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寡黙堂ひとりごと

詩吟と漢詩・漢文が趣味です。火曜日と木曜日が詩吟の日です花も酒も好きな無口な男です。

十八史略 出帝

2014-03-29 08:26:48 | 十八史略
出帝
出帝名重貴、高祖兄子也。高祖臨終、命幼子重璿、拜宰相馮道、欲其輔立。景延廣議以國家多難、宜立長君。遂立重貴。延廣用事。
南唐主李昪殂。子立。 閩王之弟王延政據建州、稱殷帝。 南漢主劉玢之弟弘熙、弑玢而自立、更名晟。 閩朱文進弑其主王曦而自立。殷主延政遣兵討之。閩人殺文進、傳首於殷。殷改國號曰閩。唐人攻抜建州。延政出降。閩亡。唐攻福州、不克。後呉越遣兵取之。

出帝、名は重貴(ちょうき)、高祖の兄の子なり。高祖終りに臨んで、幼子重璿(ちょうせん)に命じて、宰相の馮道(ふどう)を拝せしめて、其の輔立(ほりつ)せんことを欲す。景延広、議するに国家多難、宜しく長君を立つべきを以ってす。遂に重貴を立つ。延広、事を用う。
 南唐の主李昪(りべん)殂(そ)す。子の(けい)立つ。 閩王(びんおう)の弟王延政、建州に拠(よ)って殷帝と称す。 南漢の主劉玢(りゅうひん)の弟弘熙(こうき)、玢を弑して自立し、名を晟(せい)と改む。 閩の朱文進、其の主王曦(おうぎ)を弑して自立す。殷主延政、兵を遣わして之を討たしむ。閩人、文進を殺して、首を殷に伝う。殷、国号を改めて閩と曰う。唐人攻めて建州を抜く。延政出でて降る。閩亡ぶ。唐、福州を攻めて克たず。後、呉越、兵を遣わして之を取る。


長君 年長の君主。 事を用う 権力を専らにする。 建州、福州 ともに今の福建省の地名。 呉越 銭鏐が浙江省・江蘇省に建てた国、978年宋に降った。

出帝は名を重貴といい、高祖敬瑭の兄の子である。高祖は臨終にあたって、子の重璿に言い聞かせて、宰相の馮道を拝させて、馮道が重璿を輔佐して後継ぎになるよう願った。ところが高祖が亡くなると、景延広という者が、国家多難の折、是非年長の君主を立てるべきであると主張して重貴を立てた。その功により延広が専ら権力を振るった。
南唐の主李昪が死んで子の李が立った。
閩王の弟王延政、建州を拠点として殷帝と称した。
南漢の主劉玢の弟の弘熙が玢を弑して自立し、名を晟と改めた。
閩の朱文進という者が、主の王曦を弑殺して自ら立った。王曦の弟、殷主延政、兵を遣わして文進を討たせた。閩の人が文進を殺して、首を殷に送った。殷は国号を改めて閩といった。ところが南唐が建州に攻め入って、これを陥れたので延政は城を出て降伏した。かくして閩は滅亡した(945年)。南唐はさらに閩の福州に攻め入ったが勝てなかった。その後呉越が兵を出してこれを取った。


唐宋八家文 韓愈 柳子厚を祭る文

2014-03-27 09:21:06 | 唐宋八家文
祭柳子厚文
維年月日。韓愈謹以酌庶羞之奠、祭于亡友柳子厚之靈。嗟嗟、子厚而至然邪。自古莫不燃。我又何嗟。人之生世、如夢一覺。其利害、竟亦何校。當其夢時、有樂有悲。及其既覺、豈足追惟。凡物之生、不願爲材。犧尊黄、乃木之災。子之中棄、天脱馽羈。玉佩瓊琚、大放厥辭。富貴無能、磨滅誰紀。子之自著、表表愈偉。不善爲斲、血指汗顔。巧匠旁觀、縮手袖。子之文章、而不用世、乃令吾徒、嘗帝之制。子之視人、自以無前。一斥不復。羣飛刺天。
嗟嗟子厚、今也則亡。臨絶之音、一何琅琅。徧告諸友、以寄厥子。不鄙謂余、亦託以死。凡今之交、觀勢厚薄。余豈可保、能承子託。非我知子、子實命我。猶有鬼神、寧敢遣堕。念子永歸、無復來期。設祭棺前、矢心以辭。嗚呼哀哉。尚饗。

