寡黙堂ひとりごと

詩吟と漢詩・漢文が趣味です。火曜日と木曜日が詩吟の日です花も酒も好きな無口な男です。

唐宗八家文 柳宗元 愚渓詩序 三之三

2014-12-30 10:00:00 | 唐宋八家文
 溪雖莫利於世、而善鑒萬類、瑩秀、鏘鳴金石、能吏愚者喜笑眷慕、樂而不能去也。余雖不合於俗、亦頗以文墨自慰。漱滌萬物、牢籠百態、而無所避之。以愚辭歌愚溪、則茫然而不違、昏然而同歸。超鴻蒙、混希夷、寂寥而莫我知也。於是作八愚詩、紀于溪石上。

渓世に利する莫しと雖も、而れども善く万類を鑒(てら)し、清瑩秀(せいえいしゅうてつ)、鏘(そう)として金石を鳴らし、能く愚者をして喜笑眷慕(きしょうけんぼ)し、楽しんで去ること能わざらしむるなり。余俗に合わずと雖も、亦た頗る文墨を以って自ら慰む。万物を漱滌(そうでき)し、百態を牢籠(ろうろう)して、これを避くる所無し。愚辞を以って愚渓を歌えば、則ち茫然として違わず、昏然として帰を同じゅうす。鴻蒙(こうもう)に超(のぼ)り、希夷(きい)に混じ、寂寥として我を知ること無し。是に於いて八愚の詩を作り、渓石の上に紀(しる)す。

鑒 鑑の別体、かんがみる。 清瑩秀 清く明らかに 鏘 金属の鳴る音。 眷慕 眷は目をかける。 漱滌 すすぎ洗う。 牢籠 一まとめにする。 鴻蒙に超る 根源的な真理に至る。 希夷 老子十四にこれを視れども見えずもれを夷といい、これを聴けども聞こえずこれを希というとある、形も音もない世界。 寂寥 同じく老子二十五章に物ありて混成し、天地に先立ちて生ず。寂たり寥たりとある、絶対の虚無、亡我の境地。

 この谷は世の役に立たないけれど、よく万物を映し出し、清く透きとおり楽器を鳴らすような美しい音を立てて流れ、愚かな私を喜ばせ慕わせて、楽しんで立ち去ることが惜しくなるのです。私は世俗には合わないけれども、詩文をつくって自分自身を慰めているのです。詩文をもって全てのものを洗い清め、あらゆる物の本態を筆に留めてこれを見逃さない。愚かな私の文辞をもって愚渓をうたえば、ぼうとしてとりとめ無く合致し、道理に暗いところは愚渓と行き着くところは同じです。根源の気に至り、形も音もない世界に入って絶対の虚無に我を忘れてしまうのであります。
そこで八愚の詩を作り、愚渓の石に刻んだ。


十八史略 太相と八宰相

2014-12-27 11:55:10 | 十八史略
上崩、在位二十二年。改元者五、曰太平興國、曰雍煕・端拱・淳化・至道。壽五十九。薛居正・沈倫・趙普・宋・李・呂蒙正・張齊賢・呂端等、相繼爲相。普凡再入再罷、尋薨。普初以吏道聞、寡學術。太祖嘗歡以讀書。普遂手不釋巻。毎朝有大議、輒闔戸自啓一篋、取一書閲之。及卒家人視其篋則論語也。嘗謂上曰、臣有論語一部。以半部佐太祖定天下、以半部佐陛下致太平。

