寡黙堂ひとりごと

詩吟と漢詩・漢文が趣味です。火曜日と木曜日が詩吟の日です花も酒も好きな無口な男です。

十八史略 東晋亡ぶ

2012-05-31 10:17:15 | 十八史略
劉裕禅譲を受く
恭皇帝名文、即位之明年、劉裕進爵爲宋王。自彭城移鎭壽陽。又明年裕還建康。帝在位改元者一、曰元熙。禪位于裕。已而被弑。東晉自元皇帝、至是凡十一世、一百四年。西晉・東晉、通一百五十六年而亡。

恭皇帝名は徳文、即位の明年、劉裕爵を進めて宋王と為る。彭城より移って壽陽を鎮す。又明年、裕、建康に還る。帝、位に在って改元する者(こと)一、元熙(げんき)と曰う。位を裕に禅(ゆづ)る。已(すで)にして弑せらる。東晋は、元皇帝より、是(ここ)に至るまで凡(すべ)て十一世、一百四年。西晋・東晋、通じて一百五十六年にして亡ぶ。

恭皇帝は名を徳文といった。即位の翌年に劉裕が爵を進めて宋王を名乗った。彭城より移って壽陽を鎮守した。次の年、劉裕は建康に還った。位を劉裕に譲ったが、間もなく弑殺された。改元すること一回、元熙という。東晋は元皇帝から恭皇帝まで十一世、百四年であり、西晋、東晋通算すると百五十六年で亡んだ。(419年)

十八史略 

2012-05-29 09:12:56 | 自由律俳句
夏主勃勃、聞裕伐秦曰、裕必取關中。然不能久留。若以子弟諸將守之、吾取之如拾芥耳。至是三秦父老、聞裕將還、詣門流涕曰、殘民不霑王化、於今百年、始覩衣冠、人人相賀。公捨此欲何之乎。裕還彭城。勃勃陥長安稱帝、歸統萬。
晉以裕爲相國宋公、加九錫。裕以讖云昌明之後尚有二帝、乃使人縊晉帝弑之。帝在位二十三年。改元者二。曰隆安・義熙。義熙元年至十四年、則劉裕爲政之日也。弟瑯琊王立。是爲恭皇帝。

夏主勃勃、裕の秦を伐つを聞いて曰く、「裕、必ず関中を取らん。然れども、久しく留まる能わず。若し子弟諸将を以って之を守らしめば、吾之を取ること、芥(あくた)を拾うが如きのみ」と。是(ここ)に至って、三秦の父老、裕の将(まさ)に還らんとするを聞き、門に詣(いた)って流涕して曰く、「残民、王化に霑(うるお)わず、今に於いて百年、始めて衣冠を覩(み)、人々相賀す。公、此れを捨てて、何(いずこ)に之(ゆ)かんと欲するか」と。裕、彭城に還る。勃勃、長安を陥れて帝と称し、統萬に帰る。
晋、裕を以って相国宋公と為し、九錫を加う。裕、讖(しん)に昌明の後尚お二帝有りと云うを以って、乃ち人をして晋帝を縊(くび)らしめて、之を弑す。帝、在位二十三年。改元する者(こと)二、隆安・義熙(ぎき)と曰う。義熙元年より十四年に至るまでは、則ち劉裕が政を為すの日なり。弟瑯琊王立つ。是を恭皇帝と為す。


三秦 前秦・後秦・西秦、関中。 残民 戦乱に行き場を無くして残された民。 王化 王の徳によって世の中を良くすること。 相国 宰相。 讖 予言の書。 昌明 孝武帝の字。 

夏主の赫連勃勃は、晋の劉裕が秦を伐つと聞いて「裕はきっと関中も取るであろう。しかしいつまでも関中に留まっていることはできまい。もし子弟か部下の将軍をもって守ろうとするならば、これを奪い取ることはごみを拾うようにわけもないことである」と言った。いよいよ劉裕が晋に還るときになって、三秦の年寄り達が、聞きつけて門に集まり涙を流して「長い戦争で逃げ場もない民草は晋朝の恩恵に浴しないことが百年も続いています。今やっと衣冠をつけた役人を見ることができて、喜びあっています。それなのに公はここを見捨てて何処に行かれるのでしょうか」と訴えた。それでも劉裕は子に後を託して彭城に還った。果たして勃勃は長安を陥落させ、自ら帝と称して統万に帰った。
晋では劉裕の功績を賞して相国となし、宋公に封じて九錫を賜った。劉裕は予言の書に、孝武帝昌明の後になお二帝がある、と書かれていたので人を遣って一人目の安帝を縊り殺してしまった。安帝は在位二十三年で改元すること二回、隆安・義熙といった。義熙元年から十四年間は劉裕が政治を行った時期である。弟の瑯琊王が立った。是を恭皇帝という。