柳子厚を祭る文
維(こ)れ年月日、韓愈謹んで酌庶羞(しょしゅう)の奠(てん)を以って、亡友柳子厚の霊を祭る。嗟嗟(ああ)、子厚にして然るに至れるか。古(いにしえ)より然らざること莫(な)し。我また何ぞ嗟(なげ)かん。人の世に生くるは、夢の一覚(いっこう)の如し。その間の利害、竟(つい)に亦何ぞ校(はか)らん。その夢の時に当たりて、楽しみ有り悲しみ有り。その既に覚(さ)むるに及んで、豈追惟(ついい)するに足らんや。
凡そ物の生、材たるを願わず。犠尊(ぎそん)の青黄(せいこう)は、乃ち木の災いなり。子の中ごろ棄てらるるは、天の馽羈(ちゅうき)を脱するなり。玉佩瓊琚(ぎょくはいけいきょ)、大いにその辞を放(ほしいまま)にす。富貴にして能無きは、磨滅して誰か紀(しる)さん。子の自ら著(あらわ)るるは、表表として愈々(いよいよ)偉(い)なり。
善(よ)くせずして斲(けず)ることを為すものは、指を血にし、顔を汗にす。巧匠(こうしょう) 旁観して、手を袖間(しゅうかん)に縮む。子の文章にして、世に用いられず、乃ち吾が徒をして、帝の制を掌(つかさど)らしむ。子の人を視ること、自ら前無しと以(おも)えり。一たび斥(しりぞ)けられて復(かえ)らず。群飛するもの天を刺す。
嗟嗟子厚、今や則ち亡し。絶ゆるに臨める音の、一に何ぞ琅琅(ろうろう)たる。徧(あまね)く諸友に告げて、以ってその子を寄す。余を鄙(いや)しと謂(おも)わず、亦託するに死を以ってす。凡そ今の交わりは、勢いの厚薄(こうはく)を観る。余豈保つべけんや、能く子の託を承くることを。我が子を知るに非ずんば、子実(まこと)に我に命ぜんや。猶鬼神有り、寧(なん)ぞ敢えて遺堕(いだ)せんや。念(おも)うに子が永帰する、復た来る期(とき)無し。祭りを棺前に設けて、心に矢(ちか)うに辞を以ってす。嗚呼哀しいかな。尚(ねが)わくは饗(う)けよ。


酌庶羞 お神酒と多くのごちそう。 奠 供えまつる。 一覚 一眠り。 追惟 追憶。犠尊 祭りの酒樽。 青黄 青や黄に塗られる。 馽羈 制約。 玉佩瓊琚 おびだま。 表表 優れて目に付くこと。 帝の制 みことのり。 琅琅 玉がふれ合って鳴る音。 託するに死を以ってす 死後を託す、墓誌銘を書くこと。 鬼神 霊魂。 遺堕 忘れること。 矢 誓う。 饗 供え物を受けること。

