寡黙堂ひとりごと

詩吟と漢詩・漢文が趣味です。火曜日と木曜日が詩吟の日です花も酒も好きな無口な男です。

唐宋八家文 韓愈 圬者王承福伝 三ノ二

2014-01-30 08:37:03 | 唐宋八家文
圬者王承福伝 三ノ二
嘻、吾操鏝以入貴富之家有年矣。有一至者焉、又往過之則爲墟矣。有再至三至者焉、而往過之則爲墟矣。問之其隣、或曰、噫、刑戮也。或曰、身既死而其子孫不能有也。或曰、死而歸之官也。吾以是觀之、非所謂食焉怠其事、而得天殃者邪。非強心以智而不足、不擇其才之稱否而冒之者邪。非多行可愧、知其不可而強爲之者邪。將貴富難守、簿功而厚饗之者邪。抑豐悴有時、一去一來而不可常者邪。吾之心憫焉。是故擇其力之可能者行焉。樂富貴而非貧賤、我豈異於人哉。
又曰、功大者、其所以自奉也博。妻與子、皆養於我者也。吾能簿而功小。不有之可也。又吾所謂勞力者、若立吾家而力不足、則心又勞也。一身而二任焉、雖聖者不可能也。

「嘻(ああ)、吾鏝(こて)を操(と)って以って貴富の家に入ること年有り。一たび至るものあり、また往きてこれを過(よぎ)れば則ち墟(きょ)となる。再び至り三たび至るもの有り、往きてこれを過れば則ち墟となる。これをその隣に問うに、或いは曰く、噫(ああ) 刑戮(けいりく)せらると。或いは曰く、身既に死して、その子孫有(たも)つこと能わずと。或いは曰く、死してこれを官に帰すと。
吾是を以ってこれを観るに、いわゆる食ろうてそのことを怠り、天殃(てんおう)を得るものに非ずや。心に強(し)うるに智を以ってして足らず、その才の称否(しょうひ)を択(えら)ばずしてこれを冒すものに非ずや。多く愧ずべきを行い、その不可なるを知って強いてこれを為すものに非ずや。将(は)た貴富守り難く、薄き功にて厚くこれを饗(う)けしものか。抑(そもそも)豊悴(ほうすい)に時有りて、一去一来して常とすべからざるものか。吾の心憫む。是の故にその力の能くすべき者を択んで行うなり。富貴を楽しんで貧賎を悲しむは、我豈人に異ならんや」と。また曰く「功の大なる者は、その自奉(じほう)する所以や博し。妻と子とは、皆我に養わるる者なり。吾能(のう)薄うして功小(ちいさ)し。これを有せずして可なり。また吾所謂(いわゆる)力を労する者、若し吾家を立てて力足らずんば、則ち心また労す。一つの身にして二つに任ずるは、聖者と雖も能くすべからざるなり」と。


年有り なが年になる。 刑戮 処刑。 天殃 天罰。 心 頭脳。 称否 称は適、つりあうか否か。 豊悴 盛衰。 自奉 自分の身を養う。 我 われわれ。 吾 私、自分。

「私が鏝を取って富貴の家に出入りするのも長年にわたりますが、一度行っただけの家が再び通りかかると、廃墟になっていたり、二度三度と出入りした家でも、無人になっていることがあります。隣家に聞くと、罪を得て処刑されたとか、主が死んで子孫が家を守れなかったとか、死に絶えて官に没収された、と聞きます。
私が思いますに、その人たちは無駄に飯を食ってろくな仕事もせず、罰があたったのではないでしょうか。或いは頭をしぼっても智慧が足りず、才能の適否を考えないで無理をしていたのではないでしょうか。或いは恥ずべきを承知のうえであえて行ったのではないでしょうか。それとも僅かな功で過分の待遇を受けていたためでしょうか。或いは盛衰には時機があって、代わる代わる巡ってくるのでしょうか。私はこの人達を憐れに思います。ですから自分の能力に見合った仕事をしているのです。私とて富貴を楽しんで貧賤を悲しむ気持ちは人と変わりません。」
またこうも言った。「大きな仕事のできる人は、自分の身を養う手立ても多いものです。妻子はわれわれ働き手に養われるものです。私は能力がとぼしく小さい仕事しかできませんから妻や子が持てなくても仕方ないのです。それに私は力を使う者ですが、もし家庭を持って力足らずだったら、さらに心を苦しめることになります。一つの身で肉体と精神の二つの苦労にたえることは聖人でもできないことです」と。

