寡黙堂ひとりごと

詩吟と漢詩・漢文が趣味です。火曜日と木曜日が詩吟の日です花も酒も好きな無口な男です。

唐宋八家文 柳宗元 蛇を捕うる者の説(二の一)

2014-10-30 09:56:25 | 唐宋八家文
捕蛇者説
永州之野産異蛇。質而白章。色觸草木盡死、以齧人無禦之者。然得而腊之、以爲餌、可以已大風攣踠瘻癘、去死肌、殺三蟲。其始太醫以王命聚之、歳賦其二。募有能捕之者、當其租入。永之人爭奔走焉。
有蔣氏者、專其利三世矣。問之、則曰、吾祖死於是、吾父死於是。今吾嗣爲之十二年、幾死者數矣。言之、貌若甚慼者。余悲之、且曰、若毒之乎。余將告于蒞事者、更若役、復若賦、則何如。蔣氏大戚、汪然出涕曰、君將哀而生之乎。則吾斯役之不幸、未若復吾賦不幸之甚也。嚮吾不爲斯役、則久已病矣。
自吾氏三世居是郷、積於今六十歳矣。而郷鄰之生日蹙、殫其地之出、竭其廬之入。號呼而轉徙、飢渇而頓踣。觸風雨、犯寒暑、呼嘘毒癘、往往而死者相藉也。

蛇を捕うる者の説(二の一)
永州の野に異蛇を産す。黒質にして白章なり。草木に触るれば尽く死し、以って人を齧(か)めばこれを禦(ふせ)ぐもの無し。然れども得てこれを腊(せき)にし、以って餌(じ)と為さば、以って大風(だいふう)・攣踠(れんえん)・瘻癘(ろうらい)を已(や)め、死肌を去り、三蟲を殺すべし。その始め太医王命を以ってこれを聚(あつ)め、歳ごとにその二を賦(ふ)す。募りて能くこれを捕うる者有れば、その租に当(あ)つ。永の人争って奔走す。
蔣氏なる者有りて、その利を専(もっぱ)らにすること三世なり。これに問えば則ち曰く「吾が祖是に死し、吾が父も是に死す。今吾嗣(つ)ぎてこれを為すこと十二年、幾(ほとんど)死せんとせしことしばしばなり」と。 これを言うに貌(かお)甚だ慼(いた)める者の若(ごと)し。余これを悲しみ、且つ曰く「若(なんじ)これを毒とするか。余将(まさ)に事に蒞(のぞ)む者に告げて若の役(えき)を更(あらた)め、若の賦を復せん。則ち如何」と。蔣氏大いに戚(いた)み、汪然(おうぜん)として涕を出して曰く「君将に哀しんでこれを生かさんとするか。則ち吾が斯(こ)の役の不幸は、未だ吾が賦を復するの不幸の甚だしきに若(し)かざるなり。嚮(も)し吾斯の役を為さざれば、則ち久しく已に病みしならん。
吾が氏三世是の郷に居りしより、今に積みて六十歳なり。而るに郷隣の生は日に蹙(せま)り、その地の出(しゅつ)を殫(つく)し、その廬(ろ)の入(にゅう)を竭(つく)す。号呼して転徙(てんし)し、飢渇して頓踣(とんぼく)す。風雨に触れ、寒暑を犯し、毒癘(どくれい)を呼嘘(こきょ)し、往々にして死する者相藉(し)けり。


腊 干し肉。 餌 薬。 大風 らい病。 攣踠 手足がかがまる。 瘻癘 はれもの。 死肌 血行不良。 三蟲 三尸虫、人の腹中に棲み庚申の夜中にその人の悪事を上帝に告げ口するという。 太医 宮中の医者。 慼 うれう。 蒞 たずさわる。 嚮 かりに。 殫 竭 ともに尽き果てる意。 転徙 逃げ出すこと。 頓踣 倒れる。 毒癘 毒気。 呼嘘 呼吸する。

