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寡黙堂ひとりごと

詩吟と漢詩・漢文が趣味です。火曜日と木曜日が詩吟の日です花も酒も好きな無口な男です。

唐宗八家文 欧陽脩 上范司諫書 四ノ四

2015-03-12 10:00:00 | 唐宋八家文
今天子躬親庶政、化理明、雖爲無事、然自千里詔執事而拜是官者、豈不欲聞正議而樂讜言乎。今未聞有所言説使天下知朝廷有正士、而彰吾君有納諫之明也。夫布衣韋帶之士、窮居草茅、坐誦書史、常恨不見用。及用也又曰、彼非我職、不敢言。或曰、我位猶卑、不得言。得言矣、又曰、我有待。是終無一人言也。可不惜哉。伏惟、執事思天子所以見用之意、懼君子百世之譏、一陳昌言、以塞重望、且解洛之士大夫之惑、則幸甚幸甚。

范司諫学士に上る書 (四ノ四)
 今、天子躬(みずか)ら庶政(しょせい)を親しくし、化理(かり)清明にして無事と為すと雖も、然れども千里より執事に詔(みことのり)して、是の官に拝せしものは、豈正議を聞きて讜言(とうげん)を楽しむを欲せざらんや。今、未だ言説する所有り、天下をして朝廷に正士有るを知らしめて、吾が君の諫を納(い)るるの明(めい)有るを彰(あきら)かにせしを聞かざるなり。
 夫れ布衣韋帯(ふいいたい)の士、草茅(そうぼう)に窮居(きゅうきょ)し、坐して書史を誦し、常に用いられざるを恨む。用いらるるに及んでや、また曰く「彼は我が職に非ず、敢て言わず」と。或いは曰く「我が位猶お卑(ひく)し、言うを得ず」と。言うを得たるにまた曰く「我待つこと有り」と。是終(つい)に一人の言う無きなり。惜しまざるべけんや。
 伏して惟(おも)んみるに、執事、天子の用いられし所以(ゆえん)の意を思い、君子百世の譏(そし)りを懼れ、一たび昌言(しょうげん)を陳(の)べ、以って重望を塞(みた)し、且つ洛の士大夫の惑いを解かば、則ち幸甚なり幸甚なり。


庶政 諸政、多方面の政務。 化理 教化して治める。 正議 道理に適った議論。 讜言 直言。 布衣韋帯 絹以外の衣となめし皮の帯、無位無官の知識人。 百世の譏り 諫官の失態はその責めを君子から受け、百代まで記録に残る。 昌言 道理に適った言葉。 

 今の世は天子自ら政務全般をみておられます。その徳に感化されまして政治は清く明らかで天下事無きと雖も、詔勅によってあなたさまを千里の彼方から召し出してこの官職に任命されたのは、天子が正しい議論と、直言を聴く楽しみを望んでおられるのではございませんか、ところがこれまであなたさまが何か発言されて「なるほど朝廷には正義を主張する人物が居り、その主張を採り上げる賢明な天子がおられる」と天下に知らしめたという話が聞こえてまいりません。
 そもそも無位無官の士は、あばら家に貧窮の暮らしを強いられ書物を読みながら、任用されないのを恨んでいるものです。それが一たび任用されますと、こう言います「それは私の職務ではありませんので何も申しません」と。或いは「私は身分が低いので言うことができません」と言ったり、発言できる地位に就くと「時期を待っいるのだ」と言います。これでは一人として発言する者が居ないことになります。まことに惜しむべき事です。
 あえて申し上げます。あなたさまが天子の任用された意図に思いを馳せ、君子が百世に残す諫官への非難を懼れ、一たび立派な直言を述べて、大きな期待に応え、さらに洛陽の士大夫たちの疑いを解いて下されば、まことにありがたいことでございます。

