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寡黙堂ひとりごと

詩吟と漢詩・漢文が趣味です。火曜日と木曜日が詩吟の日です花も酒も好きな無口な男です。

十八史略 太子楊勇を廃す

2012-08-30 08:42:13 | 十八史略
王通十二策を献ず
開皇二十年、廢太子勇爲庶人。初帝使勇參政事。時有損。勇性寛厚。率意無矯飾。帝性節儉。勇服用侈。恩寵始衰。勇多内寵、妃無寵死。而多庶子。獨孤皇后深惡之。晉王廣彌自矯飾、爲奪嫡計。后贊帝廢勇、而立廣太子。
龍門王通、詣闕獻太平十二策。帝不能用。罷、教授於河汾之。弟子自遠至者甚衆。
仁壽四年、帝不豫、召太子入居殿中。太子預擬帝不諱後事、爲書問僕射楊素得報。宮人誤送帝所。帝覧之大恚。

開皇二十年、太子勇を廃して庶人と為す。初め帝、勇をして政事を参決せしむ。時に損益あり。勇の性は寛厚なり。率意(そつい)にして矯飾(きょうしょく)無し。帝の性は節倹(せつけん)なり。勇、服用侈(おご)る。恩寵始めて衰う。勇、内寵多く、妃、寵無くして死す。而して庶子多し。独孤皇后(どっここうごう)深く之を悪(にく)む。晋王広、弥(いよいよ)自ら矯飾して、嫡(ちゃく)を奪うの計をなす。后、帝を賛(たす)けて勇を廃せしめ、而して広を立てて太子と為す。
龍門の王通、闕(けつ)に詣(いた)って太平の十二策を献ず。帝用いること能わず。罷(や)めて帰り、河汾(かふん)の間に教授す。弟子(ていし)遠きより至る者甚だ衆(おお)し。
仁壽四年、帝不豫なり。太子を召し、入って殿中に居らしむ。太子預(あらかじ)め帝の不諱(ふき)の後の事を擬(ぎ)し、書を為(つく)って僕射(ぼくや)の楊素に問いて報を得たり。宮人誤って帝の所に送る。帝之を覧(み)て大いに恚(いか)る。


損益 令を削ることと益すこと。他に成功と失敗と。 矯飾 いつわり飾ること。 服用 服装や調度。 内寵 寵姫、愛妾。 独孤皇后 勇の実母。 不諱 死。 闕 宮殿。 河汾 黄河・汾水。 不豫 豫は悦の意、天子の病気。 僕射 宰相。

開皇二十年に、太子の楊勇を廃して庶人に落とした。初め帝は勇に政治に参画、決定させていたが、上手く処理することも、失敗することもあった。勇の性質は心が寛く温厚で率直で飾り気がなかった。ところが文帝がつましく贅沢を嫌ったのに対し、勇は服装にしても調度にいても派手好みであった。それで恩寵に多少の隙間ができた。さらに勇は寵姫を多く抱え、正妃には見向きもしない日が続き、とうとう元妃は悶死して、妾腹の子が多く居た。母の独孤皇后はこれをたいそう憎んだ。晋王の楊広は、うわべをとり繕い、兄に取って代ろうと画策した。独孤皇后はついに文帝に勧めて、勇を廃して広を皇太子に立てた。
龍門の王通が、宮中に参内して、天下太平の十二策を献上したが、文帝は採用することが無かった。王通は仕官を罷めて故郷に帰り、黄河と汾水の間で若者を教育した。遠近から多くの弟子が慕い集まった。
仁寿四年、文帝は病の床に臥し、皇太子の広を宮中に詰めさせた。太子は文帝死後の対策を施すべく、文書をもって僕射の楊素に意見を求めた。楊素からの返信を宮人が誤って文帝のもとに届けたため。帝はひどく腹を立てた。



十八史略 隋の文皇帝

2012-08-28 09:09:12 | 十八史略
隋高祖文皇帝、姓楊氏。名堅。弘農人也。相傳爲東漢太尉震之後。父忠仕魏及周、以功封隋公。堅襲爵。堅生而有異。宅旁有尼寺。一尼抱歸自鞠之。一日尼出。付其母自抱。角出鱗起。母大驚堕之地。尼心動。亟還見之曰、驚我兒、致令晩得天下。及長相表奇異。周人嘗告武帝、晋六茹堅有反相。堅聞之深自晦匿。女爲周宣帝后。周靜帝立。堅以太后父秉政、遂移周祚。即位九年、平陳天下爲一。