十八史略 子を生まば当に李亜子の如くなるべし

2014-01-28 08:11:34 | 十八史略
臨終立爲嗣。謂其下曰、此子志氣遠大。必能成吾事。年十七嗣晉王位。即擧兵破梁、解潞圍。自是連勝。梁祖歎曰、生子當如李亞子。吾兒豚犬耳。存勗東併幽州、北卻契丹、南與梁夾河百戰。先是晉陽監軍故唐宦者張承業、爲晉王捃捨財賦、召補兵馬。攻戰連年、接應不乏、皆承業力。承業意在復唐宗社。聞王將稱帝力諌、知不可止、慟哭曰、諸侯決戰、本爲唐家。今王自取之、誤老奴矣。悒悒成疾而卒。

終りに臨み、立てて嗣と為す。其の下(しも)に謂って曰く「此の子志気遠大なり。必ず能く吾が事を成さん」と。年十七にして晋王の位を嗣ぐ。即ち兵を挙げて梁を破り、潞(ろ)の圍(かこ)みを解く。是より連(しき)りに勝つ。梁祖歎じて曰く「子を生まば当(まさ)に李亜子の如くなるべし。吾が児は豚犬のみ」と。存勗(そんきょく)東のかた幽州を併せ、北のかた契丹を卻(しりぞ)け、南のかた梁と河を夾んで百戦す。是より先、晋陽の監軍、故(もと)の唐の宦者張承業、晋王の為に財賦(ざいふ)を捃拾(くんしゅう)し、兵馬を召補(しょうほ)す。攻戦連年接応(せつおう)して乏(とぼ)しかざりしは、皆承業の力なり。承業の意は、唐の宗社を復するに在り。王の将(まさ)に帝と称せんとするを聞いて力諌(りきかん)し、止む可からざるを知るや、慟哭して曰く「諸侯の血戦は本(もと)唐家の為なり。今王自ら之を取り、老奴(ろうど)を誤る」と。悒悒(ゆうゆう)として疾(やまい)を成して卒(しゅっ)す。

亜子 次男。 監軍 戦目付け。 財賦 財と税賦。 捃拾 ともに拾う意、集める。 召補 召集補充。 接応 輜重の接続と士卒にむくいることと。 宗社 宗廟社稷、国家。 力諌 強く諌める。 老奴 承業自身のこと。 悒悒 悒は憂う。

李克用が臨終に際して、存勗を後継ぎにした。部下に向かって「この子は志が大きく将来を見通す能力にすぐれているから、きっとわしの望みを成し遂げることができるであろう」と言って世を去った。存勗は年十七で晋王の位を継ぐと、早速兵を起して梁を破り、潞の囲みを解いた。これより続けて勝利をおさめた。梁の太祖が歎息して「子を生むなら李亜子のようでなければならぬ。それに比べればわしが子などは豚か犬みたいなものだ」と言った。存勗は東の幽州を併合し、北は契丹を退け、南は梁と黄河を挟んで幾度となく戦った。これより以前に晋陽の戦目付けでもと唐の宦官で張承業という者が、晋王の為に財貨や税金をかき集めて軍備を助けたので、幾年にもわたる戦争にも兵糧や兵員の補給に支障をきたさなかったのである。承業の思わくは唐の国家を再建することにあったが、晋王が帝位に就くと知ると、極力諌めた。だが翻意できぬと悟ると、大声でわめき泣いて「諸侯が血を流して戦っているのはもともと唐室の再興の為であった。ところが今王様は自ら皇帝になるとおっしゃる。わしもとんだ見込み違いをしたものだ」と憂い、病を発して死んだ。

