寡黙堂ひとりごと

詩吟と漢詩・漢文が趣味です。火曜日と木曜日が詩吟の日です花も酒も好きな無口な男です。

唐宋八家文 柳宗元 封建論(七ノ一)

2014-05-31 08:20:00 | 唐宋八家文
封建論
 天地果無初乎。吾不得而知之也。生人果有初乎。吾不得而知之也。然則孰爲近。曰、有初爲近。孰明之。由封建而明之也。彼封建者、更古聖王堯舜禹湯文武、而莫能去之。蓋非不欲去之也。勢不可也。勢之來、其生人之初乎。不初無以有封建非聖人意也。
 彼其初、與萬物皆生。草木榛榛、鹿豕狉狉。人不能搏噬、而且無毛羽。莫克自奉自衞。荀卿有言、必將假物以爲用者也。夫假物者必爭。爭而不已、必就其能斷曲直者而聽命焉。其智而明者、所伏必衆。告之以直而不改、必痛之而後畏。由是君長刑政生焉。

 天地果して初め無きか。吾得てこれを知らざるなり。生人果して初め有るか。吾得てこてを知らざるなり。然らば則ち孰(いずれ)か近しと為す。曰く、初め有るを近しと為すと。孰かこれを明らかにする。封建に由(よ)ってこれを明らかにするなり。
 彼(か)の封建なるものは、古(いにしえ)の聖王、堯・舜・禹・湯・文・武を更(へ)て、能くこれを去る莫(な)し。蓋(けだ)しこれを去るを欲せざるに非ざるなり。勢い不可なればなり。勢いの来る、それ生人の初めか。初めあらずんば以って封建有る無し。封建は聖人の意に非ざるなり。
 彼その初め、万物と皆生ず。草木榛榛(しんしん)たり、鹿豕(ろくし)狉狉(ひひ)たり。人は搏噬(はくぜい)する能わずして、且つ毛羽(もうう)無し。克(よ)く自ら奉じ自ら衛(まも)る莫(な)し。荀卿(じゅんけい)言える有り、必ず将に物を仮(か)りて以って用を為さんとするものなりと。
 夫(そ)れ物を仮る者は必ず争う。争うて已(や)まずんば、必ずその能く曲直を断ずる者に就いて命を聴く。その智にして明なる者は、伏する所必ず衆(おお)し。これに告ぐるに直を以ってして改めずんば、必ずこれを痛めて後に畏れしむ。是に由りて君長刑政生ず。


封建 封土を分けて諸侯を建てること。 生人 人類。 勢い 成り行き。 榛榛 乱れ茂るさま。 鹿豕 鹿や猪。 狉狉 群がり走るさま。 搏噬 組み合い噛みあう。 荀卿 荀子。 仮 借りる。 君長 指導者、おさ。 刑政 刑罰と政治。

天地は果して初めが無かったのか。私はそれを知り得ない。人類は果して初めがあったのか。私はそれも知り得ない。それでは初めの有る無しどちらが真実に近いといえるか。私は初めが有る方を真実に近いと考える。ではそれをどう証明するか。封建の制度によって証明するのである。
 かの封建制度なるものは、太古の聖天子堯・舜・禹・湯王・文王・武王を通じて廃止することなく続いた。これはまさしく、廃止したくなかったのではなく、成り行き上できなかったのである。その成り行きの起こったのは人類の初めではなかったか。初めがなかったら封建もある訳がない。封建は聖人の考えに拠るものではなかったのである。
 人はその初め万物と一緒に生きてきた。草木は乱れ茂り、鹿や猪は群れ走っていた。人は動物と格闘したり噛み付いたりできず、身を守る毛や羽も無いからわが身を守ることができない。荀子が言うように、人はまさに他のものを借りて自分に役立てながら生きてきたのである。
 他のものを借りて自分に役立ててきた者は必ず他人と争うことになる。争って止まないときは、必ず良い悪いを判断できる人の命に従う。その人に智恵があり見識がある人であれば、従う者が必ず多くなる。当事者に正しい判断を下して、それでも改めない者には必ずこの者を罰して畏れ従うようにさせるのである。こうして統領が生まれ、刑罰・法律が生まれたのである。