唐宗八家文 欧陽脩 上范司諫書 四ノ三

2015-03-10 10:57:28 | 唐宋八家文
 昔韓退之作爭臣論、以譏陽城不能極諫、卒以諫顯。人皆謂、城之不諫蓋有待而然。退之不識其意而妄譏。脩獨以謂不然。當退之作論時、城爲諫議大夫已五年。後又二年、始廷論陸贄、及沮廷齡作相、欲裂其麻。纔兩事爾。當宗時可謂多事矣。授受失宜、叛將強臣羅列天下。又多猜忌進任小人。於此之時、豈無一事可言而須七年耶。當時之事、豈無急於沮廷齡論陸贄兩事也。謂宜朝拜官而夕奏疏也。幸而城爲諫官七年、適遇廷齡陸贄事、一諫而罷、以塞其責。向使止五年六年、而遂遷司業、是終無一言而去也。何所取哉。今之居官者、率三歳而一遷、或一二歳、甚者半歳而遷也。此又非一可以待乎七年也。

范司諫学士に上る書 (四ノ三)
 昔、韓退之は争臣論を作りて、以って陽城の極諫する能わざるを譏(そし)り、卒に諫を以って顕(あらわ)る。人皆謂う「城の諌めざりしは、蓋し待つ有りて然(しか)り。退之その意を識らずして妄りに譏ると。
 脩独り以謂(おも)えらく、然らずと。退之の論を作るの時に当り、城は諫議大夫たること已に五年なり。後また二年にして始めて陸贄(りくし)を廷論し、廷齢(はいえんれい)の相(しょう)と作(な)るを沮(はば)むに及んで、その麻(ま)を裂かんと欲す。纔(わずか)に両事のみ。徳宗の時に当り、多事なりと謂うべし。授受宜しきを失い、叛将、強臣、天下に羅列す。また猜忌(さいき)多く、小人を進任せり。此の時に於いて、豈一事の言うべき無くして、七年を須(ま)たんや。当時の事、豈延齢を沮み陸贄を論ずるの両事より急なるもの無からんや。謂(おも)えらく、宜しく朝に官を拝せば、夕に疏(そ)を奏すべきなりと。
 幸いにして城は諫官たること七年、適々(たまたま)延齢・陸贄の事に遇い、一諫して罷められ、以ってその責めを塞(ふせ)げり。向(さき)に止(た)だ五年六年にして、遂に司業(しぎょう)に遷(うつ)らしめば、是終に一言無くして去らん。何ぞ取る所あらんや。
 今の官に居る者、率(おおむね)三歳にして一たび遷り、或いは一二歳、甚だしきは半歳にして遷る。此れまた一に以って七年に待つべきに非ざるなり。


韓退之 韓愈。 陽城 唐の徳宗の時の諫議大夫(門下省正五品上)  麻 麻紙、辞令。 授受 官職の授与。 猜忌 そねみきらうこと。 疏 意見書。 司業 国子監祭酒の次官。 

昔、韓愈は「争臣論」を著して、陽城が諫官の職務を果たさないことを非難しましたが結局天子を諫めて名を顕しました。人は皆こう言いました「城陽がすぐに諫めなかったのは期するところがあったからに違いなく、韓愈がそれを知らずに非難したのだ」と。
私はそれは違うと思います。韓愈が争臣論を著した時は、陽城が諫議大夫になって既に五年経っておりました。その後二年を経て始めて陸贄の無罪を朝廷で主張し、廷齢の宰相となるのを阻止して辞令を破ろうとした事の二点に過ぎません。
徳宗の時代は何かと問題の多いときでした。官職の授与に公正を欠き、謀叛を企てる将軍や、力を蓄えた臣下がひしめいていました。また天子は猜疑とそねみが強く、つまらぬ者を登用しています。このような時にあって一つも論争すること無く、七年も黙していたのでしょうか。当時、廷齢を阻止し、陸贄を弁護することよりも急を要したものが無かったのでありましょうか。私はこう思います。朝に官を拝命したら、夕べには意見書を提出すべきであります。幸いにして陽城は諫官になって七年、たまたま廷齢と陸贄の件に遇って諫めて免職になり、辛うじて面目を保ちました。もしその前五六年の内に国立大学の副学長にでも転任させられれば、何ら取り上げる所なく終わっていたことでしょう。今官職に就いている者は概ね三年にして転任します。或いは一、二年、甚だしきは半年で転任することさえあります。これをもっても七年も待つことなど出来るはずが無いのであります。

