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寡黙堂ひとりごと

詩吟と漢詩・漢文が趣味です。火曜日と木曜日が詩吟の日です花も酒も好きな無口な男です。

十八史略 則天武后

2012-12-18 09:47:53 | 十八史略
唐の子孫を殺して殆ど尽くさん

則天武氏、故荊州都督武士彠之女也。太原人。年十四、太宗聞其美、召入後宮。以貞觀十一年爲才人。時天下歌曲、名■媚娘。已成讖。貞觀末、太白屢晝見。太史占云、女主昌。又傳秘記、唐三世後、女主武王代有天下。太宗惡之。嘗與羣臣宴、令各言小名。武衞將軍李君羨、官稱封邑、皆有武字、而小名五娘。太宗愕曰、何物女子、乃爾健邪。或奏、君羨謀不軌。遂誅之。
密問太史李淳風。對曰、臣仰觀天象、俯察暦數、其人已在陛下宮中。不過三十年、當王天下。殺唐子孫殆盡。其兆已成矣。 (■女偏に武)

則天武氏、故(もと)の荊州都督、武士彠(ぶしわく)の女(じょ)なり。太原の人。年十四、太宗其の美を聞き、召して後宮に入る。貞観十一年を以って才人となる。時に天下の歌曲を、■媚娘(ぶびじょう)と名づく。已に讖(しん)を成す。貞観の末、太白しばしば昼見(あら)わる。太史占して云う、「女主昌(さかん)ならん」と。又秘記を伝う、「唐三世の後、女主武王代って天下を有(たも)たん」と。太宗之を悪(にく)む。嘗て群臣と宴し、各々をして小名を言わしむ。武衛将軍李君羨(りくんせん)、官称封邑(かんしょうほうゆう)皆武の字あり、而して小名は五娘(ごじょう)と。太宗愕(おどろ)いて曰く、「何物の女子ぞ、乃ち爾(しか)く健なるや」と。或るひと奏す、「君羨、不軌(ふき)を謀る」と。遂に之を誅す。
密かに太史李淳風(りじゅんぷう)に問う、対えて曰く、「臣、仰いで天象を観、俯して地の暦数を察するに、その人すでに陛下の宮中に在り。三十年を過ぎずして、当(まさ)に天下に王たるべし。唐の子孫を殺して殆ど尽くさん。その兆すでに成れり」と。


太原 山西省太原市 讖 前兆。 太白 金星。 太史 天文、記録を司る官。 小名 幼名。 官称封邑 官は左武衛将軍、封邑は武連県公。 不軌 反逆。太史李淳風 渾天儀を作った。また数学、暦学、天文学の注釈書を著した。

則天武氏はもと荊州都督の武士彠の娘で太原の人である。十四の時、その美貌が太宗の耳に入り、後宮に召された。貞観十一年に才人となり、■媚という名を賜った。おりしも、世間で■媚娘という歌曲が流行っていたので、すでに武后が台頭する予兆があらわれていた。貞観の末、太白星が白昼現れるという凶兆がしばしば起こった。太史が占ってみると「女帝が栄える」と出た。また「唐は三代の後に女帝武王が天下をとるだろう」と記したものがこっそり伝わっていた。それを知った太宗はひどく気に病んだ。
あるとき、群臣と宴のおり、皆の幼名を言わせたところ、武衛将軍の李君羨という者が、官称にも封邑にも武の字が付いており、幼名は五娘と女児の名であった。太宗は「なんといかつい女がいたものだ」と笑っていたが、内心は穏やかでなかった。そしてその後、或る者が「君羨が反逆を企んでいます」と奏上したので遂に決断して誅殺してしまった。それでも不安が払えない太宗は、内密に太史の李淳風に問うた。それに答えて「私が仰いで天の運行を見、俯して地の暦数から察するに、その者はすでに陛下の宮中に在り、三十年を経ぬうちに、天下に王となり、唐王室の子孫をほとんど根絶やしにすることでしょう。それはすでに動かすことはできません」と申し上げた。

