃たせた。侯景は敗れて南に逃げ、梁の寿春の不意をつき、立て籠もったうえで梁にこの地の長官に任命することを要求した。言われるままに梁は侯景を南予州の牧に任命した。やがて東魏は、梁に和議を申し入れた。その意図するところは侯景の引渡しにあった。侯景は梁と東魏が通じたことを根にもって、遂に寿陽で謀叛し、兵を率いて江南に渡り、建康を囲んだ。
梁は武帝が即位してから、平穏無事であり、帝はひたすら仏法をあがめ、しばしば仏寺に籠り捨身の行をしたので、民衆までも徳化されていた。侯景が宮城に逼ると、援軍はことごとく打ち破られてしまった。武帝はやむなく使者を遣わして、侯景に大丞相の地位を約して和議を結んだ。宮城が包囲を受けて五ヶ月にして陥落した。侯景が宮城に入って謁見すると、武帝は侯景を引き入れ、三公の位に就かせた。この時の武帝の様子は泰然として、侯景に向かって「卿も久しく軍中にあってさぞ疲れたことであろう」とねぎらいの言葉さえかけた。侯景は恐れいって顔も上げられず、汗を流して一言も返すことができなかった。

十八史略 侯景は飛揚跋扈の志有り

2012-07-26 09:18:03 | 十八史略
先是熒惑入南斗。梁主曰、熒惑入南斗、天子下殿走。乃跣下殿禳之。及聞脩出奔、慙曰、虜亦應天象邪。脩至長安、踰半年又與泰有隙。泰鴆之。後諡曰孝武皇帝。孝武既遇弑。泰立南陽王寶炬。歡與泰連年相攻戰、互有勝負。歡卒。遺言囑其子澄曰、侯景有飛揚跋扈之志。非汝所能御。堪敵景者、惟慕容紹宗。景果以河南降西魏、未幾復附于梁。梁封景爲河南王。景使至梁、梁羣臣皆不欲納。梁主亦自謂、我國家如金甌無一傷缺。恐納景因以生事。惟朱异力勸納之。

是より先、熒惑(けいわく)南斗に入る。梁主曰く、「熒惑南斗に入れば、天子、殿(でん)を下って走る」と。乃ち跣(せん)して殿を下って之を禳(はら)う。脩の出奔せしを聞くに及び、慙(は)じて曰く、「虜(りょ)も亦天象(てんしょう)に応ずるか」と。脩、長安に至り、半年を踰(こ)えて又泰と隙(げき)有り。泰之を鴆(ちん)す。後、諡(おくりな)して孝武皇帝と曰う。孝武既に弑に遇(あ)う。泰、南陽王宝炬(ほうきょ)を立つ。歓、泰と連年相攻戦し、互いに勝負有り。
歓卒す。遺言して其の子澄(ちょう)に嘱(しょく)して曰く、「侯景は飛揚跋扈の志有り。汝が能く御する所に非ず。景に敵するに堪(た)うる者は、惟慕容紹宗(ぼようしょうそう)のみ」と。景、果たして河南を以って西魏に降り、未だ幾(いくばく)ならずして復梁に附く。梁、景を封じて河南王と為す。景の使い、梁に至るや、梁の群臣、皆納るるを欲せず。梁主も亦自ら謂う「我が国家は金甌(きんおう)の一傷缺(しょうけつ)無きが如し。恐らくは景を納るれば、因って以って事を生ぜん」と。惟朱异(しゅい)のみ力(つと)めて之を納れしむ。


熒惑 火星、不吉な星。 跣 はだし。 天象 天体の起す現象。 勝負 勝ったり負けたりする。 飛揚跋扈 天翔け地を渉猟する志、高い地位に上り権勢を欲しいままにすること。 西魏 長安に逃れた元脩の魏。 金甌 金のかめ。 傷缺 缺は欠、欠けること。

