寡黙堂ひとりごと

詩吟と漢詩・漢文が趣味です。火曜日と木曜日が詩吟の日です花も酒も好きな無口な男です。

十八史略 司馬懿、曹爽を殺す。

2011-11-29 14:04:52 | 十八史略

漢自丞相亮既亡、蔣琬爲政。楊敏毀琬曰、作事憒憒、不及前人。或請推治敏。琬曰、吾實不如前人、無可推。琬卒。費褘・董允、爲政。公亮盡忠。允卒。姜維與、費褘竝爲政。
魏曹爽驕奢無度。司馬懿殺之。懿爲魏丞相、加九錫不受。爽之黨夏侯覇奔蜀。姜維問之曰、懿得政。復有征伐志否。覇曰、彼營立家門、未遑外事。有鍾士季者。雖少若管朝政、呉・蜀之憂也。
魏司馬懿卒。以其子師爲撫軍大將軍、録尚書事。
呉主殂。諡曰太皇帝。子亮立。
漢費褘、汎愛不疑。降人刺殺之。姜維用事、數出兵攻魏。

漢、丞相亮、既に滅びしより、蔣琬(しょうえん)、政を為す。楊敏、琬を毀(そし)って曰く、「事を作(な)すこと憒憒(かいかい)たり、前人に及ばず」と。或いは敏を推治(すいち)せんと請う。琬曰く、「吾実に前人に如かず、推す可き無し」と。琬卒す。費褘(ひい)・董允(とういん)政を為す。公亮(こうりょう)にして忠を尽くす。允卒す。姜維(きょうい)、費褘と竝びに政を為す。
魏の曹爽(そうそう)驕奢(きょうしゃ)にして度無し。司馬懿(しばい)、之を殺す。懿、魏の丞相と為り、九錫(きゅうしゃく)を加うれども受けず。爽の党の夏侯覇(かこうは)、蜀に奔(はし)る。姜維之に問うて曰く、「懿、政を得たり。復征伐の志有りや否や」と。覇曰く、「彼、家門を営立して、未だ外の事に遑(いとま)あらず。鍾士季(しょうしき)という者有り。少(わか)しと雖も若(も)し朝政を管せば、呉・蜀の憂いならん」と。
魏の司馬懿卒す。其の子師を以って、撫軍大将軍と為し、尚書の事を録せしむ。
呉主殂(そ)す。諡(おくりな)して太皇帝と曰う。子亮立つ。
漢の費褘、汎(ひろ)く愛して疑わず。降人之を刺し殺す。姜維、事を用い、数しば兵を出だして魏を攻む。


憒憒 こころ乱れるさま。 推治 罪を取り調べる=推問。 公亮 公平で明らかなこと。 九錫 天子から賜る九種の品や特典。輿馬、衣服、楽器、虎賁(勇者三百人)、弓矢、鈇鉞(ふえつ=殺生の権)、秬鬯(きょちょう=祭酒)、朱戸(朱塗りの門)、納陛(宮殿内の階段、取り次ぎ無しで直接天子に謁見できる権利)。 録尚書事 宮中の文書をつかさどる尚書を総括する。 事を用い 政治をおこなうこと。

漢では、丞相亮が亡くなってから、蔣琬が政治をおこなっていた。楊敏がそれを「迷ってばかりで決断が遅い、とても前の諸葛公には及ばぬ」と、漏らした。ある人が楊敏を罪に問うよう要請したところ、「私は確かに諸葛公に及ばないのだ、処罰のしようがない」と取り上げなかった。やがて琬が死ぬと、費褘と董允が政治にあたった。
魏の曹爽が驕奢限りなく、司馬懿がこれを殺した。司馬懿は魏の丞相になり、九錫を賜ったが、受けなかった。曹爽の一派の夏侯覇は蜀に逃げた。蜀の姜維が覇に尋ねて「司馬懿は実権を手にいれたようだが、他国を伐つ気はあるだろうか」と。覇は「彼は一門の繁栄に心を奪われており、他国の事にまで目を向けるまでには至って降りません。ただし鍾士季という者がおります。まだ弱年でありますが、朝政にあずかるようになると、呉や蜀にとって憂いのもとになるでしょう」と言った。
魏の司馬懿が亡くなった。その子の師を撫軍大将軍とした、併せて録尚書事に任じられた。
呉主孫権が歿した。太皇帝と諡して、子の孫亮が後を嗣いだ。
漢の費褘はひろく人を愛して疑うことがなかった。そのため魏の降人に暗殺された。そこで姜維が代って政治を行い、何回か兵を出して魏を攻めた

