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寡黙堂ひとりごと

詩吟と漢詩・漢文が趣味です。火曜日と木曜日が詩吟の日です花も酒も好きな無口な男です。

唐宋八家文 柳宗元 封建論 七ノ七

2014-06-28 10:03:38 | 唐宋八家文
封建論 七ノ七
或者又曰、夏商周漢封建而延、秦郡邑而促。尤非所謂知理者也。魏之承漢也、封爵猶建。晉之承魏也、因循不革。而二姓陵替、不聞延祚。今矯而變之、垂二百祀、大業彌固。何繋於諸侯哉。
或者又以爲、殷周聖王也。而不革其制。固不當復議也。是大不然。夫殷周之不革者、是不得已也。蓋以諸侯歸殷者三千焉。資以黜夏。湯不得而廢。歸周者八百焉。資以勝殷。武王不得而易、徇之以爲安、仍之以爲俗。湯武之所不得已也。夫不得已、非公之大者也。私其力於己也。私其衞於子孫也。秦之所以革之者、其爲制公之大者也。其情私也。私其一己之威也。私其盡臣畜於我也。然而公天下之端自秦始。
夫天下之道、理安斯得人者也。使賢者居上、不肖者居下、而後可以理安。今夫封建者、繼世而理。繼世而理者、上果賢乎、下果不肖乎。則生人之理亂未可知也。將欲利其社稷以一其人之視聽、則又有世大夫世食邑、以盡其封畧。聖賢生于其時、亦無以立於天下。封建者爲之也。豈聖人之制使至於是乎。吾固曰、非聖人之意也、勢也。

 或者又曰く「夏・商・周・漢は封建にして延び、秦郡邑にして促(せま)る」と。尤も所謂理を知るものに非ざるなり。魏の漢を承(う)くるや、封爵猶建つ。晋の魏を承くるや、因循(いんじゅん)革(あらた)めず。而して二姓陵替(りょうたい)し、祚(そ)を延ぶるを聞かず。今矯(た)めてこれを変じ、二百祀(し)に垂(なんな)んとして、大業弥々(いよいよ)固し。何ぞ諸侯に繋(かか)らんや。
 或者又以爲(おも)えらく、殷・周は聖王なり。而もその制を革(あらた)めず。固(もと)より当(まさ)に復た議すべからざるなりと。是れ大いに然らず。夫(そ)れ殷・周の革めざるものは、是れ已むを得ざるなり。蓋(けだ)し諸侯を以って殷に帰するもの三千あり。資(よ)りて以って夏を黜(しりぞ)く。湯(とう)得て廃せず。周に帰するもの八百あり。資りて以って殷に勝つ。武王得て易(か)えず。これに徇(したが)って以って安しと為し、これに仍(よ)りて以って俗と為す。湯・武の已むを得ざる所なり。夫れ已むを得ざるは、公(おおやけ)の大なるものに非ず。その力を己(おのれ)に私(わたくし)するなり。その衛を子孫に私するなり。秦のこれ革むる所以(ゆえん)のものは、その制たる公の大なるものなり。その情は私なり。その一己(いっこ)の威を私するなり。その尽く我に臣畜(しんきく)するを私するなり。然り而うして天下を公にするの端は秦より始まる。
 夫れ天下の道、理安はこれ人を得るものなり。賢者をして上(かみ)に居り、不肖者をして下(しも)に居らしめて、而る後に以って理安なるべし。今夫れ封建なるものは、世を継いで理(おさ)む。世を継いで理むるものは、上果して賢ならんや、下果して不肖ならんや。則ち生人の理乱(りらん)未だ知るべからざるなり。将(は)たその社稷を利して以ってその人の視聴を一(いつ)にせんと欲すれば、則ちまた世大夫(せいたいふ)世々に禄邑(ろくゆう)を食(は)みて、以ってその封略(ほうりゃく)を尽くすこと有らん。聖賢その時に生まるとも、亦た以って天下に立つ無し。封建なるものこれを為すなり。豈聖人の制是(ここ)に至らしめんや。吾固より曰く「聖人の意に非ざるなり、勢いなり」と。


商 殷。 因循 旧来の習慣。 革 改革。 二姓 魏と晋。 陵替 次第に衰えること。 祚 天子の位。 祀 年。 繋 つながる。 資 助け。 湯 殷の湯王。 武王 周の武王。 俗 習俗。 衛 防衛力。 一己の威 天子の権威。 臣畜 畜(きく)は養う。
理安 政治の安定。 不肖 愚かな者。 世を継いで理む 世襲によって治める。 理乱 治まると乱れると。 社稷 国家、朝廷。 世大夫 世襲の大夫。 禄邑 俸禄の領地。 封略 封土を略取する。 勢い 成り行き、歴史の必然。


