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寡黙堂ひとりごと

詩吟と漢詩・漢文が趣味です。火曜日と木曜日が詩吟の日です花も酒も好きな無口な男です。

十八史略

2009-09-29 17:02:48 | Weblog
項羽率諸侯兵、欲西入關。或説沛公守關門。羽至。門閉。大怒、攻破之、進至戲、期旦撃沛公。羽兵四十萬、號百萬。在鴻門。沛公兵十萬、在覇上。范説羽曰、沛公居山東、貪財好色。今入關、財物無所取、婦女無所幸。此其志不在小。吾令入望其氣、皆爲龍成五采。此天子氣也。急撃勿失。

項羽、諸侯の兵を率い、西のかた関に入らんと欲す。或る人沛公に説いて関門を守らしむ。羽至る。門閉づ。大いに怒り、攻めて之を破り、進んで戲に至り、旦(あした)に沛公を撃たんと期す。羽の兵は四十万、百万と号す。鴻門に在り。沛公の兵は十万、覇上に在り。范、羽に説いて曰く、沛公、山東に居りしとき、財を貪り色を好めり。今関に入り、財物取る所無く、婦女幸する所無し。此れ其の志、小に在らず。吾人をしてその気を望ましむるに、皆龍と為り五采を成す。此れ天子の気なり。急に撃って失うこと勿かれ、と。

項羽は諸侯の兵を率いて、西のかた函谷関に入ろうとした。するとある人が沛公に説いて関門を閉じて守らせた。項羽が到着すると、関門が堅く閉ざされていたので項羽は激怒して関を攻め破り、進軍して戲水のほとりに至り明朝にも沛公を撃とうとした。項羽の兵は実数で四十万、百万の大軍と称して鴻門に陣を布いた。一方沛公の兵は十万、覇上に布陣した。項羽に范が説いて言うには、「沛公、山東に居た時は財宝をむさぼり、女色を好んだ。ところが関中に入ったとたん財物は取らないし、女性は近づけない。少なからず天下を狙う意志があると観じられる。私が部下に雲気を窺わせると、皆龍の形と五色に色どられていたとの報告でありました。これは天子の気に違いありません。迂闊に攻めて取り逃がしてはなりません」と。

十八史略 法三章のみ

2009-09-26 09:20:40 | Weblog
白文
楚懐王遣沛公。破秦入關、降秦王子嬰。秦既定、還軍覇上。悉召諸縣父老・豪傑、謂曰、父老苦秦苛法久矣。吾與諸侯約、先入關中者王之。吾當王關中。與父老約、法三章耳。殺人者死。傷人及盗抵罪。餘悉除去秦苛法。秦民大喜。

訓読文
楚の懐王、沛公を遣わす。秦を破って関に入り、秦王子嬰を降す。既に秦を定め、還って覇上に軍す。悉く諸県の父老・豪傑を召し、いって曰く、父老、秦の苛法に苦しむこと久し。吾、諸侯と約す、先ず関中に入る者は之に王たらんと。吾当(まさ)に関中に王たるべし。父老と約す、法は三章のみ。人を殺す者は死せん。人を傷つけ盗するものは罪に抵(いた)さん。余は悉く秦の苛法を除き去らん、と。秦の民大いに喜ぶ。

通釈
楚の懐王は、沛公(劉季)を秦に遣わした。沛公は秦を破って関中に入り、子嬰を降伏させた。既に秦を平定して、退いて覇上に陣し、そこで諸県の長老・豪傑を集めて、考えを言うには「長老の諸君、久しく秦の苛法に苦しんだが、自分が秦を攻めるにあたって、諸侯と約束した。先に関中に入った者がその地の王になるべきであると。だから自分がこの関中の王となるのは当然である。ついては諸君と約束する、法は三章のみ。人を殺した者は死刑に処す、人を傷つけた者、また、盗みをした者は、それぞれ罪にあてて罰する、そのほかはすべて除き去る」と。秦の民はおおいに喜んだ。