これに先立って、熒惑が南斗星の坐に入るということがあった。梁主の武帝は「熒惑星が南斗の星座を侵すのは天子が玉座を下って逃げ出す前兆ではないか」と言って、裸足で宮殿から出て厄払いをした。やがて魏の元脩が洛陽を落ち延びたとの報を聞くと、「夷にも天の啓示は及ぶものか」と言って、厄払いをしたことを慚じた。元脩は、長安に来て半年あまりになり、宇文泰と仲違いが生じると泰によって毒殺され、後に孝武皇帝とおくり名された。宇文泰は脩を弑殺すると今度は南陽王の宝炬を立てた。
東魏の高歓と西魏の宇文泰は年々戦いをして、互いに勝ち負けを繰り返していた。やがて高歓が世を去ったが、死に臨んで子の高澄に遺言して「侯景という男は大きな野望をもっていて、とてもお前が適う相手ではない、対等にわたり合えるのは慕容紹宗ひとりだけだろう」と言った。果たして侯景は河南の地を献じて西魏に投じ、さらに梁につき従った。梁は侯景を河南王に封じた。
侯景の使者が梁に来たとき、梁の臣は侯景を迎え入れることに反対した。梁主も自ら「我が国は傷一つない黄金の甕のように治まっている。受け入れればむしろ禍をひきおこすであろう」とためらいをあらわにした。ただ朱异だけが、強く侯景を受け入れるよう主張し、武帝を説き伏せた。


十八史略 北魏分かれて東魏・西魏となる

2012-07-24 09:08:38 | 十八史略

爾朱世隆與爾朱兆、立宗室長廣王曄、入洛陽。子攸遇弑。後諡曰孝莊皇帝。世隆又以曄疎遠廢之、立孝文之姪廣陵王恭。高歡起兵誅爾朱氏、入洛陽、廢恭而立孝文之孫平陽王脩。脩弑恭。後諡曰節閔皇帝。高歡爲大丞相、建府於晉陽居之。魏主畏歡、謀伐晉陽。歡擁兵來。魏主奔長安、依關西大都督宇文泰、以泰爲大丞相。歡追魏主、不及。遂立清河王世子善見於洛陽、遷于鄴。魏自道武至是十二世。一百四十九年、而分爲東魏・西魏。

爾朱世隆(じしゅせいりゅう)、爾朱兆と、宗室の長広王曄(よう)を立てて、洛陽に入る。子攸、弑に遇う。後諡(おくりな)して孝荘皇帝と曰う。世隆は又、曄の疎遠なるを以って之を廃し、孝文の姪(てつ)広陵王恭を立つ。
高歓、兵を起して爾朱氏を誅し、洛陽に入り、恭を廃して孝文の孫、平陽王脩を立つ。脩、恭を弑す。後おくりなして節閔(せつびん)皇帝と曰う。高歓大丞相となり、府を晋陽に建てて之に居る。魏主、歓を畏れ、晋陽を伐たんことを謀る。歓、兵を擁して来たる。魏主、長安に奔(はし)り、関西(かんせい)の大都督、宇文泰に依り、泰を以って大丞相となす。歓、魏主を追いしも及ばず、遂に清河王の世子、善見を洛陽に立てて、鄴(ぎょう)に遷(うつ)る。
魏は道武より是に至るまで十二世。一百四十九年にして、分かれて東魏・西魏となる。


爾朱栄の従弟の爾朱世隆は甥の兆とともに、北魏の宗室に連なる長広王曄を立てて洛陽に入り、子攸を弑殺した(530年)。のちに孝荘皇帝とおくりなした。
世隆は後に曄を、王室の血筋から遠いとしてこれを廃し新たに文帝の甥の広陵王恭を立てた。
そこで高歓は兵を挙げて爾朱氏を誅し、洛陽に入って恭を廃し、文帝の孫にあたる平陽王脩を立てた。脩は恭を弑札殺した。後に節閔皇帝とおくりなした。高歓は大丞相となり、晋陽に幕府を開いてここを根城とした。魏主の元脩はこれを畏れて密かに晋陽を伐とうとしたが、高歓が先手を打って洛陽に攻め寄せた。元脩は長安に逃げて、関西大都督の宇文泰を頼り、泰を大丞相に任じた。高歓は元脩を追ったが、追いつけなかった。そこで清河王の世子、元善見を洛陽で帝位に即かせ、鄴に遷都した(534年)。北魏は道武帝からここに至るまで十二代、百四十九年で、高歓の立てた元善見の東魏と、長安に逃れた元脩の西魏の二つに分かれた。