張三李四

2011-11-24 11:18:55 | 詩吟
張三李四 朝三暮四に似ていますが、張さんとこの三番目と李さんちの四番目という意味で、落語の八つぁん熊さんのようなもの。三、四は排行(はいこう)と言います。漢和辞典によれば一族中、祖父、父、兄弟、子の各世代ごとに某一(大)、某二などと呼んだり、二字名のうち一字を共通にしたり、一字名のときは字の偏や冠を共通にして同一世代であることを示すこと。輩行 とあります。
王維作「元二の安西に使するを送る」はゲンジと読んでいますが、違和感を覚えるのは私だけでしょうか、ジとニの読みの違いは漢音と呉音の違いです。因みに数詞を列挙してみると

  一  二 六  七  八  九   十   大  衣 百   元

漢 イツ ジ リク シツ ハツ キュウ シュウ タイ イ ハク  ゲン

呉 イチ ニ ロク シチ ハチ ク   ジュウ ダイ エ ヒャク ガン

三、四、五は共通です。ご覧のようにわが国では数に関しては呉音が多く使われています。それが違和感のもとになっているのでしょうか。ところが漢和辞典によれば、ゲンジと読みがついています。同じように中唐の詩人元稹の排行は元九(ゲンキュウ)と読みます。姓の元が漢音なので数字も漢音にならったのでしょうか。
 ところで吟剣詩舞十月号の記事に衲衣の読みについてノウイの読みが広辞苑には無いからノウエにすべきでは、とのことですが、角川新字源にはこうあります。衲衣ノウイ①僧衣②僧。ノウエは出ていません。これも仏教の世界では漢音以前の呉音が守り伝えられてきたということではないでしょうか。必ずしもノウエにしないといけないとは考えにくいと思います。

十八史略 曹叡卒し司馬懿・曹爽政を輔く

2011-11-24 09:33:58 | 自由律俳句
魏主性好土功、先是既治許昌宮。後又作洛陽宮、徙長安鐘簴・橐駝・銅人・承露盤於洛陽。盤折聲聞數十里。銅人重不可致。乃大發銅、鑄銅人二、列坐於司馬門外、號曰翁仲。起土山於芳林園、植雜木善草、捕禽獸致其中。諫者皆不納。
魏主有疾。召司馬懿入朝、以曹爽爲大將軍。魏主叡殂。僭位十四年。改元者三、曰太和・青龍・景初。子芳立。是爲廢帝邵陵公。芳八歳即位。司馬懿・曹爽、受遺詔輔政。懿爲太傅。

魏主、性、土功を好む。是より先、既に許昌宮を治む。後又洛陽宮を作り、長安の鐘簴(しょうきょ)・橐駝(たくだ)・銅人・承露盤を洛陽に徙(うつ)す。盤折れて、声数十里に聞こゆ。銅人は重くして致す可からず。乃ち大いに銅を発し、銅人二を鋳(い)て、司馬門外に列坐せしめ、号して翁仲と曰う。土山を芳林園に起こし、雑木善草を植え、禽獣を捕えて其の中に致す。諫(いさ)むる者、皆納(い)れず。
魏主、疾(やまい)有り。司馬懿を召して、入朝せしめ、曹爽を以って大将軍と為す。魏主叡、殂(そ)す。僭位(せんい)十四年。改元する者(こと)三、太和・青龍・景初と曰う。子芳立つ。是を廃帝邵陵(しょうりょう)の公(れいこう)と為す。芳、八歳にして位に即く。司馬懿・曹爽、遺詔(いしょう)を受けて、政(まつりごと)を輔(たす)く。懿を太傅(たいふ)と為す。


土功 土工におなじ。 鐘簴 鐘と鐘釣り台。 橐駝 駱駝、銅人ともに始皇帝が鋳造したもの。 承露盤 露を受ける盤、漢の武帝が鋳造した。 殂 死ぬこと。 僭位 身分を越えて位に即くこと。 太傅 天子のもりやく。

