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寡黙堂ひとりごと

詩吟と漢詩・漢文が趣味です。火曜日と木曜日が詩吟の日です花も酒も好きな無口な男です。

十八史略 死しては当に鬼となって賊を殺すべし

2013-02-28 08:39:51 | 十八史略
賊將尹子奇陥睢陽。張巡・許遠死之。巡先守雍丘。移軍寧陵、屢破賊。既而入睢陽、與遠共守、屢卻賊。食盡。或欲棄城。巡・遠謀曰、睢陽江・淮之保障。若棄之、賊必長。是無江・淮也。不如堅守以待救。食茶紙。盡。遂食馬。馬盡。羅雀掘鼠。雀鼠又盡。巡殺愛妾以食士。四萬人僅餘四百、終無叛者。賊登城。將士困病不能戰。巡西向再拜曰、臣力竭矣。生既無以報陛下。死當爲鬼以殺賊。城遂陥。巡・遠被執。南霽雲・雷萬春等、三十六人皆被殺。

賊将尹子奇(いんしき)睢陽(すいよう)を陥(おとしい)る。張巡・許遠之に死す。巡、先に雍丘(ようきゅう)を守る。軍を寧陵(ねいりょう)に移し、屡々賊を破る。既にして睢陽に入り、遠と共に守り、屡々賊を卻(しりぞ)く。食尽く。或いは城を棄てんと欲す。巡・遠謀って曰く「睢陽は江・淮の保障なり。若(も)し之を棄てなば、賊必ず長駆せん。是江・淮無きなり。如(し)かず、堅く守って以って救いを待たんには」と。茶紙を食う。尽く。遂に馬を食う。馬尽く。雀を羅し、鼠を掘る。雀鼠又尽く。巡、愛妾を殺して以って士に食(くら)わしむ。四万人僅か四百人を余すも、終に叛く者無し。賊、城に登る。将士困病(こんぺい)して戦うこと能わず。巡、西に向かい再拝して曰く「臣が力竭(つ)く。生きては既に以って陛下に報ゆること無し。死しては当(まさ)に鬼(れいき)となって賊を殺すべし」と。城遂に陥る。巡・遠執(とら)えらる。南霽雲(なんせいうん)・雷萬春等、三十六人皆殺 さる。

保障 砦あるいはささえ防ぐ。 困病 疲れはてること、困憊。 鬼 悪霊。

賊将の尹子奇が睢陽を陥れた。守将の張巡と許遠がこの戦いで死んだ。張巡は以前雍丘を守っていたが、兵を寧陵に移してしばしば賊を破った。次いで睢陽城に入って許遠と力を併せて守り、しばしば賊を撃退したが、遂に食糧が尽きた。或る者は城を棄てて再起を図ろうと主張したが、張巡と許遠が相談した結果「睢陽は長江・淮水地方の守りのかなめになっている。もしこの地を棄てれば賊軍は必ず長駆して侵攻してくるだろうそれでは江・淮は占領される。ここはあくまで守り抜いて救援を待つしかあるまい」と決めた。茶や紙を食った。尽きた。馬を殺して食った。それも尽きた。雀を網で捕えて食った。鼠の穴を掘って食った。雀も鼠も居なくなった。張巡は愛妾を殺して部下に食べさせた。四万人の兵が四百人余りになったが誰一人として背く者はいなかった。賊が城を登って来た時、もはや武器を手にすることもできないほど弱りきっていた。張巡は西に向かって再拝して言った「臣の力は使い果たしました。もはや生きては陛下に報いることはできません。死んで悪霊になって賊をとり殺すしかございません」と。睢陽は遂に陥ちた。張巡と許遠はじめ、南霽雲・雷萬春等三十六人も捕えられて殺された。

十八史略 安慶緒、父禄山を弑殺す

2013-02-26 09:46:49 | 十八史略

至二載、安慶緒殺禄山。禄山自起兵以來、目昏、至是不復見物。又病疽躁暴。欲以嬖妾子代慶緒爲嗣。慶緒使人弑之、而自立。禄山僭號僅一年餘。
上至鳳翔。囘紇遣子葉護、將精兵四千人至。天下兵馬都元帥廣平王俶・副元帥郭子儀、將朔方等軍、及囘紇・西域之衆、發鳳翔、至長安撃賊。賊大潰。大軍入西京。俶留鎭撫三日、引軍東出至洛陽、與囘紇夾撃。賊大敗。遂復東京。安慶緒走保鄴。