唐宋八家文 韓愈 圬者王承福傳 三ノ一

2014-01-25 11:23:03 | 唐宋八家文
圬者王承福傳
圬之爲技、賤且勞者也。有業之其色若自得者。聽其言約而盡。
 問之、王其姓、承福其名、世爲京兆長安農夫。天寶之亂、發人爲兵。持弓矢十三年、有官勲。棄之來歸、喪其土田、手鏝衣食、餘三十年。舍於市之主人、而歸其屋食之當焉。視時屋食之貴賤、而上下其圬之傭以償之。有餘則以與道路之廢疾餓者焉。
 又曰、粟稼而生者也。若布與帛、必蠶績而後成者也。其他所以養生之具、皆待人力而後完也。吾皆頼之。然人不可徧爲。宜乎、各致其能以相生也。故君者、理我所以生者也。而百官者、承君之化者也。任有小大、惟其所能、若器皿焉。食焉而怠其事、必有天殃。故吾不敢一日捨鏝以嬉。夫鏝易能可力焉。又誠有功、取其直。雖勞無愧、吾心安焉。夫力易強而有功也、心難強而有智也。用力者使於人、用心者使人、亦其宜也。吾特擇其易爲而無愧者取焉。

圬者(おしゃ)王承福伝 三ノ一
圬(お)の技たる、賤(せん)にして且つ労するものなり。これを業として、その色自得せる若(ごと)き者有り。その言を聴くに約(やく)にして尽せり。
 これを問うに「王はその姓、承福はその名、世々京兆長安の農夫たり。天宝の乱に、人を発して兵と為す。弓矢を持すること十三年、官勲(かんくん)有り。これを棄てて来り帰るに、その土田(どでん)を喪(うしな)い、鏝(こて)を手にして衣食すること、三十年に余る。市の主人に舎(いえ)して、その屋食(おくしょく)の当(とう)を帰(き)す。時の屋食の貴賎を視て、その圬の傭を上下し、以ってこれに償(つぐな)う。余り有らば、則ち以って道路の廃疾餓者に与う」と。
 また曰く「粟を稼(か)して生ずるものなり。布と帛(きぬ)との若きは、必ず蚕績(さんせき)して後に成るものなり。その他の生(せい)を養う所以の具は、皆人力を待って後に完きなり。吾皆これに頼る。然れども人は徧(あまね)く為すべからず。宜(むべ)なるかな、各々その能を致して以って相生くるや。故に君は我が生ずる所以を理(おさ)むる者なり。而して百官は、君の化(か)を承(う)くる者なり。任に小大有れども、惟だその能くする所のみなるは、器皿(きべい)の若し。食うてその事に怠れば、必ず天殃(てんおう)有り。故に吾敢えて一日も鏝を捨てて以って嬉(あそ)ばず。夫(そ)れ鏝(さかん)は能くし易くして力(つと)むべし。また誠に功有って、その直(あたい)を取る。労すと雖も愧(は)ずること無く、吾が心安(やす)し。夫れ力は強(つと)むれば功有り易く、心は強むとも智有り難し。力を用うる者は人に使われ、心を用う者は人を使う、亦それ宜(よろ)しきなり。吾特(ただ)にその為し易うして愧ずる無きものを択んで取れり。


圬者 左官。 色 顔つき。 約 簡潔。 京兆長安 京兆府長安県。 天宝の乱 安禄山の乱。 発 徴発。 官勲 勲功。 市の主人 市中の人の家。 舎 居住。 屋食 家賃と食費。 当 充当。 貴賎 高低。 傭 手間賃。 稼 植える。 蚕績 養蚕と紡績。 宜 もっともである。 化 教化。 器皿 食器。 天殃 天のわざわい。 嬉 楽しむ。 心 思慮。 心を用う 頭を使う。 