あるひとが言った「夏・商・周・漢は封建の制度によって永く保ち、秦は郡邑制だったために短命に終わった」と。だがこの意見はいわゆる道理というものを知るものではない。魏が漢のあとを受けたとき、侯王を封じ、爵位を建てた。また晋が魏のあとを受けたとき、旧来の制度を改めなかった。その結果魏と晋は次第に衰えて、国家の命運を永らえることができなかった。唐王朝はこの誤りを矯正して変え、二百年になろうとして、大業がいよいよ確固たるものになっている。どうして封建諸侯にかかわりがろうか。
 またある人は「殷と周の天子は聖人であった。それなのに封建制度を改めなかった。これはもともと議論すべきことではないのだ」と考えた。この考えも大いに間違っている。そもそも殷と周が封建制度を改めなかったのは、已むをえなかったのである。思うに、諸侯で殷に従ったものが三千あり、その力に頼って夏を追放したので、殷の湯王は封建制を廃止することができなかったのである。また周に従った諸侯は八百あり、これらの力に頼って殷に勝った。周の武王は諸侯の制を変更しなかった。これは封建制度に従っていれば安全であるとして、封建制度がならわしとなったのである。湯王や武王にとってやむを得ないことであった。そのやむを得ないというのは、なにも天下を公共のものとする偉大なことでは無く、諸侯の力を私的に用いようとすることで、諸侯の防衛力を自分の子孫のものにすることである。秦が封建制を郡県制に改めた理由は、その制度が天下を公のものとする大きなものだからである。ただその実は自分本位のものであった。その権威を自分一人のものとすることであった。全て自分によって臣下として養われている者を私物化するものであった。そうして天下を公のものとする端緒は秦から始まったのである。
 そもそも天下のあるべきすがたで、政治の安定は人材を得ることである。賢者を上に置き、劣った者を下位に置いてはじめて政治の安定をはかれる。ところが封建制というものは世襲によって民を治めるものである。これではたして上の者が賢者で下の者が劣った者でいられるであろうか、天下が治まるか乱れるかわからないのである。
あるいはまた国家に利益をもたらして人民の耳目を自分一人に集めようとする、そこには代々俸禄の領地を得ている世襲の大夫が居て、これが諸侯の領地を略取し尽くすこともあろう。この時聖人賢者が現れても、天下に立つための基盤が無い。封建制度がそうしてしまうのである。どうして聖人の定めた制度がこのようなことをしてしまうのであろうか。私は以前から言っている「封建制は聖人の意志で選ばれたものでなく、その時の成り行きによるものである」と。


十八史略 後周の柴栄殂す

2014-06-26 10:25:17 | 十八史略
後周の柴栄殂す
周主在位六年殂。改元者一、曰顯。周主在藩韜晦。及即位、首破高平之冦。人始服其英武。號令嚴明。人莫敢犯。攻城對敵、矢石落左右、略不動容。應機決策、出入意表。又勤於政事、發姦摘伏、聰察如神。暇則召儒者讀史、商□大義。性不好絲竹珍玩之物、常言、朕必不因喜賞人、因怒刑人。文武參用、各盡其能。人畏其明、而懐其惠。故能破敵廣地、所向無前。登遐之日、遠近哀慕。子梁王立。是爲恭帝。       □は手偏に寉。

周主在位六年にして殂す。改元する者(こと)一、顕徳と曰う。周主、藩に在って韜晦(とうかい)す。位に即くに及んで、首として高平の冦(あだ)を破る。人始めて其の英武に服す。号令厳明なり。人敢て犯すこと莫(な)し。城を攻め敵に対し、矢石左右に落つれども略(ほぼ)容(かたち)を動かさず。機に応じ策を決して、人の意表に出ず。又政事に勤め、姦を発(あば)き伏を摘み、聡察、神の如し。間暇(かんか)あれば則ち儒者を召して史を読ましめ、大義を商□(しょうかく)す。性、糸竹珍玩の物を好まず。常に言う「朕は必ず喜びに因って人を賞し、怒りに因って人を刑せず」と。文武参(まじ)え用いて、各々其の能を尽さしむ。人其の明を畏れて、其の恵に懐(なつ)く。故に能く敵を破り地を広め、向かうところ前無し。登遐(とうか)の日、遠近哀慕(あいぼ)す。子の梁王立つ。是を恭帝と為す。 