年月日。韓愈謹んでお神酒と供物を供えて、亡き友柳子厚の霊を祭る。ああ子厚にしてこうなってしまうのか。古来より避けることはできないことではあるからもう嘆くのは止めよう。人がこの世に生きるのは、一眠りの夢のようなものだ。夢ならば利害などをあれこれ考えることもないだろう。その夢の中で楽しいこと、悲しいことがあったろう、しかし覚めてしまえば、思い返すこともないのだ。
 およそ物が世にあるとき、物自体に働きがあることを願わない。酒樽になって青や黄色に塗りたくられることは、木にとって災難である。
君が中年になって地方に流されたのはいわば天が制約を解いてくれたのだ。そこで君は帯だまの音が鳴るように、思うままに文章をあやなしてきた。富貴にして才能の無い者は時とともに忘れ去られてゆく。君が富と地位を失った後も自然と名があらわれて、目に付くさまはいよいよ大きくなっている。
 未熟な大工が木を削るに、指を切り、額を汗にまみれさせているのに、手馴れた大工は為すこと無く傍でそれを見ている。このように、才能豊かな君の文章が世に用いらずに不才な私のような者が天子のみことのりを起草させられている。君が他人と比べて、自分より前に出ている者は居ないと自負していた。それが一たび流され、復帰することができなくなると、今や群れをなして小鳥たちが天を突くばかりに飛びまわっている。
ああ子厚よ、君はもういない。臨終の言葉のなんと清らかなことよ。友人みなに「子供たちをよろしくたのむ」と告げ、私を卑しい者と思わずに死後の墓誌銘を託してくれた。およそ今の世の交りの多くは、勢力の有無をみる。私が君の頼みを承知するか否か保障できないことなのだ。にもかかわらず君が私に依頼したのは、私が君のことをよく知っているからなのだろう。霊魂はいまなお残っているから、私も頼みをなおざりにはしない。君が永遠に帰ってしまい、またこの世にもどる時は無い。ひつぎの前で君の霊を祭り、心の誓いを述べる。
ああ、悲しいかな。願わくは饗けたまえ。


十八史略 後晋の高祖殂す

2014-03-25 10:44:31 | 十八史略
呉徐知誥稱帝、奉呉主溥爲譲皇。初徐温命知誥治昇州。致繁富、城市府舍甚盛。温自徙居之。知誥入廣陵輔呉政。温卒。知誥以中書令鎭昇。而留其子輔呉政。廣金陵城。呉加知誥大元帥、封齊王、備殊禮。至是遂受呉禪。知誥本徐州李氏子也。自謂唐後、國號唐、尋復姓李、更名昪。是爲南唐。  契丹改國號大遼。  閩王曦弑其主昶而自立。
呉越王錢元瓘卒。子弘佐嗣。  南漢主劉龔、又更名龑。尋殂。子玢立。
晉主在位不七歳殂。改元者一、曰天福。齊王立。是爲出帝。

呉の徐知誥(じょちこう)帝と称し、呉主溥(ふ)を奉じて譲皇(じょうこう)と為す。初め徐温、知誥に命じて昇州を治めしむ。繁富(はんぷ)を致し、城市府舎甚だ盛んなり。温自ら徙(うつ)って之に居る。知誥、広陵に入って呉の政(まつりごと)を輔(たす)く。温、卒す。知誥、中書令を以って昇を鎮す。而して其の子を留めて呉の政を輔けしむ。金陵城を広む。呉、知誥に大元帥を加え、斉王に封じ、殊礼を備う。是に至って遂に呉の禅(ゆずり)を受く。知誥は本(もと)徐州の李氏の子なり。自ら唐の後と謂いて、国を唐と号す。尋(つ)いで姓を李に復し、名を昪(べん)と更(あらた)む。之を南唐と為す。
契丹、国を改めて大梁と号す。 閩(びん)の王曦(おうぎ)其の主昶(ちょう)を弑して自立す。
呉越王の銭元瓘(せんげんかん)卒す。子の弘佐嗣(つ)ぐ。
南漢主劉龔(りゅうきょう)、又名を龑(げん)と更たむ。尋(つ)いで殂(そ)す。子玢(ひん)立つ。
晋主位に在ること七歳ならずして殂す。元を改むる者(こと)一、天福と曰う。斉王立つ。是を出帝と為す。