魏の曹叡は生来土木造営を好み、以前許昌宮を修繕した。後に洛陽宮を造り、長安にあった鐘簴・橐駝・銅人・承露盤を洛陽に移そうとした。その時、承露盤が折れて、大きな音が数十里までも響きわたった。そして銅人は重くて運ぶことができなかったので、国中から銅を徴発して新たに銅人二体を鋳造して、洛陽の司馬門外に並べ翁仲と呼ばせた。また築山を芳林園に造らせ、さまざまな木や珍しい草を植え、鳥獣を捕えてその中に放った。諫言には一切耳を貸さなかった。その後、曹叡は病を得、司馬懿を召して朝廷に入れ、曹爽を大将軍にした。
やがて曹叡が亡くなった(239年)。帝位を僭称すること十四年、改元すること三度、太和・青龍・景初である。子の芳が立った。これが廃帝邵陵の公である。芳は八歳で位に即いた。司馬懿と曹爽が曹叡の遺言によって政治を補佐した。司馬懿は太傅となった。


十八史略 泣いて馬謖を斬る

2011-11-22 12:57:23 | 十八史略

亮嘗推演兵法、作八陣圖。至是懿案行其營壘、歎曰、天下奇材也。亮爲政無私。馬謖素爲亮所知。及敗軍流涕斬之、而卹其後。李平・廖立、皆爲亮所廃廢。及聞亮之喪、皆歎息流涕、卒至發病死。史稱、亮開誠心、布公道。刑政雖峻而無怨者。眞識治之良材。而謂其材長於治國、將略非所長、則非也。初丞相亮、嘗表於帝曰、臣成都有桑八百株、薄田十五頃。子弟衣食自有餘。不別治生以長尺寸。臣死之日、不使内有餘帛、外有贏財、以負陛下。至是卒。如其言。諡忠武。

亮、嘗て兵法を推演(すいえん)して、八陣の図を作る。是(ここ)に至って、懿、其の営塁を案行(あんこう)し、歎じて曰く、「天下の奇材なり」と。
亮政を為すこと私(わたくし)無し。馬謖(ばしょく)素より亮の知る所と為る。軍を敗(やぶ)るに及び、流涕して之を斬り、而(しか)して其の後を卹(あわれ)む。李平・廖立(りょうりゅう)皆亮の廃する所と為る。亮の喪(そう)を聞くに及び、皆歎息流涕(りゅうてい)し、卒(つい)に病を発して死するに至る。史に称す、亮、誠心を開き、公道を布(し)く。刑政(けいせい)、峻(しゅん)なりと雖も而も怨む者無し。真に治(ち)を識るの良材なりと。而して其の材、国を治むるに長じて、将略は長ずる所に非ずと謂うは、則ち非なり。初め丞相亮、嘗て帝に表して曰く、「臣、成都に桑八百株、薄田(はくでん)十五頃(けい)有り。子弟の衣食自(おのずか)ら余り有り。別に生を治めて以って尺寸(せきすん)を長ぜず。臣死するの日、内に余帛(よはく)有り、外に贏財(えいざい)有って、以って陛下に負(そむ)かしめず」と。是(ここ)に至って卒(しゅっ)す。其の言の如し。忠武と諡(おくりな)す。


推演 推し広める、推理演繹。 八陣の図 八種の陣形、魚鱗・鶴翼・長蛇・偃月・鉾矢・方円・衡軛・雁行。 案行 調べてまわる。 史に称す 陳寿の三国志に言う。 薄田 痩せ地。 頃 面積の単位、畝(ほ)の百倍。 帛 絹布。 贏財 余った財産。

亮は嘗て兵法を推し広めて八陣の図をつくった。亮の死後懿はその陣営の跡を調べまわり、感歎して言った「まさに天下の奇才というべきか」と。
亮は政治を行うのに私心を差し挟まなかった。馬謖は日頃亮から厚遇を受けていたが、軍を敗戦に陥らせたときには、涙をのんでこれを斬った。そして残された遺族に手厚い保護を与えた。李平と廖立はともに亮によって罷免されたが、亮の訃報に接すると涙を流して歎き、そのために病を得て死んだほどであった。三国志で「諸葛亮は真心を尽し公平な政治を行った刑罰は厳しかったが、それを怨む者はいなかった。政治の要諦を心得た優れた人物であった」と述べている。しかしさらに「その才は国を治めるにはすぐれているが、将としての智略はいまだしである」と断じているのは不当である。以前丞相亮は後帝に、「臣は成都に桑八百株と、やせ地とはいえ十五頃の田があります。子弟を養うには十分すぎるほどでございます。別に生業を営んで多少の財を得ようとは思いません。臣の死後、家の内外に余分な絹や財産を残して、陛下の信頼を裏切るようなことはございません。」と上奏したことがあった。はたして没した後はそのとおりであった。忠武とおくり名された。