左官の仕事は、人にさげすまれる上に苦労の多いものです。ところがこれを仕事にしていて、満ち足りた顔をして悟りきっているような者がいる。その言葉を聴けば、簡潔にして言い尽くしている。聞いてみれば「私は姓を王、名を承福と申します。代々都近郊の農夫でございました。あの安禄山の乱の折り、徴用されて兵士となって十三年、勲功を立てたこともございましたが、これを捨てて郷里に帰って来ました。ところが土地も田畑も既に無く、以来鏝を手にして三十年、市中の家に間借りして、家賃と食費を払っております。その時々の生活費に見合った左官の手間賃を頂いてこれに充てています。余れば市井の困窮者に分け与えているのです」と。
又次のように言った「粟は植えつけてこそできるものです。木綿や絹は紡績や養蚕を経てできるものです。その他の生活に必要なものも全て人の労力によって完全になるのです。私たちは皆これに頼っています。人は生活必需品のすべてを自分の手で作ることはできません。だから各々その能力を生かして助け合っているのはもっともなことなのです。ですから君主はわれわれの生活のよって立つところを管理するものです。多くの官吏は君主の教化を人民に継承するものであります。任務に大小の違いはありますが、自分の能力に見合った事だけをするということは、用途に見合った食器を使うようなものです。飯を食うだけで仕事を怠ければ天罰が下るでしょう。ですから私は一日も鏝を放り出して遊ぶようなことはしません。左官という仕事は覚え易く働き易いものです。きれいに仕上がればそれなりの賃金がいただけます。苦労はしますが誰愧じることなく心は安らかです。力仕事は努力すれば結果の出るものですが、頭を使う場合は、努力してもなかなか結果は出ないものです。
『体を使う者は人に使われ、頭を働かせる者は人を使う』と言われますが、尤もなことです。私はただやり易く愧じない方を択んで仕事としているのです」。


十八史略 後唐 

2014-01-23 08:22:50 | 十八史略

存勗、幼にして顕る
唐莊宗皇帝名存勗、沙陀人也。本姓朱邪、先世立功賜姓李。父克用有勇略、一目微眇。號獨眼龍。爲唐平黄巣、立大功、王于晉。與朱氏爲仇。暮年頗爲所蹙、憂形於色。存勗幼進言曰、朱氏窮凶極暴、人怨怒。極將斃矣。吾家世襲忠貞。大人當遵養時晦、以待其衰。奈何輕爲沮喪、使羣下失望乎。克用説。

唐の荘宗皇帝、名は存勗(そんきょく)、沙陀(さた)の人なり。本姓は朱邪(しゅや)、先世功を立てて姓を李と賜う。父克用、勇略有り、一目微眇(びびょう)なり。独眼竜と号す。唐の為に黄巣を平らげ、大功を立て、晋に王たり。朱氏と仇を為す。暮年(ぼねん)頗る為に蹙(ちぢ)められ、憂い色に形(あら)わる。存勗、幼にして進言して曰く「朱氏、凶を窮め暴を極め、人怨み神怒(いか)る。極めて将(まさ)に斃(たお)れんとす。吾が家世々忠貞を襲(かさ)ぬ。大人(たいじん)当(まさ)に遵養時晦(じゅんようじかい)して、以って其の衰を待つべし。奈何(いかん)ぞ軽々に沮喪(そそう)を為し、群下をして望みを失わしめんや」と。克用説(よろこ)ぶ。

朱邪 実は部族の名。 微眇 眇は片目がわるいこと。遵養時晦 遵はしたがう晦はくらます、道にしたがって志を養い、時によっては言行をくらますこと。 沮喪 くじけ弱ること。説 は悦に同じ、よろこぶ。