謂って曰く 方針を発表する
覇上 陜西省にある、覇水のほとり

十八史略 劉季兵を沛に起こす

2009-09-24 14:40:26 | Weblog
彼岸過ぎての麦の肥
土用過ぎての稲の肥
三十過ぎての男に意見
以上はやっても無駄なことの喩えだ。これは墓参りに行った際お寺で渡された円覚という小冊子の足立大進師の記事にあった。冊子はつづけて、子供時代の教育に及ぶ。時機を失しては何もならないということです。
では前回の通釈です、白文、訓読文と併せてご覧ください。
 劉季は、県の為に囚人を驪山へ護送した。ところが囚人は多く途中から逃げ出した。驪山に着くころには居なくなってしまうだろうと推察した劉季は豊の西に着いたとき、とどまって酒を飲んでいた。夜になって囚人を解き放って、「お前達どこへでも行け、おれもここからゆく」と言った。その時若い囚人の中で、手下になりたいと十人ほどが申し出た。劉季は酒を飲んで、夜沼地を通ると大蛇が横たわっていた。季は剣を抜いてこれを斬った。後れて来た者がそこに来ると老婆が泣きわめいて、「私の子は白帝の子だがたった今赤帝の子に斬り殺されてしまった」と言ったかと思うと老婆の姿は忽ちみえなくなってしまった。後れて来た者が劉季にこのことを告げると心中喜び、いよいよ自信をつけた。大勢の手下達は益々敬い畏れた。陳勝が挙兵すると、劉季もまた兵を沛に起こし、諸侯に応じた。そのとき用いた旗指物はすべて赤であった。

驪山 始皇帝の陵墓の造営場所で多くの囚人を徴用した。
白帝 暗に秦の皇帝を示す。 赤帝 劉季になぞらえる
わが国の月田蒙斎の詩、「暁に発す」に 忽ち驚く大蛇の路に当たって横たわるを
剣を抜いて斬らんと欲すれば老松の影 というのがある。

十八史略 劉季兵を沛に起こす。

2009-09-22 16:57:35 | Weblog
劉季爲縣送徒驪山。徒多道亡。自度、比至盡亡之。到豐西止飮。夜乃解縦所送徒曰、公等皆去。吾亦從此逝矣。途中壯士、願從者十餘人。季被酒、夜徑澤中。有大蛇當徑。季抜劍斬之。後人來、至蛇所。有老嫗。哭曰、吾子白帝子也。今者赤帝子斬之。因忽不見。後人告劉季心獨喜自負。諸從者日畏之。陳勝起、劉季亦起兵於沛、以應諸侯。旗幟皆赤。

劉季県の為に徒(と)を驪山(りざん)に送る。徒多く道より亡(に)ぐ。自ら度(はか)るに、至る比(ころ)には尽く之を亡(うしな)わんと。豊西に到り止まり飲む。夜乃ち送る所の徒を解き縦(はな)って曰く、公等皆去れ。吾も亦此(これ)より逝(ゆ)かん、と。徒中の壮士、従わんと願う者十余人あり。季、酒を被(こうむ)って、夜澤中を徑(わた)る。大蛇有って徑に当る。季剣を抜いて之を斬る。後るる人来たり、蛇の所に至る。老嫗有り、哭して曰く、吾が子は白帝の子なり。今者(いま)赤帝の子、之を斬る、と。因(よ)って忽ち見えず。後るる人、劉季に告ぐ。劉季、心に独り喜んで自負す。諸々の従う者、日に益々之を畏(おそ)る。陳勝の起こるや、劉季も亦兵を沛に起こして、以て諸侯に応ず。旗幟(きし)皆赤し。



十八史略 劉氏の冠

2009-09-19 08:50:01 | Weblog
劉氏の冠
秦始皇嘗曰、東南有天子氣。於是東遊以厭當之。劉季隱於芒・碭山澤。呂氏與人倶求、常得之。劉季怪問之。呂氏曰、季所居上有雲氣。故從往、常得季。劉季喜。沛中子弟聞之、多欲附者。爲亭長時、以竹皮爲冠、及貴常冠。所謂劉氏冠也。

秦の始皇嘗て曰く、東南に天子の気有り、と。是に於いて東遊して以て厭当(おうとう)す。劉季、芒・碭(ぼう・とう)山澤の間に隠る。呂氏、人と倶に求めて、常に之を得たり。劉季、怪しみて之を問う。呂氏の曰く、季が居る所の上に雲気有り。故に従い往きて、常に季を得たり、と。劉季喜ぶ。沛中の子弟之を聞いて、附かんと欲する者多し。亭長たりし時、竹皮を以て冠と為ししが、貴きに及んでも常に冠せり。所謂(いわゆる)劉氏の冠なり。

秦の始皇帝がある時、東南に天子の興る気を感じる、と言った。東方に行ってこの禍根を絶とうと捜したが、劉季は、芒・碭の山や沼地に潜んで難を逃れた。
劉季の妻、呂氏は人と一緒に探して、いつも探し当てた。季が不思議に思って尋ねると、「あなたの居る上の辺りには常に雲気が漂っております、そこを捜せば良いのです」と答えた。劉季はこれを聞いて喜んだ。市中の若者たちも伝え聞いて、配下になろうとする者が多かった。泗上の亭長をしていた時、竹の皮で作った粗末な冠をかむっていたが、貴い身分になってからも、常に冠していた。世に言う劉氏の冠である。

厭当 押さえつけて防ぐこと