出帝
出帝名重貴、高祖兄子也。高祖臨終、命幼子重璿、拜宰相馮道、欲其輔立。景延廣議以國家多難、宜立長君。遂立重貴。延廣用事。
南唐主李昪殂。子立。 閩王之弟王延政據建州、稱殷帝。 南漢主劉玢之弟弘熙、弑玢而自立、更名晟。 閩朱文進弑其主王曦而自立。殷主延政遣兵討之。閩人殺文進、傳首於殷。殷改國號曰閩。唐人攻抜建州。延政出降。閩亡。唐攻福州、不克。後呉越遣兵取之。
出帝、名は重貴(ちょうき)、高祖の兄の子なり。高祖終りに臨んで、幼子重璿(ちょうせん)に命じて、宰相の馮道(ふどう)を拝せしめて、其の輔立(ほりつ)せんことを欲す。景延広、議するに国家多難、宜しく長君を立つべきを以ってす。遂に重貴を立つ。延広、事を用う。
南唐の主李昪(りべん)殂(そ)す。子の(けい)立つ。 閩王(びんおう)の弟王延政、建州に拠(よ)って殷帝と称す。 南漢の主劉玢(りゅうひん)の弟弘熙(こうき)、玢を弑して自立し、名を晟(せい)と改む。 閩の朱文進、其の主王曦(おうぎ)を弑して自立す。殷主延政、兵を遣わして之を討たしむ。閩人、文進を殺して、首を殷に伝う。殷、国号を改めて閩と曰う。唐人攻めて建州を抜く。延政出でて降る。閩亡ぶ。唐、福州を攻めて克たず。後、呉越、兵を遣わして之を取る。
長君 年長の君主。 事を用う 権力を専らにする。 建州、福州 ともに今の福建省の地名。 呉越 銭鏐が浙江省・江蘇省に建てた国、978年宋に降った。
出帝は名を重貴といい、高祖敬瑭の兄の子である。高祖は臨終にあたって、子の重璿に言い聞かせて、宰相の馮道を拝させて、馮道が重璿を輔佐して後継ぎになるよう願った。ところが高祖が亡くなると、景延広という者が、国家多難の折、是非年長の君主を立てるべきであると主張して重貴を立てた。その功により延広が専ら権力を振るった。
南唐の主李昪が死んで子の李が立った。
閩王の弟王延政、建州を拠点として殷帝と称した。
南漢の主劉玢の弟の弘熙が玢を弑して自立し、名を晟と改めた。
閩の朱文進という者が、主の王曦を弑殺して自ら立った。王曦の弟、殷主延政、兵を遣わして文進を討たせた。閩の人が文進を殺して、首を殷に送った。殷は国号を改めて閩といった。ところが南唐が建州に攻め入って、これを陥れたので延政は城を出て降伏した。かくして閩は滅亡した(945年)。南唐はさらに閩の福州に攻め入ったが勝てなかった。その後呉越が兵を出してこれを取った。
出帝名重貴、高祖兄子也。高祖臨終、命幼子重璿、拜宰相馮道、欲其輔立。景延廣議以國家多難、宜立長君。遂立重貴。延廣用事。
南唐主李昪殂。子立。 閩王之弟王延政據建州、稱殷帝。 南漢主劉玢之弟弘熙、弑玢而自立、更名晟。 閩朱文進弑其主王曦而自立。殷主延政遣兵討之。閩人殺文進、傳首於殷。殷改國號曰閩。唐人攻抜建州。延政出降。閩亡。唐攻福州、不克。後呉越遣兵取之。
出帝、名は重貴(ちょうき)、高祖の兄の子なり。高祖終りに臨んで、幼子重璿(ちょうせん)に命じて、宰相の馮道(ふどう)を拝せしめて、其の輔立(ほりつ)せんことを欲す。景延広、議するに国家多難、宜しく長君を立つべきを以ってす。遂に重貴を立つ。延広、事を用う。
南唐の主李昪(りべん)殂(そ)す。子の(けい)立つ。 閩王(びんおう)の弟王延政、建州に拠(よ)って殷帝と称す。 南漢の主劉玢(りゅうひん)の弟弘熙(こうき)、玢を弑して自立し、名を晟(せい)と改む。 閩の朱文進、其の主王曦(おうぎ)を弑して自立す。殷主延政、兵を遣わして之を討たしむ。閩人、文進を殺して、首を殷に伝う。殷、国号を改めて閩と曰う。唐人攻めて建州を抜く。延政出でて降る。閩亡ぶ。唐、福州を攻めて克たず。後、呉越、兵を遣わして之を取る。
長君 年長の君主。 事を用う 権力を専らにする。 建州、福州 ともに今の福建省の地名。 呉越 銭鏐が浙江省・江蘇省に建てた国、978年宋に降った。
出帝は名を重貴といい、高祖敬瑭の兄の子である。高祖は臨終にあたって、子の重璿に言い聞かせて、宰相の馮道を拝させて、馮道が重璿を輔佐して後継ぎになるよう願った。ところが高祖が亡くなると、景延広という者が、国家多難の折、是非年長の君主を立てるべきであると主張して重貴を立てた。その功により延広が専ら権力を振るった。
南唐の主李昪が死んで子の李が立った。
閩王の弟王延政、建州を拠点として殷帝と称した。
南漢の主劉玢の弟の弘熙が玢を弑して自立し、名を晟と改めた。
閩の朱文進という者が、主の王曦を弑殺して自ら立った。王曦の弟、殷主延政、兵を遣わして文進を討たせた。閩の人が文進を殺して、首を殷に送った。殷は国号を改めて閩といった。ところが南唐が建州に攻め入って、これを陥れたので延政は城を出て降伏した。かくして閩は滅亡した(945年)。南唐はさらに閩の福州に攻め入ったが勝てなかった。その後呉越が兵を出してこれを取った。