封建論 七ノ七
或者又曰、夏商周漢封建而延、秦郡邑而促。尤非所謂知理者也。魏之承漢也、封爵猶建。晉之承魏也、因循不革。而二姓陵替、不聞延祚。今矯而變之、垂二百祀、大業彌固。何繋於諸侯哉。
或者又以爲、殷周聖王也。而不革其制。固不當復議也。是大不然。夫殷周之不革者、是不得已也。蓋以諸侯歸殷者三千焉。資以黜夏。湯不得而廢。歸周者八百焉。資以勝殷。武王不得而易、徇之以爲安、仍之以爲俗。湯武之所不得已也。夫不得已、非公之大者也。私其力於己也。私其衞於子孫也。秦之所以革之者、其爲制公之大者也。其情私也。私其一己之威也。私其盡臣畜於我也。然而公天下之端自秦始。
夫天下之道、理安斯得人者也。使賢者居上、不肖者居下、而後可以理安。今夫封建者、繼世而理。繼世而理者、上果賢乎、下果不肖乎。則生人之理亂未可知也。將欲利其社稷以一其人之視聽、則又有世大夫世食邑、以盡其封畧。聖賢生于其時、亦無以立於天下。封建者爲之也。豈聖人之制使至於是乎。吾固曰、非聖人之意也、勢也。
或者又曰く「夏・商・周・漢は封建にして延び、秦郡邑にして促(せま)る」と。尤も所謂理を知るものに非ざるなり。魏の漢を承(う)くるや、封爵猶建つ。晋の魏を承くるや、因循(いんじゅん)革(あらた)めず。而して二姓陵替(りょうたい)し、祚(そ)を延ぶるを聞かず。今矯(た)めてこれを変じ、二百祀(し)に垂(なんな)んとして、大業弥々(いよいよ)固し。何ぞ諸侯に繋(かか)らんや。
或者又以爲(おも)えらく、殷・周は聖王なり。而もその制を革(あらた)めず。固(もと)より当(まさ)に復た議すべからざるなりと。是れ大いに然らず。夫(そ)れ殷・周の革めざるものは、是れ已むを得ざるなり。蓋(けだ)し諸侯を以って殷に帰するもの三千あり。資(よ)りて以って夏を黜(しりぞ)く。湯(とう)得て廃せず。周に帰するもの八百あり。資りて以って殷に勝つ。武王得て易(か)えず。これに徇(したが)って以って安しと為し、これに仍(よ)りて以って俗と為す。湯・武の已むを得ざる所なり。夫れ已むを得ざるは、公(おおやけ)の大なるものに非ず。その力を己(おのれ)に私(わたくし)するなり。その衛を子孫に私するなり。秦のこれ革むる所以(ゆえん)のものは、その制たる公の大なるものなり。その情は私なり。その一己(いっこ)の威を私するなり。その尽く我に臣畜(しんきく)するを私するなり。然り而うして天下を公にするの端は秦より始まる。
夫れ天下の道、理安はこれ人を得るものなり。賢者をして上(かみ)に居り、不肖者をして下(しも)に居らしめて、而る後に以って理安なるべし。今夫れ封建なるものは、世を継いで理(おさ)む。世を継いで理むるものは、上果して賢ならんや、下果して不肖ならんや。則ち生人の理乱(りらん)未だ知るべからざるなり。将(は)たその社稷を利して以ってその人の視聴を一(いつ)にせんと欲すれば、則ちまた世大夫(せいたいふ)世々に禄邑(ろくゆう)を食(は)みて、以ってその封略(ほうりゃく)を尽くすこと有らん。聖賢その時に生まるとも、亦た以って天下に立つ無し。封建なるものこれを為すなり。豈聖人の制是(ここ)に至らしめんや。吾固より曰く「聖人の意に非ざるなり、勢いなり」と。
商 殷。 因循 旧来の習慣。 革 改革。 二姓 魏と晋。 陵替 次第に衰えること。 祚 天子の位。 祀 年。 繋 つながる。 資 助け。 湯 殷の湯王。 武王 周の武王。 俗 習俗。 衛 防衛力。 一己の威 天子の権威。 臣畜 畜(きく)は養う。
理安 政治の安定。 不肖 愚かな者。 世を継いで理む 世襲によって治める。 理乱 治まると乱れると。 社稷 国家、朝廷。 世大夫 世襲の大夫。 禄邑 俸禄の領地。 封略 封土を略取する。 勢い 成り行き、歴史の必然。
あるひとが言った「夏・商・周・漢は封建の制度によって永く保ち、秦は郡邑制だったために短命に終わった」と。だがこの意見はいわゆる道理というものを知るものではない。魏が漢のあとを受けたとき、侯王を封じ、爵位を建てた。また晋が魏のあとを受けたとき、旧来の制度を改めなかった。その結果魏と晋は次第に衰えて、国家の命運を永らえることができなかった。唐王朝はこの誤りを矯正して変え、二百年になろうとして、大業がいよいよ確固たるものになっている。どうして封建諸侯にかかわりがろうか。
