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寡黙堂ひとりごと

詩吟と漢詩・漢文が趣味です。火曜日と木曜日が詩吟の日です花も酒も好きな無口な男です。

十八史略 徳を高宗・周宣に(ひと)しうすと謂う可し

2011-02-24 10:52:57 | 十八史略
前回のつづき
宣帝の在位中、年号を改めること七回、本始・地節・元康・神爵・五鳳・甘露・黄龍がそれで二十五年間であった。崩御して長安の南、杜陵に葬った。宣帝は市井から見出されて立ち、人々の苦しみをよく知っていたので、力を尽くして政治を行った。重要な点は周到に、制度方式も整備した。刺史・守・相を任命するときはその都度、親しく会って政道について下問された。嘗て「人民がその村里に安心して生活し、ため息をついたり、愁いや恨み言をいわないのは、政治が公平で訴訟も正しく行われているからに相違ない。私と供にその任務を果たせるのは、そなたのような善良な地方官なのだよ」と言った。また太守はその郡の役人や人民の中心であるから、頻繁に交代させては人々が安心して生活ができないと考えて、治績をあげた地方官にはその都度詔書を送って励まし、あるいは知行を増したり、黄金を贈ったりした。そして朝廷の高官で欠員が生じた場合は、さきに表彰した者から選び順次挙げ用いた。かくて漢代の良吏は宣帝の治世に最も多く輩出したといわれる。宣帝は功ある者は必ず賞し、罪ある者は必ず罰し、評判と実像を総合して見極めるようにした。政治、学問、法律に携わる者はその長所を発揮し、役人はその地位にかなって、民が安心してその家業にいそしむことができた。
たまたま匈奴が衰え乱れ立った時期に出会い、すでに亡びようとしている国は倒し、存続すべき国は保護して、漢の威光を匈奴一帯に示し広めた。単于は宣帝の義を慕って頭を地に垂れて、みずから漢室を守る臣下と称するようになった。宣帝の功績は祖先にまでも光り輝き、大業は子々孫々までも伝えられるもので、漢の中興に於いてその徳は殷の高宗、周の宣王に並ぶべきものといえよう。
太子が位に即いた。これが孝元皇帝である。

都知事選の候補者が名乗りをあげはじめていますが、「良二千石」と称えるにふさわしい人を待望しています。


十八史略 

2011-02-22 17:36:00 | 十八史略
十八史略 宣帝崩ず。
帝在位、改元者七、曰本始・地節・元康・神爵・五鳳・甘露・黄龍。凡二十五年。崩。葬杜陵。帝興於閭閻、知民事之艱難、精爲治。樞機周密。品式備具。拜刺史・守・相、輒親見問。常曰、民所以安其田里、而無歎息愁恨之聲者、政平訴理也。與我共此者。其惟良二千石乎。以爲太守吏民之本。數變易、則民不安。故二千石有治理效、輒以璽書勉、秩賜金。公卿缺、則選諸所表、以次用之。漢世良吏、於是爲盛。信賞必罰、綜核名實。政事・文學・法理之士、咸精其能、吏稱其職、民安其業。遭値匈奴衰亂、推亡固存、信威北夷。單于慕義、稽首稱藩。功光祖宗、業埀後裔。可謂中興高宗・周宣矣。太子即位。是爲孝元皇帝。

帝、位に在り、改元する者(こと)七。本始・地節・元康・神爵・五鳳・甘露・黄龍と曰(い)う。凡(すべ)て二十五年。崩ず。杜陵(とりょう)に葬る。帝、閭閻(りょえん)より興り、民事の艱難を知り、精を励まし治を為す。枢機周密(すうきしゅうみつ)にして、品式(ひんしき)備具(びぐ)す。刺史・守・相を拝するとき、輒(すなわ)ち親しく見て問う。常(かつ)て曰く、民の其の田里に安んじて、歎息愁恨の声無き所以の者は、政(まつりごと)平らかに、訟(うったえ)理(おさ)まればなり。我と此を共にする者は、其れ惟(ただ)良二千石(せき)か、と。以為(おも)えらく、太守は吏民の本なり。数しば変易(へんえき)すれば、則ち民安んぜず、と。故に二千石、治理の効有れば、輒ち璽書(じしょ)を以て勉励し、秩を増し金を賜う。公卿(こうけい)欠くれば、則ち諸々の表する所を選び、次(じ)を以て之を用う。漢の世の良吏、是に於いて盛んなりと為す。信賞必罰、名実を綜核す。政事・文学・法理の士、咸(みな)其の能を精(くわ)しくし、吏は其の職に称(かな)い、民は其の業に安んず。匈奴の衰乱に遭値(そうち)し、亡を推(お)し存を固くし、威を北夷(ほくい)に信(の)ぶ。単于、義を慕い、稽首(けいしゅ)して藩(はん)と称す。功は祖宗(そそう)に光り、業は後裔に垂(た)る。中興、徳を高宗・周宣に(ひと)しうすと謂う可し。太子、位に即く。是を孝元皇帝と為す。

