始皇以爲、咸陽人多、先王宮庭小。乃營作朝宮渭南上林苑中、先作前殿阿房。東西五百歩、南北五十丈、上可坐萬人、下可建五丈旗。周馳爲閣道。自殿下直抵南山。表南山之顛以爲以闕、爲復道、自阿房渡渭、屬之咸陽。以象天極閣道絶漢抵營室也。阿房宮未成。成欲更択令名。天下謂之阿房宮。
始皇以爲(おも)えらく、咸陽人多くして先王の宮庭小なりと。乃(すなわ)ち朝宮を渭南の上林苑中に営作し、先ず前殿を阿房に作る。東西五百歩、南北五十丈、上には万人を坐せしむべく、下には五丈の旗を建つべし。周馳(しゅうち)して閣道を為(つく)る殿下より直(ただち)に南山に抵(いた)る。南山の頂に表して以て闕となし、復道を為(つく)り、阿房より渭を渡り、之を咸陽に属す。以て天極閣道、漢を絶(わた)って営室に抵(いた)るに象(かた)どるなり。阿房の宮未だ成らず。成らば更に令名を択ばんと欲す。天下之を阿房宮と謂う。
始皇帝が思うに、咸陽は人が多く先王の宮殿や庭園は狭いので、渭南の上林苑の中に百官の朝見する宮殿を造営すべく、まず前殿を阿房に東西五百歩、南北五十丈の規模で作った。殿上には万人が座れるほど広く、殿下には五丈の旗を立てるほどであった。回廊を廻らして、直接南山にいたることができた。その南山の頂には楼門を輝かせ、上下二段の廊下は上を帝が下を臣下が通り、阿房より渭を渡り咸陽の宮殿に通じた。あたかも天極星から閣道星が天漢(あまのがわ)をわたって営室星に至る、天体に象(かたど)ったものであった。この阿房宮が出来上がったときに、ふさわしい名をつけるはずだったが、完成の前に始皇帝が死んだので、天下の人々はこれを阿房宮を呼んだ。
閣道 高所に架け渡した回廊
天極閣道絶漢抵營室 天極、閣道 営室はそれぞれ星の名
始皇以爲(おも)えらく、咸陽人多くして先王の宮庭小なりと。乃(すなわ)ち朝宮を渭南の上林苑中に営作し、先ず前殿を阿房に作る。東西五百歩、南北五十丈、上には万人を坐せしむべく、下には五丈の旗を建つべし。周馳(しゅうち)して閣道を為(つく)る殿下より直(ただち)に南山に抵(いた)る。南山の頂に表して以て闕となし、復道を為(つく)り、阿房より渭を渡り、之を咸陽に属す。以て天極閣道、漢を絶(わた)って営室に抵(いた)るに象(かた)どるなり。阿房の宮未だ成らず。成らば更に令名を択ばんと欲す。天下之を阿房宮と謂う。
始皇帝が思うに、咸陽は人が多く先王の宮殿や庭園は狭いので、渭南の上林苑の中に百官の朝見する宮殿を造営すべく、まず前殿を阿房に東西五百歩、南北五十丈の規模で作った。殿上には万人が座れるほど広く、殿下には五丈の旗を立てるほどであった。回廊を廻らして、直接南山にいたることができた。その南山の頂には楼門を輝かせ、上下二段の廊下は上を帝が下を臣下が通り、阿房より渭を渡り咸陽の宮殿に通じた。あたかも天極星から閣道星が天漢(あまのがわ)をわたって営室星に至る、天体に象(かたど)ったものであった。この阿房宮が出来上がったときに、ふさわしい名をつけるはずだったが、完成の前に始皇帝が死んだので、天下の人々はこれを阿房宮を呼んだ。
閣道 高所に架け渡した回廊
天極閣道絶漢抵營室 天極、閣道 営室はそれぞれ星の名