またある人は「殷と周の天子は聖人であった。それなのに封建制度を改めなかった。これはもともと議論すべきことではないのだ」と考えた。この考えも大いに間違っている。そもそも殷と周が封建制度を改めなかったのは、已むをえなかったのである。思うに、諸侯で殷に従ったものが三千あり、その力に頼って夏を追放したので、殷の湯王は封建制を廃止することができなかったのである。また周に従った諸侯は八百あり、これらの力に頼って殷に勝った。周の武王は諸侯の制を変更しなかった。これは封建制度に従っていれば安全であるとして、封建制度がならわしとなったのである。湯王や武王にとってやむを得ないことであった。そのやむを得ないというのは、なにも天下を公共のものとする偉大なことでは無く、諸侯の力を私的に用いようとすることで、諸侯の防衛力を自分の子孫のものにすることである。秦が封建制を郡県制に改めた理由は、その制度が天下を公のものとする大きなものだからである。ただその実は自分本位のものであった。その権威を自分一人のものとすることであった。全て自分によって臣下として養われている者を私物化するものであった。そうして天下を公のものとする端緒は秦から始まったのである。
そもそも天下のあるべきすがたで、政治の安定は人材を得ることである。賢者を上に置き、劣った者を下位に置いてはじめて政治の安定をはかれる。ところが封建制というものは世襲によって民を治めるものである。これではたして上の者が賢者で下の者が劣った者でいられるであろうか、天下が治まるか乱れるかわからないのである。
あるいはまた国家に利益をもたらして人民の耳目を自分一人に集めようとする、そこには代々俸禄の領地を得ている世襲の大夫が居て、これが諸侯の領地を略取し尽くすこともあろう。この時聖人賢者が現れても、天下に立つための基盤が無い。封建制度がそうしてしまうのである。どうして聖人の定めた制度がこのようなことをしてしまうのであろうか。私は以前から言っている「封建制は聖人の意志で選ばれたものでなく、その時の成り行きによるものである」と。
或者又曰、夏商周漢封建而延、秦郡邑而促。尤非所謂知理者也。魏之承漢也、封爵猶建。晉之承魏也、因循不革。而二姓陵替、不聞延祚。今矯而變之、垂二百祀、大業彌固。何繋於諸侯哉。
或者又以爲、殷周聖王也。而不革其制。固不當復議也。是大不然。夫殷周之不革者、是不得已也。蓋以諸侯歸殷者三千焉。資以黜夏。湯不得而廢。歸周者八百焉。資以勝殷。武王不得而易、徇之以爲安、仍之以爲俗。湯武之所不得已也。夫不得已、非公之大者也。私其力於己也。私其衞於子孫也。秦之所以革之者、其爲制公之大者也。其情私也。私其一己之威也。私其盡臣畜於我也。然而公天下之端自秦始。
夫天下之道、理安斯得人者也。使賢者居上、不肖者居下、而後可以理安。今夫封建者、繼世而理。繼世而理者、上果賢乎、下果不肖乎。則生人之理亂未可知也。將欲利其社稷以一其人之視聽、則又有世大夫世食邑、以盡其封畧。聖賢生于其時、亦無以立於天下。封建者爲之也。豈聖人之制使至於是乎。吾固曰、非聖人之意也、勢也。
或者又曰く「夏・商・周・漢は封建にして延び、秦郡邑にして促(せま)る」と。尤も所謂理を知るものに非ざるなり。魏の漢を承(う)くるや、封爵猶建つ。晋の魏を承くるや、因循(いんじゅん)革(あらた)めず。而して二姓陵替(りょうたい)し、祚(そ)を延ぶるを聞かず。今矯(た)めてこれを変じ、二百祀(し)に垂(なんな)んとして、大業弥々(いよいよ)固し。何ぞ諸侯に繋(かか)らんや。
或者又以爲(おも)えらく、殷・周は聖王なり。而もその制を革(あらた)めず。固(もと)より当(まさ)に復た議すべからざるなりと。是れ大いに然らず。夫(そ)れ殷・周の革めざるものは、是れ已むを得ざるなり。蓋(けだ)し諸侯を以って殷に帰するもの三千あり。資(よ)りて以って夏を黜(しりぞ)く。湯(とう)得て廃せず。周に帰するもの八百あり。資りて以って殷に勝つ。武王得て易(か)えず。これに徇(したが)って以って安しと為し、これに仍(よ)りて以って俗と為す。湯・武の已むを得ざる所なり。夫れ已むを得ざるは、公(おおやけ)の大なるものに非ず。その力を己(おのれ)に私(わたくし)するなり。その衛を子孫に私するなり。秦のこれ革むる所以(ゆえん)のものは、その制たる公の大なるものなり。その情は私なり。その一己(いっこ)の威を私するなり。その尽く我に臣畜(しんきく)するを私するなり。然り而うして天下を公にするの端は秦より始まる。