譲皇 強いて譲位させてたてまつった尊号。 金陵城 昇州、今の南京にあった。 殊礼 特別の礼遇。 

呉の徐知誥は皇帝と称し、呉主の溥を譲皇の尊号を奉って実権を握った。初め徐温は養子の知誥に命じて昇州を治めさせた。すると次第に富み栄えた。養父の温は昇州に移り住んで、知誥が広陵に入って呉の政治を輔けた。やがて温が死ぬと知誥は中書令のまま昇州を治め、その子を広陵に留めて呉主の政治を輔佐せしめて、自ら金陵城の大拡張を行った。呉主は知誥に大元帥の称号を与え、斉王に封じ、特別の礼遇を加えた。ここに至って遂に呉の禅譲を受けるに至った。知誥はもと徐州の李氏の子であるが、自ら唐の子孫と言って国名を唐と呼んだ。ついで姓を李に戻し、名も昪と改めた。これを南唐という。
契丹、国名を大遼と改めた。  閩の王曦その主の昶を殺して自ら立って王となった。
呉越王の銭元瓘が死んで、その子の弘佐が後を嗣いだ。  南漢王の劉龔が又名を龑と更めたが、間もなく死んだ。子の玢が立った。
晋主敬瑭は在位七年足らずで死んだ。改元すること一回、天福といった。斉王が立った。これを出帝という。


唐宋八家文 韓愈 孟尚書に与うる書 三ノ三

2014-03-22 08:17:08 | 唐宋八家文
孟尚書書與 三ノ三
 孟子雖賢聖不得位、空言無施。雖切何補。然頼其言、而今學者、尚知宗孔氏、崇仁義、貴王賤覇而已。其大經大法、皆亡滅而不救、壞爛而不収。所謂存十一於千百。安在其能廓如也。然向無孟氏、則皆服左袵、而言侏離矣。故愈嘗推尊孟氏、以爲功不在禹下者、爲此也。漢氏已來、羣儒區修補、百孔千瘡、隨亂隨失。其危如一髪引千鈞、緜緜延延、□以微滅。於是時也、而唱釋老於其、鼓天下之衆而從之。嗚呼、其亦不仁甚矣。釋老之害、過於楊・墨、韓愈之賢、不及孟子。孟子不能救之於未亡之前。而韓愈乃欲全之於已壞之後。嗚呼、其亦不量其力、且見其身之危、莫之救以死也。雖然使其道由愈而粗傳、雖滅死、萬萬無恨。天地鬼神、臨之在上、質之在傍。又安得因一摧折、自毀其道以從於邪也。籍・輩、雖屢指教、不知果能不叛去否。辱吾兄眷厚、而不獲承命。惟慙懼。死罪死罪。愈再拜。                    □ 穴+氵+帚