唐宗八家文 欧陽脩 上范司諫書 四ノ二

2015-03-07 10:00:00 | 唐宋八家文
九卿百司郡縣之吏、守一職者、任一職之責。宰相諫官繋天下之事、亦任天下之責。然宰相九卿而下、失職者受責於有司。諫官之失職也、取譏於君子。有司之方行乎一時、君子之譏著之簡册而昭明、垂之百世而不泯。甚可懼也。夫七品之官、任天下之責懼百世之譏、豈不重邪。非材且賢者不能爲也。
近執事始被召於陳州、洛之士大夫相與語曰、我識范君知其材也。其來不爲御史必爲諫官。及命下果然。則又相與語曰、我識范君知其賢也。他日聞有立天子陛下直辭正色面爭廷論者、非他人必范君也。拜命以來、翹首企足、竚乎有聞而卒未也。竊惑之。豈洛之士大夫能料於前、而不能料於後也、將執事有待而爲也。

范司諫学士に上書 (四ノ二)
九卿・百司・郡県の吏、一職を守る者は、一職の責めに任ず。宰相・諫官は天下の事に繋(かか)わり、亦た天下の責めに任ず。然れども宰相九卿よりして下(しも)、職を失するものは、責めを有司に受く。諫官の職を失するや、譏(そし)りを君子に取る。有司の法は一時に行われ、君子の譏りはこれを簡冊に著して昭明にし、これを百世に垂れて泯(ほろ)びず。甚だ懼(おそ)るべきなり。夫れ七品の官にして、天下の責めに任じ百世の譏りを懼る、豈重からずや。材にして且つ賢なる者に非ずんば、為す能わざるなり。
近頃執事の始めて陳州より召さるるや、洛の士大夫相与(とも)に語りて曰く「我は范君を識り、その材なるを知るなり。その来るや御史たらずんば、必ず諫官たらん」と。命の下るに及びて、果たして然(しか)り。則ちまた相与に語りて曰く「我は范君を識り、その賢なるを知るなり。他日天子の陛下に立ち、辞(ことば)を直くし色を正しくして、面争廷論する者有りと聞かば、他人には非ずして、必ず范君ならん」と。
命を拝せられて以来、首を翹(あ)げ足を企(つまだ)てて、聞く有らんことを竚(ま)つも、卒(つい)に未だしなり。窃(ひそか)にこれに惑う。豈洛の士大夫の能く前(さき)に料(はか)りて、而も後に料る能わざるか、将(は)た執事の待つ有りて為すか。


