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寡黙堂ひとりごと

詩吟と漢詩・漢文が趣味です。火曜日と木曜日が詩吟の日です花も酒も好きな無口な男です。

十八史略 阿房宮

2009-07-30 17:00:57 | Weblog
始皇以爲、咸陽人多、先王宮庭小。乃營作朝宮渭南上林苑中、先作前殿阿房。東西五百歩、南北五十丈、上可坐萬人、下可建五丈旗。周馳爲閣道。自殿下直抵南山。表南山之顛以爲以闕、爲復道、自阿房渡渭、屬之咸陽。以象天極閣道絶漢抵營室也。阿房宮未成。成欲更択令名。天下謂之阿房宮。

始皇以爲(おも)えらく、咸陽人多くして先王の宮庭小なりと。乃(すなわ)ち朝宮を渭南の上林苑中に営作し、先ず前殿を阿房に作る。東西五百歩、南北五十丈、上には万人を坐せしむべく、下には五丈の旗を建つべし。周馳(しゅうち)して閣道を為(つく)る殿下より直(ただち)に南山に抵(いた)る。南山の頂に表して以て闕となし、復道を為(つく)り、阿房より渭を渡り、之を咸陽に属す。以て天極閣道、漢を絶(わた)って営室に抵(いた)るに象(かた)どるなり。阿房の宮未だ成らず。成らば更に令名を択ばんと欲す。天下之を阿房宮と謂う。

始皇帝が思うに、咸陽は人が多く先王の宮殿や庭園は狭いので、渭南の上林苑の中に百官の朝見する宮殿を造営すべく、まず前殿を阿房に東西五百歩、南北五十丈の規模で作った。殿上には万人が座れるほど広く、殿下には五丈の旗を立てるほどであった。回廊を廻らして、直接南山にいたることができた。その南山の頂には楼門を輝かせ、上下二段の廊下は上を帝が下を臣下が通り、阿房より渭を渡り咸陽の宮殿に通じた。あたかも天極星から閣道星が天漢(あまのがわ)をわたって営室星に至る、天体に象(かたど)ったものであった。この阿房宮が出来上がったときに、ふさわしい名をつけるはずだったが、完成の前に始皇帝が死んだので、天下の人々はこれを阿房宮を呼んだ。

閣道 高所に架け渡した回廊  
天極閣道絶漢抵營室 天極、閣道 営室はそれぞれ星の名

十八詩略 焚書坑儒

2009-07-28 08:46:26 | Weblog
坑儒
三十五年、侯生盧生、相與譏議始皇、因亡去。始皇大怒曰、盧生等、吾尊賜之甚厚。今乃誹謗我。諸生在咸陽者、吾使人廉問、或爲妖言、以亂黔首。於是使御史悉案問。諸生傳相告引、乃自除。犯禁者四百六十四人、皆坑之咸陽。長子扶蘇諌曰、諸生皆誦法孔子。今、上皆重法縄之。臣恐天下不安。始皇怒、使扶蘇北監蒙恬軍於上郡。

三十五年、侯生・盧生、相與に始皇を譏議(きぎ)し、因(よ)って亡(に)げ去る。始皇大いに怒って曰く、盧生等、吾之を尊賜甚だ厚し。今乃(すなわ)ち我を誹謗す。諸生の咸陽に在る者、吾人をして廉問せしむるに、或いは妖言を為して、以て黔首を乱る。是に於いて御史をして悉く案問せしむ。諸生伝えて相告引し、乃ち自ら徐す。禁を犯す者四百六十四人、皆之を咸陽に坑にす。長子扶蘇諌めて曰く、諸生皆法を孔子に誦す。今、上(しょう)、皆法を重くして之を縄(ただ)す。臣、天下の安からざるを恐る、と。始皇怒り、扶蘇をして北のかた蒙恬の軍を上郡に監せしむ。

三十五年、侯生と盧生はともに始皇帝を非難して、秦から逃げ去った。皇帝は怒って「二人にはいつも手厚く待遇していた。にもかかわらずわしをそしっている、ほかにも咸陽に居る書生どもを調べさせたところ、悪いことを言いふらして市民を惑わす者がいる」と。さらに検察官に詳しく取り調べさせたところ、書生たちは密告し合って自分の嫌疑を逃れようとした。かくして上を謗る者四百六十四人を数えたが、全員咸陽に生き埋めにしてしまった。長男の扶蘇が「あの者達は孔子の言葉をとなえて手本としています。ところが陛下は法を厳重にして彼等を処刑しました。私はこれから天下が不安にならないかと心配でなりません」と諌めた。始皇帝は怒って扶蘇を北方の蒙恬軍の監督に追いやった。

譏議(きぎ) そしる、批判する。
廉問、案問 共に取り調べること。案問がより厳しい。
告引 他人を引き合いにして告訴すること
上郡 陜西省の地名

十八史略 焚書(ふんしょ)