 永州の野には珍しい蛇がいる。黒地に白いまだらがある。草木に触れると草木は尽く枯れ、人を噛めば助かる手立ては無い。しかしこれを捕えて乾し、薬とすれば、らい病、手足の萎え、はれものを治し、血行の止まった皮膚をよみがえらせ、尸虫まで殺すという。始めは宮中の侍医が天子の命令でこの蛇を集め、一年に二匹を割り当て、税金に充当した。永州の人はこの蛇を捕るために奔走した。
 ここに蔣さん一家が居て、この蛇捕りをして三代になる。話してみるとこう言った「わしのお爺さんは蛇に噛まれて死んだ。おやじも噛まれて死んだ。今は私が後を継いで十二年になるが、何度も死にかけたよ」そう言いながら大変悲しそうな表情だったので、わたしも可哀そうになって「そんなにつらいなら、私が上の者に掛け合ってお前の仕事を変えて、普通に税を納めるようにしたらどうか」と言うと、蔣さんはひどく悲しみ、涙を流しながら訴えた「だんなさんは私を哀れんで死なないように思ってくださるのでしょうが、私のこの仕事はなるほど不幸といえば不幸ですが、私に課税されることを思うとまだましです。もしこの仕事をしなければ、永いこと苦労し通しですよ。
 私ら三世代この村に居着いて六十年になりますが、村人の暮らしは日に日に差し迫って土地の作物は根こそぎ、家の収入も残らず持っていかれてしまいます。泣き叫んで逃げ出し、飢えて行き倒れになり、風にさらされ雨に打たれ、暑さ寒さに苦しみ、毒気を吸って病気になって、遂には死体が重なっている有り様ですよ。」

十八史略 太祖の治績

2014-10-28 09:16:14 | 十八史略

削平諸國、必招之、不至而後用兵。及其既降、皆不加戮、禮而存之、終其世。嘗幸武成王廟、觀從祀有白起。指曰、起殺已降。不武。命去之。周恭帝封鄭王、後遷于房州。上以辛文悦長者、俾爲房州倄守。恭帝先上二年、始卒。上發哀輟朝十日、還葬如禮。上初入京時、周韓通死節。追贈優厚。王彦昇棄命專殺、終身不授節鉞。受禪之際倉卒、未有恭帝禪制。學士陶穀出諸懷中。上薄之。穀久在翰林、頗怨望。上曰、吾聞學士草制、依様晝葫蘆耳。何勞之有。卒不登之政府。

諸国を削平(さくへい)するには、必ず之を招き、至らずして後に兵を用う。其の既に降るに及んでは、皆戮(りく)を加えず、礼して之を存し、其の世を終えしむ。嘗て武成王廟に幸(こう)して、従祀を観るに白起(はっき)有り。指さして曰く「起は已に降れるを殺す。不武なり」と。命じて之を去らしむ。周の恭帝、鄭王に封ぜられ、後、房州に僊(うつ)る。上(しょう)、辛文悦(しんぶんえつ)が長者なるを以って房州の守と為らしむ。恭帝、上に先立つこと二年、始めて卒す。上、哀を発して朝(ちょう)を輟(や)むること十日、還り葬ること礼の如くす。上、初め京に入りし時、周の韓通(かんとう)、節に死す。追贈優厚なり。王彦昇(おうげんしょう)命を棄てて殺を専らにせしかば、身を終わるまで節鉞(せつえつ)を授けず。禅を受くるの際、倉卒にして、未だ恭帝、禅の制有らず。学士陶穀(とうこく)、緒(これ)を懐中より出だす。上、之を薄(うす)んず。穀、久しく翰林に在り、頗る怨望(えんぼう)す。上、曰く「吾聞く、学士の制を草(そう)する、様に依って葫蘆(ころ)を画くのみ。何の労か之れ有らん」と。卒に之を政府に登さず。

