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寡黙堂ひとりごと

詩吟と漢詩・漢文が趣味です。火曜日と木曜日が詩吟の日です花も酒も好きな無口な男です。

十八史略 真宗崩ず。

2015-03-03 10:00:00 | 十八史略
當旦之世、王欽若已相。欽若罷、冦準再入相。參政丁謂、事準甚謹。嘗會食、羹汚準鬚。謂起拂之。準笑曰、參政國大臣。乃爲官長拂鬚邪。謂甚愧恨。準罷、李迪・丁謂爲相。準遠貶、迪罷、謂獨相。時上已有疾、昏眩。如準罷貶、皆謂白中宮行之、上不知矣。尋崩。年五十五。在位改元者五、曰咸平・景、曰大中祥符、曰天禧・乾興。太子立。是爲仁宗皇帝。

旦の世に当って、王欽若已に相たり。欽若罷め、冦準再び入って相たり。参政丁謂(ていい)、準に事(つか)えて甚だ謹む。嘗て会食せしとき、羹(あつもの)、準の鬚(ひげ)を汚す。謂、起(た)って之を払う。準、笑って曰く「参政は国の大臣なり。乃ち官長の為に鬚を払うや」と。謂、甚だ愧恨(きこん)す。準罷めさせられ、李迪(りてき)・丁謂、相と為る。準、遠く貶(へん)せられ、迪罷めさせられ、謂独り相たり。時に上、已に疾(やまい)有り、昏眩(こんげん)す。準の罷め、貶せられし如き、皆謂、中宮(ちゅうきゅう)に白(もう)して之を行い、上は知らざるなり。尋(つ)いで崩ず。年五十五。位に在って改元する者(こと)五、咸平(かんぺい)・景と曰い、大中祥符と曰い、天禧(てんき)・乾興と曰う。太子立つ。是を仁宗皇帝と為す。

羹 熱い飲み物。 愧恨 恥じ恨む。 昏眩 めまい。 中宮 皇后。 

王旦の在世中に、王欽若は宰相になっていた。欽若が罷免されると、冦準が再び朝廷に入って宰相になった。参政の丁謂は恭しく冦準に仕えていた。ある時、会食中に冦準が吸い物の汁で自分の鬚を汚した。丁謂はすぐさま席を起って冦準の鬚を拭き取った。冦準は苦笑しながら「参政は国の大臣である。上官の為に鬚まで払うには及ぶまい」と戒めた。丁謂は甚だこれを恥じ、ひどく恨んだ。
冦準が罷免されると、李迪と丁謂が宰相になった。やがて冦準が遠く(雷州の司戸に)おとされて行き、李迪も宰相を罷免されて丁謂独りが宰相の座にあった。そのころ真宗は病に冒され、めまいに悩まされていた。冦準の罷免も配流も丁謂が皇后に取り入って決めた事で、帝は何も知らなかった。ほどなく真宗は崩御された。五十五歳、在位中改元すること五回で咸平・景・大中祥符・天禧・乾興である。
皇太子が即位した。これが仁宗皇帝である。


十八史略 正を以って自ら終る能わざりき

2015-02-26 10:00:00 | 十八史略
毎有大禮、旦輒以首相奉天書以行。常悒悒不樂。欲去則上遇之厚。乃薨于位、遺令削髪披緇以斂。議者謂、旦得君而不能以正自終。或比之馮道云。張詠嘗言、吾榜中得人最多。謹重有望。無如李文、深沉才、鎭服天下、無如王公、面折廷爭、素有風采、無如冦公。當方面之寄、則詠不敢辭。