有司 官吏。 簡冊 書き物。 御史 官吏を監察する。 陛下 宮殿の階段。 面争廷論 天子の面前で過ちを諌め、朝廷で論争する。 企 つま先立ちして待つ。

中央の大臣・百官から、地方の官吏など、一つの職務に責任を持たされる者は、その一つの職務に責任をとります。宰相と諫官は国家の政治に関わる職務ですからその全般について責任を取らねばなりません。一方宰相大臣以下、職務をしくじる者は、責めを官吏より受ける。諫官がしくじった場合は、その譏りを君子から受けるのです。官吏による責めはその時限りのものですが、君子の譏りはこれを書き物にして明らかにして百代後まで伝えて消えません。誠に懼れるばかりであります。
七品の官でありながら天下の政治に責任を負い、百世の非難までもおそれる、何という重責でしょうか。才能があり賢明でなければつとまらないことであります。
先ごろあなたが陳州から召し出されたときには洛陽の士大夫たちがこのように話し合っておりました「私は范君をよく知っているが、まれに見る逸材だ。この度の来朝は御史か諫官になるためだろう」と。辞令が下ると果たしてその通りでありました。またこうも申しました「私は范君を知っているが、賢明な人物だ。いつか宮殿の階下に立って率直な言葉と端正な顔つきで天子と朝廷で論争する者があると聞けばそれは范君に違いない」と。
諫官を拝命以来、私は首を長くし、爪先立ちしてあなたのご活躍を待ち望んでおりますがまだ聞こえて参りません。これはどういうことでしょう、洛陽の士大夫の前の予見が当たっており後の予想が当たらなかったのでしょうか、あるいはあなた様の期して待つ所が有るのでしょうか。

唐宗八家文 欧陽脩 上范司諫書 四ノ一

2015-03-05 10:00:00 | 唐宋八家文
月日。具官、謹齋沐拜書。司諫學士執事。前月中得進奏吏報云、自陳州召至闕拜司諫。即欲爲一書以賀、多事怱卒未能也。司諫七品官爾。於執事得之不爲喜。而獨區區欲一賀者、誠以諫官者、天下之得失、一時之公議繋焉。
今世之官、自九卿百執事、外至一郡縣吏、非無貴官大職、可以行其道也。然縣越其封、郡逾其境、雖賢守長不得行。以其有守也。吏部之官、不得理兵部。鴻臚之卿、不得理光禄。以其有司也。若天下之得失、生民之利害、社稷之大計、惟所見聞而不繋職司者、獨宰相可行之、諫官可言之爾。故士學古道者、仕於時不得爲宰相、必爲諫官。諫官雖卑與宰相等。
天子曰、不可。宰相曰、可。天子曰、然。宰相曰、不然。坐乎廟堂之上與天子相可否者、宰相也。天子曰、是。諫官曰、非。天子曰、必行。諫官曰、必不可行。立殿陛之前、與天子爭是非者、諫官也。宰相尊行其道、諫官卑行其言。言行道亦行也。

范司諫(はんしかん)学士に上(たてまつる)書
 月日。具官(ぐかん)、謹んで斎沐(さいもく)し拝書す。司諫学士執事。前月中、進奏吏(しんそうり)の報を得たるに云う、陳州より召されて闕(けつ)に至り、司諫に拝せらると。即ち一書を為(つく)りて以って賀せんと欲するも、多事怱卒(そうそつ)、未だ能わざるなり。
 司諫は七品(しちほん)の官なるのみ。執事に於いてこれを得るも、喜びとは為さず。而も独り区々の一たび賀せんと欲するものは、誠に諫官(かんかん)なるものは、天下の得失、一時の公議の繋(かか)るを以ってなり。
 今の世の官、九卿百執事より外は一郡県の吏に至るまで、貴官大職、以って其の道を行うべきこと無きに非ざるなり。然れども県はその封(ほう)を越え、郡はその境を逾(こ)えては、賢守長と雖も行うことを得ず。その守(しゅ)有るを以ってなり。吏部(りぶ)の官は、兵部を理(おさ)むるを得ず。鴻臚(こうろ)の卿は、光禄を理(おさ)むるを得ず。その司(つかさ)有るを以ってなり。天下の得失、生民の利害、社稷(しゃしょく)の大計の若(ごと)き、惟だ見聞する所のままにして、職司に繋わざるものは、独り宰相これを行うべく、諫官これを言うべきのみ。故に士の古を学び道を懐(おも)う者は、時に仕(つか)うるや、宰相と為るを得ざれば、必ず諫官と為る。諫官は卑(ひく)しと雖も宰相と等し。
 天子曰く「不可なり」と。宰相曰く「可なり」と。天子曰く「然り」と。宰相曰く「然らず」と。廟堂の上に坐して、天子と相可否する者は宰相なり。
 天子曰く「是なり」と。諫官曰く「非なり」と。天子曰く「必ず行わん」と。諫官曰く「必ず行うべからず」と。殿陛(でんぺい)の前に立ちて、天子と是非を争う者は、諫官なり。宰相は尊(たか)くしてその道を行い、諫官は卑(ひく)くしてその言を行う。言行わるれば道も亦行わるるなり。