上崩ず。在位二十二年。改元する者(こと)五、太平興国と曰い、雍煕(ようき)・端拱(たんきょう)・淳化・至道と曰う。寿五十九なり。薛居正(せつきょせい)・沈倫(しんりん)・趙普・宋(そうき)・李(りほう)・呂蒙正(りょもうせい)・張齊賢・呂端(りょたん)等、相継いで相と為る。普は凡(すべ)て再び入(い)って再び罷め、尋(つ)いで薨(こう)ず。普、初め吏道を以って聞こえ、学術寡(すくな)し。太祖嘗て勧むるに読書(とくしょ)を以ってす。普、遂に手に巻(かん)を釈(と)かず。朝(ちょう)に大議有る毎に、輒(すなわ)ち戸を闔(と)じて自ら一篋(いっきょう)を啓(ひら)き、一書を取って之を閲す。卒するに及んで家人之を視れば則ち論語なり。嘗て上に謂って曰く「臣、論語一部有り。半部を以って太祖を佐(たす)けて天下を定め、半部を以って陛下を佐けて太平を致す」と。

吏道 官吏の道。 巻を釈かず 釈は下に置く。 大議 重要会議。 篋 箱。

太宗が崩御された。在位二十二年、改元すること五回、太平興国、雍煕・端拱・淳化・至道といった。享年五十九歳であった。
薛居正・沈倫・趙普・宋・李・呂蒙正・張齊賢・呂端が相継いで宰相になった。趙普は二度宰相になり二度罷免させられ、その後間もなく死んだ。趙普は初めは実務に秀で、学問は得意ではなかったが、ある時太祖からの勧めによって読書をするようになった。以来書物を手放さなくなり重要な会議の時は部屋に籠って、箱から書物を取り出して読んだ。死後家人が箱を開けると論語が入っていた。かつて太宗に「私は論語を一部持っています。その半部は太祖の為に天下を治めるのに役立てました。あとの半部は陛下のお役に立てて太平の世を招来したいと存じます」と言った。

唐宗八家文 柳宗元 愚渓詩序 三之二

2014-12-25 10:10:36 | 唐宋八家文
夫水智者樂也。今是溪獨見辱於愚何哉。蓋其流甚下、不可以漑灌。又峻急多坻石、大舟不可入也。幽邃淺狹、蛟龍不屑、不能興雲雨。無以利世、而適類於余。然則雖辱而愚之可也。寧武子邦無道則愚。智而爲愚者也。顔子終日不違如愚。睿而爲愚者也。皆不得爲眞愚。今余遭有道、而違於理、悖於事。故凡爲愚者莫我若也。夫然則天下莫能爭是溪。余得專而名焉。

 夫(そ)れ水は智者の楽しみなり。今是(こ)の渓独り愚に辱しめらるるは何ぞや。蓋しその流れ甚だ下(ひく)うして以って漑灌(がいかん)すべからず。また峻急にして坻石(ちせき)多く、大舟入るべからざるなり。幽邃浅狹(ゆうすいせんきょう)にして蛟龍(こうりゅう)も屑(いさぎよ)しとせず、雲雨を興す能わず。以って世に利する無きは、適(まさ)に余に類せり。然らば則ち辱しめてこれを愚にすと雖も可なり。寧武子(ねいぶし)邦(くに)に道無ければ則ち愚なり。智にして愚と為る者なり。顔子終日違(たが)わざること愚なるが如し。睿(えい)にして愚と為る者なり。皆真の愚と為すを得ず。
 今余有道に遭いて理に違い、事に悖(もと)る。故に凡そ愚たる者、我に若(し)くは莫きなり。夫れ然らば則ち天下に能く是の渓を争う莫けん。余専らにして名づくるを得たり。


坻石 中洲や岩。 幽邃 静かで奥深いこと。 蛟龍 みずち。 屑 いさぎよいこころよい。 寧武子 春秋時代衛の大夫 愚を装って危機を逃れた。 顔子 孔子の弟子顔回。 違わざる 反問しない。 睿 賢い。 