十八史略 國家の安危はこの一挙にあり

2014-05-29 08:30:24 | 十八史略

北漢主軍于高平。周前鋒撃之。北漢兵卻。主慮其遁去、趣諸軍亟進。後軍未至。衆心危懼。而主志氣益鋭。合戰未幾、周右軍將樊愛能・何徽先遁。右軍潰。歩軍千餘解甲降。主見軍勢危、自引親兵、犯矢石督戰。宿衞將趙匡胤曰、主危如此。吾屬何得不致死。又謂禁兵將張永曰、賊氣驕。可破也。公引兵乗高、西出爲左翼。我爲右翼以撃之。國家安危、在此一擧。永從之。

北漢の主、高平に軍す。周の前鋒之を撃つ。北漢の兵卻(しりぞ)く。主、其の遁(のが)れ去らんことを慮(おもんばか)り、諸軍を趣(うなが)して亟(すみや)かに進ましむ。後軍未だ至らず。衆心危懼(きぐ)す。而るに主は志気益々鋭し。合戦未だ幾(いくば)くならざるに、周の右軍の将樊愛能(はんあいのう)・何徽(かき)先ず遁(に)ぐ。右軍潰(つい)ゆ。歩軍千余、甲を解いて降る。主、軍勢の危うきを見て、自ら親兵を引いて、矢石(しせき)を犯して督戦す。宿衛の将趙匡胤(ちょうきょういん)曰く「主の危うきこと此くの如し。吾が属何ぞ死を致さざるを得ん」と。又禁兵の将張永徳に謂って曰く「賊、気驕れり。破る可きなり。公は兵を引いて高きに乗じ、西に出でて左翼となれ。我は右翼となって以って之を撃たん。国家の安危は此の一挙に在り」と。永徳之に従う。

北漢の主劉崇は高平に布陣した。周の先鋒がこれを攻撃すると、北漢の兵は後退した。周主は逃がしてなるものかと諸軍を叱咤して烈しく追撃した。後続部隊の到着が遅れたので兵士達は不安を感じたが、周主は志気は益々高かった。合戦間もなく周の右軍の樊愛能と何徽が崩れて逃げ去ったので右翼が総崩れとなった。歩兵千余が武装を解いて降伏した。 周主は味方の形勢危うしと、自ら親衛隊を引き連れて、矢弾を冒して督戦した。これを見て宮城守護の大将の趙匡胤は「上様が危険を冒して奮戦しておられるのに我々が命を棄てずにおられようか」と言い、禁衛の大将の張永徳に「賊軍は勝って増長している。今こそ反撃の時だ、貴公は兵を率いて高い所から西に廻って左翼となれ、私は右翼となってこれを撃とう。国家の安危はこの一戦にある」と叫べば張永徳は合点承知と従った。

唐宗八家文 柳宗元 復讎を駁する議(四ノ四)

2014-05-27 09:58:54 | 唐宋八家文
駁復讎議 (四ノ四)
 周禮、調人掌司萬人之讎、凡殺人而義者、令勿讎、讎之則死、有反殺者、邦國交讎之。又安得親親相讎也。春秋公羊傳曰、父不受誅子復讎可也。父受誅、子復讎、此推刃之道。復讎不除害。今若取此以斷兩下相殺、則合於禮矣。
且夫不忘讎、孝也。不愛死、義也。元慶能不越於禮、服孝死義。是必達理而聞道者也。夫達理聞道之人、豈其以王法爲敵讎者哉。議者反以爲戮、黷刑壞禮。其不可以爲典明矣。請下臣議附於令、有斷斯獄者、不宜以前議從事。謹議。

周礼(しゅらい)に、調人は万人の讎を掌司(しょうし)す、凡そ人を殺して義なる者は、讎とする勿(な)からしめ、これを讎とせば則ち死す、反殺する者有れば、邦国交々(こもごも)これを讎とす、と。また安(いずく)んぞ親親相讎するを得んや。
春秋公羊伝(くようでん)に曰く「父誅を受けずんば、子讎を復するも可なり。父誅を受くるに、子讎を復するは、此れ刃を推すの道なり。讎を復して害を除かず」と。今若(も)し此れを取って、以って両下(りょうか)相殺を断ずれば、則ち礼に合す。
且つ夫(そ)れ讎を忘れざるは孝なり。死を愛(おし)まざるは義なり。元慶能く礼を越えず、孝に服し義に死す。是れ必ず理に達して道を聞く者なり。夫れ理に達して道を聞くの人、豈それ王法を以って敵讎と為す者ならんや。議する者反って以って戮と為すは、刑を黷(けが)し礼を壊(やぶ)る。その以って典と為すべからざること明らかなり。
請う臣が議を下して令に附し、斯(こ)の獄を断ずる者有らば、宜しく前議を以って事に従うべからず。
謹んで議す。


