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寡黙堂ひとりごと

詩吟と漢詩・漢文が趣味です。火曜日と木曜日が詩吟の日です花も酒も好きな無口な男です。

十八史略 高宗

2012-12-11 08:32:53 | 十八史略
高宗皇帝名治。母長孫皇后。承乾廢、長孫無忌、力勸太宗立治。在東宮七年。太宗嘗作帝範十二篇以賜。曰、脩身治國盡在其中。一旦不諱、更無言矣。至是即位。長孫無忌・褚遂良、受先帝遺詔輔政。以李勣爲左僕射、尋爲司空。
永徽五年、以太宗才人武氏爲昭儀。
六年、上欲廢皇后王氏、立武昭儀爲后。許敬宗・李義府贊之、褚遂良不可。以問李勣。勣曰、此陛下家事。何必更問外人。事遂決。褚遂良貶、義府參知政事。義府貌若温恭、與人嬉怡、而狡險忌克。人謂、笑中有刀。柔而害物。謂之李猫。

高宗皇帝名は治(ち)。母は長孫皇后なり。承乾の廃せらるるや、長孫無忌、力(つと)めて太宗に勧めて治を立つ。東宮に在ること七年なり。太宗嘗て帝範十二篇を作って以って賜う。曰く、「身を修め国を治むること、尽く其の中に在り。一旦不諱(ふき)なるも、更に言うこと無からん」と。是(ここ)に至って位に即く。長孫無忌・褚遂良(ちょすいりょう)、先帝の遺詔を受けて政を輔(たす)く。李勣(りせき)を以って左僕射と為し、尋(つ)いで司空と為る。
永徽(えいき)五年、太宗の才人武氏を以って昭儀と為す。
六年、上、皇后王氏を廃し武昭儀を立てて后と為さんと欲す。許敬宗・李義府之を賛せしも、褚遂良可(き)かず。以って李勣に問う。勣曰く、「此れ陛下の家事のみ。何ぞ必ずしも更に外人に問わん」と。事遂に決す。褚遂良貶(へん)せられ、義府、参知政事たり。義府、貌(かたち)温恭の若(ごと)くして、人と嬉怡(きい)し、而して狡険忌克(こうけんきこく)なり。人謂(い)う、「笑中に刀有り。柔にして物を害す」と。之を李猫(りびょう)と謂う。


不諱 みまかる、諱は忌み避けること、つまり避けることができない死。 李勣 李世勣のこと、先帝李世民をはばかって死後改めた。 才人、昭儀 後宮の女性の地位、上から夫人(貴妃・淑妃・徳妃・賢妃)嬪(昭儀・昭容・昭媛・充儀・充容・充媛)婕・美人・才人・宝林・御女・采女の順。 参知政事 副宰相。 嬉怡 ともに喜ぶ様子。 狡険忌克 ずるく陰険でねたみ勝とうとする。

高宗皇帝名は治という。母は長孫皇后である。承乾が廃されたとき、皇后の兄の長孫無忌が、太宗に強く勧めて治を皇太子に立てた。東宮にあること七年、その間に太宗が帝範十二篇を作って太子に与えて言うことには、「身を修め国を治める要諦、その中に残らず書いておいた、わしが身に万一のことが起こっても何一つ付け足すことはない」こうして太宗の死後即位した。長孫無忌と褚遂良が遺詔によって政治の輔佐にあたった。畳州に左遷されていた李勣を呼び戻して左僕射とし、やがて三公の司空とした。
永徽五年(654年)、太宗の才人であった武氏を、昭儀として後宮に迎え入れた。
翌年、高宗は皇后の王氏を廃して武昭儀を皇后に立てようとした。許敬宗と李義府が賛同したが褚遂良は可かなかった。それで帝は李勣に意見を求めると、李勣は「これは陛下の身内の事柄です外部の者に相談することではありません」と逃げた。ここに至って高宗は決断した。反対した褚遂良は地方に左遷され、李義府は参知政事に出世した。義府は外見は温和で愛嬌があるが内面は狡猾陰険、他人をねたみ、克とうとする心があった。そこで世間は「笑みの中に刃が隠されている、やさしい顔で人に危害を加える」と評し、李猫と渾名した。