唐(後唐)の荘宗皇帝は、名を存勗といい、沙陀の人である。本姓は朱邪、祖父の赤心が功を立てて姓を李と賜わった。父の克用は、武勇才略にまさり、片目が悪かったので独眼竜と号した。唐の僖宗の時、黄巣の賊を平定して大功を立てて晋王を賜った。梁王の朱全忠と敵対し、晩年には少なからず領地を掠め取られていた。そのため常に憂いの色が顔に表れていた。存勗はまだ幼少ではあったが父に進言して「朱氏は凶暴を窮めております。そのため人は怨み神は怒っております。きっと今に悪虐が極まって斃れるに違いありません。それに比べてわが家は代々忠と節とを守ってきました。さすれば今はひたすら道をまもり、志を養い、愚を装って、朱氏の衰えを待つべきです。どうして軽々しく気落ちした様子をあらわして臣下たちに望みを失わせるのですか」と諌めた。父の克用はこれを聞いて大いに悦んだ。

唐宋八家文 韓愈 試大理評事王君墓誌銘 二ノ二

2014-01-21 12:46:53 | 唐宋八家文
試大理評事王君墓誌銘 二ノ二
曾祖爽、洪州武寧令。祖徴、右衞騎曹參軍。父嵩、蘇州崑山丞。妻上谷侯氏、處士高女。高固奇士。自方阿衡太師、世莫能用吾言。再試吏、再怒去。發狂投江水。初處士將嫁其女、懲曰、吾以齟齬窮。一女憐之、必嫁官人。不以與凡子。君曰、吾求婦氏久矣。唯此翁可人意。且聞其女賢。不可以失。即謾謂媒嫗、吾明經及第。且選即官人。侯翁女幸嫁。若能令翁許我、請進百金爲嫗謝。諾許白翁。翁曰、誠官人邪。取文書來。君計窮吐實。嫗曰、無苦。翁大人。不疑人欺。我得一巻書粗若告身者、我袖以往。翁見未必取眎。幸而聽我、行其謀。翁望見文書銜袖、果信不疑。曰、足矣。以女與王氏。生三子。一男二女。男三歳夭死。長女嫁亳州永城尉姚挺。其季始十歳。銘曰。
 鼎也不可以柱車。馬也不可使守閭。佩玉長裾、不利走趨。祗繋其逢、不繋巧愚。不諧其須、有銜不祛。鑽石埋辭、以列幽墟。

曽祖爽(そう)は洪州武寧(ぶねい)の令。祖微(び)は右衛騎曹参軍(うえいきそうさんぐん)。父崇(すう)は蘇州崑山の丞(じょう)。妻は上谷の侯氏、処士高が女(むすめ)なり。高は固(まこと)に奇士なり。自ら阿衡太師(あこうたいし)に方(なぞら)え、世に能く吾が言を用うるもの莫(な)しと言えり。再び吏に試みられて、再び怒りて去る。狂を発して江水に投じぬ。
 初め処士将(まさ)にその女を嫁(か)せしめんとするに懲りて曰く「吾齟齬(そご)を以って窮す。一女これを憐(いと)しめば、必ず官人に嫁せしめん。以って凡人には与えじ」と。
君曰く「吾婦氏(ふし)を求むること久し。唯此の翁のみ人の意に可なり。且つその女賢なりと聞く。以って失すべからず」と。即ち謾(あざむ)きて媒嫗(ばいう)に謂(い)う「吾は明経(めいけい)及第なり。且つ選ばれて、即ち官人たらん。侯翁の女幸(ねが)わくは嫁せしめよ。若(も)し能く翁をして我に許さしめば、請う百金をして嫗(おうな)の為に謝せん」と。
諾許(だくきょ)して翁に白(もう)す。翁曰く「誠に官人なるか。文書を取り来たれ」と。君計りごと窮して実を吐く。嫗曰く「苦しむこと無かれ。翁は大人(たいじん)なり。人の欺くことを疑わず。我一巻の書の粗(ほぼ)告身(こくしん)の若きものを得て、我袖にして以って往かん。翁見るとも未だ必ずしも取りて眎(み)ざらん。幸いにして我に聴(ゆる)さば、その謀りごとを行わん」と。
翁文書の袖に銜(ふく)めるを望み見て、果たして信じて疑わず。曰く「足れり」と。女を以って王氏に与う。三子を生めり。一男二女なり。男は三歳にして夭死(ようし)す。長女は亳州(はくしゅう)永城の尉姚挺(ようてい)に嫁す。その季(すえ)は始めて十歳なり。銘に曰く、
鼎(かなえ)や以って車を柱(ささ)うべからず。
馬や閭(りょ)を守らしむべからず。
佩玉長裾(はいぎょくちょうきょ)は走り趨(ゆ)くに利あらず。
祇(た)だその逢うに繋(かか)りて巧愚(こうぐ)に繋らず。
その須(もと)めに諧(かな)わず、銜(ふく)むこと有って祛(はら)われず。
石を鑽(き)り辞を埋めて、以って幽墟に列(つら)ぬ。


