寡黙堂ひとりごと

詩吟と漢詩・漢文が趣味です。火曜日と木曜日が詩吟の日です花も酒も好きな無口な男です。

十八史略 韓信と漂母

2009-10-31 09:03:45 | Weblog
韓信と漂母
漢元年、五星聚東井。
初淮陰韓信、家貧釣城下。有漂母。見信饑飯信。信曰、吾必厚報母。母怒曰大丈夫不能自食、吾哀王孫而進食。豈望報乎。
漢の元年、五星東井(とうせい)に聚(あつま)る。
初め淮陰(わいいん)の韓信、家貧しうして城下に釣す。漂母(ひょうぼ)あり。信の饑えたるを見て信に飯せしむ。信曰く、吾必ず厚く母(ぼ)に報いん、と。母怒って曰く、大丈夫自ら食うこと能わず。吾王孫を哀れんで食を進む。豈報を望まんや、と。

漢の元年に五惑星が東井の星座にあつまり漢の興る兆しがあらわれた。
それより以前、淮陰(わいいん)の韓信は家が貧しく城下で釣りをして、生活をしていた。たまたま布をさらしていた老婆がいたが、韓信のひもじそうな様子を見て、飯を与えた。韓信が「私が出世したらきっと恩返しをさせてもらいますよ」と言った。すると老婆はむっとして「大の男が、ろくに飯も食わずにいるから、見かねて食事をあげただけだよ、お礼などどうしてあてにするものかね」と言った。

五星 木星(歳星) 火星(熒惑) 土星(鎮星) 金星(太白) 水星(辰星)の五惑星。
東井 井は二十八宿の星座の一、方位は南に当たるのになぜ東がついているか不明。 漂母 川で布を晒している女性
韓信 蕭何、張良とともに漢の三傑。
王孫 本来は王侯の子孫、あえて尊称をつけたのは皮肉か。

巴蜀も亦関中の地なり

2009-10-29 08:39:32 | Weblog
項羽は使いを懐王のもとに遣わして関中平定を復命させた。すると懐王は「最初の約束通りせよ」つまり沛公を関中の王とせよ、と言った。項羽は怒って「懐王はわが家でもり立ててやったのだ、べつに功績があった訳でないのに、どうして先の約束を通そうとするのか」と言った。そして、ことさら尊敬をした振りをして、義帝として江南の郴(ちん)に移して都とし、天下を分けて諸将を王に封じ、自ら立って西楚の覇王と名乗った。そこで巴・蜀も関中に違いない、と言って、沛公を漢王とし、巴・蜀・漢中の王とした。その上本来の関中は三分して秦の降将三人を王として、漢の路を妨げた。沛公(漢王)は怒って、項羽を攻めようとしたが、蕭何が諌めて言うには「どうか大王には、漢中に王として、民を養い、賢人を招いて、巴・蜀を完全に掌握して、その上で関中に戻って三秦を平定すれば、天下を奪うこともできます。漢王(沛公)は巴・蜀に赴き、蕭何を宰相に登用した。

十八史略 項羽西楚の覇王となる

2009-10-27 09:20:04 | Weblog
巴・蜀も亦關中の地なり
羽使人致命懐王。王曰、如約。羽怒曰、懐王吾家所立耳。非有功伐。何得專主約。乃陽尊爲義帝、徙江南、都郴、分天下王諸將、羽自立爲西楚覇王。乃曰、巴蜀亦關中地。立沛公爲漢王、王巴・蜀・關中、而三分關中、王秦降將三人、以距塞漢路。漢王怒欲攻羽。蕭何諌曰、願大王、王漢中、養其民、以致賢人、収用巴・蜀、還定三秦。天下可圖也。王乃就國、以何爲丞相。

羽(う)、人をして命(めい)を懐王に致さしむ。王曰く、約の如くせよ、と。羽怒(いか)って曰く、懐王は吾が家の立つる所のみ。功伐(こうばつ)有るに非ず。何ぞ専(もっぱ)ら約を主とするを得ん、と。乃(すなわ)ち陽(あらわ)に尊(たっと)んで義帝と為し、江南に徒(うつ)して郴(ちん)に都(みやこ)せしめ、天下を分(わか)って諸将を王とし、羽は自立して西楚(せいそ)の覇王と為る。乃(すなわ)ち曰く、巴(は)蜀(しょく)も亦(また)関中の地なり、と。沛公を立てて漢王と為し、巴・蜀・関中に王たらしめ、而(しか)して関中を三分(さんぶん)して、秦の降将(こうしょう)三人を王とし、以て漢の路を距塞(きょそく)す。漢王怒って羽を攻めんと欲す。蕭何(しょうか)諌(いさ)めて曰く、願わくは大王、関中に王として、其の民を養い、以て賢人を致し、巴・蜀を収用し、還(かえ)って三秦を定めよ。天下図る可(べ)きなり、と。王乃(すなわ)ち国に就(つ)き、何(か)を以て丞相(じょうしょう)と為(な)せり

十八史略 沐猴にして冠す

2009-10-24 09:01:59 | Weblog
居ること数日で、項羽は兵を率いて西に進み、咸陽に攻め入って殺戮を行い、先に降伏した子嬰を殺して、秦の宮殿に火を放った。その火は三ヶ月も続いた。次に始皇帝の墓をあばいて、宝物、財貨を奪い、婦女を略奪して東に引きあげたので、秦の民は大いに失望した。韓生という者が、項羽に説いて言うには「関中は山によって隔てられ、河がその中を流れ、四方が塞って守り易く、農地はよく肥えています。ここを都として覇王になられるのが一番です」と。項羽は秦の宮殿の跡のありさまを見て、その気になれずそのうえ故郷に帰りたくなり、こう言った「富貴になって故郷に帰らないのは錦を着て夜出歩くようなものだ」と。韓生はある人に「楚人は猿が冠をつけているようなものだ、と世間では言っているが、全くその通りだ」と話した。項羽はこれを伝え聞いて韓生を煮殺した。

十八史略 沐猴にして冠す

2009-10-22 09:10:48 | Weblog
沐猴にして冠す
居數日、羽引兵西、屠咸陽、殺降王子嬰、焼秦宮室。火三月不絶。掘始皇冢、収寳貨・婦女而東。秦民大失望。韓生説羽。關中阻山帶河、四塞之地肥饒。可都以覇。羽見秦殘破、且思東歸。曰、富貴不歸故郷、如衣繍夜行耳。韓生曰、人言、楚人沐猴而冠。果然。羽聞之烹韓生。

居(お)ること数日、羽、兵を引いて西し咸陽を屠(ほふ)り、降王子嬰(しえい)を殺し、秦の宮室を焼く。火三月(さんげつ)絶えず。始皇の冢(ちょう)を掘り。宝貨・婦女を収めて東す。秦の民大いに望みを失う。韓生(かんせい)、羽に説く。関中は山を阻(へだ)て河を帯び、四塞(しそく)の地にして肥饒(ひじょう)なり。都(みやこ)して以て覇たる可(べ)しと。羽、秦の残破(ざんぱ)せるを見、且つ東帰(とうき)を思う。曰く、富貴にして故郷に帰らざるは、繍(しゅう)を衣(き)て夜行くが如きのみ、と。韓生曰く、人言う、楚人(そひと)は沐猴(もくこう)にして冠すと。果して然(しか)り、と。羽、之を聞いて韓生を烹(に)る。