十八史略 武后朝をみる 

2012-12-15 08:26:34 | 十八史略
初帝以賤妾子忠爲太子。武后廢之、立后之子弘。弘仁孝、中外屬心。忤后意。鴆之立其次。曰賢。又以事廢之、而立其次哲。
上在位改元者十三、曰永徽・顯慶・龍朔・麟・乾封・總章・咸亨・上元・儀鳳・永隆・開耀・永淳・弘道。凡三十四年。而政在中宮者三十年矣。自褚遂良等死後、羣臣無敢諌者。李善感、嘗因事一諌。人以爲鳳鳴朝陽。上崩。太子哲即位。是爲中宗皇帝。
中宗皇帝初名顯、改名哲、既即位、立韋妃爲后、改元曰嗣聖。明年、武后廢帝爲廬陵王、而立其弟旦。旦擁虡器者七年、改元曰垂拱、曰永昌。太后廢旦爲皇嗣、而稱帝。是爲則天武氏。

初め、帝、賤妾の子忠を太子と為す。武后、之を廃して、后の子弘を立つ。弘、仁孝にして、中外心を属(しょく)す。后の意に忤(さから)う。之を鴆(ちん)して其の次を立つ。賢と曰う。又、事を以って之を廃して、その次哲を立つ。
上、在位改元する者(こと)十三、永徽(えいき)・顕慶・龍朔(りょうさく)・麟徳・乾封(けんぽう)・総章・咸亨(かんこう)・上元・儀鳳・永隆・開耀(かいよう)・永淳・弘道と曰う。凡(すべ)て三十四年。而して政(まつりごと)中宮(ちゅうきゅう)に在る者(こと)三十年なり。褚遂良等死せし自(よ)り後、群臣敢えて諌むる者無し。李善感、嘗て事に因(よ)って一たび諌む。人以って鳳、朝陽に鳴くと為す。上、崩ず。太子哲位に即く。是を中宗皇帝と為す。
中宗皇帝、初めの名は顕、哲と改名す。既に位に即き、韋妃(いひ)を立てて后と為し、改元して嗣聖(しせい)と曰う。明年、武后、帝を廃して廬陵王(ろりょうおう)と為し、而してその弟旦を立つ。旦、虚器を擁する者(こと)七年、改元して垂拱(すいこう)と曰い、永昌と曰う。太后、旦を廃して皇嗣となし、而して帝と称す。是を則天武氏と為す。


属心 心を寄せる、望みを託すこと。 忤 先に殺した蕭淑妃の二人の娘に同情したこと。 鴆して 鴆毒で殺して。 賢 後漢書の注を著したほどすぐれていたが、武后に自殺を命じられた。 事を以って ある者が暗殺された事件で賢が疑われた。 改元十三 実際は儀鳳と永隆の間に調露が入り、十四あった。 中宮 皇后、皇太后、太皇太后、すなわち武后。 虚器を擁す 実権の伴わない地位にあって他人に操られること。

初め高宗は身分の低い側妾の生んだ忠を太子に立てていたが、后が武氏に代わると之を廃して自分の子の弘を立てた。弘は情け深く、朝廷の内外から心を寄せられていた。ところが武后の意に逆らったので毒殺してしまった。次に賢を立てたが、ある事件の関連を疑われて廃位され、弟の哲を立てた。
高宗は位に在って年号を十三回改めた。永徽・顕慶・龍朔・麟徳・乾封・総章・咸亨・上元・儀鳳・永隆・開耀・永淳・弘道という。在位年は三十四年であるが、そのうち政治が武后の手にあったのが三十年に及んだ。
褚遂良等が死んだ後は、あえて諫言する者はなく、李善感がある事で一度だけ諌めたことがあった。人びとは「鳳凰が朝日に鳴いた」と驚いた。
高宗が崩じ、皇太子の哲が立った。これが中宗皇帝である。
中宗皇帝は初め顕と名乗っていたが、後に哲と改名した。位に即いて韋妃を皇后に立て、年号を嗣聖と改めた。しかし翌年、武后は中宗を廃位して廬陵王にして、弟の旦を立てた。旦は名ばかりの天子(睿宗)となって七年、年号を垂拱、永昌と改めた。武后は旦を廃して皇太子にして、自ら皇帝と称した。これが則天武氏である。


十八史略 高宗、高句麗を滅す

2012-12-13 08:32:42 | 十八史略
武后以長孫無忌不助己、深怨之。顯慶四年、削無忌官、黔州安置。遂良先一年卒。至是無忌與初議者、柳奭・韓瑗、皆被殺。
乾封元年、上封泰山、至亳州、尊老君爲太上玄元皇帝。以李勣爲遼東大總管、伐高麗。總章元年、李勣抜平壤、降其王。高麗悉平、置安東都護府。
上元元年、帝稱天皇、后稱天后。