削平 平らげること。 武成王 周の太公望呂尚、唐の粛宗が追贈した。 従祀 墓陵に配置された武将の像。 白起 秦の将軍、趙の降兵を生き埋めにした。 不武 武徳に反すること。 房州 湖北省房県。 周の恭帝 後周最後の帝、宋の太祖に譲位した。 俾 使役の助詞、 ・・させる。 韓通 太祖の汴京入城を阻み殺された。 王彦昇 太祖の命を破り後周の韓通を殺した。 節鉞 節は将軍に授けた信任の割符、鉞はまさかり処罰の権。 倉卒 あわただしいこと。 草制 詔勅の下書きをすること。 翰林 翰林学士の位。 様 手本。 葫蘆 ひょうたん。 

太祖が諸国を平らげる場合はいつも使者を遣わして招き、従わない場合のみ兵を用いた。相手が降伏すると、決して殺戮を加えず、礼遇して天寿を全うさせた。嘗て武成王の廟に参詣して左右に配置された将軍等の中に秦の白起を見つけると、帝は指さして「白起はすでに降伏した趙の兵卒四十万を生き埋めにした男である。武士道に反する者である」として像を取り除かせた。
後周の恭帝は太祖に譲位してから、鄭王に封ぜられ、その後房州に移されていたが、辛文悦が長者であるというので、房州の太守に任命して恭帝を守らせた。だが太祖に先立つこと三年で恭帝は亡くなった。帝は喪を発して朝政を十日間停止し、埋葬するにも天子の礼を以って葬った。初め帝が後周の将軍として汴京に入城した際、これを阻んだ韓通が王彦昇に殺された、帝は節義を守って死んだとして、韓通に中書令を追贈して手厚く葬った。王彦昇は命令を破って後周の公卿を殺したとして生涯節度使に任命することは無かった。また帝が禅譲を受けた時、突然の事で詔勅の用意が出来ていなかった。すると翰林学士の陶穀が、かねて下書きをしてあった詔勅を取り出した。帝は陶穀を軽卒であると軽んじ、翰林学士のままであった。陶穀はこれを怨んだが、あるとき帝は「学士が天子の詔勅を下書きするなどというのは、手本をみて瓢箪を画くようなものだ。何の苦労がいるものか」と言って、陶穀を政府の要職に就けなかった。


唐宋八家文 柳宗元 段太尉の逸事状 (四の四)

2014-10-25 10:00:00 | 唐宋八家文
段太尉の逸事状 (四の四)
 及太尉自州以司農徴、戒其族過岐、朱幸致貨幣、愼勿納。及過、固致大綾三百匹。太尉壻韋晤、堅拒不得命、至都。太尉怒曰、果不用吾言。晤謝曰、處賤無以拒也。太尉曰、然。終不以在吾第、以如司農治事堂、棲之梁木上。反、太尉終。吏以告。取視、其故封識具存。 太尉逸事如右。
 元和九年月日、永州司馬員外置同正員柳宗元、謹上吏館。今之稱太尉大節者、出入以爲、武人一時奮不慮死、以取名天下。不知太尉之所立如是。宗元嘗出入岐周邠斄、過眞定北上馬嶺、歷亭鄣堡戍、竊好問老校退卒、能言其事。太尉爲人姁姁常低首、拱手行歩。言氣卑弱、未嘗以色待物。人視之儒者也。遇不可、必達其志。決非偶然者。會州刺史崔公來。言信行直。備得太尉遺事。覆校無疑。或恐尚逸墜未集太史氏、敢以狀私於執事。謹狀。