阿衡太師 殷の伊尹のこと。 再び 二度。 齟齬 食い違い。 媒嫗 なかだちの老女。 明経 科挙の明経科。 告身 任官辞令の書。 眎 視に同じ。 銜 抱く。 閭 村の門。 佩玉長裾 おびだまと長いすそ。 祇 助字、ただ。 巧愚 聡いと愚か。 須に諧わず 時世に合わない。 銜 不平不満。 祛 除く。 幽墟 墓地。

曽祖父の爽(そう)は洪州武寧県の知事。祖父微は近衛騎馬隊長。父崇は蘇州崑山の副知事。妻は上谷の侯氏、処士侯高の娘であった。侯高はまことに奇人であった。自ら殷の伊尹になぞらえ、世間には私の意見を理解し、用いてくれる者などいないと言っていた。二度官吏登用試験に臨んだが、二度とも怒って出てきてしまった。最後には気がふれて長江に身を投げた。
 この処士が娘を嫁がせるにあたって、長い間の貧乏暮しに懲りて、「わしは、こと志と違ってずっと貧乏だった。可愛いわが娘はきっと役人に嫁にやろう、決して凡人になどやるものか」と言っていた。君は「おれは久しく嫁を探していたが、この爺さんは気に入った。その上その娘も賢いと聞く、この機会を逃してなるものか」とつぶやいた。
 そこで仲立ちの婆さんに「われは明経科の及第で近々官吏になるだろう、侯老人の娘を嫁にしたい。老人が承知してくれたらお礼に百金をさしあげよう」ともちかけた。媼は承知して老人に伝えた。老人は「本当に役人なら証明になるものを以っておいで」と言った。君は窮地に陥ったと悟って真実を打ち明けた。媼は「心配ご無用。あの爺さんはおおらかで人を疑ったりしないから、私がそれらしい巻物をたもとに入れて行きましょう。爺さんは見るにしても、じっくりと中身をあらためようとしないでしょう。お前さんさえ承知ならばためしてみましょう」と言った。果たして爺さんはそれらしい物がたもとに入っているのを見て疑いをもたず「承知した」と言って娘を嫁にくれた。三人の子が生まれた。一男二女で男の子は三歳で亡くなった。長女は亳州永城県の警察署長の姚挺に嫁いだ。季娘は今十歳だ。

 鼎は車の台にはならない。
 馬も門の番人にはなれない。
 おびだまや長い裾は走りまわるのに向かない。
 ただその置かれた場に関わっていて、賢か愚かには拘わらない。
 時世に合わせられないと、心の不満は除かれない。

と石に刻んで銘文とし、君の墓に建てた。


元和十年(815年)韓愈四十八歳の作。通常の墓誌銘と違っている。王適が多分に小説的人生を送ったので、後半に嫁とりの逸話を書き加えた。