周礼 周代の官制を記した書。 調人 周代の官名。 掌司 つかさどる。 反殺 報復のため殺す。 邦国交々 国中の者みな。 春秋公羊伝 左伝、穀梁伝と共に春秋注釈書三伝の一。 刃を推す 切り合うこと。両下相殺 双方が殺し合うこと。

『周礼』に「調人の官は人々の仇の調和を司る。人を殺しても義にかなっている者には、それを仇として報復することを禁じ、これを仇として討った者は死罪にする。それでも報復のために殺す者がいれば、国中の人がこれを仇にする」とあります。どうして親の仇討ちのその仇討ちなど起きようはずがありません。
『春秋公羊伝』には、「父が法に基づいて処刑されたのでなければ、子は仇を討ってもよい。父が法に基づいて処刑されたのに子が復讐するのは、切り合い殺し合うことである。仇討ちを反復し合って害が除かれない」と言っています。今もし公羊伝の説によって、元慶の事件を判断すれば、礼の本義に合致するのであります。
そもそも父の仇を忘れないのは孝であり、死を顧みず出頭したのは義に従ったからであります。元慶は礼を踏み外すことなく、孝にしたがい義に死んだ者であります。まさに道理に達し、道を知っていた者といえます。道理に達し、道を知っていた者がどうして国法を讎とするでありましょう。元慶の事件を担当した者が、彼を死刑にしたのは刑法の真意をけがし、礼法の秩序を壊したことになります。これを国の法典に加えることなどできないことは明らかです。
 どうか私のこの議論を官に下して、法令に付してください。今後このような復讐事件を断罪する場合には陳子昂の建議に従うべきではありません。
 謹んで申し述べました。


十八史略 世宗皇帝

2014-05-24 10:40:21 | 十八史略
世宗皇帝名榮、本姓柴氏、周祖妻兄柴守禮之子也。周祖無子。故養之。周初領節鎭。已而尹開封。封晉王。周主臨終、命晉王聽政。尋即位。北漢主聞周主殂、大喜、請兵於契丹。契丹遣將楊袞將萬騎。北漢主自將三萬人來。周主欲自將禦之。羣臣皆諌。主曰、崇幸大喪、輕朕年少新立。此必自來。朕不可不往。以吾兵力之強破崇、如山壓卵耳。馮道力爭。惟王溥勸行。

世宗皇帝、名は栄、本姓は柴氏(さいし)、周祖の妻の兄、柴守礼の子なり。周祖子無し。故に之を養う。周の初めに節鎮(せっちん)を領す。已にして開封に尹(いん)たり。晋王に封ぜらる。周主終りに臨んで、晋王に命じて政を聴かしむ。尋(つ)いで位に即く。
北漢主、周主の殂(そ)せしを聞いて大いに喜び、兵を契丹に請う。契丹、将楊袞(ようこん)を遣わして万騎に将たらしむ。北漢主、自ら三万人に将として来る。周主自ら将として之を禦(ふせ)がんと欲す。群臣皆諌(いさ)む。主曰く「崇(しゅう)、大喪を幸とし、朕が年少(わか)くして新に立ちたるを軽んず。此れ必ず自ら来たらん。朕往かざる可からず。吾が兵力の強きを以って崇を破らんこと、山の卵を圧するが如きのみ」と。馮道(ふどう)力め争う。惟だ王溥(おうふ)のみ勧めて行かしむ。