十八史略 死せる諸葛生ける仲達を走らしむ

2011-11-19 09:29:25 | 十八史略

亮以前者數出、皆運糧不繼、使己志不伸、乃分兵屯田。耕者雜於渭濱居民之、而百姓安堵、軍無私焉。亮數挑懿戰。懿不出。乃遣以巾幗婦人之服。亮使者至懿軍。懿問其寢食及事煩簡、而不及戎事。使者曰、諸葛公夙興夜寐、罰二十以上皆親覽。所噉食、不至數升。懿告人曰、食少事煩、其能久乎。
亮病篤。有大星、赤而芒、墜亮營中。未幾亮卒。楊儀整軍還。百姓奔告懿。懿追之。姜維令儀反旗鳴鼓、若將向懿。懿不敢逼。百姓爲之諺曰、死諸葛、走生仲達。懿笑曰、吾能料生、不能料死。

亮、前者(さき)に数しば出でしが、皆、運糧継がず、己(おの)が志をして伸びざらしめしを以って、乃ち兵を分って屯田す。耕す者、渭浜(いひん)居民の間に雑(まじ)り、而も百姓(ひゃくせい)安堵し、軍に私(わたくし)無し。亮、しばしば懿に戦を挑む。懿、出でず。乃ち遣(おく)るに巾幗(きんかく)婦人の服を以ってす。亮の使者、懿の軍に至る。懿、其の寝食及び事の煩簡を問うて、戎事(じゅうじ)に及ばず。使者曰く、「諸葛公、夙(つと)に興(お)き、夜に寝(い)ね、罰二十以上は皆親(みずか)ら覧(み)る。噉食(たんしょく)するところは、数升に至らず」と。懿、人に告げて曰く、「食少なく事煩わし、其れ能(よ)く久しからんや」と。
亮、病篤(あつ)し。大星有り、赤くして芒あり、亮の営中に墜つ。未だ幾(いくばく)ならずして亮卒す。(ちょうし)楊儀、軍を整えて還る。百姓奔(はし)って懿に告ぐ。懿之を追う。姜維(きょうい)、儀をして旗を反(かえ)し鼓を鳴らし、将(まさ)に懿に向かわんとするが若(ごと)くせしむ。懿敢えて逼(せま)らず。百姓之が為に諺(ことわざ)して曰く、「死せる諸葛、生ける仲達を走らしむ」と。懿笑って曰く、「吾能(よ)く生を料(はか)れども、死を料ること能わず」と。


運糧 兵糧の運搬。 渭浜 渭水の水辺。 屯田 兵士がその土地で耕作しながら駐留すること。 巾幗 婦人の髪飾り。 戎事 軍事。 噉食 噉は食らう、食事。 数升 漢の升は合と同じで日本の勺より少し多い。  丞相の次官。 仲達 司馬懿のあざな。 

諸葛亮はこれまで何回も出兵しながら、いつも食糧の補給がうまくいかず、目的を達せられなかったので、今度は兵士を手分けして屯田させることにした。耕作する兵士は渭水の水辺の住民の中に混じったが、百姓たちは安心して生活し、兵士の方にも私欲を満たそうとする者がいなかった。
亮は繰り返し戦いを挑んだが、司馬懿は討って出ようとしなかったそこで亮は婦人服と髪飾りを贈って懿を挑発した。亮の使者が魏の軍営にきたとき、懿は亮の寝食、仕事ぶりなど日常の生活について尋ね、軍事には触れなかった。使者は「公は朝早くから起き、夜更けてから寝みます。杖二十ほどの軽い罪でもご自身で裁かれます。食事は日に数升(勺)しか召し上がりません」と答えた。懿は傍らの者に言った「食が細く、多忙とあれば、そう長い命ではあるまい」
果たして亮は病に罹った。ある夜のこと、赤く大きなほうき星が亮の営中に墜ちた。その後間もなく諸葛亮は亡くなった。次官の楊儀は軍をまとめて撤退にかかった。土地の者が急いで懿に通報し、懿は追撃にかかった。蜀の陣営では姜維が楊儀に勧めて、旗の向きを変え、太鼓を打ち鳴らして魏軍に反撃するかに見せかけた。懿は追撃を止めて引き上げてしまった。土地の者は「死んだ諸葛亮孔明が生きた司馬懿仲達を退散させた」と評したのを聞いて懿は苦笑して「生きている人間なら予想はできるが、死んだ人間ではどうにもならぬ」と言った。