孟尚書に与うる書 三ノ三
孟子は賢聖なりと雖も位を得ず、空言施す無し。切なりと雖も何ぞ補わん。然れどもその言に頼(よ)りて、今の学者は、尚孔氏を宗とし、仁義を崇(あが)め、王を貴び覇を賤(いや)しむるを知るのみ。その大経大法は、皆亡滅して救われず、懐爛(かいらん)して収まらず。所謂(いわゆる)十一を千百に存す。安(いづく)んぞその能く廓如(かくじょ)たるに在らんや。
 然れども向(さき)に孟氏無かりせば、則ち皆服は左袵(さじん)にして、言は侏離(しゅり)ならん。故に愈嘗て孟氏を推尊して、以って功は禹の下に在らずと為せるは、此れが為なり。漢氏已来、群儒区々として修補するも、百孔千瘡(ひゃっこうせんそう)、随(したが)って失う。その危うきこと一髪の千鈞を引くが如く、綿々延々として、□(ようや)く以って微滅す。是の時に於いてや、釈老をその間に唱(とな)え、天下の衆を鼓(こ)してこれに従わしむ。嗚呼(ああ)それ亦た不仁なること甚だし。
 釈老の害は楊・墨に過ぎ、韓愈の賢は孟子に及ばず。孟子すらこれを未だ亡びざるの前に救う能わず。而も韓愈は乃ちこれを已に懐(やぶ)れたるの後に全うせんと欲す。嗚呼、それ亦たその力を量(はか)らず。且つその身の危うく、これを救う莫(な)くして以って死するを見るなり。
 然りと雖も、その道をして愈に由りて粗(ほぼ)伝わらしめば、滅死すと雖も、万々恨み無からん。天地の鬼神、これに臨んで上(かみ)に在り、これを質(ただ)して傍らに在り。また安んぞ一摧折(いちさいせつ)に因(よ)りて、自らその道を毀(こぼ)ちて以って邪に従うを得んや。
 籍(せき)・(しょく)の輩、屡々指教(しきょう)すと雖も、知らず果して能く叛(そむ)き去らざるや否や。吾兄の眷厚(けんこう)を辱(かたじけの)うして、命を承くるを獲(え)ず。惟だ慙懼(ざんく)を増すのみ。死罪死罪。愈再拝。


空言 実行力のない言葉。 壊爛 ぼろぼろに崩れる。 廓如 カラッとしている前出。 左袵 着物を左前に着る、異民族の風俗。 侏離 もと蛮人の音楽、転じて意味不明の言葉。 区々 細かいこと。 百孔千瘡 多くの傷跡。 千鈞 鈞は重さの単位、非常に重いこと。 摧折 打ち壊す。 籍・  張籍・皇甫、韓愈の門人。眷厚 厚い情。 慙懼 羞じ懼れる。

孟子は賢人にして聖人でありましたが地位を得られず、ただ議論のみで実践のしようがありませんでした。適切な議論ではありましたが、役に立つまでには参りません。しかし孟子のおかげで今の学者たちは、なお孔子を宗主として、仁と義を尊び、王道を貴び、覇道を賎しむべきことを知っているのでございます。しかしその最も重要な経典と制度は滅びさったままで、元に復せず崩れたままでまとめることができません。千に十、百に一ほどしか残っておりません。これでどうして明快であると言えるでしょう。
しかし先に孟子が居なかったらどうでしょう。人は皆服を左前に着たり、統一の無い夷狄の言葉になってしまったでしょう。ですから私が以前に孟子を尊んで、その功績を禹より下にはあらずとしたのはこの為であります。
漢氏以来、多くの学者が細かい点をあれこれ補修しましたが、多くの傷あとはいよいよ乱れ、それにつれて真意が失われてしまいました。まことに一本の髪の毛で千鈞もの重い物を引くような状態で細々と続きながら、次第に微かになって消えてしまうのです。このような時に更に釈迦や老子の教えを唱え、天下の人々を扇動してその教えに従わせようとしています。ああなんと思いやりの無いことではありませんか。
釈迦と老子の害は楊子、墨子以上でありますのに、私韓愈の才能は孟子に及びません。孟子すら先王の道が亡びない前に救うことができませんでした。それなのに私は壊れた後に修復しようとするのであります。ああ、それは自分の力量を考えず、且つ自分の身を危うくし、先王の道を救うこともできずに死んでしまうことは目に見えているのであります。
そうは申しますものの先王の道が私の力で少しでも後世に伝わりますならば、殺されたとしても、少しも恨みはしません。天地の神々がわが上に在って見守り、私の行動を問いただして傍に居ります。一度の挫折のために自らこの道を捨てて邪教に従うことができましょうや。
弟子の張籍と皇甫らには屡々教示しましたが、朝廷の政策に反対して辞職するような事にならなければと、それが心配です。
貴兄から厚情あふるるお手紙をいただきましたのに、ご命令に従うことができません。ただただ恥じ入るばかりです。まさに罪死にあたります。どうぞお許しください。韓愈再拝。