大礼有る毎に旦、輒(すなわち)首相なるを以って天書を奉じて以って行く。常に悒悒(ゆうゆう)として楽しまず。去らんと欲すれば則ち上(しょう)之を遇すること厚し。位に薨(こう)ずるに及んで、遺令すらく「髪を削り緇(し)を披(き)せて以って斂(れん)せよ」と。議者謂う「旦、君を得たれども、正を以って自ら終る能わざりき」と。或いは之を馮道に比すと云う。張詠嘗て言う「吾が榜中人を得ること最も多し。謹重にして徳望有るは、李文靖に如(し)くは無く、深沉(しんちん)才徳有って、天下を鎮(しづ)め服するは、王公に如くは無く、面折廷争して、素(もと)より風采あるは、冦公に如くは無し。方面の寄に当っては、則ち詠、敢て辞せず」と。

大礼、 重大な儀式。 首相 宰相の首席。 天書 王欽若が偽って天より降ったとした紙。 悒悒 憂うるさま。 薨 貴人の死。緇 墨染の衣。斂 納棺。 議者 評論家。 馮道 後唐・後晋・後漢・後周の各朝で宰相となったが節操が無いと評された。 榜 進士及第者の掲示板。 深沉 深沈。 寄 寄託。

国家の重大な儀式のある毎に、王旦は宰相の首席であるということで天書なるものを奉じなければならず、いつも憂欝で官職を辞めようと思うと、帝が益々王旦を厚遇した。宰相の座にあるままに死を迎え遺言して「髪を剃って墨染めを着せて葬るように」と命じた。ある評論家は「王旦は君主の信任を得たけれど、正道を主張して自らを全うすることができなかった」と言った。また或る人は王旦を馮道になぞらえた。張詠が嘗て「私と同期の進士及第者の中には立派な人物が多いが、謹厳重厚で徳が高く人望のある点で李文靖に及ぶ者は無く、沈着で才能と人徳があり、天下を鎮め服すことができるのは王旦に及ぶ者は無い。君主の面前で過ちを糾し朝廷でも堂々と諌め争うことができる点で冦準に及ぶ者は居ない。もし、一方面を鎮撫せよとの寄託を受けたなら、自分とて敢て辞退はしない。

十八史略 李の予見

2015-02-21 10:00:00 | 十八史略
上、在位二十六年。自元年呂端罷後、張齊賢・李・呂蒙正・向敏中・畢土安・冦準・王旦相繼爲相。惟旦居位十一年。當李爲相時、旦甫參政。喜讀論語。嘗曰、爲宰相、如論語中節用而愛人、使民以時兩句、尚不能行。聖人之言、終身誦之可也。日取四方水旱・盗賊奏之。旦謂、細事、不足煩上聽。曰、人主少年、當使知人疾苦。不然、血氣方剛、不留意聲色・犬馬、則土木・甲兵・禱祠之事作矣。吾老、不及見。此參政他日之憂也。及大中符、封禪・祠祀・土木竝興。旦乃歎曰、李文眞聖人也。

上、在位二十六年。元年、呂端(りょたん)罷められてより後、張齊賢・李(りこう)・呂蒙正(りょもうせい)・向敏中(しょうびんちゅう)・畢士安(ひつしあん)・冦準・王旦相継いで相と為る。惟(ひと)り旦、位に居ること十一年。李の相たりし時に当って旦、甫(はじめ)て参政たり。、喜んで論語を読む。嘗て曰く「宰相と為って論語中の『用を節して人を愛し、民を使うに時を以ってす』の両句の如き、尚行う能わず。聖人の言は、終身之を誦して可なり」と。、日々に四方の水旱・盗賊を取って之を奏す。旦曰く「細事なり、上(しょう)聴を煩わすに足らず」と。曰く「人主少年なり、当(まさ)に人間(じんかん)の疾苦を知らしむべし。然らざれば血気方(まさ)に剛なり、意を声色・犬馬に留めずんば、則ち土木・甲兵・禱祠(とうし)の事作(おこ)らん。吾老いたり、見るに及ばじ。此れ参政他日の憂いならん」と。大中祥符に及んで、封禪・祠祀(しし)・土木竝(なら)び興る。旦、乃ち歎じて曰く「李文靖は真の聖人なり」と。