太尉州より司農を以って徴(め)さるるに及んで、その族岐(き)を過(よぎ)るに、朱(しゅせい)幸いに貨幣を致さば、慎んで納るる勿れと戒む。過(よぎ)るに及んで、固く大綾三百匹を致す。太尉の婿の韋晤(いご)、堅く拒めども命を得ず、都に至る。太尉怒って曰く「果たして吾が言を用いず」と。晤謝して曰く「賎に処(お)れば以って拒む無きなり」と。太尉曰く「然り」と。終(つい)に以って吾が第(てい)に在らしめず、以って司農の治事堂に如(ゆ)き、これを梁木の上に棲(お)く。
反して、太尉終わる。吏以ってに告ぐ。取って視るにその故(もと)の封識具(つぶさ)に存せり。太尉の逸事は右の如し。   
元和九年月日、永州司馬員外置・同正員柳宗元、謹んで吏館に上(たてまつ)る。
今の太尉の大節を称する者、出入(しゅつにゅう)して以為(おも)えらく、武人一時に奮って死を慮(おもんばか)らず、以って名を天下に取ると。太尉の立つ所是の如きを知らず。
 宗元嘗て岐周・邠(ひん)・斄(たい)の間に出入し、真定を過ぎて北のかた馬嶺に上り、亭鄣(ていしょう)・堡戍(ほじゅ)を歴(へ)て、窃(ひそ)かに好んで老校退卒に問うに、能くその事を言う。太尉の人となり姁姁(くく)として常に首(こうべ)を低(た)れ、手を拱(こまぬ)いて行歩す。言気卑弱にして、未だ嘗て色を以って物に待たず。人これを視るに儒者なり。不可なるに遇えば、必ずその志を達す。決して偶々(たまたま)然るものに非ず。
 州の刺史崔公来るに会す。言は信に行いは直なり。備(つぶさ)に太尉の遺事を得たり。覆校するに疑い無し。或いは尚逸失(いっしつ)して未だ太史氏に集まらざらんことを恐れ、敢て状を以って執事に私(し)す。謹んで状す。


司農 農務大臣。 岐 岐陽。 朱 岐陽の藩鎮、後に反乱を起こす。 幸い 万一。 大綾 太い綾布。 賎 低い身分。 司馬員外置正員 定員外にあって正官と同じ待遇の刺史の補佐官。 出入 おしなべて。 岐周・邠・斄 共に陜西省西部の地名。 亭鄣 宿駅の守備隊。 堡戍 砦の陣営。 姁姁 やわらぐさま。 拱 指を組んで礼をする。 色 顔色。 不可 許せないこと。 

太尉が州の刺史から司農卿として朝廷に召されることになったとき、一族が岐陽を通り過ぎる際に朱が万一贈り物を届けても決して受け取ってはいけないと戒めた。通りかかると朱はしつこく太い綾布三百匹を贈りつけて来た。太尉の婿の韋晤は堅く拒んだが抗しきれず受け取って都に来た。太尉は怒って「やっぱりわしの言いつけをまもらなかったな」と言ったが韋晤は謝った末に「私は低い身分なので断りきれませんでした」と言った。太尉は「わかった」というとその贈り物を屋敷に置かせず、司農の執務室の梁の上に置いた。
朱が反乱を起こし、太尉は殺された。下役人が朱に贈り物の話をしたので朱が取り出してみると封印は切られることなく完全に残っていた。 段太尉の逸事は以上の通りである。
元和九年月日、永州の司馬員外置・同正員柳宗元、謹んで吏館にたてまつる。近頃太尉の大いなる節義を称揚する者、たいていの人が、太尉は武人としてその時奮闘して死を賭した。それで天下に名を残したと思っている。それは太尉の平生を知らずただ一事のみを見て判断しているだけである。
私は嘗て岐周・邠・斄のあたりに往き来し、真定を通って北の馬嶺に登り、宿駅の守備隊や砦の陣営をたずねて、ひそかに老いた将校や退役した兵士に尋ねると、太尉について話してくれた。それによると太尉の人となりは優しく常に頭を垂れ、手を拱組んで歩いていた。言葉もやさしく、未だ嘗て顔色を変えて物事に接したことがなかった。人から見るとまるで儒者のようであった。しかし見過ごす事ができない事態になると、必ず自分の意志を貫き通した。であるから太尉が死んだのは決して偶々そうなったものではないのである。
 永州刺史の崔公が来られたのに会った。公は言うことと行いが正しい人で、その崔公から詳しく太尉の知られていない事を聞くことができた。繰り返して調べてみたが間違い無かった。あるいはまだ見落とされて吏官のところに集められていないかもしれぬと思い敢えて書状を以って私的に担当者にお届けする。 謹んで書状で申し上げた。