そもそも川は智者の楽しむものである。それなのに今この谷川だけが辱しめられるのは何故か、この川は流れが低く灌漑用水に使えず、流れが急で中洲や岩が多く、舟を入れることもできない。静かで奥深く浅いので蛟も住みにくく雲雨を起すこともできないから世の役にたたないこと、まさに私と同じではないか。
 それならこの谷川を貶めて愚とするとしてもかまわないわけだ。昔衛の大夫寧武子が、衛に道が行われていないので愚を装った。また顔回は孔子の話にただ「はいはい」と言うだけで質問もせず、愚者のようであった。本当は賢いのに愚かにみえるだけなので本当の愚とすることはできないのです。
 今私は道の行われている世に居ながら道に背き、世事に逆らった。だから愚なること我に及ぶ者は居ないのです。そうとすれば天下でこの谷川を私と競う者など居ないだろう。私がこの谷川を独占して、愚と名付けることができるという訳です。


十八史略 安んぞ積陰の譴を得ん

2014-12-23 10:47:57 | 十八史略
交趾丁卒。大校黎桓、囚其宗族而專其國。上初命討之。無功。已而桓奉貢。竟以桓爲交趾郡王。
時霖潦過度。上曰、朕於刑獄盡心。安得積陰之譴。冦準越班對言、某州局吏侵官錢若干。於法爲小過。陛下殺之。王淮參政王沔之弟。盜錢數百萬。於法爲大憝。陛下以沔故、務相容蔽。如此而曰刑獄盡心。如之何無積陰之譴。上即日誅淮罷沔。俄而雨止。

交趾(こうち)の丁(ていれん)卒す。大校黎桓(れいかん)、其の宗族を囚(とら)えて其の国を専(もっぱ)らにす。上、初め命じて之を討たしむ。功無し。已(すで)にして桓、奉貢(ほうこう)す。竟(つい)に桓を以って交趾郡王と為す。
時に霖潦(りんろう)、度に過ぐ。上曰く「朕、刑獄に於いて心を盡す。安(いずく)んぞ積陰(せきいん)の譴(けん)を得たる」と。冦準(こうじゅん)班を越えて対(こた)えて言わく「某州の局吏、官銭を侵すこと若干。法に於いて小過と為す。陛下之を殺す。王淮(おうわい)は参政王沔(おうべん)の弟なり。銭数百万を盗む。法に於いて大憝(だいたい)と為す。陛下、沔が故を以って務めて相容蔽(ようへい)す。此(かく)の如くにして刑獄に心を盡すと曰う。之を如何(いかん)ぞ積陰の譴無からん」と。上、即日に淮を誅し沔を罷む。俄かにして雨止む。


交趾 現在のベトナム  奉貢 貢物を献上する。 霖潦 霖はなが雨、潦は大雨。 積陰 陰気が積る。 譴 咎め。 班 席次。 大憝 大悪人。 容蔽 見逃す。

交趾の丁が死んだ。大校の黎桓が丁の一族を捕えて、政権を私したので初め帝は怒って命じてこれを討たせが、失敗した。そのうち黎桓から貢ぎ物を献上して来たので、黎桓をそのまま交趾郡王とした。
その頃、異常な長雨が激しく続いた。帝は「朕は平素刑罰や獄訟に心をくだいてきたのにどうしてこのように陰の気がこもって天から咎めを受けているのだろうか」と嘆かれた。すると冦準という者が席次を越えて進み出て「さきごろ某州の小役人が公金を少しごまかした事件がございました。法に照らせば微罪でございますが、帝はこの者を死罪に処しました。ところがあの王淮は参政の王沔の弟でございます。その王淮が銭数百万を盗みました。法に照らせば大罪でございます。ところが陛下は王沔の弟ということでお咎めがございませんでした。陛下が刑獄に心を尽すと仰せられても、陰の気が積み重なって天のお咎
めを受けずにおられましょうか」と申し上げた。帝はその日に王淮を誅し王沔を罷免した。するとすぐに雨が止んだ。