李 字は太初、文靖と諡された。 参政 参知政事、副宰相。 用を節して 費用を節約する。 民を使うに時を以ってす 人民を賦役に使うときは耕作の妨げにならぬようにする。 人主 君主。 人間 世間。 声色 音楽と女色。 犬馬 狩猟用の犬馬。 祷祠 神仏にいのりまつること。

真帝の在位は二十六年であった。即位の元年に呂端が罷免されて後、張齊賢・李・呂蒙正・向敏中・畢士安・冦準・王旦と相継いで宰相となった。ただ王旦だけは十一年の間宰相の位にあった。李が宰相であった時、王旦は参知政事をしていた。李は好んで論語を読んでいたが、ある時、「自分は宰相になって、論語の中の『用を節して人を愛し、民を使うに時を以ってす』という二句ですら実行することが難しい。聖人の言葉は生涯にわたって玩味するのがよいな」と言った。李は日々各方面の洪水、旱魃、盗賊の報告を逐一奏上した。王旦が「このように細事を奏上して陛下のお耳を煩わすには及ばないでしょう」と言うと、「いや君主は何分にも年少であらせられるから、世の苦しみをお知らせするべきである。そうでないと血気盛んになった時、音楽とか女色、狩猟犬や良馬とかに心を奪われるか、あるいは土木、戦争、祈祷など無用の事が起るであろう。わしはもう老年で、見届けることができないが、参政のそなたにとって後日憂いの種にならないか気がかりである」と言った。果たして大中祥符になると、封禅・祠祀・土木と一斉に始まった。王旦は歎息して「李文靖公はまことの聖人であった」と言った。

十八史略 欽若、真宗に取り入る。

2015-02-17 10:00:00 | 十八史略
上既入欽若之言、數問欽若、何以刷恥。欽若知上厭用兵、謬曰、取幽・薊乃可。上、令思其次。乃請封禪當以鎭服四海、誇示夷狄。又言、封禪當得天瑞。前代有以人力爲之。河圖・洛書果有此邪。聖人以神道設教耳。於是自大中符以來、數有天書降。東封泰山、西祀后土於汾陰。又有趙氏祖久天司命天尊降。天下立天慶觀、置聖祖殿、諱聖祖名玄朗、京師作玉昭應宮。旦不能止其事。

上(しょう)既に欽若の言を入れ、数しば欽若に問う「何を以って恥を刷(ぬぐ)わん」と。欽若、上の兵を用うるを厭うを知り、謬(いつわ)って曰く「幽・薊を取らば乃ち可なり」と。上、其の次を思わしむ、乃ち「封禅(ほうぜん)して以って四海を鎮服(ちんぷく)し、夷狄に誇示せん」と。又言う「封禅は当(まさ)に天瑞を得(う)べし。前代、人力を以って之を為す有り。河図・洛書、果たして此れ有らんや。聖人、神道を以って教えを設けしのみ」と。是(ここ)に於いて、大中符より以来、数しば天書有りて降る。東のかた泰山、西のかた后土(こうど)を汾陰(ふんいん)を祀る。又、趙氏の祖、九天司命天尊有って降る。天下に天慶観(てんけいかん)を立て、聖祖殿を置き、聖祖の名玄朗を諱(いみ)、京師に玉清昭応宮を作る。旦も其の事を止(とど)むる能わず。

恥 前出、「城下の盟は、春秋の小国も恥ずる所なり」。 封禅 封は泰山の頂きに天を祀り、禅はその麓に山川をまつる祭祀。 天瑞 天の下した霊験。 河図洛書 古代黄河から出た竜馬の巻き毛を写した図と、洛水で神亀の背の文様。 神道 人知では及ばない不思議な法則。 大中符 年号、1008年~16年の間。 后土 土地の神。 汾陰 汾水(山西省)の南。 天慶観 楼閣の名。 