十八史略 魏主子攸、爾朱栄を刺殺す

2012-07-21 08:29:27 | 十八史略
魏胡太后臨朝以來、嬖倖用事、政事縱弛、盜賊蠭起、封疆日蹙。魏主詡寖長、太后自知所爲不謹、務爲壅蔽、母子嫌隙日深。時六州大都督秀容酋長爾朱榮、兵強。高歡見榮、即勸擧兵清帝側。會魏主殂。胡太后鴆之也。後諡曰孝明皇帝。爾朱榮擧兵、立孝文之姪長樂王子攸、沈胡后于河。封榮太原王。還晉陽。北海王奔梁。梁立之、遣將送入洛陽。子攸出奔。爾朱榮渡河來救。走死。子攸歸。加榮天柱大將軍。榮蓄不臣之志。魏主陰謀誅榮。榮入。手刺之。

魏の胡太后朝に臨んで以来、嬖倖(へいこう)事を用い、政事縦弛(しょうし)し、盗賊蜂起して、封疆(ほうきょう)日に蹙(ちぢ)まる。魏主詡(く)、寖(ようや)く長じ、太后自ら為す所の不謹なるを知り、務めて壅蔽(ようへい)をなし、母子の嫌隙(けんげき)日に深し。
時に六州の大都督、秀容の酋長爾朱栄(じしゅえい)、兵強し。高歓、栄を見て即ち兵を挙げて帝側を清めんことを勧む。魏主の殂(そ)するに会う。胡太后之を鴆(ちん)せしなり。後諡(おくりな)して孝明皇帝と曰う。
爾朱栄、兵を挙げて、孝文の姪(てつ)長楽王子攸(しゆう)を立て、胡后を河に沈む。栄を太原王に封ず。晋陽に還る。
北海王(こう)、梁に奔(はし)る。梁之を立て、将をして送って洛陽に入らしむ。子攸出奔す。爾朱栄、河を渡って来たり救う。、走り死す。子攸帰る。栄に天柱大将軍を加う。栄、不臣の志を畜う。魏主、陰かに栄を誅せんと謀(はか)る。栄入る。手ずから之を刺す。


嬖倖 お気に入り。 縦弛 弛むこと。 封疆 封土の境。 壅蔽 壅はふさぐ、蔽はおおう。隠して知らせないこと。 嫌隙 すきま。 六州 并・肆・益・広・恒・雲。 秀容 山西省朔県。 姪(てつ) 甥。

魏の胡太后が朝廷に臨むようになってからは、寵臣が国事を握り、政治が緩んででたらめになり、各地に盗賊が蜂起して、領土も日々にせばまった。魏主の元詡が成長するにつれ、太后も自身の不謹慎な所業を羞じ、つとめて不行跡を隠そうとしたので、母と子の隙間がひろがった。
そのころ、六州(りくしゅう)の大都督で秀容の酋長爾朱栄の兵は強勢であった。高勧は爾朱栄に会うと、挙兵して魏主の側近を粛清するよう勧めた。ところがそのうち詡が世を去った。胡太后が毒殺したのである。後に孝明皇帝と諡された。
そこで爾朱栄が挙兵して孝文帝の甥にあたる、長楽王の子攸を立て、太后を黄河に沈めて殺した。功績によって爾朱栄は太原王に封じられ、晋陽に還った。
すると同じく孝文帝の甥の北海王が梁に亡命した。梁はを立てて、将軍を伴って洛陽に進軍させた。子攸は洛陽を逃れると、爾朱栄が黄河を渡って救援に駆けつけ、は敗走して死んだ。子攸が再び洛陽に帰ると、爾朱栄に天柱大将軍の称号を与えた。やがて爾朱栄は謀叛の野望を抱きはじめ、魏主子攸はこれを察知すると密かに栄を誅殺しようと謀り、参内したとき自ら手を下して刺し殺した(530年)。