藩 藩鎮。 韜晦 自分の才知を隠すこと。 高平の冦 北漢と契丹が高平郡に侵入したこと。 姦 悪事。 商かく 商は計り知る、「かく」は比べる。 登遐 崩御。

後周の柴栄は在位六年にして亡くなった。改元すること一度、顕徳といった。柴栄は節度使として藩鎮にあったときは、自分の才能を包みかくしていたが、即位するや、初めに高平郡に侵入した北漢と契丹の軍を撃破したので人々は英知と武勇に敬服した。号令は厳しく明らかで、一人として規律を犯す者はいなかった。攻城戦闘の折には飛び来る矢玉をものともせず、泰然として動じず、臨機応変に策を出し、人の意表をついた。また政事に勤め、悪事をあばき秘事を摘発してその聡明で観察の鋭いことは神業であった。暇があれば儒者を呼んで史書を読ませて根本道理をはかり比べた。生来音楽や珍品玩弄物に。は興味がなかった。常に「朕は喜怒哀楽によって人を賞したり、罰したりはしない」と言っていた。文官、武官を一方に偏ることなく任用し、各々の才能を発揮させた。人々はその聡明なことに畏敬し、その恩恵に懐き従った。それゆえ大敵を破り、領土を広げ、向こう所敵なしの功績を遺したのである。崩御の日、遠い者も近い者も哀しみ慕った。
子の梁王が即位した。これを恭帝という。


唐宋八家文 柳宗元 封建論 七ノ六

2014-06-24 09:12:26 | 唐宋八家文
封建論 七ノ六
 漢興、天子之政、行於郡不行於國。制其守宰、不制其侯王。侯王雖亂、不可變也。國人雖病、不可除也。及夫大逆不道、然後掩捕而遷之、勒兵而夷之耳。大逆未彰、姦利浚財、怙勢作威、大刻於民者、無如之何。
及夫郡邑、可謂理且安矣。何以言之。且漢知孟舒於田叔、得魏尚於馮唐、聞黄覇之明審、覩汲汲黯之簡靖、拜之可也、復其位可也。臥而委之、以輯一方可也。有罪得以黜、有能得以賞、朝拜而不道、夕斥之矣、夕受而不法、朝斥之矣。設使漢室盡城邑而侯王之、縱令其亂人、戚之而已。孟舒魏尚之術莫得而施、黄覇汲黯之化莫得而行。明譴而導之、拜受而退已違矣。下令而削之、締交合從之謀、周於同列。則相顧裂眦、勃然而起。幸而不起、則削其半。削其半、民猶瘁矣。曷若擧而移之以全其人乎。漢事然也。今國家盡制郡邑、連置守宰。其不可變也固矣。善制兵、謹擇守、則理平矣。

 漢興るや、天子の政(まつりごと)郡に行われ、国に行われず。その守宰を制して、その侯王を制せず。侯王乱ると雖も変うべからざるなり。国人病むと雖も、除くべからざるあり。夫(か)の大逆不道なるに及んで、然る後に掩捕(えんぽ)してこれを遷(うつ)し、兵を勒(ろく)してこれを夷(たいら)ぐのみ。大逆未だ彰(あらわ)れず、利を姦(よこしま)にして財を浚(ふか)くし、勢いを怙(たの)んで威を作(な)し、大いに民に刻なる者は、これを如何ともする無し。夫の郡邑に及んでは、理(おさ)まり且つ安しと謂うべし。何を以ってこれを言うや。且つ漢は孟舒(もうじょ)を田叔に知り、魏尚(ぎしょう)を馮唐(ふうとう)に得、黄覇(こうは)の明審なるを聞き、汲黯(きゅうあん)の簡靖(かんせい)なるを覩(み)て、これを拝するは可なり、その位を復するも可なり。臥してこれに委ね、以って一方を輯(おさ)むるは可なり。罪有らば以って黜(しりぞ)くるを得、能有らば以って賞するを得、朝(あした)に拝して道ならずんば、夕(ゆうべ)にこれを斥(しりぞ)け、夕に受けて法あらずんば、朝にこれを斥く。
 設(も)し漢室をして城邑を尽してこれに侯王たらしめば、縦(ほしいまま)にそれをして人を乱さしめて、これを戚(いた)まんのみ。孟舒魏尚の術も得て施す莫(な)く、黄覇・汲黯の化も得て行なう莫し。明譴してこれを導くも、拝受して退けば已に違(たが)う。令を下してこれを削れば、締交合従(ていこうがっしょう)の謀、同列に周(あまね)し。則ち相顧みて眦(まなじり)を裂き、勃然として起つ。幸いにして起たずんば、則ちその半ばを削る。その半ばを削れば、民猶(なお) 瘁(つか)る。曷(なん)ぞ挙げてこれを移して以ってその人を全うするに若(し)かんや。漢の事然るなり。今国家尽く郡邑を制して、守宰を連置(れんち)す。それ変(か)うべからざるや固(もと)よりなり。善く兵を制し、謹んで守を択ばば、則ち理平らかならん。