夫れ天下の道、理安はこれ人を得るものなり。賢者をして上(かみ)に居り、不肖者をして下(しも)に居らしめて、而る後に以って理安なるべし。今夫れ封建なるものは、世を継いで理(おさ)む。世を継いで理むるものは、上果して賢ならんや、下果して不肖ならんや。則ち生人の理乱(りらん)未だ知るべからざるなり。将(は)たその社稷を利して以ってその人の視聴を一(いつ)にせんと欲すれば、則ちまた世大夫(せいたいふ)世々に禄邑(ろくゆう)を食(は)みて、以ってその封略(ほうりゃく)を尽くすこと有らん。聖賢その時に生まるとも、亦た以って天下に立つ無し。封建なるものこれを為すなり。豈聖人の制是(ここ)に至らしめんや。吾固より曰く「聖人の意に非ざるなり、勢いなり」と。
商 殷。 因循 旧来の習慣。 革 改革。 二姓 魏と晋。 陵替 次第に衰えること。 祚 天子の位。 祀 年。 繋 つながる。 資 助け。 湯 殷の湯王。 武王 周の武王。 俗 習俗。 衛 防衛力。 一己の威 天子の権威。 臣畜 畜(きく)は養う。
理安 政治の安定。 不肖 愚かな者。 世を継いで理む 世襲によって治める。 理乱 治まると乱れると。 社稷 国家、朝廷。 世大夫 世襲の大夫。 禄邑 俸禄の領地。 封略 封土を略取する。 勢い 成り行き、歴史の必然。
あるひとが言った「夏・商・周・漢は封建の制度によって永く保ち、秦は郡邑制だったために短命に終わった」と。だがこの意見はいわゆる道理というものを知るものではない。魏が漢のあとを受けたとき、侯王を封じ、爵位を建てた。また晋が魏のあとを受けたとき、旧来の制度を改めなかった。その結果魏と晋は次第に衰えて、国家の命運を永らえることができなかった。唐王朝はこの誤りを矯正して変え、二百年になろうとして、大業がいよいよ確固たるものになっている。どうして封建諸侯にかかわりがろうか。
またある人は「殷と周の天子は聖人であった。それなのに封建制度を改めなかった。これはもともと議論すべきことではないのだ」と考えた。この考えも大いに間違っている。そもそも殷と周が封建制度を改めなかったのは、已むをえなかったのである。思うに、諸侯で殷に従ったものが三千あり、その力に頼って夏を追放したので、殷の湯王は封建制を廃止することができなかったのである。また周に従った諸侯は八百あり、これらの力に頼って殷に勝った。周の武王は諸侯の制を変更しなかった。これは封建制度に従っていれば安全であるとして、封建制度がならわしとなったのである。湯王や武王にとってやむを得ないことであった。そのやむを得ないというのは、なにも天下を公共のものとする偉大なことでは無く、諸侯の力を私的に用いようとすることで、諸侯の防衛力を自分の子孫のものにすることである。秦が封建制を郡県制に改めた理由は、その制度が天下を公のものとする大きなものだからである。ただその実は自分本位のものであった。その権威を自分一人のものとすることであった。全て自分によって臣下として養われている者を私物化するものであった。そうして天下を公のものとする端緒は秦から始まったのである。
そもそも天下のあるべきすがたで、政治の安定は人材を得ることである。賢者を上に置き、劣った者を下位に置いてはじめて政治の安定をはかれる。ところが封建制というものは世襲によって民を治めるものである。これではたして上の者が賢者で下の者が劣った者でいられるであろうか、天下が治まるか乱れるかわからないのである。
あるいはまた国家に利益をもたらして人民の耳目を自分一人に集めようとする、そこには代々俸禄の領地を得ている世襲の大夫が居て、これが諸侯の領地を略取し尽くすこともあろう。この時聖人賢者が現れても、天下に立つための基盤が無い。封建制度がそうしてしまうのである。どうして聖人の定めた制度がこのようなことをしてしまうのであろうか。私は以前から言っている「封建制は聖人の意志で選ばれたものでなく、その時の成り行きによるものである」と。