goo blog サービス終了のお知らせ 

寡黙堂ひとりごと

詩吟と漢詩・漢文が趣味です。火曜日と木曜日が詩吟の日です花も酒も好きな無口な男です。

十八史略 張良、橋上に老人と会う 

2010-02-27 11:29:45 | 十八史略
孺子教うべし
良少時、於下邳圯上、遇老人。堕履圯下、謂良曰、孺子下取履。良欲毆之。憫其老、乃下取履。老人以足受之曰、孺子可教。後五日、與我期於此。良如期往。老人已先在。怒曰、與長者期後何也。復約五日。

良少(わか)き時、下邳(かひ)の圯上(いじょう)に於いて、老人に遇う。履(くつ)を圯下(いか)に堕(おと)し、良に謂って曰く、「孺子(じゅし)下って履を取れ」と。良、之を殴(う)たんと欲す。その老いたるを憫(あわれ)み、乃ち下って履を取る。老人、足を以て之を受けて曰く、「孺子教うべし。後五日、我と此に期せん」と。良、期の如く往く。老人已(すで)に先ず在り。怒って曰く、「長者と期して後(おく)るるは何ぞや」と。復(また)五日を約す。

張良がまだ若い頃、下邳という所の橋の上で一人の老人に出会った。老人はわざと履を橋の下に落として「おい若造、下に降りて履を取って来い」と言った。張良は怒って老人を殴ろうと思ったが、年寄りであると不憫に思い、降りて履を拾って来てやった。老人はそれを足で受けて「若造よ、お前は見所がある、ひとつ教えてやろうかい五日後に又ここで会おう」と言った。張良が約束どおり行ってみると老人はすでに来ていて「年上の者と待ち合わせておいて、後れて来るとは何事だ」と怒って、更に五日後に会おうと約束した。

十八史略 赤松子に従って遊ばん

2010-02-25 18:13:35 | 十八史略
留侯張良、謝病辟穀曰、家世相韓。韓滅爲韓報讎。今以三寸舌爲帝者師、封萬戸侯。此布衣之極。願棄人間事、從赤松子遊耳。

留侯張良、病と謝し、穀(こく)を辟(さ)けて曰く、家世よ韓に相たり。韓滅んで韓の為に讎(あだ)を報ず。今三寸の舌を以て、帝者の師と為り、万戸侯に封ぜられる。此れ布衣の極なり。願わくは人間(じんかん)の事を棄てて赤松子(せきしょうし)に従って遊ばんのみ。

留侯張良は病気を理由に官を辞し、穀類を遠ざけ言った。「我が家は代々韓の大臣であったが、韓が滅んでからは高祖に仕えて秦を滅ぼして報復した。いま三寸の舌をもって帝王の軍師となり、一万戸の地に封ぜられている。これは平民に落ちた身には出世の極みというべきであろう。この上は俗事を棄てて、かの赤松子に倣い神仙の間に遊びたいものだ」と。

赤松子 上古の仙人の名

一技術者の死

2010-02-25 10:45:17 | Weblog
昨日通夜に参列して来ました。家内の従姉妹のご主人で、まだ59歳の無念の死でした。
今年早々、電話で近々会いたいと言ったところ「早くしないと会えなくなるよ」と軽く言うのです。私も体調を崩していたので、すぐに行くことができませんでした。2月4日に再入院したとは後で知りました。前日まで通勤していて入院後もタクシーで秋葉原まで往復したと聞き、技術者としての責任感の強さを知らされました。
彼は山口県で生まれた。日本海の水のきれいな海辺、その海のように清らかで、やさしく、誠実に生きてきたと会葬者の方々から伺った。
白木の位牌には 釋誠心 故の名は三輪勝二。彼の業績の一端はネットで窺い知ることができる。

十八史略 西安遷都

2010-02-23 17:40:14 | 十八史略
齊人婁敬説上曰、洛陽天下中。有易以興、無易以亡。秦地被山帯河、四塞以爲固。陛下案秦之故、此搤天下之亢、而拊其背也。上問張良。良曰、洛陽四面受敵。非用武之國。關中左殽函、右隴蜀、阻三面而守。敬説是也。上即日西都關中。

斉人婁敬(ろうけい)、上(しょう)に説いて曰く、洛陽は天下の中なり、徳有れば以て興り易く、徳無ければ以て亡び易し。秦の地は山を被(こうむ)り河を帯び、四塞(しそく)以て固(かため)を為す。陛下秦の故(こ)を案ぜば、此れ天下の亢(こう)を搤(やく)して、其の背を拊(う)つなり、と。上、張良に問う。良曰く、洛陽は四面に敵を受く。武を用うるの国に非ず。関中は殽函(こうかん)を左にし、隴蜀(ろうしょく)を右にし、三面を阻(へだ)てて守る。敬の説、是(ぜ)なり、と。上、即日西して関中に都す。

斉人の婁敬という者が高祖に説いて言った、「洛陽は天下の中心にあります。天子に徳があれば、興りやすく、徳がなければ亡びやすい地です。関中の秦の地は後ろに山をかむり、前に河をめぐらして四方がふさがって、自然のかためを為しています。もし陛下が秦の故地関中を拠(よ)り所とするならば、これは天下の喉もとを押さえつけてその背中を打つようなものです」と。高祖は張良に諮(はか)った。張良は「洛陽は四方から攻撃され易く戦に向いた地ではありません。関中は殽山と函谷関が左に控え、隴州、蜀州の山々が右に聳えて三面が自然に固く守られております。婁敬の説は的を射ております」と。高祖はその日のうちに西に遷(うつ)って関中を都とする事を決めた。

案 安堵におなじ、その所に落ち着いている
亢(こう)を搤(やく)して 亢は首、のど 搤 押さえつける、扼に同じ

十八史略 丁公、臣と為って不忠なり

2010-02-18 18:04:57 | 十八史略
丁公爲項羽將、嘗逐窘帝彭城西、短兵接。帝急顧曰、兩賢豈相厄哉。丁公乃還。至是謁見。帝以徇軍中曰、丁公、爲臣不忠。使項王失天下。遂斬之。曰、使後爲人臣、無效丁公也。

丁公、項羽の将と為り、嘗て逐(お)いて帝を彭城(ほうじょう)の西に窘(くる)しめ、短兵接す。帝急に顧みて曰く、両賢豈相厄せんや、と。丁公乃ち還りぬ。是に至って謁見す。帝以て軍中に徇(とな)えて曰く、丁公、臣と為って不忠なり。項王をして天下を失わしむ、と。遂に之を斬る。曰く、後(のち)の人臣たるものをして、丁公に效(なら)うこと無からしむるなり、と。

丁公というものが項羽の部将になって、かつて高祖を彭城の西に追いつめ、刀で切りつけるところまで迫った。高祖はいきなり振り返って「賢人同士が互いに苦しめ合うこともあるまい」と言った。丁公は高祖を見逃して引き返した。高祖の世になって、丁公が拝謁したところ、高祖は捕えて引き廻し、「丁公は臣下として不忠者である。項王に天下を失わせたのはこやつだ」と、彼を斬り殺した。そして「後の臣下たる者に丁公を見ならわせないようにしたのだ」と言った。

丁公 季布の異父同母の弟。 短兵 剣などの短い武器、短兵急はにわかに
厄 阨に同じ、苦しみ困ること。