武后、長孫無忌が己を助けざるを以って、深く之を怨む。顕慶四年、無忌の官を削って、黔州(けんしゅう)に安置す。遂良、先立つこと一年にして卒す。是(ここ)に至って無忌と初めの議に与(あずか)る者、柳奭(りゅうせき)・韓瑗(かんえん)、皆殺さる。
乾封(けんぽう)元年、上、泰山に封(ほう)じ、亳州(はくしゅう)に至り、老君を尊んで、太上玄元皇帝と為す。李勣を以って遼東大総管と為し、高麗を伐つ。総章元年、李勣平壌を抜き其の王を降す。高麗悉く平らぎ、安東都護府を置く。
上元元年、帝、天皇と称し、后、天后(てんこう)と称す。


安置 流刑の一種、放逐。 封 天子の即位を天に告げる封禅の儀式。 老君 老子。 

武后は長孫無忌が自分が皇后となるとき、助力しなかったことで深く怨んでいた。顕慶四年(659年)、無忌の官をはく奪して黔州(今の四川省彭水県)に流した。褚遂良はこの一年前に世を去っていたが、嘗て皇后廃立の議に際して無忌に賛同した柳奭・韓瑗らは皆このときに殺された。
乾封元年(666年)、帝は泰山で封禅の儀式を行い、亳州(安徽省亳県)に立ち寄り、老子を尊んで太上玄元皇帝の称号を奉った。
李勣を遼東大総管とし、高麗を討伐させた。総章元年(668年) 李勣は平壌を落し、その王を降伏させて高麗を平定した。この地に安東都護府を置いた。
上元元年(674年)、高宗を天皇と称し、后の武后を天后と称することとした。


十八史略 高宗

2012-12-11 08:32:53 | 十八史略
高宗皇帝名治。母長孫皇后。承乾廢、長孫無忌、力勸太宗立治。在東宮七年。太宗嘗作帝範十二篇以賜。曰、脩身治國盡在其中。一旦不諱、更無言矣。至是即位。長孫無忌・褚遂良、受先帝遺詔輔政。以李勣爲左僕射、尋爲司空。
永徽五年、以太宗才人武氏爲昭儀。
六年、上欲廢皇后王氏、立武昭儀爲后。許敬宗・李義府贊之、褚遂良不可。以問李勣。勣曰、此陛下家事。何必更問外人。事遂決。褚遂良貶、義府參知政事。義府貌若温恭、與人嬉怡、而狡險忌克。人謂、笑中有刀。柔而害物。謂之李猫。

高宗皇帝名は治(ち)。母は長孫皇后なり。承乾の廃せらるるや、長孫無忌、力(つと)めて太宗に勧めて治を立つ。東宮に在ること七年なり。太宗嘗て帝範十二篇を作って以って賜う。曰く、「身を修め国を治むること、尽く其の中に在り。一旦不諱(ふき)なるも、更に言うこと無からん」と。是(ここ)に至って位に即く。長孫無忌・褚遂良(ちょすいりょう)、先帝の遺詔を受けて政を輔(たす)く。李勣(りせき)を以って左僕射と為し、尋(つ)いで司空と為る。
永徽(えいき)五年、太宗の才人武氏を以って昭儀と為す。
六年、上、皇后王氏を廃し武昭儀を立てて后と為さんと欲す。許敬宗・李義府之を賛せしも、褚遂良可(き)かず。以って李勣に問う。勣曰く、「此れ陛下の家事のみ。何ぞ必ずしも更に外人に問わん」と。事遂に決す。褚遂良貶(へん)せられ、義府、参知政事たり。義府、貌(かたち)温恭の若(ごと)くして、人と嬉怡(きい)し、而して狡険忌克(こうけんきこく)なり。人謂(い)う、「笑中に刀有り。柔にして物を害す」と。之を李猫(りびょう)と謂う。


不諱 みまかる、諱は忌み避けること、つまり避けることができない死。 李勣 李世勣のこと、先帝李世民をはばかって死後改めた。 才人、昭儀 後宮の女性の地位、上から夫人(貴妃・淑妃・徳妃・賢妃)嬪(昭儀・昭容・昭媛・充儀・充容・充媛)婕・美人・才人・宝林・御女・采女の順。 参知政事 副宰相。 嬉怡 ともに喜ぶ様子。 狡険忌克 ずるく陰険でねたみ勝とうとする。

