王通十二策を献ず
開皇二十年、廢太子勇爲庶人。初帝使勇參政事。時有損。勇性寛厚。率意無矯飾。帝性節儉。勇服用侈。恩寵始衰。勇多内寵、妃無寵死。而多庶子。獨孤皇后深惡之。晉王廣彌自矯飾、爲奪嫡計。后贊帝廢勇、而立廣太子。
龍門王通、詣闕獻太平十二策。帝不能用。罷、教授於河汾之。弟子自遠至者甚衆。
仁壽四年、帝不豫、召太子入居殿中。太子預擬帝不諱後事、爲書問僕射楊素得報。宮人誤送帝所。帝覧之大恚。
開皇二十年、太子勇を廃して庶人と為す。初め帝、勇をして政事を参決せしむ。時に損益あり。勇の性は寛厚なり。率意(そつい)にして矯飾(きょうしょく)無し。帝の性は節倹(せつけん)なり。勇、服用侈(おご)る。恩寵始めて衰う。勇、内寵多く、妃、寵無くして死す。而して庶子多し。独孤皇后(どっここうごう)深く之を悪(にく)む。晋王広、弥(いよいよ)自ら矯飾して、嫡(ちゃく)を奪うの計をなす。后、帝を賛(たす)けて勇を廃せしめ、而して広を立てて太子と為す。
龍門の王通、闕(けつ)に詣(いた)って太平の十二策を献ず。帝用いること能わず。罷(や)めて帰り、河汾(かふん)の間に教授す。弟子(ていし)遠きより至る者甚だ衆(おお)し。
仁壽四年、帝不豫なり。太子を召し、入って殿中に居らしむ。太子預(あらかじ)め帝の不諱(ふき)の後の事を擬(ぎ)し、書を為(つく)って僕射(ぼくや)の楊素に問いて報を得たり。宮人誤って帝の所に送る。帝之を覧(み)て大いに恚(いか)る。
損益 令を削ることと益すこと。他に成功と失敗と。 矯飾 いつわり飾ること。 服用 服装や調度。 内寵 寵姫、愛妾。 独孤皇后 勇の実母。 不諱 死。 闕 宮殿。 河汾 黄河・汾水。 不豫 豫は悦の意、天子の病気。 僕射 宰相。
開皇二十年に、太子の楊勇を廃して庶人に落とした。初め帝は勇に政治に参画、決定させていたが、上手く処理することも、失敗することもあった。勇の性質は心が寛く温厚で率直で飾り気がなかった。ところが文帝がつましく贅沢を嫌ったのに対し、勇は服装にしても調度にいても派手好みであった。それで恩寵に多少の隙間ができた。さらに勇は寵姫を多く抱え、正妃には見向きもしない日が続き、とうとう元妃は悶死して、妾腹の子が多く居た。母の独孤皇后はこれをたいそう憎んだ。晋王の楊広は、うわべをとり繕い、兄に取って代ろうと画策した。独孤皇后はついに文帝に勧めて、勇を廃して広を皇太子に立てた。
龍門の王通が、宮中に参内して、天下太平の十二策を献上したが、文帝は採用することが無かった。王通は仕官を罷めて故郷に帰り、黄河と汾水の間で若者を教育した。遠近から多くの弟子が慕い集まった。
仁寿四年、文帝は病の床に臥し、皇太子の広を宮中に詰めさせた。太子は文帝死後の対策を施すべく、文書をもって僕射の楊素に意見を求めた。楊素からの返信を宮人が誤って文帝のもとに届けたため。帝はひどく腹を立てた。
開皇二十年、廢太子勇爲庶人。初帝使勇參政事。時有損。勇性寛厚。率意無矯飾。帝性節儉。勇服用侈。恩寵始衰。勇多内寵、妃無寵死。而多庶子。獨孤皇后深惡之。晉王廣彌自矯飾、爲奪嫡計。后贊帝廢勇、而立廣太子。
龍門王通、詣闕獻太平十二策。帝不能用。罷、教授於河汾之。弟子自遠至者甚衆。
仁壽四年、帝不豫、召太子入居殿中。太子預擬帝不諱後事、爲書問僕射楊素得報。宮人誤送帝所。帝覧之大恚。
開皇二十年、太子勇を廃して庶人と為す。初め帝、勇をして政事を参決せしむ。時に損益あり。勇の性は寛厚なり。率意(そつい)にして矯飾(きょうしょく)無し。帝の性は節倹(せつけん)なり。勇、服用侈(おご)る。恩寵始めて衰う。勇、内寵多く、妃、寵無くして死す。而して庶子多し。独孤皇后(どっここうごう)深く之を悪(にく)む。晋王広、弥(いよいよ)自ら矯飾して、嫡(ちゃく)を奪うの計をなす。后、帝を賛(たす)けて勇を廃せしめ、而して広を立てて太子と為す。
龍門の王通、闕(けつ)に詣(いた)って太平の十二策を献ず。帝用いること能わず。罷(や)めて帰り、河汾(かふん)の間に教授す。弟子(ていし)遠きより至る者甚だ衆(おお)し。
仁壽四年、帝不豫なり。太子を召し、入って殿中に居らしむ。太子預(あらかじ)め帝の不諱(ふき)の後の事を擬(ぎ)し、書を為(つく)って僕射(ぼくや)の楊素に問いて報を得たり。宮人誤って帝の所に送る。帝之を覧(み)て大いに恚(いか)る。
損益 令を削ることと益すこと。他に成功と失敗と。 矯飾 いつわり飾ること。 服用 服装や調度。 内寵 寵姫、愛妾。 独孤皇后 勇の実母。 不諱 死。 闕 宮殿。 河汾 黄河・汾水。 不豫 豫は悦の意、天子の病気。 僕射 宰相。
開皇二十年に、太子の楊勇を廃して庶人に落とした。初め帝は勇に政治に参画、決定させていたが、上手く処理することも、失敗することもあった。勇の性質は心が寛く温厚で率直で飾り気がなかった。ところが文帝がつましく贅沢を嫌ったのに対し、勇は服装にしても調度にいても派手好みであった。それで恩寵に多少の隙間ができた。さらに勇は寵姫を多く抱え、正妃には見向きもしない日が続き、とうとう元妃は悶死して、妾腹の子が多く居た。母の独孤皇后はこれをたいそう憎んだ。晋王の楊広は、うわべをとり繕い、兄に取って代ろうと画策した。独孤皇后はついに文帝に勧めて、勇を廃して広を皇太子に立てた。
龍門の王通が、宮中に参内して、天下太平の十二策を献上したが、文帝は採用することが無かった。王通は仕官を罷めて故郷に帰り、黄河と汾水の間で若者を教育した。遠近から多くの弟子が慕い集まった。
仁寿四年、文帝は病の床に臥し、皇太子の広を宮中に詰めさせた。太子は文帝死後の対策を施すべく、文書をもって僕射の楊素に意見を求めた。楊素からの返信を宮人が誤って文帝のもとに届けたため。帝はひどく腹を立てた。