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寡黙堂ひとりごと

詩吟と漢詩・漢文が趣味です。火曜日と木曜日が詩吟の日です花も酒も好きな無口な男です。

十八史略拾い読み 以て保障を為さんか

2009-01-31 11:50:36 | Weblog
 簡子、尹鐸(いんたく)をして晉陽を為(おさ)めしむ。請うて曰く、以て繭糸(けんし)を為さんか、以て保障を為さんか、と。簡子曰く、保障なるかな、と。尹鐸、其の戸数を損す。
簡子、無恤に謂って曰く、晉國、難有らば、必ず晉陽を以て帰と為せ、と。簡子卒し無恤立つ。是を襄子と為す。
知伯、地を韓・魏に求む。皆之を与う。趙に求む。与えず。韓・魏の甲を率いて、以て趙を攻む。襄子出でて晉陽に走る。三家囲んで之に灌(そそ)ぐ。城浸さざる者三板なり。沈竃(そう)、鼃(あ)を産すれども、民に叛意無し。襄子陰(ひそか)に韓と約し、共に知伯を敗り、知伯を滅ぼして其の地を分つ。襄子、知伯の頭(こうべ)に漆して、以て飲器と為す。

繭糸 繭から糸を引き出すように、たえず租税を取り立てること。  保障 ささえ防ぐこと、間垣で家を守るように仁政を施すこと。 戸数を損す 戸数を減らして租税を軽くした。 帰と為せ 身の拠り所とせよ  甲 兵に同じ。 三板 六尺、一板は二尺。  沈竃、鼃を産す 水に浸かったかまどから蛙が産まれる

十八史略拾い読み 周舎の諤諤を聞かざるなり

2009-01-30 18:39:55 | Weblog
趙のその後の話です 
武、卒す。文子と号す。文子景叔を生む。景叔、簡子鞅(かんしおう)を生む。簡子、臣あり、周舎と曰う。死す。簡子、朝を聴く毎に、悦ばずして曰く、千羊の皮は一狐の腋(えき)に如かず。諸大夫の朝する、徒(ただ)唯唯(いい)を聞くのみ。周舎の諤諤(がくがく)を聞かざるなり、と。簡子の長子を伯魯と曰い、幼を無恤(ぶじゅつ)と曰う。訓戒の辞を二簡に書して、以て二子に授けて曰く、謹んで之を識(しる)せ、と。三年にして之を問う。伯魯は其の辞を挙ぐること能わず。其の簡を求むれば已に之を失えり。無恤は其の辞を誦すること甚だ習う。其の簡を求むれば諸(これ)を懐中より出だして之を奏す。是に於いて無恤を立てて後と為す。

趙武の孫に当たる簡子に周舎という臣がいた。周舎が死んで後、簡子が嘆いて言うには「千匹の羊の皮も狐の腋の毛皮一枚にも適わないものだ。ただ唯々諾々として、周舎のように諤諤と直言する者が一人も居ない」と。
ところで簡子の長男を伯魯、下の子を無恤といった。ある時、簡子は二人を前に訓戒を示して、よく覚えておくよう言いつけた。三年後、訓戒を尋ねてみると、伯魯は答えられず、竹簡も亡くしてしまっていた。無恤の方は、すらすらと暗誦して竹簡も懐から取り出して見せた。そこで無恤を跡取りに立てた。

十八史略拾い読み 孰れか難き

2009-01-29 18:07:43 | Weblog

春秋の時趙夙(ちょうしゅく)という者あり、晉に事(つか)う。夙、成子衰(し)を生む。衰、宣子盾(とん)を生む。-中略― 盾、朔(さく)を生む、大夫屠岸賈(とがんか)朔の族を滅ぼす、朔に遺腹の子武有り。賈之を索(もと)むれども得ず。朔の客(かく)、程嬰(ていえい)・公孫杵臼(しょきゅう)、相与(とも)に謀って曰く、孤を立つると死すると孰(いず)れか難(かた)き、と。嬰曰く、死するは易く、孤を立つるは難きのみ、と。杵臼曰く、子(し)其の難きを為せ、と。杵臼、它(た)の子を取って山中に匿(かく)る。嬰出でて謬(いつわ)って曰く、我に千金を与えば、吾、趙氏の孤の處を告げん、と。賈喜ぶ。乃ち人をして嬰に随(つ)いて杵臼及び孤を殺さしむ。而して趙の真の孤は在り。嬰後に武と賈を滅ぼし、竟(つい)に武を立てて自殺し、以て下(しも)、宣孟及び杵臼に報ず。