真宗は冦準罷免の後、宰相欽若の言葉を信任して、しばしば欽若に「どうしたら澶州の恥辱を拭うことができようか」と下問した。欽若は帝が戦争を避けていることを見抜いて、「幽州と薊州を取り返すのがよいでしょう」と言うと、帝は次の策を考えよと命じた。欽若は「それでは封禅の祀りをされたら良いでしょう」と答え、さらに「封禅は天の下した霊験を得て行なうもで、古代の天子の中にも人為でこれを為したこともございます。あの河図や洛書が果たして実存したとお考えですか。それは聖人が神のしわざにこと寄せて作り出したものに相違ありません」と申し上げた。かくて大中符以後しばしば天より書き物が降ってきたとして、東は泰山に天の神を祀り、西のかた汾水の南に地の神を祀った。また宋朝創始趙氏の先祖とした九天司命天尊が降臨したと称して各地に天慶観という楼閣を建てて聖祖殿を設け、聖祖の名である玄朗の二字を忌み、使用を禁じた。また京師に玉清昭応宮を作った。
宰相の王旦もこの愚行を止めることができなかった。


十八史略 王旦、同平章事となる

2015-02-12 10:00:00 | 十八史略
以王旦同平章事。旦王祐之子也。太祖嘗遣祐按事。謂祐還與王傅官職。祐不徇太祖意。竟不大用。祐曰、祐不做、兒子二郎必做。植三槐于庭曰、吾後世必有爲三公者。至是旦果爲相。深沈有望。能斷大事。上心深屬之。趙明、嘗以民饑、上表乞粮。羣臣皆請責之。旦曰、臣欲詔明。云、塞上儲粮不可與。已於京師積百萬。可自遣衆來取。明再拜受詔曰、朝廷有人。

王旦を以って同平章事とす。旦は王祐の子なり。太祖嘗て祐を遣わし事を按ぜしむ。謂う「祐還らば王傅(おうふ)の官職を与えん」と。祐、太祖の意に徇(したが)わず。竟(つい)に大いに用いられず。祐曰く「祐、做(な)らずとも、児子二郎必ず做らん」と。三槐(さんかい)を庭に植えて曰く「吾が後世必ず三公と為る者有らん」と。是(ここ)に至って旦、果たして相と為る。深沈にして徳望有り。能く大事を断ず。上(しょう)の心深く之に属(しょく)す。趙徳明、嘗て民の饑えたるを以って、表を上(たてまつ)って粮(りょう)を乞う。群臣皆之を責めんと請う。旦曰く「臣、徳明に詔(みことのり)せんと欲す。云わく、塞上の儲粮(ちょりょう)は与うべからず。已に京師に於いて百万を積む。自ら衆をして来たり取らしむ可し」と。徳明、再拝して詔を受けて曰く「朝廷人有り」と。

按 調べる。 王傅 王の付き人。 兒子 子供。 二郎 二番目の男子俳行。 粮 糧、食糧。 塞上 国境付近。 儲粮 貯蔵米。

王旦を以って同平章事とした。旦は王祐の子である。太祖は嘗って王祐を遣わしてある大事を調べさせた。その時太祖が「そなたが首尾よく成し遂げたなら王傅の官職を与えよう」といった。ところが王祐の報告が太祖の意にそぐわなかったので、重く用いられなかった。王祐は言った「私は高位になれなかったが、子の二郎が必ずなってくれよう」と。庭に三本のえんじゅを植えて「我が子孫に必ず三公になる者が出るであろう」と言った。果たして王旦が宰相となったのである。 王旦は沈着で徳望があり、よく大事を決断したので帝の信頼を得た。
西平王の趙徳明がある時、領内が飢饉で苦しんでいると上書して糧米の支給を願い出た。群臣は皆、徳明は帰順して間もなく又いつ叛くか知れないと憤慨して、厳しく責めるべきですと願い出た。王旦は「徳明にはこのように詔をお下しください。国境付近の貯蔵米は出すわけにいかないが、都には百万の貯えがある。そちらから人を出して取りに参れと。」と申し上げた。趙徳明は詔を再拝して受けて、「朝廷にはさすがに傑物が居る」と感心した。