寡黙堂ひとりごと

詩吟と漢詩・漢文が趣味です。火曜日と木曜日が詩吟の日です花も酒も好きな無口な男です。

日本漢詩の流れ 二

2008-08-08 17:40:42 | Weblog
 昨日は月遅れの七夕、阿佐ヶ谷は賑やかだったでしょうね。たまたま旧暦も1ヶ月遅れの7月7日でした。詩吟教室で(木曜夜7時~9時、鍋横出張所分室で開いています)岩崎さんがシフオンケーキを焼いてきてくれました。とてもおいしかったです。 では続きを
平安時代にはいって814年から827年の間、すなわち嵯峨天皇、淳和天皇の世に三篇の勅撰漢詩集がうまれました。凌雲集、文華秀麗集、経国集です。この頃から唐詩の影響も見えてきて、七言詩があらわれてきます。はじめに凌雲集より高士吟を紹介します。作者は賀陽豊年(かやのとよとし) 高邁な志を史記の名文を借りてうたいます。

一室何ぞ掃うに堪えん 九州豈歩むに足らん
言を寄す燕雀の徒   寧ぞ知らん鴻鵠の路を

これも凌雲集より中国前漢時代の悲劇の主人公を題材にした滋野貞主(しげののさだぬし)の七言詩王昭君をお聞きください。

朔雪翩翩として沙漠暗く  辺霜惨烈として隴頭寒し
行く行く常に望む長安の日 曙色東方看るに忍びず
 (朔雪 北方から吹き付ける雪   隴頭 長安のはるか西方隴山のほとり)

 凌雲集の四年後にこれも嵯峨天皇の勅命により文華秀麗集が世に出ます。事績、生没年は不詳ですが、有力なサロンの一員であった巨勢識人(こせのしきひと)の秋日友人に別るをお聞きください。

林葉翩翩秋日曛れ     行人独り向う辺山の雪
唯余す天際孤り懸かるの月 万里流光遠く君を送る
 (曛れ くれ、たそがれ)

日本漢詩の流れ 一

2008-08-08 09:37:40 | Weblog
 中野区吟剣詩舞道連盟の秋の大会に昨年につづいて日本の漢詩の流れの続編を演ることに決まり、かかりきりになりました。まず昨年の黎明期から五山までをお目にかけたいと思いますが、限られた時間内のナレーション入りで、絶句に限定としたのでほんの一部分でしかありませんが、何かの参考になれば幸いです。
懐風藻から五山まで
今から1400年前西暦607年小野妹子が隋の都を目指して船出をしました。遣隋使です。その後遣唐使としてひきつがれて、以来多くの文物がわが国にもたらされました。大化の改新を経て中国の制度、文化を積極的に取り入れる中、漢詩もまた天皇を中心に留学僧、帰化人、多くの高官達によってつくられていきました。
751年にはわが国最初の漢詩集である懐風藻が現れました。多くは中国六朝詩の模倣とも言われていますが、キラリと光る詩もあります。686年謀反の疑いをかけられ死に臨んだ大津皇子(おおつのみこ)の詩をまずお聞きください。仮に落暉と題しました。
 
金烏西舎に臨み   鼓声短命を催す
泉路賓主無し    この夕べ家を離りて向う
(金烏は太陽 三本足の鴉が棲むという  離りて さかりて、遠ざかって)

(因みに元の題は臨終でした。55周年大会の冒頭の吟題にはふさわしくないので
作者の勝手な判断で命題しました。)

直江兼続 終わりにあたって

2008-08-07 18:24:29 | Weblog
 名将列伝に載せてある閻魔大王への使いの話ですが、私としては嘘だろと思いたい話です。かいつまんで言うと 不始末をして主人から手打ちになった使用人の親族3人が何も死ぬほどの罪は無い、是非生きて返して欲しいと訴え出た。兼続が、なるほど殺したのは行き過ぎだった、ついては金で我慢しろと裁いたが、親族はどうでも生きて返せときかない。度重なる説得も受け付けない3人に、ならば閻魔大王に会って死んだ本人を連れ戻して来てくれと3人の首をはねて、閻魔大王あての高札を立てた と言う話、講談のネタにはなりそうだが、兼続の冑の愛の前立てにはなじまない。むしろ六日町に今も残る、お六甚句の歌詞のなかに兼続の真の姿が見えてくる。 百姓大名じゃ兼続さまは尻をからげて田草も取りゃる。

とりあえず直江兼続を終了しますが、後から気がついた事柄は折に触れて取り上げてみます。今まで参考にさせていただいた‘春雁抄のようぜんさんにお礼を申し上げます。どうもありがとうございました。