范司諫 范仲淹、先憂後楽を信念として参政にまでなったがしばしば諫言して左遷された。司諫は政治の欠点を正すことを司った官、執事は貴人に直接渡さず家令に取り次ぎを乞う意。 具官 役に立たない官吏、自身を謙遜して言う。 斎沐 斎戒沐浴。 進奏吏 中央と地方の伝達吏。 陳州 河南省淮陽県。 怱卒 倉卒 あわただしいさま。 七品 一品から九品までの七番目。 区々 小さくつまらない者、私め。 公議 世論。 封 区域。 九卿 九寺の長官、大臣。 百執事 百官。 賢守長 すぐれた太守。 吏部 官吏の任免、功罪を司る中央官庁。兵部 武官の任免、評定を司る。 鴻臚 九寺の一、国賓の接待等を司る鴻臚寺。 光禄 祭祀や宮宴を司る、光禄寺。 殿陛 宮殿の階段。

何月何日、私は謹んで斎戒沐浴して范司諫学士のあなたさまに書を上ります。
先月進奏吏の官報により、陳州より朝廷に召し出さて司諫に任命されたとのこと。すぐに手紙を書いてお祝いすべきところ、多忙なためこれまで出来ませんでした。
 司諫は七品の官に過ぎませんが、あなたさまにはさほどの喜びとは思われないかも知れません。しかも私が一言お祝い申し上げたいのは、まことに諫官の職は天下の得失を左右し、その時の世論に関わる重要なものだからであります。
 現在の官制は、朝廷の大臣、百官から地方の郡県の役人に至るまで高官重職にある者が自分の信念による政治を行えないものではありません。しかし県や郡はその区域を越えては優秀な知事・太守と雖も干渉することはできません。その地には別に太守がいるからです。吏部の官は兵部をおさめることはできず、鴻臚寺の長官が光禄寺に口を出すことはできません。そこの担当者が居るからです。
 天下の得失、人民の利害、国家の方針のように職掌に拘束されること無く、自分の見識に基づいて実行できるのは、宰相だけであり、発言できるのは諫官だけであります。ですから古を学び、理想の実現を願う者は朝廷に仕えて宰相になることができなければ、諫官になるのです。諫官は地位こそ低いものの宰相に等しいと言えます。
 天子が「許さず」と言っても、宰相は「よろしい」と言い、天子が「その通り」と言っても宰相は「そうではりません」と言う。朝廷で天子と事の可否について議論するのが宰相であります。
 天子が「正しい」と言っても諫官は「正しくありません」と申します。天子は「行なおう」と言い、諫官は「行なってはなりません」と申します。宮殿の階段の前に立って、このように政治の是非について論争するのは諫官であります。宰相は身分が高く、その信ずる道を行い、諫官は身分低くしてその言論を主張するのですが、言論が行われてこそ道も行われるのであります。

唐宗八家文 柳宗元 (八)小石城山記

2015-02-28 10:00:00 | 唐宋八家文
自西山道口徑北、踰黄茅嶺而下、有二道。其一西出。尋之無所得。其一少而東。不過四十丈、土斷而川分。有積石、横當其垠。其上爲睥睨梁欐之形。其旁出堡塢、有若門焉。窺之正。投以小石、洞然有水聲。其響之激越、良久乃已。環之可上。望甚遠。無土壤而生嘉樹美箭。奇而堅。其疏數偃仰、類智者所施設也。
 噫、吾疑造物者之有無久矣。及是愈以爲誠有。又怪其不爲之中州、而列是夷狄、更千百年不得一售其伎。是固勞而無用。神者儻不宜如是、則其果無乎。或曰、以慰夫賢而辱於此者。或曰、其氣之靈、不爲偉人而獨爲是物。故楚之南少人而多石。是二者、余未信之。

