寡黙堂ひとりごと

詩吟と漢詩・漢文が趣味です。火曜日と木曜日が詩吟の日です花も酒も好きな無口な男です。

十八史略 徳昭自刎す

2014-11-29 10:00:00 | 十八史略
命潘美伐北漢。尋親征圍太原。劉繼元出降。北漢亡。詔征契丹。易州・涿州來降。上攻幽州。踰旬不下。遂班師。郡王昭從征幽州。軍中嘗夜驚。不知上所在。有謀立昭者。上聞不悦。及歸以北征不利、不行平北漢之賞。昭言之。上大怒曰、待汝自爲之。賞未晩也。昭退而自刎。

潘美に命じて北漢を伐たしむ。尋(つ)いで親征して太原を囲む。劉継元出で降る。北漢亡ぶ。
詔(みことのり)して契丹を征す。易州・涿州(たくしゅう)来降す。上、幽州を攻む。旬を踰(こ)えて下らず。遂に師を班(かえ)す。郡王徳昭、従って幽州を征す。軍中嘗て夜驚く。上の在る所を知らず。徳昭を立てんと謀る者有り。上聞いて悦ばず。帰るに及んで、北征利あらざるを以って、北漢を平らぐるの賞を行わず。徳昭之を言う。上、大いに怒って曰く「汝が自ら之を為さんを待つ。賞すること未だ晩(おそ)からざるなり」と。徳昭退いて自ら刎ぬ。


太宗は潘美に命じて北漢を征伐させた。次いで自ら出征して太原をとり囲んだ。北漢王の劉継元が城を出て降伏し北漢は亡んだ。
太宗は詔を発して契丹を征伐した。易州と涿州が降伏した。さらに太宗は幽州を攻めた。十日を過ぎても降らなかったので軍を引き返した。郡王徳昭も太宗に従って幽州征伐に加わっていたが、ある夜軍中が騒がしくなった。一時太宗の行方がわからなくなった。それで徳昭を立てようとする者があった。太宗はそれを耳にして不快に思った。都に帰ると、北征がうまくいかなかったとして、恩賞を行わなかった。すると徳昭がこれを持ちだすと、太宗は大変不機嫌になって「その方が天子となった時に恩賞を行え、それまで待っても遅くはあるまい」と言った。徳昭は憤慨するとその場を立ち去って自刎してしまった。


唐宋八家文 柳宗元 梓人傳 (四の三)

2014-11-27 09:38:51 | 唐宋八家文
能者進而由之、使無所。不能者退而休之、亦莫敢慍。不衒能、不矜名、不親小勞、不侵衆官、日與天下之英材、討論其大經。猶梓人之善運衆工、而不伐藝也。
夫然後相道得而萬國理矣。相道既得、萬國既理、天下擧首而望曰、吾相之功也。後之人循跡而慕曰、彼相之才也。士或談殷周之理者、曰伊傅周召。其百執事之勤勞、而不得紀焉。猶梓人自名其功、而執用者不列也。
大哉相乎、通是道者、所謂相而已矣。其不知體要者、反此。以恪勤爲公、以簿書爲尊、衒能矜名、親小勞、侵衆官、竊取六職百役之事、听听於府廷、而遣其大者遠者焉。所謂不通是道者也。猶梓人而不知繩墨之曲直、規矩之方圓、尋引之短長、姑奪衆工之斧斤刀鋸以佐其藝、又不能備其工、以至敗績用而無所成也。不亦謬歟。

能者は進めてこれを由(もち)うれども、徳とする所無からしむ。不能者は退けてこれを休(や)むれども、亦た敢て慍(いきどお)る莫(な)し。能を衒(てら)わず、名を矜(ほこ)らず、小労を親(みずか)らせず、衆官を侵(おか)さず、日々に天下の英才と、その大経(たいけい)を討論す。猶お梓人の善く衆工を運(めぐ)らして芸を伐(ほこ)らざるがごときなり。
それ然る後に相の道得て、万国理(おさ)まる。相の道既に得て、万国既に理まれば、天下首(こうべ)を挙げて望んで曰わん「吾が相の功なり」と。後の人、跡に循(したが)い慕って曰わん「彼の相の才なり」と。士の或いは殷周の理(まつりごと)を談ずる者は「伊・傅・周・召」と曰う。その百執事の勤労して、而も紀するを得ず。猶お梓人自らその功を名のりて、用執る者を列せざるがごときなり。
 大なるかな相や、是の道に通ずる者は、所謂相のみ。その体要を知らざる者は此に反す。恪勤(かくきん)を以って公と為し、簿書を以って尊と為し、能を衒(てら)い名を矜(ほこ)り、小労を親(みずか)らし、衆官を侵し、六職百役(りくしょくひゃくえき)の事を窃取(せっしゅ)し、府廷に听听(ぎんぎん)として、その大なるもの遠なるものを遺(わす)る。所謂是(こ)の道に通ぜざる者なり。猶お梓人にして縄墨の曲直、規矩之方円、尋引(じんいん)の短長を知らずして、姑(しばら)く衆工の斧斤刀鋸を奪って、以ってその芸を佐(たす)け、またその工を備うる能わずして、績用を敗りて成る所無きに至るがごときなり。亦た謬(あやま)らずや。