節鎮を領す 節度使の藩鎮を管領すること。 尹 長官。 馮道 (882~954)五代の四朝に仕えた名宰相。 

世宗皇帝は名を栄といい、本姓は柴氏で周の太祖郭威の妻の兄、柴守礼の子である。太祖には子が無かったので、栄を養子にしたのである。栄は周の初めに節度使になって藩鎮を管領したことがあった。間もなく開封府の長官にとなり、晋王に封ぜられた。周の太祖は崩御する前に晋王に命じて政治を摂らせ、後に王位に即いた。
 北漢主の劉崇は周の太祖が死んだと聞いて大いに喜び、契丹に援軍を請うた。契丹は楊袞を遣わして一万騎の大将とした。劉崇も自ら兵三万の将となって南下した。周主の栄は自ら将となってこれを防禦しようとした。群臣は皆これを諌めたが、周主は「劉崇は太宗の崩御を好機として、また私が年若くして即位したのを見くびっている。きっと自ら兵を率いて来るだろう、行かねばなるまい。吾が強大な兵力をもって劉崇を破ることは、山が卵を圧しつぶすようにたやすいことだ」と言って聞かなかった。馮道が強く反対したがただ一人王溥だけが出陣を勧めた。

唐宋八家文 柳宗元 復讎を駁する議 四ノ三

2014-05-22 08:57:02 | 唐宋八家文
駁復讎議 (四ノ三) 
 其或元慶之父、不免於罪。師韞之誅、不愆於法、是非死於吏也。是死於法也。法其可讎乎。讎天子之法、而戕奉法之吏、是悖驁而凌上也。執而誅之、所以正邦典。而又何旌焉。
 且其議曰、人必有子、子必有親。親親相讎、其亂誰救。是惑於禮也甚矣。禮之所謂讎者、蓋以冤抑沈痛而號無告也。非謂抵罪觸法、陥於大戮。而曰彼殺之、我乃殺之、不議曲直、暴寡脅弱而已、其非經背聖不亦甚哉。

 それ或いは元慶の父、罪を免れず、師韞の誅、法に愆(あやま)たざれば、是れ吏に死するに非ざるなり。是れ法に死するなり。法それ讎(あだ)とすべけんや。天子の法を讎として、法を奉ずるの吏を戕(そこな)うは、是れ悖驁(はいごう)して上(かみ)を凌ぐなり。執(とら)えてこれを誅するは、邦典を正す所以なり。而るにまた何ぞ旌(せい)せん。
 且つその議に曰く「人に必ず子有り、子に必ず親有り。親親(しんしん)相讎す、その乱誰か救わん」と。是れ礼に惑えるや甚だし。礼の所謂讎とは、蓋(けだ)し冤抑(えんよく)沈痛して号(さけ)ぶに告ぐる無きを以ってなり。罪に抵(あた)り法に触れて、大戮(たいりく)に陥るを謂うに非ず。而も彼これを殺さば、我乃ちこれを殺すと曰いて、曲直を議せず、寡(か)を暴(そこな)い弱を脅かすのみならば、その経(けい)に非(たが)い聖に背(そむ)くこと、亦た甚だしからずや。

 
愆 過失。 戕う 殺す。 悖驁 悖はもとる、驁は従順でない。 旌す 顕彰する。 親親 肉親を親愛すること。 執 捕える。 冤抑 無実を訴えるすべが無いこと。 大戮 死刑。 経 経書。 

或いは元慶の父が罪を免れず、趙師韞の死刑執行が法に適っていたならば、それは役人に殺されたのではなく、法によって死んだのです。法を仇とすることはできましょうか。天子の法を仇として役人を殺すのは、道理にもとり勝手な行動でお上をないがしろにするものであります。捕えてこれを死刑に処すことは国法を正しく守っているわけです。どうして顕彰することがありましょうか。
その上、陳子昂の議案書にはこう言っています「人には必ず子があり、子には必ず親があります。親愛する親の仇を討った者をまた討たれた子が仇を討つというようになれば、秩序の乱れを誰が救うのでしょうか」と。
これは礼を誤解すること甚だしいと言わざるを得ません。礼にいう仇とは、思うに無実の罪に陥り、訴えるすべが無い場合を言います。罪を犯して死刑に処せられることではありません。しかも誰それが父を殺したから私が仇を討つのだといって、その根本を論ぜず力のない者を殺し、弱い者を脅かすのみならば、経典の教えに違い、聖人に背くことまことに甚だしいことであります。