大逆不道 道義にもとる非道。 掩捕 襲い捕える。 勒し 率いる。 刻 酷におなじ。 孟舒を田叔に・・漢の文帝に田叔が孟舒を推薦した。 魏尚を馮唐に得 同じく文帝が魏尚を左遷したとき馮唐が諌めて止めたこと。 黄覇の明審なるを・・ 漢の宣帝が黄覇が天下第一の太守であると聞き関内侯に拝したこと。 汲黯の簡靖なるを覩て・・漢の武帝が汲黯のおおらかで清潔な性格を見抜き、治めにくい淮陽の太守に任命したこと。 一方を輯む 一地方を治める。 黜 しりぞける。 戚 悲しむ。 明譴 非を明らかにして譴責する。 締交合従 共謀する。 勃然 急に起きる。 瘁 疲れる。 連置 連ねて配置する。

 漢が興ると天子の政治は郡県に行われて、侯国には行われなかった。天子は郡守・県令は支配したが、侯王を支配することはできなかった。侯王がその国を乱してもその侯王を代えることができなかった。その国の民が苦しんでいても、その苦しみを除くことができなかった。その侯王が道義にもとる非道をしてはじめてこれを襲い捕えて左遷し、兵を率いてこれを平定しただけである。大逆が露見せず、私欲をもって蓄財に走り、権勢を恃んで人民を脅かして苛酷な政治を行う者には、どうにも致し方なかったのである。
 ところが郡、県にいたってはよく治まって平安であった。何を根拠にそう言えるかといえば、漢では孟舒を田叔の推薦で知り、魏尚を馮唐の諫言によって得、黄覇の有能を聞き、汲黯のおおらかさを見て、これらを任用したり、官位を元に戻した。安心して政治を委ね、地方を治めることができた。罪があれば追放し、才能が秀でていればこれを賞賛し、朝に任命しても義にもとることがあれば夕べにこれを罷免し、夕べに任命して法にそむけば翌朝にもこれを退けることができたのである。
 もし漢の朝廷が城市から村里にいたるまで侯王を封じたならば、自由気ままに人民を苦しませ悲しませただけであろう。孟舒、魏尚の政策も施すことができず、黄覇、汲黯の教化も実施する地方がなかったであろう。ときに侯王の罪を明らかにして責め導くとも、拝受して国に戻ればすぐに命令にそむく、令を下して領地を削れば、諸王と共謀して反抗することが列侯にゆきわたる。彼らはまなじりを裂き、いきなり反乱を起こす。幸い反乱を未然に防げたとして、領地を半分にしても人民の苦しみ疲弊は変わらない。むしろ領地を全部召し上げて領主を他へ移して領民の安全を図るほうが良いのだ。漢の事跡はこのようであった。今、唐の国家は全て郡県を制度として知事長官を連ね置いている。この制度を変更できないのは当然である。この制度のもとに兵権を統制し、慎重に長官を選び任用するならば、政治は安定するだろう。


十八史略 周、版図を広げる

2014-06-24 08:57:21 | 十八史略
朗州王逵、爲潘叔嗣所殺。將吏迎潭州周行逢入朗。行逢併潭・朗有之。
南漢主劉晟殂。子立。
周主自將伐契丹、取瀛・莫・易州。離京四十二日、而關南悉平。議趨幽州。會不豫而止。以瓦橋關爲雄州、津關爲霸州、置戍而還。往還六十日。
趙匡胤、先是爲殿前都指揮使、從攻淮南、又從征契丹。至是爲殿前都點檢。

朗州の王逵(おうき)、潘叔嗣(はんしゅくし)の殺す所と為る。将吏潭州(たんしゅう)の周行逢を迎えて朗州に入らしむ。行逢、潭・朗を併せて之を有(たも)つ。
南漢主劉晟(りゅうせい)殂(そ)す。子の(ちょう)立つ。
周主自ら将として契丹を伐ち、瀛(えい)・莫・易州を取る。京(けい)を離るること四十二日にして、関南悉(ことごと)く平ぐ。幽州に趨(おもむ)かんと議す。不予(ふよ)に会いて止む。瓦橋関を以って雄州と為し、益津関を以って霸州(はしゅう)と為し、戍(じゅ)を置いて還る。往還六十日なり。
趙匡胤、是より先、殿前都指揮使と為り、従って淮南(わいなん)を攻め、又従って契丹を征す。是に至って殿前都点検(でんぜんとてんけん)と為る。