至二載、安慶緒、禄山を殺す。禄山、兵を起してより以来、目昏(こん)し。是(ここ)に至って、復(また)物を見ず。又疽(そ)を病んで躁暴(そうぼう)なり。嬖妾(へいしょう)の子を以って慶緒に代えて嗣と為さんと欲す。慶緒、人をして之を弑せしめて、自立す。禄山が僭号(せんごう)、僅か一年余。
上、鳳翔に至る。回紇(かいこつ)、子、葉護(しょうご)を遣わし、精兵四千人を将(ひき)いて至らしむ。天下兵馬都元帥廣平王俶(しゅく)・副元帥郭子儀(かくしぎ)、朔方等の軍、及び回紇・西域の衆を将いて、鳳翔を発し、長安に至って賊を撃つ。賊、大いに潰(つい)ゆ。大軍西京に入る。俶、留って鎮撫すること三日、軍を引いて東に出で洛陽に至り、回紇と夾(はさ)み撃つ。賊、大敗す。遂に東京(とうけい)を復す。安慶緒走って鄴(ぎょう)を保つ。


昏 かすむ。 疽 腫もの。 躁暴 いらだち荒れる。 嬖妾 嬖は気にいり。 西京 長安。 東京 洛陽。 鄴 河南省の地。

至二年(757年)に安慶緒が父禄山を殺した。禄山は乱を起してから、目がかすむようになり、このごろは物が見えなくなっていた。そのうえ腫瘍ができて常に苛立ち乱暴になった。お気に入りの妾の子を慶緒に代えて太子にしようとしたので慶緒は人を遣って禄山を殺させて自ら立った。禄山は皇帝を僭称すること僅か一年余りであった。
肅宗は霊武から鳳翔(今の陜西省の県)に到着した。回紇の王は、子の葉護を精鋭四千騎の将として派遣してきた。天下兵馬都元帥の廣平王俶と副元帥の郭子儀が朔方等の軍や回紇及び西域の軍勢を率いて、鳳翔を発して長安に向かい、賊を攻撃した。賊を潰滅して、大軍が西京長安に入場した。廣平王俶が長安に留まり民を鎮めること三日、再び軍を率いて東進して洛陽に至った。回紇の軍と挟み撃ちしたので、賊は大敗北をした。ここで遂に東京洛陽も奪回した。安慶緒は逃げて鄴まで来て踏みとどまった。

十八史略 肅宗皇帝

2013-02-23 09:24:27 | 十八史略

肅宗皇帝初名璵、改名亨。自忠王爲太子。二十年、而遇禄山之亂。至是即位。京兆李泌、自幼以才敏聞。上在東宮、嘗與泌爲布衣交。遣使召之。謁見於靈武、事無大小與之謀。上皇至成都、遣冊寶如靈武。
遣使徴兵於囘紇。招討節度使房琯、與賊戰于陳濤邪。琯用車戰大敗。

肅宗皇帝、初めの名は璵(よ)、亨(こう)と改名す。忠王より太子と為る。二十年にして禄山の乱に遇う。是(ここ)に至って位に即く。京兆の李泌(りひつ)、幼(よう)より才敏を以って聞こゆ。上、東宮に在りしとき、嘗て布衣の交わりを為す。使を遣わして之を召す。霊武に謁見す。事大小と無く之と謀る。
上皇、成都に至り冊宝を遣わして霊武に如(ゆ)かしむ。
使を遣わして兵を回紇(かいこつ)に徴(め)す。
招討節度使の房琯(ぼうかん)、賊と陳濤邪(ちんとうしゃ)に戦う。琯、車戦を用いて大敗す。


布衣の交わり 身分を超えた交友。 冊宝 譲位の詔書と印璽。 回紇 ウイグル。 招討節度使 招は降る者を招き、討は抗する者を討つの意、節度使は軍団の司令官。 車戦 牛車による古代戦法。

肅宗皇帝の初めの名は璵といった。後に亨と改名した。忠王から皇太子となって二十年、安禄山の乱が起こり、ここに至って即位した。京兆(陜西省西安府)の李泌という者、幼少のころから鋭敏で聞こえていた。太子の頃、この李泌と上下を超えた交わりを結んでいた。使者を遣わして李泌を招き、霊武で会った。肅宗は事の大小を問わず、李泌の意見を求めた。
上皇は肅宗と馬嵬で別れた後、成都に落ち着いて、譲位の詔書と伝国の玉璽を使者に持たせ霊武に行かせた。肅宗は回紇に使者を遣わして兵の増援を請うた。招討節度使の房琯が陳濤邪(咸陽県の東)で戦ったが、牛車を使った戦法で大敗した。これが玄宗の天宝十五年、すなわち肅宗の至徳元年(756年)のことである。