高宗皇帝名は治という。母は長孫皇后である。承乾が廃されたとき、皇后の兄の長孫無忌が、太宗に強く勧めて治を皇太子に立てた。東宮にあること七年、その間に太宗が帝範十二篇を作って太子に与えて言うことには、「身を修め国を治める要諦、その中に残らず書いておいた、わしが身に万一のことが起こっても何一つ付け足すことはない」こうして太宗の死後即位した。長孫無忌と褚遂良が遺詔によって政治の輔佐にあたった。畳州に左遷されていた李勣を呼び戻して左僕射とし、やがて三公の司空とした。
永徽五年(654年)、太宗の才人であった武氏を、昭儀として後宮に迎え入れた。
翌年、高宗は皇后の王氏を廃して武昭儀を皇后に立てようとした。許敬宗と李義府が賛同したが褚遂良は可かなかった。それで帝は李勣に意見を求めると、李勣は「これは陛下の身内の事柄です外部の者に相談することではありません」と逃げた。ここに至って高宗は決断した。反対した褚遂良は地方に左遷され、李義府は参知政事に出世した。義府は外見は温和で愛嬌があるが内面は狡猾陰険、他人をねたみ、克とうとする心があった。そこで世間は「笑みの中に刃が隠されている、やさしい顔で人に危害を加える」と評し、李猫と渾名した。


十八史略 創業と守成といずれか難き

2012-12-08 10:12:40 | 十八史略

嘗問侍臣。創業守成孰難。玄齢曰、草昧之初、羣雄竝起、角力而後臣之。創業難矣。魏徴曰、自古帝王、莫不得之於艱難、失之於安逸。守成難矣。上曰、玄齢與吾共取天下、出百死得一生。故知創業之難。徴與吾共安天下、常恐驕奢生於富貴、禍亂生於所忽。故知守成之難。然創業之難往矣。守成之難、方與諸公愼之。自知采爲臣下所畏。常温顔接羣臣、導人使諌、賞諌者以來之。惟末年東征之役、褚遂良嘗諌不聽。
太子立。是爲高宗皇帝。

嘗て侍臣に問う。「創業と守成と孰(いず)れか難き」と。玄齢曰く、「草昧の初め、群雄竝び起こり、力を角(かく)して後之を臣とす。創業難し」と。魏徴曰く「古(いにしえ)より帝王、之を艱難に得て、之を安逸に失わざるは莫(な)し。守成難し」と。上(しょう)曰く、「玄齢は、吾と共に天下を取り、百死を出でて一生(いっせい)を得たり。故に創業の難きを知れり。徴は、吾と共に天下を安んじ、常に驕奢(きょうしゃ)は富貴に生じ、禍乱は所忽(しょこつ)に生ずるを恐る。故に守成の難きを知れり。然れども創業の難きは往きぬ。守成の難きは、方(まさ)に諸公と之を慎まん」と。
自ら神采の臣下の畏るる所となるを知り、常に温顔もて群臣に接し、人を導いて諌めしめ、諌むる者を賞して、以って之を来たしたり。惟だ末年東征の役、褚遂良嘗て諌めしかど聴かざりき。
太子立つ。是を高宗皇帝となす。


草昧 秩序の定まらぬ世の初め。 力を角して 武力で勝敗を決する。 所忽 うっかりするところ。 神采 神々しい風采。 

ある時、側近の臣に問いかけた。「国を興すことと、その国を守り通すこととどちらが難しいだろうか」と。房玄齢は答えた。「この世の秩序が定まらぬ初めには群雄が並び起こり、互いに武力をもって相手をねじ伏せて従わせなければなりませんでした。創業が困難でございます」と。魏徴は「昔からどの帝王も艱難のうちに天下を取りながら、これを安逸のうちに失っております。守成が困難でありましょう」と反論した。太宗はいちいち頷きながら、「玄齢は、吾と共に戦のうちに天下を取り、百死に一生を得てきた。だから創業の難しさが身にしみているのだ。徴はわしと共に天下を安んじ、富貴が驕りを生み、僅かの隙が禍を生ずることを何よりも恐れてきた。だから守成が難いと言う。だが創業の困難は終わった。守成こそ、これから諸公とともに心してゆかねばならない」と言った。太祖は自分の風采が臣下を威圧することを知り、つとめて温顔で臣下に接するようにした。また人が諫言し易いようにしむけ、諫言をした者を厚く遇して、自分の周りに集まるようにした。ただ晩年高麗遠征のとき、褚遂良の諌言を聞き入れなかったことを悔やんだ。
皇太子があとを嗣いだ。これが高宗皇帝である。