元和十四年(819年)冬の作。潮州に流されていたころ大顛という僧侶と交際していたことが都に伝わって、韓愈が仏教に帰依したと誤解されたのでその弁明の手紙であるが、熱心な仏教信者である高官に対して失礼千万な手紙と言える。自身の信念を貫き通した韓愈の勇気と頑固さに恐れいる。

十八史略 唐主従珂は自ら焼死す

2014-03-20 08:28:08 | 十八史略
桑維翰爲敬瑭草表、稱臣於契丹、事以父禮。約事捷割地。劉知遠以爲、太過。厚賂金帛、足致其兵。不必許以土田。恐異日大爲中國之患。敬瑭不聽。表至。契丹主大喜、將騎五萬而來、與唐兵戰於晉陽、大敗之。契丹主立敬瑭爲帝、國號晉。割幽・薊・瀛・莫・涿・檀・順・新・嬀・儒・武・雲・應・寰・朔・蔚十六州與之。契丹以晉主南下、又破唐兵至潞州。契丹北還。晉主引而南。唐將校皆飛状以迎。唐主殂。晉主入都洛。已而還汴。

桑維翰、敬瑭(けいとう)の為に表を草して、臣を契丹に称し、事(つか)うるに父の礼を以ってす。約すらく、事捷(か)たば地を割かん、と。劉知遠以為(おもえ)らく、太(はなは)だ過ぎたり。厚く金帛(きんぱく)を賂(まいな)わば、其の兵を致すに足らん。必ずしも許すに土田を以ってせざれ。恐らくは異日大いに中国の患(うれい)を為さんことを、と。敬瑭聴かず。表至る。契丹の主大いに喜び、騎五万を将(ひき)いて来り、唐の兵と晋陽に戦いて、大いに之を敗(やぶ)る。契丹の主、敬瑭を立てて帝と為し、国を晋と号せしむ。幽・薊(けい)・瀛(えい)・莫・涿(たく)・檀・順・新・嬀(ぎ)・儒・武・雲・応・寰(かん)・朔(さく)・蔚(うつ)の十六州を割いて之に与う。契丹、晋主を以(い)て南に下り、又唐の兵を破って潞州に至る。契丹北に還る。晋主引いて南(みなみ)す。唐の将校皆状を飛ばして以って迎う。唐主殂(そ)す。晋主入って洛に都す。已にして汴(べん)に還る。

金帛 金と絹。 土田 領土。 契丹主 耶律堯骨、阿保機の次男。 十六州 十年後(946年)晋滅亡の糸口となる。 以て たずさえて、ひきいて。 南す 南面する、天子となること。 還る 遷の誤りか。

敬瑭の臣桑維翰が契丹に救援を請う上表文を起草した。それによれば、契丹に臣となり、契丹の主を父と同様の礼をもって事え、唐に勝った暁には土地を割譲するとあった。これを見た劉知遠は「これは余りに過分ではないか、黄金と絹帛をたっぷり贈れば兵は借りられるでしょう。土地を分け与えるとなれば恐らく後々中国にとって大きな災いとなることでしょう」と建言した。しかし敬瑭は聴きいれなかった。上表文が届けられると、契丹の主(耶律堯骨)は大いに喜び、自ら五万騎を率いて来援し、唐の兵を晋陽で大敗させた。そこで契丹の主は敬瑭を立てて帝とし、国号を晋と号させた。晋は約束に従って、幽州以下十六州を割譲した。契丹の主はなおも晋主をたずさえて南下し、再び唐の兵を破って潞州に殺到した。契丹はここで北に還ったが晋主は兵を率いて南に向かった。唐の将校はこぞって降伏状を送って晋主を迎えた。唐主従珂は自ら焼死した。
晋主は洛陽に入って一旦都と定めたが、間もなく汴に遷って開封と改めた。