閭閻 共に村の門、民間の意。 枢機 重要なところ、枢は戸の心棒、機は弩弓の弾き。 周密 行き届くこと。品式 品章程式 規則と方式。 刺史 地方監察官。 守 郡の行政官。 常 嘗てと同じ。 良二千石 二千石は守・相の俸禄、善良な地方長官の意。(我が国で知事を良二千石ということがある)
璽書 璽は玉璽、天子の印章が捺してある文書。  綜核 綜はくくる、核はあきらかにすること。 遭値 共に出会う意。 信 伸びる、伸ばす。 稽首 首が地に着くほど体を屈して拝すること。 祖宗 創業の祖と中興の祖。 高宗・周宣 殷の高宗と周の宣王

十八史略 股肱の美を思い、麒麟閣に図画す

2011-02-19 12:14:26 | 十八史略
匈奴亂、五單于爭立。呼韓邪單于上書、願欵塞稱藩臣。甘露三年、来朝。詔以客禮待之、位諸侯王上。
上、戎狄賓服、思股肱之美、乃圖畫其人於麒麟閣。惟霍光不名、曰大司馬・大將軍・博陸侯、姓霍氏。其次張安世・韓増・趙充國・魏相・丙吉・杜延年・劉・梁丘賀・蕭望之・蘇武、凡十一人。皆有功。知名當世。

匈奴乱れ、五単于立つを争う。呼韓邪(こかんや)単于、書を上(たてまつ)り、願わくは塞(さい)を欵(たた)いて藩臣(はんしん)と称せん、と。甘露三年、来朝。詔(みことのり)して客礼を以って之を待ち、諸侯王の上に位いせしむ。
上(しょう) 戎狄(じゅうてき)賓服(ひんぷく)するを以って、股肱の美を思い、乃ち其の人を麒麟閣に図画(ずが)す。惟だ霍光のみは名いわずして、大司馬・大將軍・博陸侯、姓霍氏と曰う。其の次に張安世・韓増・趙充國・魏相(ぎしょう)・丙吉・杜延年・劉・梁丘賀・蕭望之(しょうぼうし)・蘇武、凡(あわ)せて十一人。皆功徳(こうとく)有り。名を当世に知らる。

匈奴が乱れ、五人の君主が争い立った。その中の呼韓邪単于が書をたてまつって、漢のとりでの門をたたいて、臣下になりたい、と願い出た。そして甘露三年(前51年)に来朝した。宣帝はみことのりを下して賓客の礼でもてなし、諸侯,諸王より上席に位いさせた。
帝は戎狄が来朝し臣従するようになったのは、側近の補佐がすぐれているからと考えて、その功を後世にのこすために麒麟閣に肖像と名を描かせた。ただ霍光だけは名を書かず、大司馬・大將軍・博陸侯、姓霍氏と記した。次いで張安世・韓増・趙充國・魏相・丙吉・杜延年・劉・梁丘賀・蕭望之・蘇武に至るまであわせて十一人、皆功績徳望が高く、名を知られた者たちであった。

藩臣 藩はかきね、まがき。天子を守る垣根になるの意。 麒麟閣 未央宮の中にある

十八史略 于定國丞相となる

2011-02-17 10:05:49 | 自由律俳句
黄覇卒。于定國爲丞相。定國父于公、初爲獄吏。東海有孝婦。寡居不嫁、以養其姑。姑以年老妨婦嫁、自經死。姑女告婦迫死其母。婦不能辯、自誣伏。于公爭之不能得。孝婦死。東海枯旱三年。後太守來。公言其故。太守祭孝婦冢。遂雨。于公治獄有陰。令高大門閭、容駟馬車曰、吾後世必有興者。子定國、以地節元年爲廷尉。朝廷稱之曰、張釋之爲廷尉、天下無寃民、于定國爲廷尉、民自以不寃。至是由御史大夫代覇。