隋の高祖文皇帝、姓は楊氏、名は堅。弘農の人なり。相伝う、東漢の太尉震の後(のち)たりと。父の忠、魏及び周に仕えて、功を以って隋公に封ぜらる。堅、爵を襲(つ)ぐ。堅、生まれて異有り。宅の旁(かたわら)に尼寺(にじ)有り。一尼抱き帰って自ら之を鞠(やしな)う。一日尼出ず。其の母に付して自ら抱かしむ。角出で鱗起こる。母大いに驚いて之を地に墜(おと)す。尼(に)心動く。亟(すみやか)に還って之を見て曰く、「我が児を驚かして、晩(おそ)く天下を得しむるを致せり」と。長ずるに及んで相表(そうひょう)奇異なり。周人(しゅうひと)嘗て武帝に告ぐ、「晋六茹堅(ふりくじょけん)、反相有り」と。堅之を聞いて深く自ら晦匿(かいとく)す。女(じょ)、周の宣帝の后となる。周の静帝立つ。堅、太后の父というを以って、政を秉(と)り、遂に周の祚(そ)を移せり。位に即いて九年、陳を平らげて天下一(いつ)となる。

太尉震 後漢安帝のとき宦官と対立した楊震、「天知る、地知る、子(なんじ)知る、我知る」で有名。2011.8.9既出。 鞠 育に同じ。 相表 人相。 晋六茹 楊堅の父忠が西魏の恭帝から賜った鮮卑の姓。 晦匿 才能を隠すこと。 
祚 天子の位。


隋の高祖文皇帝は、姓は楊氏、名は堅。弘農(河南省)の人である。後漢の太尉震の後裔とつたえられる。父の楊忠が、北魏及び北周に仕えて、功績によって隋公に封ぜら、堅はその爵位を継いだ。楊堅は生誕にあたって怪異なことがあった。屋敷の傍らにあった尼寺の一人が連れ帰って養育した。ある日その尼僧が外出する際、生みの母に預けて行った。抱いていると角が生え、鱗が生じた。驚いた母はその子を地面に落としてしまった。胸騒ぎがした尼僧が急ぎ帰ってこれを目のあたりにすると、母にむかって「あなたは自分の子を驚かして、天下を取る時期を遅らせてしまったのですよ」と言った。成長するにつれ人相が凡人と違ってきた。あるひとが「晋六茹堅に謀叛の相が表れております」と武帝に告げた。それを伝え聞いた堅は自分の才智を隠した。
やがて娘が宣帝の皇后となり、ついで静帝が即位すると皇太后の父ということで政治の実権を握り、ついには天子の位をも自分のものにした。即位して九年、陳を平定して天下を一つにまとめた。


十八史略 後主井戸に潜む

2012-08-25 08:26:59 | 自由律俳句

陳主聞有隋兵、謂近臣曰、王氣在此。彼何爲者。孔範曰、長江天塹。豈能飛渡。臣毎患官卑。虜若渡江、定作大尉公矣。陳主以爲然。奏伎縱酒、賦詩不輟。賀若弼自廣漢濟江、韓擒虎自横江宵濟采石。守者皆醉。擒虎遂自新林進直入朱雀門。陳主自投景陽井中。軍人窺井、將下石。乃叫。以縄引之、與張麗華・孔貴嬪、同束而上。俘以歸。後主在位七年。改元者二、曰至、曰禎明。陳自高祖武帝、至是五世、凡二十二年而亡。

陳主、隋兵有りと聞き、近臣に謂って曰く、「王気此に在り。彼何為(なんす)る者ぞ」と。孔範曰く、「長江は天塹(てんざん)なり。豈能く飛び渡らんや。臣毎(つね)に官の卑(ひく)きを患(うれ)う。虜(りょ)若(も)し江を渡らば、定めて大尉公とならん」と。陳主、以為(おも)えらく、「然り」と。伎(ぎ)を奏し酒を縦(ほしいまま)にし、詩を賦して輟(や)めず。賀若弼(がじゃくひつ)、広漢より江を渡り、韓擒虎(かんきんこ)、横江より宵(よる) 采石(さいせき)に済(わた)る。守者皆酔う。擒虎遂に新林より進んで、直ちに朱雀門に入る。陳主、自ら景陽の井中に投ず。軍人井を窺い、将に石を下さんとす。乃(すなわ)ち叫ぶ。縄を以って之を引くに、張麗華・孔貴嬪と、同じく束ねて上がる。俘(とら)えて以(い)て帰る。
後主在位七年。改元すること二、至と曰い禎明と曰う。陳は高祖武帝自り、是に至るまで五世、凡て二十二年にして亡びぬ。