唐宗八家文 柳宗元 愚渓詩序 三之一

2014-12-20 10:00:00 | 唐宋八家文
 灌水之陽、有溪焉。東流入于瀟水。或曰、冉氏嘗居也。故宇姓是溪爲冉溪。或曰、可以染也。名之以其能。故謂之染溪。
 余以愚觸罪、謫瀟水上。愛是溪、入二三里、得其尤絶者家焉。古有愚公谷。今予家是溪而名莫能定。士之居者、猶齗齗然、不可以不更也。故更之爲愚溪。
 愚溪之上、買小丘爲愚丘。自愚丘東北行六十歩、得泉焉。又買居之爲愚泉。愚泉凡六穴、皆出山下平地。蓋上出也。合流屈曲而南爲愚溝。遂負土累石、塞其隘爲愚池。愚池之東爲愚堂、其南爲愚亭、池之中爲愚島。嘉木異石措置。皆山水之奇者、以余故、咸以愚辱焉。

愚渓詩の序 三の一
 灌水(かんすい)の陽(きた)に渓有り。東流して瀟水(しょうすい)に入る。或るひと曰く「冉氏(ぜんし)嘗て居るなり。故に是(こ)の渓に姓して冉溪と為す」と。あるひと曰く「以って染むべきなり。これに名づくるにその能を以ってす。故にこれを染渓と謂う」と。
 余愚を以って罪に触れ、瀟水の上(ほとり)に謫(たく)せらる。是の渓を愛して、入ること二三里、その尤絶(ゆうぜつ)なるものを得て家す。古(いにしえ)に愚公谷(ぐこうこく)有り。今予是の渓に家して名能(よ)く定まること莫(な)し。土(ど)の居る者、猶お齗齗然(ぎんぎんぜん)として、以って更めざるべからざるなり。故にこれを更めて愚渓と為す。
 愚渓の上に小丘を買いて愚丘と為す。愚丘より東北に行くこと六十歩、泉を得たり。また買いてこれに居り愚泉と為す。愚泉凡そ六穴、皆山下の平地より出ず。蓋し上より出ずるあり。合流屈曲して南するを愚溝と為す。遂に土を負(お)い石を累(かさ)ね、その隘(あい)を塞ぎて愚池と為す。愚池の東を愚堂と為し、その南を愚亭と為し、池の中なるを愚島と為す。嘉木異石措置(さくち)す。皆山水の奇なるもの、余が故を以って咸(みな)愚を以って辱しめらる。


灌水の陽 灌水は永州を流れる川、陽は日の当たる方川は北山は南。 尤絶 齗齗 論争するさま。 措置 交え置く。

 灌水北側に谷川が有る。東に流れて瀟水に注ぐ。あるひとは「冉氏(ぜんし)が嘗て住んでいたからその姓をとって冉溪とした」と言い、またあるひとは「この水で布を染めた。それでこの川に名づけるのにその役を取って染渓(ぜんけい)と呼んだ」と言う。
 私は自分の愚かさから罪を得て瀟水のほとりに流された。この谷川が気に入り、二三里奥に入って景色のよい場所を買って家を建てた。さてこの谷をなんと呼ぼうかと考えた。昔、斉の桓公が鹿を追って谷に入ったとき出遭った老人がこの谷を愚公の谷と答えたという。今私がこの谷に来て名が決まらない。土地の人も論争して定まらない。それで私は愚渓と名付けることにした。
 愚渓のそばに小高い丘がある。ここを買って愚丘と名付けた。愚丘から東北に六十歩行くと泉がある。ここも買って愚泉とした。愚泉には六つの穴があり山の麓の平地から湧き出てくる。おそらく山の上の水源から出るのであろう。合流して曲がりくねり南に流れて行く、これを愚溝とし、土を盛り石を重ねて流れをせき止め、そこを愚池と名付けた。愚池の東を愚堂と名付け、その南を愚亭とし、池の中の島を愚島と呼んだ。それらには美しい木や珍しい石を配した。全てが山水の優れたものだが、私のために愚の名を冠せられて辱かしめられるのだ。