十八史略 南涼、後秦滅ぶ

2012-05-26 09:28:06 | 十八史略

盧循乘劉裕北伐、出自番禺、直下襲建康。劉裕被徴急還。諸軍力戰。循乃退。裕追破之。循走交州。爲刺史所敗。斬首送建康。
西秦乞伏韓歸、爲其下所弑。子熾盤立。
西秦襲滅南涼。先是南涼主禿髪烏孤卒。弟利鹿孤立。卒。弟■檀立。至是爲乞伏熾盤所襲。以■檀歸殺之。南涼亡。
後秦主姚興卒子泓立。晉大尉劉裕伐之。發彭城由洛陽、道武關・潼關入長安。泓敗出降。送建康斬之。後秦亡。             ■ 人偏に辱。

盧循(ろじゅん)劉裕の北伐に乗じて、番禺(ばんぐう)より出で、直ちに下って建康を襲う。劉裕徴(め)されて急に還る。諸軍力戦す。循乃(すなわ)ち退く。裕追って之を破る。循、交州に走る。刺史の敗る所と為る。首を斬って建康に送る。
西秦の乞伏韓帰(きっぷくかんき)、其の下の弑する所と為る。子熾盤(しはん)立つ。
西秦、襲うて南涼を滅ぼす。是より先、南涼の主禿髪烏孤(とくはつうこ)卒す。弟利鹿孤(りろくこ)立つ。卒す。弟■壇(とくだん)立つ。是(ここ)に至って、乞伏熾盤の襲う所と為る。■檀を以(い)て帰って之を殺す。南涼亡ぶ。
後秦の主姚興(ようこう)卒す。子泓(おう)、立つ。晋の大尉劉裕、之を伐つ。彭城を発し、洛陽より武関・潼関(どうかん)に道(どう)して長安に入る。泓、敗れて出でて降る。建康に送って之を斬る。後秦亡ぶ。


番禺 今の広東省の県名。 交州 今の江西省、ベトナムに近い。 以て 連れて、引き立てて。 彭城 今の江蘇省の県名。 武関・潼関 陜西省にある関所。 道して 通って。

盧循は劉裕が北伐に出たすきに番禺を出て長江を下って、建康を襲った。劉裕が急遽呼び戻され、諸軍が力戦したので、盧循は退却、劉裕が追撃して打ち破った。盧循は交州まで逃げて、その地の刺史に敗れ、首を斬られて建康に送られた。
西秦の乞伏韓帰はその臣下に殺されて、子の乞伏熾盤が立った。
南涼が西秦に襲われて滅亡した。これより前、南涼の禿髪烏孤が死んで、弟の利鹿孤が立ち、これも死んで、弟の■壇が立った。この時になって西秦の乞伏熾盤が襲撃して、■壇を連れ帰ってこれを殺した。こうして南涼は滅亡した(414年)。
後秦の姚興が死んで、子の姚泓が立った。晋の大尉の劉裕がこれを討つことになり、彭城を出発して洛陽より武関・潼関と道をとって、長安に入った。姚泓は敗れて城を出て降伏した。そして建康に送られて斬られた。こうして後秦も滅んだ(417年)。


十八史略 南燕滅ぶ

2012-05-24 08:50:24 | 十八史略
晉伐南燕。先是南燕主慕容卒。兄子超立。侵略晉邊。劉裕抗表伐之。
北燕爲其臣馮跋所滅。先是北燕主盛、爲其下所弑。叔父熙立。跋得罪於熙。弑之而立熙之養子高雲。未幾、又弑雲而自立。
魏主殺人之夫、而納其妻。與之生子紹。兇狠無頼。弑珪。齊王嗣殺紹而立。珪謚道武皇帝。廟號烈祖。
晉劉裕抜廣固。執慕容超、送建康斬之。南燕亡。