天塹 天然の塹壕。 大尉公 三公の一、軍事の長。 伎 女楽。 以て 連れて。

陳の後主は隋の兵が侵攻してきたと聞き、「建康は帝王の気の存する地だ。彼らに何ができようか」と近臣に言うと、孔範がすかさず「長江は自然の濠で守られています。彼奴らに飛び越えることなどできるはずがありません。臣はかねがね官職が低いと感じております、もしも敵が渡ってきたら、好機到来これを平らげて、三公の位をいただきましょう」と応えた。陳主は安堵して相変わらず歌舞と酒宴に耽り、詩賦に時をすごしていた。この間に隋の将軍賀若弼が広漢より揚子江を渡り、韓擒虎は横江から夜陰に紛れて采石磯に渡ったが、陳の守備兵は残らず酔いつぶれて擒虎軍は新林から直ちに朱雀門に攻め入った。後主は自分から景陽殿の空井戸に身を潜めた。隋の兵が井戸を調べて石を投げ入れようとすると中から叫び声がしたので縄につかまらせて引き上げると、後主・張麗華・孔貴嬪が共に上がってきた。こうして捕えて連れ帰った(589年)
後主は位に在ること七年、改元すること二回、至・禎明がそれである。陳は高祖武帝からここまで五代、あわせて二十二年で滅亡した。

十八史略 郭璞の予言

2012-08-23 09:06:54 | 十八史略

宦官近習、内外連結、宗戚縦横、貨賂公行。孔範與貴嬪、結爲兄弟。範自謂、文武才能、擧朝莫及。將帥微有過失、即奪兵權。由是文武解體、以至覆滅。
後梁主巋殂。太子立。隋主廢而滅之。自詧稱帝於江陵、臣於西魏・周・隋。所統數郡而已。凡三十三年而亡。
隋以晉王廣爲元帥、帥師伐陳。揚素・韓擒虎・賀若弼、分道而出。高熲爲元帥長史。問薛道衡、江東可克乎。對曰、克之。郭璞言、江東分王三百年、與中國合。此數將周。

宦官近習、内外連結し、宗戚縦横し、貨賂(かろ)公行。孔範、貴嬪(きひん)と結んで兄弟となる。範自ら謂(おも)えらく、文武の才能、挙朝及ぶ莫(な)し、と。将帥微(すこ)しく過失有れば、即ち兵権を奪う。是に由って、文武解体し、以って覆滅(ふくめつ)するに至れり。
後梁の主巋(き)殂(そ)す。太子(そう)立つ。隋主廃して之を滅ぼす。詧(さつ)が帝を江陵に称せしより、西魏・周・隋に臣たり。統(す)ぶる所数郡のみ。凡て三十三年にして亡びぬ。
隋、晋王広を以って元帥と為し、師を帥(ひき)いて陳を伐たしむ。揚素・韓擒虎(かんきんこ)・賀若弼(がじゃくひつ)、道を分って出ず。高熲(こうけい)、元帥の長史たり。薛道衡(せつどうこう)に問う、「江東克(か)つべきか」と。対えて曰く、「之に克たん。郭璞(かくはく)の言に、江東分れて王たること三百年にして、中国と合(がっ)せんと。此の数将(まさ)に周(あまね)からんとす}と。


宗戚 一族と外戚と。 縦横 勝手に振る舞うこと。 貨賂 賄賂。 兄弟 義兄妹。 挙朝 朝廷を挙げて。 文武解体 文官・武官がばらばらになる。 覆滅 転覆滅亡。 長史 副官。 郭璞 西晋の人、2月23日既出  周 満たすこと。

宦官と近習とが、内と外とで気脈を通じ、帝の宗族も外戚も勝手気ままにふるまい、賄賂が公然とやりとりされた。孔範は孔貴嬪と義兄妹の契りを結び、「朝廷の何処にも文武の才能で自分に及ぶ者はなかろう」と思い込んだ。そして将軍たちに少しでも落度があるとたちどころに兵馬の権を取り上げてしまった。そのため文官、武官とも君主から離れて陳は滅亡の一途を辿っていった。
後梁の主、蕭巋が死んだ(585年)。太子のが立ったが、翌々年隋の楊堅によって廃せられ、国が滅亡した。後梁は蕭詧が江陵で帝を称してから、西魏、北周、隋に臣下の礼をとり、統治したのも数郡にすぎないまま三十三年で滅んだ。
隋は晋王広(後の煬帝)を元帥とし、兵を率いて陳を伐たせた。揚素・韓擒虎・賀若弼の三人が分かれて軍を進めた。元帥の副官の高熲が薛道衡に「江東の陳に勝てるだろうか」とたずねると、薛が答えて「勝てるでしょう、郭璞の予言によると、江東に分かれて立てた王朝は三百年経つと中国として一つになる、とある。ちょうどこの年数になろうとしています」と言った。