趙の大夫屠岸賈が趙朔の一族を滅ぼした。朔には落し胤の武がいたが、探し出されずにいた。朔の客、程嬰と公孫杵臼は、死ぬことと、孤児を守り立てて趙の君にすること、どちらが困難だろうか。と話した。嬰が死は易く、立つるは難きと答えると、杵臼は、あなたがその難儀な方を、やりなさいと言って、他の子を身代わりに取って、山中に隠れた。程嬰が屠岸賈に向って、私に千金を下されば、趙の遺児の居場所を教えましょうと申し出た。賈は人を遣って杵臼と身代わりの子を殺させた。
後に嬰は武と共に賈を滅ぼした。主家を再興させたのち、嬰は自ら命を絶って地下の宣孟(趙盾のこと)と杵臼に報告した。

十八史略拾い読み 齊の終焉

2009-01-28 09:25:23 | Weblog
齊の終焉
襄王卒す。子建立つ。母、君王后(くんおうこう)賢なり。秦に事(つか)うるに謹しみ、諸侯と信あり。君王后卒す。齊の客多く秦の金を受けて反間を為し、王の秦に朝するを勧めて、攻戦の備えを修めず。五国を助けて秦を攻めず。秦王政、既に五国を滅ぼして、兵臨淄に入る。王建遂に降る。共(きょう)に遷(うつ)し、之を松柏の間に處(お)いて死せしめ、齊を以て郡と為す。以下略

襄王が亡くなり子の建が立った。母の君王后は賢く、秦に対しては謹しみ、諸侯には信義を以て対した。君王后が亡くなると、斉の重臣たちの多くは、秦から賄賂を受けて斉王建に秦への朝貢を勧め、秦との交戦の準備も怠って五国を見捨てた。秦王政、五国を滅ぼして、秦の兵臨淄に至り王建は降伏する。共に遷してそこで餓死させ、斉を郡に組み入れた。

十八史略拾い読み 長鋏帰らんか

2009-01-27 18:17:39 | Weblog
初め馮驩(ふうかん)、孟嘗君客(かく)を好むと聞いて来り見(まみ)ゆ。傅舎に置くこと十日(じつ)。劍を彈(だん)じ歌を作って曰く、長鋏(きょう)帰らんか、食に魚無し、と。之を幸舎に遷す。食に魚有り。又歌って曰く、長鋏帰らんか、出づるに輿(よ)無し、と。之を代舎に遷す。出づるに輿有り。又歌って曰く、長鋏帰らんか、以て家を為す無し、と。孟嘗君悦ばず。時に邑入(ゆうにゅう)、以て客に奉ずるに足らず。人をして銭を薛に出さしむ。貸(か)る者多く息を與うること能わず。孟嘗君乃ち驩を進めて之を責めんことを請う。驩往き、與うること能わざる者は、其の券を取って之を焼く。孟嘗君怒る。驩曰く、薛の民をして君に親しましめん、と。孟嘗君竟(つい)に薛公と為り、薛に終りぬ。

馮驩は、孟嘗君が客を好むと聞いていたので面会した。孟嘗君は馮驩を伝舎(下等の宿舎)に泊めた。十日して驩は長剣のつかを叩き、歌を作って言うには、「長剣よ帰ろうじゃないか。膳に魚もついてないから」と。そこで中等の幸舎に移した。今度は魚が付いた。又歌って言うには「長剣よ帰ろうじゃないか。外出に乗り物も無いのだから」と。孟嘗君は馮驩を最上の代舎に移した。今度は外出するのに乗り物がついた。ところが、又歌って言うには、「長剣よ帰ろうじゃないか、これじゃ一家を立てることもできないから」と。さすがの孟嘗君も良い顔をしなかった。 当時孟嘗君は食客達を養うのに充分でなかったので、人を使って薛の人に銭を貸し利息を取っていた。借りた人の多くが利息を払えなかった。そこで孟嘗君は馮驩を取り立てに遣った。驩は利息の払えない人に対して、証文を焼き捨てた。怒った孟嘗君に驩は、「薛の民を永く君に懐き親しませるためです」と言った。孟嘗君はとうとう薛公となり、薛で一生を終わった。