十八史略 杜鴻漸の牋、五度に及ぶ

2013-02-21 09:03:19 | 十八史略

父老擁太子馬、不復得行。使皇孫俶白上。上曰、天也。使喩太子曰、汝勉之。西北諸胡、吾撫之素厚、汝必得其力。且宣旨欲傳位。太子至平涼。朔方留後杜鴻漸、迎入靈武、請遵馬嵬之命。牋五上。乃許。尊上爲上皇天帝。上在位四十五年。改元者三、曰先天・開元・天寶。是爲肅宗皇帝。

父老太子の馬を擁し、また行くことを得ず。皇孫俶(こうそんしゅく)をして上に白(もう)さしむ。上曰く「天なり」と。太子に喩(さと)さしめて曰く「汝、之を勉めよ。西北の諸胡、吾之を撫(ぶ)すること素より厚し。汝必ず其の力を得ん」と。且つ宣旨して位を伝えんと欲す。太子、平涼に至る。朔方の留後(りゅうご)杜鴻漸(とこうぜん)、霊武に迎え入れ、馬嵬の命に遵(したが)わんと請う。牋(せん)五たび上(たてまつ)る。乃ち許す。上を尊んで上皇天帝と為す。上、在位四十五年。改元する者(こと)三、先天・開元・天宝と曰う。太子立つ。是を肅宗皇帝と為す。

擁し 取りまく。 皇孫俶 太子の子。 宣旨 天子の命令。 留後 節度使不在事の代理役。 牋 皇后、太子にたてまつる文書、天子には表という。

父老たちは太子の馬を取り囲んで、留まることを懇願した。太子は子の俶に命じてことの次第を玄宗に申し上げると、玄宗は「これも天命か」とつぶやいて太子に「あとはお前がしっかりやりなさい。わしは今まで西北の胡族に厚く遇してきた。きっと加勢が得られるであろう」と告げさせた上、譲位の宣旨を伝えさせた。太子はこれを固く辞退した。平涼(甘粛省)に来たとき朔方郡の留守役の杜鴻漸が霊武(甘粛省)に迎え入れた。そして馬嵬での玄宗の宣旨に従って即位するよう願い出た。太子への奏上が五度に及んでついに承諾した。
玄宗には上皇天帝の尊号がおくられた。在位四十五年、改元すること三回、先天・開元・天宝といった。こうして即位した太子が肅宗皇帝である。


十八史略 楊貴妃、馬嵬に散る

2013-02-19 13:10:05 | 十八史略

朔方節度使郭子儀、河北節度使李光弼、與賊將史思明戰、大破之、首復河北數郡。副元帥哥舒翰、與賊戰大敗。麾下執翰降賊。賊遂入關。上出奔、次于馬嵬。將士飢疲、皆憤怒、殺楊國忠等、及逼上縊殺貴妃、然後發。父老遮道請留。上命太子慰撫之。

朔方の節度使郭子儀(かくしぎ)、河北の節度使李光弼(りこうひつ)、賊将史思明と戦い大いに之を破り、首(しゅ)として河北の数郡を復す。
副元帥の哥舒翰(かじょかん)、賊と戦って大敗す。麾下(きか)翰を執(とら)えて賊に降る。賊、遂に関に入る。上、出奔して馬嵬(ばかい)に次(じ)す。將士飢疲(きひ)して皆憤怒し、楊国忠等を殺し、及び上に逼(せま)って貴妃を縊殺(いさつ)し、然る後に発す。
父老道を遮って留まらんことを請う。上、太子に命じて之を慰撫せしむ。


関 潼関、陜西省東部の関所。 縊殺 絞め殺すこと。 

朔方の節度使郭子儀と、河北の節度使李光弼が、賊将史思明と戦って大いに破り、まず河北の数郡を奪い返した。しかし副元帥の哥舒翰は大敗を喫し、部下が哥舒翰を捕えて賊軍に投降した。ついに潼関を越えて長安に殺到した。
玄宗は長安を逃れて馬嵬にたどり着き、仮の宿とした。飢えと疲れに苛まれた将士の怒りは楊国忠一族に向けられ、悉く殺された。さらに玄宗にせまって楊貴妃をも縊り殺し、その後出発した。馬嵬の父老たちは行くてを遮って留まることを懇願した。玄宗は皇太子に説得させようとした。