2009-07-25 09:35:47 | Weblog
前回の説明文です。
三十四年に宰相の李斯が書を奉って言うには「昔天下の諸侯が並び立って争った時代には手厚く遊学の士を招いたものですが、今天下は平定され、法令の出る所は一箇所です。ですから人民は、家にあっては農工につとめ、宮仕えをしているときは法令を学習していればよいのです。ところが昨今の書生は今を手本としないで昔の学問を学び、政治を謗(そし)り人心を惑わしています。法令が下ったとなれば、各々自分の学んだ昔の学問で議論をし、朝廷の中では心の中で非として口には出しませんが、朝廷を出ると町なかで公然と議論し、門人をひきいて政治を非難しています。そこで皇帝にお願いしたいことは、史官の蔵書のなかで、秦の記録以外の書は皆焼き捨てます、博士官以外に詩経や書経、諸子百家の書を蔵するものがあれば郡の守や尉の役所に集めて焼き捨てましょう。また詩経や書経のことを話し合う者がいたら処刑して市にさらしましょう。さらに昔の学問をもって今の政治を非難する者は一族皆殺しにしましょう。ただし、医薬・卜筮・農事の書は残すことにしたら良いでしょう、もし法令を学びたい者には官吏を派遣して師として学ばせましょう」と。
すると始皇帝は制(みことのり)を下して、「よろしい」と言った。

百姓(ひゃくせい) 一般市民
黔首(けんしゅ) 庶民、黒い首 冠をつけず髪を出していたから

十八史略 焚書坑儒 (1)

2009-07-23 08:29:12 | Weblog
焚書
三十四年、丞相李斯上書曰、異時諸侯竝争、厚招遊學。今天下已定。法令出一。百姓當家、則力農工、士則學習法令。今諸生不師今、而學古、以非當世、惑亂黔首。聞令下、則各以其學議之。入則心非、出則巷議、率羣下、以造謗。臣請、史官非秦記、皆焼之、非博士官所職、天下有蔵詩書百家語者、皆詣守尉、雑焼之。有偶語詩書者棄市。以古非今者族。所不去者、醫藥・卜筮・種樹之書。若有欲學法令、以吏爲師。制曰、可。

三十四年、丞相李斯上書して曰く、異時諸侯並び争い、厚く遊学を招く。今天下すでに定まり、法令一に出づ。百姓(ひゃくせい)家に当っては、則ち農工を力(つと)め、士は則ち法令を学習す。
今諸生、今を師とせずして、いにしえを学び、以て当世を非(そし)り、黔首(けんしゅ)を惑乱す。令の下るを聞けば、則ち各々其の学を以て之を議す。入っては則ち心に非とし、出でては則ち巷に議し、群下を率いて、以て謗りを造(な)す。
臣請う、史官の秦の記に非ざるものは、皆之を焼き、博士の官の職とする所に非ずして、天下詩書百家の語を蔵する者有らば、皆守尉に詣(いた)り、雑(まじ)えて之を焼かん。詩書を偶語する者有らば棄市せん。古を以て今を非(そし)る者は族せん。
去らざる所の者は、医薬・卜筮・種樹の書のみ。若し法令を学ばんと欲するもの有らば、吏を以て師と為さんと。
制して曰く、可なり、と。

十八史略 つづき

2009-07-21 16:05:46 | Weblog
ご無沙汰いたしました。七月七日に兄を、次いで七月十三日に義弟を亡くしました。痛恨の極みです。六十九歳と六十二歳、兄が悪性リンパ腫、義弟が急性リンパ性白血病と診断されました。2週とも木金曜にあたったため、詩吟の稽古日がつぶれてしまいました。会員の皆さんに申し訳なく思っています。
ところで、12日に行われた、東日本コンクールで、一般一部で宗家の長男が、一般二部で親交のある松宮さんが優勝されました。同期の池田保さんと毛塚さんも賞に入っておりました。おめでとうございます。ただ残念ながら中野区代表の二人は入賞を逃しました。捲土重来さらに挑戦していただきたいと思います。前回中途半端で切れてしまいましたのでつづきを書きました。
三十一年、臘(臘月、師走)を更めて嘉平と為す。(嘉平は年号ではなく、12月の別称)
三十二年、始皇帝は北の国境を巡察した。神仙の術を行う方士の盧生と言う者が、予言の書を奉じて秦を滅ぼすのは胡であるとした。(北方のえびすと、二世皇帝の胡亥と両方にとれる)始皇帝は蒙恬(もうてん)を将軍として三十万の兵を派遣して、匈奴を伐ち、その上長城を築かせた。臨洮(りんとう)より起り遼東に至る。延袤(長さ)万里あまり、匈奴に威を振るった。