小石城山の記
西山の道口より北に径(みち)し、黄茅嶺(こうぼうれい)を踰(こ)えて下れば、二道有り。その一は西に出ず。これを尋ぬるに得る所無し。その一は少しく北して東す。四十丈に過ぎず、土断(た)えて川分かる。積石有り、横たわりてその垠(きし)に当たれり。その上は睥睨梁欐(へいげいりょうれい)の形を為す。その旁(かたわら)は堡塢(ほお)を出だし、門の若くなるもの有り。これを窺えば正に黒し。投ずるに小石を以ってすれば、洞然(どうぜん)として水声有り。その響きの激越なること、良(やや)久しくして乃ち已(や)む。これを環(めぐ)りて上るべし。望(なが)め甚だ遠し。土壌無くして嘉樹美箭(かじゅびせん)を生ず。益々奇にして堅し。その疏数偃仰(そさくえんぎょう)は智者の施設する所に類せり。
噫、吾造物者の有無を疑うこと久し。是(ここ)に及んで愈々以って誠に有りと為すまたそのこれを中州に為(つく)らずして、是の夷狄に列し、千百年を更(へ)て一たびもその伎(ぎ)を售(う)るを得ざりしを怪しむ。是れ固(まこと)に労して用無きなり。神なるもの儻(も)し宜しく是(かく)の如くなるべからずんば、則ちそれ果たして無きか。或る人曰く「以って夫(か)の賢にして此に辱しめらるる者を慰む」と。或る人曰く「その気の霊、偉人と為らずして独り是(こ)の物と為る。故に楚の南には人少なくして石多し」と。是の二者、余未だこれを信ぜず。


睥睨梁欐 睥睨は城の低い垣。 堡塢 砦の土塁。 洞然 穴の中から聞えてくる音。 疏数偃仰 疏数は粗雑と密接、偃仰は俯仰。 中州 中国の中央部。 伎を售る 技を売る。 儻し もし。 

 西山への入り口から北に道を辿って黄茅嶺を越えて下ると、道は二筋に分かれる。その一つは西に向かう。これを辿ってみると見るべきものが無かった。その一方は少し北に行って東に曲がる。四十丈も至らずに地面が切れて川が遮っていた。積み重なった石が横たわって川岸に沿い、その上は城の土塀か家のはりのように盛り上がっている。その傍に砦の土塁のように突き出たところがあり、門のような所もある。覗いて見ると真っ暗だ。小石を投げてみると、どぼんと水音がする。その音は激しく響き、しばらくして止んだ。この石城は廻り込んで登ることができる。そこからは遥か遠くまで眺望がきく。土が無いのに立派な樹や美しい竹が生えている。そのため益々珍しくしっかりした姿に見える。それらはまばらであったり密であったり、上を向いたり下を向いたり、さながら智慧ある人が配置したようである。
 ああ、私は久しく造物者の存在を疑っていた。しかし今この石城の奇勝を見て、造物者が居ると思うようになった。しかし一方ではこの名勝を都近くにつくらず、この辺境の地に出現させ、千年百年を経ても一度もその技を売り示すことができなかったことを不思議に思った。これでは苦労しても何の役に立たない。神妙な力を持つものがこんな無駄をするべからざるとすれば、やはり造物者は居ないのだろうか。
ある人が言った「この絶景は、賢くしてこの地に流され辱しめられている人を慰めるためだ」さた或る人は「この地の霊妙な気が、偉大な人物となって現れずに、この山水の美となって表れたのだ。だから楚の南には優れた人が少なくて名石が多いのだ」と。この二つの説を私はまだ信じない。


以上で柳宗元を終了します。韓愈と柳宗元が唐の人、他の六家は宋時代となり、およそ二百年の空白があります。