黄覇卒す。于定國丞相と為る。定國の父于公、初め獄吏となる。東海に孝婦有り。寡居(かきょ)して嫁(か)せず、以って其の姑を養う。姑、年老いて婦の嫁を妨ぐるを以って、自經して死す。姑の女(むすめ)、婦迫って其の母を死せしむ、と告ぐ。婦、弁ずること能わず、自ら誣伏(ふふく)す。于公、之を争えども得ること能わず。孝婦死す。東海枯旱(こかん)すること三年。後の太守来る。公、其の故(ゆえ)を言う。太守、孝婦の冢(ちょう)を祭る。遂に雨ふる。于公、獄を治めて陰徳有り。門閭(もんりょ)を高大にし、駟馬(しば)の車を容(い)れしめて曰く、わが後世必ず興る者有らん、と。子定國、地節元年を以って廷尉と為る。朝廷、之を称して曰く、張釋之(ちょうせきし)廷尉と為って、天下寃民(えんみん)無く、于定國廷尉と為って、民みずから寃ならずと以(おも)う、と。是(ここ)に至って、御史大夫より覇に代る。

黄覇が亡くなり、于定國が丞相となった。定國の父の于公は、かつて東海郡の獄吏をしていたとき、郡のなかに孝行な嫁があった。夫に先立たれた後、再婚せず、姑の面倒をみていた。姑は自分が生き永らえば嫁が再婚できぬと考えて、自から首をくくってしまった。姑の娘が、「嫁が責めて殺しました」と告訴した。嫁は抗弁できずに、無実の罪を被ってしまった。于公はこの嫁を助けようと言い争ったがついに助けることができずに死刑に処せられてしまった。するとその後東海郡では三年間旱魃が続いた。新しい太守が来たとき、于公は異変の由来を語った。太守は孝婦の塚を丁重にまつり、霊を慰めたところ遂に雨が降ってきたのであった。このように于定國の父は人知れぬ陰徳があった。ある時、自分の家の門と、村の入り口の門を高く、大きくし四頭立ての馬車が通れるほどに造り直して、自分の子孫の中から必ず身を立てるものが出て来るであろう、と言った。果たして、子の定國が地節元年に廷尉となった。朝廷の人々は彼を称えて、「昔、張釋之が廷尉になって、天下に冤罪に苦しむ民がなくなった。今また、于定國が廷尉となって、民みずからが、冤罪であると思うことが無くなった」と言った。後に御史大夫に昇進し、黄覇が亡くなるにおよんで丞相となった。

十八史略 

2011-02-15 13:02:17 | 十八史略
甘露元年、公卿奏、京兆尹張敞、之黨友。不宜處位。上惜敞材、寝其奏。敞使掾絮舜有所案驗。舜私歸曰、五日京兆耳、安能復案事。敞聞舜語、即収繋獄、竟致其死。後爲舜家所告。敞上書、從闕下亡命歳餘、京師枹鼓數警。上思敞能、復召用之。

甘露元年、公卿(こうけい)奏す、京兆の尹(いん)張敞(ちょうしょう)はの党友なり。宜しく位に処(お)るべからず、と。上、敞の材を惜しみ、其の奏を寝(や)む。敞、掾(えん)の絮舜(じょしゅん)をして案験する所有らしむ。舜、私に帰って曰く、五日(ごじつ)の京兆のみ、安(いづ)くんぞ能(よ)く復(また)事を案ぜん、と。敞、舜の語を聞き、即ち収めて獄に繋ぎ、竟(つい)に其れを死に致す。後、舜の家の告ぐる所と為る。敞、上書して、闕下(けっか)より亡命すること歳余、京師、枹鼓(ふこ)数しば警(いまし)む。上、敞の能を思い、復た召して之を用う。

甘露元年(前53年)に三公九卿が「京兆の長官、張敞は楊の一党であります。その職にとどまることは宜しくありません」と上奏した。宣帝は、張敞の才能を惜しんで、その上奏を取り上げなかった。その後、属官の絮舜という者に命じてある事件を取り調べさせた。絮舜は勝手に家に帰ってしまった。「どうせあと五日の長官さまだ、調査などしておられようか」と人に言った。その言葉が張敞の耳に入ったから、すぐさま捕えられ獄に繋がれついに死刑に処された。その後絮舜の家人が訴えでると、敞は辞職の文書を上(たてまつ)ったうえで朝廷から一年余り姿をくらました。
その間、都では非常を警告する太鼓のばち音がしばしば聞かれるようになった。帝は改めて張敞の有能さを思い知って、呼び戻して任用した。

寝 止める、握りつぶす。 掾 属官。 闕下 闕は宮城の門、朝廷のこと。 枹鼓 枹は太鼓のばち。