不予 予はたのしむこと、病気。 戍 守備の兵。 殿前都指揮使・殿前都点検 近衛武官、侍従武官にあたる。殿前都虞侯→殿前副都指揮使→殿前都指揮使→殿前都点検

朗州の王逵が、家臣の潘叔嗣に殺された。そこで将校、官吏が相談して潭州の周行逢を迎えて朗州節度使とした。周行逢は潘叔嗣を殺して潭・朗二州を併せて所領とした。
南漢主の劉晟が死んで子のが立った。
周主は自ら大将となって契丹を征伐し、瀛州・莫州・易州を手に入れた。大梁を離れて四十九日で、瓦橋関以南の地がことごとく平定した。さらに幽州を攻め取ろうと評議したが、病を発して中止した。瓦橋関を雄州とし、益津関を覇州とし、守備兵を置いて還った。往復六十日であった。
趙匡胤はこれより前、殿前都指揮使となっていたが、周主に従って淮南を攻め、また北征に従い契丹を討って功績を挙げ、殿前都点検に昇進した。


唐宋八家文 柳宗元 封建論 七ノ五

2014-06-19 09:03:52 | 唐宋八家文
封建論 七ノ五
 或者曰、封建者必私其士、子其人、適其俗、修其理。施化易也。守宰者苟其心思遷其秩而已。何能理乎。余又非之。周之事跡斷可見矣。列侯驕盈、黷貨事戎。大凡亂國多、理國寡。侯伯不得變其政、天子不得變其君。私士子人者、百不有一。失在於制、不在於政。周事然也。
 秦之事跡亦斷可見矣。有理人之制、而不委郡邑是矣。有理人之臣、而不使守宰是矣。郡邑不得正其制、守宰不得行其理。酷刑苦役、而萬人側目。失在於政、不在於制。秦事然也。

或る者曰く「封建は必ずその土(ど)を私(わたくし)し、その人を子とし、その俗に適(かな)いその理を修む。化を施すこと易(やす)きなり。守宰は苟(いやし)くもその心にその秩(ちつ)を遷(うつ)さんと思うのみ。何ぞ能く理(おさ)めんや」と。
余またこれを非とす。周の事跡断じて見るべし。列侯驕盈(きょうえい)、貨を黷(けが)し、戎(じゅう)を事とす。大凡(おおよそ)乱国多くして、理国寡(すくな)し。侯伯その政(まつりごと)を変うるを得ず、天子その君を変うるを得ず。土を私し、人を子とする者、百に一有らず。失は制に在りて、政に在らず。周の事然るなり。
 秦の事跡も亦た断じて見るべし。人を理むるの制有りて、郡邑に委ねざること是なり。人を理むるの臣有りて、守宰を使わざること是なり。郡邑その制を正すを得ず、守宰その理を行うを得ず。酷刑苦役して、万人目を側(そば)だつ。失は政に在りて、制に在らず。秦の事然るなり。


土 領土。 化 教化。 秩 官位。 驕盈 増長する。 貨を黷し 財貨を浪費すること。 戎 戦争。 

 ある人が言った「封建によって立てられた諸侯は必ずその領土を私有物として守り、その領民は我が子の如く慈しみ、習俗にかなった政治につとめる。だから教化しやすいのである。だが郡県における太守や知事は分不相応にもその官位の上がることばかりを考えている。どうしてよく治めることができようか」と。
 私はこれを否定する。周の事跡によって明らかである。列国の諸侯は増長して財貨を浪費し戦争を仕事にしていた。およそ乱れた国が多くて、きちっと治まっている国は少ないありさまだ。侯爵・伯爵の大諸侯は政治を改めることができず、天子は諸侯を代えることができなかった。領土を守り、領民を慈しむ者は百に一つもなかった。その失敗の原因は封建制にあって、政治にあったのではないのだ。周の事跡はこの通りである。
 秦の事跡もまたはっきりと見てとれる。人民を治める制度はあったのに、郡県に委ねなかったのがそれである。人民を治める臣はいたのに郡の太守と県の知事を働かせなかったのがそれである。郡県はその制度を正しく運用することができず、郡の太守や県の知事はその政治を行うことができなかった。苛酷な刑罰と苦しい労役に人民は皆目を剥いて怨んだ。この失敗は政治にあって、制度にあったのではない。秦の事跡はこの通りである。