十八史略 玉樹後庭花

2012-08-21 10:02:16 | 十八史略
長城公煬公名叔寶。自爲太子、與事江、爲長夜之飮。即位未幾。起臨春・結綺・望仙閣。各高數十丈、連延數十、皆以沈檀爲之、金玉珠翠爲之飾、珠簾寶帳、服玩瑰麗、近古未有。其下積石爲山、引水爲池、雜植花卉。陳主居臨春閣、貴妃張麗華居結綺、龔・孔二貴嬪居望仙、複道往來。江爲宰輔、不親政事。日與孔範等文士、侍宴後庭。謂之狎客。使諸貴嬪與客唱和。其曲有玉樹後庭花等。君臣酣歌、自夕達旦。

後主長城公煬公、名は叔寶(しゅくほう)。太子たりしより、事(せんじ)江(こうそう)と長夜の飲を為す。位に即いて未だ幾ばくならずして、臨春・結綺(けっき)・望仙閣を起す。各々高さ数十丈、連延数十間、皆沈檀(ちんだん)を以って之を爲(つく)り、金玉珠翠(きんぎょくしゅすい)を以って之が飾となし、珠簾寶帳(しゅれんほうちょう)、服玩瑰麗(ふくがんかいれい)、近古(きんこ)未だ有らず。其の下、石を積んで山と為し、水を引いて池と為し、花卉(かき)を雑(まじ)え植う。陳主は臨春閣に居り、貴妃張麗華は結綺に居り、龔(きょう)・孔の二貴嬪は望仙に居り、複道より往来す。江、宰輔(さいほ)となり、政事を親(みず)からせず。日々に孔範等の文士と後庭に侍宴(じえん)す。之を狎客(おうかく)と謂う。諸々の貴嬪をして、客と唱和せしむ。其の曲に玉樹後庭花等有り。君臣酣歌(かんか)して、夕より旦(あした)に達す。

事 皇后・皇太子の家事をつかさどる官。 沈檀 沈水の香木と栴檀の香木。 服玩 服と身の廻り品。 瑰麗 きわめて美しいこと。 複道 上下二層の渡り廊下。 宰輔 宰相。 後庭 後宮。 狎客 なれなれしい客。 酣歌 酔いかつ歌う。

後主長城公煬公は、名を叔寶という。太子であった時から事の江と、夜を徹しての酒宴に耽った。位に即いて間もなく臨春閣・結綺閣・望仙閣を造営した。いずれも高さ数十丈、長さ数十間におよび、皆、沈香や栴檀の香木で造り黄金や玉、真珠や翡翠で飾り、珠玉で綴られた簾やとばりをかかげ、衣服や身の周りの品もこの上なく美しいものばかりで古今類を見ない華麗さであった。高殿の下は石を積んで築山とし、水をひいて池をつくり、さまざまな草花を植えた。後主自身は臨春閣に住み、貴妃の張麗華は結綺閣に、貴嬪の龔氏・孔氏は望仙閣に住まわせ二層の回廊で往き来した。江は宰相になりながら政治には見向きもせず、毎日孔範等の文人と後宮の酒宴にはべり、世の人に太鼓持ち仲間と揶揄されていた。後主は貴嬪たちに客達と詩歌を唱和させたが、その中に後主自らつくった詩「玉樹後庭花」などがあった。君と臣、飲んでは歌い、歌っては酔って夕べから朝にまで及んだ。

<参考>
玉樹後庭花        陳叔宝
麗宇芳林高閣に対し       新粧の艶質本より城を傾く
戸に映じ嬌を凝らして乍ち進まず 帷を出で態(こび)を含み笑いて相い迎う
妖姫臉(かお)は花の露を含むに似て 玉樹流光後庭を照らす

唐の詩人杜牧は250年ほど後、このように詠じている。

秦淮に泊す                杜牧
煙は寒水を籠め月は沙を籠む   夜秦淮に泊して酒家に近し
商女は知らず亡国の恨み     江を隔てて猶唱う後庭花