十八史略 何ぞ法網の密なるや

2014-10-23 12:41:23 | 十八史略

内臣有逮事後唐者。上問、莊宗英武定天下。享國不久何也。其人言其故。上撫髀嘆曰、二十年夾河戰爭、取得天下、不能用軍法約束、誠爲兒戲。朕今撫養士卒、不吝爵賞。苟犯吾法、惟有劍耳。五代以來、藩鎭強盛。上以漸削之。罷諸節鎭、專用儒臣。分理郡國、以革節鎭之横。又置諸州通判、以分刺史之權。自是諸侯勢輕、禍難不作。專務愛養民力、罷卻貢獻、禁進羨餘。常衣澣濯之衣、寝殿布縁葦簾。晩節好讀書。嘗歎曰、堯舜之世、四凶之罪、止於投竄。何近代法網之密邪。

内臣、後唐に事(つか)うるに逮(およ)ぶ者有り。上(しょう)問う、荘宗、英武にして天下を定む。国を享(う)くること久しからざるは何ぞや、と。其の人その故を言う。上、髀(ひ)を撫(ぶ)して嘆じて曰く「二十年河を夾(はさ)んで戦争し、天下を取り得て、軍法を用いて約束する能わざるは、誠に児戯たり。朕今士卒を撫養し、爵賞を吝(お)しまず。苟くも吾が法を犯さば、惟剣有るのみ」と。
五代以来、藩鎮、強盛なり。上、漸(ぜん)を以って之を削る。諸々の節鎮を罷(や)めて、専ら儒臣を用う。郡国を分理して以って節鎮の横(おう)を革(あらた)む。又諸州の通判を置き、以って刺史の権を分つ。是より諸侯勢い軽くして、禍難作(おこ)らず。専ら民力を愛養するを務め、貢献を罷め卻(しりぞ)け、羨余(せんよ)を進むるを禁ず。常に澣濯(かんたく)の衣(ころも)を衣(き)、寝殿は青布をもって葦簾(いれん)に縁(へり)す。晩節、書を読むを好む。嘗て歎じて曰く「堯舜の世、四凶の罪、投竄(とうざん)に止まる。何ぞ近代、法網の密なるや」と。


内臣 宦官。 髀 腿。 漸 しだいに。 節鎮 節度使の役所。 通判 藩鎮の力を削ぎ、州の政治を監督するため置いた。 羨余 剰余。 澣濯 洗いすすぐ。 葦簾 葦で編んだ廉。 四凶 堯時代の四人の悪人、共工・驩兜・三兜・鯤。 投竄 追放。

宦官の中に後唐の荘宗に仕えていた者があった。帝はその者に「荘宗は、英邁武勇で天下を平定させた。にも拘わらず。国家を永続できなかったのはいかなる訳か」と問うた。その宦官はいくつかの理由を述べた。すると帝は腿を打って嘆息して「二十年も黄河を挟んで梁と戦い、やっと天下を取ったのに軍法によって部下を取り締まることができなかった。およそ児戯に等しい。わしは士卒を慈しみ、爵位恩賞も惜しみなく与えている。そのかわり軍法を犯す者があったら剣をもってこれを誅するだけだ」と言った。
五代からこのかた、藩鎮の勢力が強大になった。そこで帝は徐々に藩鎮を弱める政策を執った。諸方の藩鎮をつぶし、儒臣を登用して郡県を分けて治めさせて、節度藩鎮の横暴を改めた。また諸州に通判を置いて刺史の権限を削除した。これ以来諸侯の勢力が弱まり災いが起こらなくなった。一方民政ではひたすら民の財力を養うことに務め、貢ぎ物を止めさせ、余った租税を返納することを禁じた。内では常に洗いざらしの着物を着、正殿には青い布で縁どった葦の簾をかけて豪奢を戒めた。晩年にはよく読書を好んだが、ある時歎息して「堯舜の時代、四人の悪人を罰するにも追放にとどまった。近頃の法の何と細かいことよ」と言った。