晋、南燕を伐つ。是より先、南燕の主、慕容徳卒す。兄の子超立つ。晋辺を侵略す。劉裕、表を抗(こう)して之を伐つ。
北燕、其の臣馮跋(ふうばつ)の滅ぼす所と為る。是より先、北燕の主盛、其の下の弑する所と為る。叔父熙(き)立つ。跋、罪を熙に得たり。之を弑して熙の養子高雲を立つ。未だ幾ばくならずして、又雲を弑して自立す。
魏主、人の夫を殺して、その妻を納(い)る。之と子紹を生む。兇狠無頼(きょうこんぶらい) 珪を弑す。斉王嗣(し)、紹を殺して立つ。珪を道武皇帝と謚(おくりな)す。廟を烈祖と号す。
晋の劉裕、広固を抜く。慕容超を執(とら)えて、建康に送って之を斬る。南燕亡ぶ。


表を抗して 抗は上げる、上表に同じ。 兇狠無頼 狠はゆがむ、ねじける。無頼 無法者。

晋が南燕を征伐した。それは以前南燕の慕容徳が死んで、兄の子の慕容超が立ち、晋の国境を侵略した。それで劉裕が書をたてまつって、討伐したのである。
北燕はその臣下の馮跋に滅ぼされた。これより前、北燕の主慕容盛が、その臣下に弑殺され、叔父の慕容熙が立った。馮跋が熙に罪を問われて、熙を殺してその養子の高雲を立てたが、間もなく高雲をも弑殺して自立した。
魏王の拓跋珪が人を殺してその妻を奪った。二人の間に子の紹が生まれたが、性質が凶悪無頼で、父の珪を殺した。そこで珪の長子の斉王嗣が、紹を殺して立ち、珪に道武皇帝とおくり名して、廟号を烈祖とした。
南燕の討伐に向かった劉裕は広固を陥落させ、慕容超を捕えて建康に送ったうえで斬った。南燕はここに滅んだ(410年)。


十八史略 劉裕、桓玄を斬り安帝を復位させる

2012-05-22 10:28:46 | 十八史略
晉桓玄反。初玄嗣父温爲南郡公。負其才地、以雄豪自處。嘗守義興。歎曰、父爲九州伯、兒爲五湖長。棄官歸國。後爲江州刺史、尋都督荊・江等八州軍事。據江陵。至是擧兵入建康。殺元顯、又殺道子。玄爲相國、封楚王、加九錫。已而迫帝禪位。劉裕起兵於京口討玄。與玄兵戰。大破之。玄出走、斬首於江陵。帝復位。劉裕鎭京口。
秦赫連勃勃、叛秦據朔方、自稱大夏天王。勃勃故匈奴劉衞辰之子也。

晋の桓玄、反す。初め玄、父温に嗣(つ)いで南郡公と為る。其の才地を負(たの)んで、雄豪を以って自ら処(お)る。嘗て義興に守たり。歎じて曰く、「父は九州の伯たり、児は五湖の長たり」と。官を棄てて国に帰る。後、江州の刺史となり、尋(つ)いで荊・江等八州の軍事を都督す。江陵に拠(よ)る。是(ここ)に至って、兵を挙げて建康に入る。元顕を殺し、又道子(どうし)を殺す。玄、相国となって、楚王に封ぜられ、九錫を加う。已にして帝に迫って位を禅(ゆず)らしむ。劉裕、兵を京口に起こして玄を討つ。玄の兵と戦う。大いに之を破る。玄、出走し、首を江陵に斬らる。帝、位に復す。劉裕、京口に鎮す。
秦の赫連勃勃(かくれんぼつぼつ)、秦に叛して朔方(さくほう)に拠り、自ら大夏天王と称す。勃勃は故(もと)の匈奴劉衛辰の子なり。


晋の桓玄が謀叛した。初め桓玄は父桓温の後を嗣いで南郡の領主になったが、自身の才気と家門を拠り所に、英雄豪傑をもって任じていた。嘗て義興郡の太守になったが、「父は九州の長官であったのに、自分は五湖の長か」と憤慨し、官を辞めて南郡に帰ってしまった。後に江州の長官になり、続いて荊州、江州など八州の軍事を治めることとなり、江陵に本拠地を置いた。ここに至って遂に兵を挙げて建康に攻め入り、司馬元顕と、父の道子を殺した。
桓玄は相国となり、楚王に封じられ、九錫を加えられた。やがて安帝に迫って譲位させてしまった。そこで劉裕は京口で兵を挙げて桓玄を伐ち、大いにこれを破った。桓玄は都を落ち、江陵で捕えられて首を斬られた。安帝は再び位に即き、劉裕は京口に鎮台を置いた。
秦の赫連勃勃が秦に謀反を起こして、朔方郡を根城にして自ら大夏天王と名乗った。勃勃はもともと匈奴の劉衛辰の子である。