徳 恩恵。 大経 礼記・左氏春秋。因みに中経は詩経と儀礼と周礼、易経・書経・春秋公羊伝・穀梁伝を小経という。伊・傅・周・召 伊尹(いいん)殷の賢人・傅説(ふせつ)殷の賢相・周公 周公旦・召公、周の武王の弟、奭。 恪勤 職務を忠実に勤める。 窃取 ぬすみ取る。 六職百役 前出。 听听 犬のように吠え合う。績用 手柄。

 才能のある者を登用しても、宰相の恩恵によるものだと思わせてはいけない。また才能の無い者を辞めさせても、逆恨みさせぬようにする。能力をひけらかさず、名をほこらず、小さい仕事に手を出さず、多くの官職に口を出さず、毎日天下の英才と政治の要諦を討論する。これも棟梁が多くの大工を指揮して働かせ、自ら技術を誇らないのと同じである。
 このようであってこそ宰相の在り方が確立され、天下が治まる。宰相の在り方が確立され天下が治まれば、天下万民が仰ぎ見て「われらの宰相の功績だ」と言うだろうし、後の人が宰相の足跡を追慕して「あの宰相の力によるものだ」と言うだろう。士のある者で、殷周の政治を議論する者は「伊尹や傅説ら殷の賢相、周公旦や召公のような聖人に匹敵する」と言うだろう。部下の百官がそれぞれの仕事をしても名を留めることが無い。すなわち棟梁が自分の名を残し、他の者の名が記されないのと同じである。
偉大なる宰相―この道理を心得ているのはここで言う宰相だけである。政治の要諦を知らない者はこの反対で、職務を忠実に勤めることのみ大切と考え、帳簿書類を尊重し、能力をひけらかして名誉を誇り、小さい仕事に手を出て一般の官職に口をはさみ、大臣の職務や百官の仕事を取り上げて役所で大声を挙げわめいている。大切な事や遠い将来のことをそっち退けにしている。これは道理を心得ていないものである。丁度棟梁でありながら墨縄の曲直、定規の円や角、物差しの長短を知らずして大工の斧や鋸を取り上げて、彼等の仕事の手助けをする。またそのため優秀な大工を備えることができずに、仕事の出来を悪くし、完成することができない事態になるようなものである。これは間違っているだろう。

十八史略 太宗即位す

2014-11-25 10:19:37 | 十八史略
后見晉王、愕然曰、吾母子之命、皆託官家。王曰、共保富貴。無憂也。王即位。更名。
秦王廷美尹開封。改封齊王。昭封武功郡王。
遣使分行州縣、廉察官吏、第其優劣。罷軟不勝任、惰慢不親事、免官。贓吏配者、遇赦不敍。大理評事陳舜封、奏事口捷、擧止類倡優。問誰氏子。對以父爲伶官。上曰伶、汝眞雜類。豈得任望官。改授殿直。陳洪進來朝、獻漳・泉二州。 呉越王錢俶來朝。遂獻其地。

后(こう)、晋王を見て愕然として曰く「吾が母子の命は、皆官家に託す」と。王曰く「共に富貴を保(ほ)せん、憂うる無かれ」と。王、位に即く。名を(こう)と更たむ。秦王廷美、開封に尹(いん)たり。改めて斉王に封ぜらる。徳昭、武功郡王に封ぜらる。
使いを遣わして州県に分行して官吏を廉察(れんさつ)し、其の優劣を第せしむ。罷軟(ひなん)にして任に勝(た)えず、惰慢(だまん)にして事を親(みず)からせざるは、官を免ず。
贓吏(ぞうり)にして配せらるる者は、赦に遇うも敍(じょ)せず。
大理評事陳舜封、事を奏するに口捷(はや)くして、挙止倡優(しょうゆう)に類す。問う「誰氏(たれし)の子ぞ」と。対(こた)うるに父伶官(れいかん)たるを以ってす。上曰く「汝は真に雑類なり、豈清望の官に任ずるを得んや」と。改めて殿直を授く。
陳洪進(ちんこうしん)来朝し、漳(しょう)・泉二州を献ず。呉越王銭俶(せんてき)来朝す。遂に其の地を献ず。


官家 天子。 廉察 廉は調べる。 第 等級。 罷軟 罷は疲弊、軟は軟弱。 贓吏 収賄した官吏。 配 配流。 赦 赦免。 大理評事 刑罰を掌った裁判官。 倡優 役者。 伶官 楽人。 清望 人物が高尚であるという評判。 殿直 殿中の宿直役。 漳(しょう)・泉二州 共に今の福建省の地。

皇后は太祖のもとに駆けつけると、徳芳ではなく晋王が居るのを見て愕然として「私たち親子の運命はすべて晋王にお任せします」と言った。晋王は「お二人共に富貴を保つようにいたします、ご心配には及びません」と言った。
晋王が位に即いた。後に名をと改めた。弟秦王の廷美は開封の長官とし、改めて斉王に封じ、太祖の長男の徳昭を武功郡王に封じた。
太宗は使者を遣わして州や県に行かせて官吏の治績を視察させ、その優劣によって等級をつけさせ、疲弊軟弱で任務にたえない者や怠慢で自分から仕事をしない者は免官させた。賄賂を取った官吏で流罪になった者は、大赦になっても再び任官しないことにした。
大理評事であった陳舜封という者がある事を奏上したが、早口で動作が役者のようであったので、帝が「その方は何者の子であるか」と問うと「私の父は楽人でございます」と答えると帝は「そなたはまことに下賤の者である。とても人の望む要職に就けておくことができようか」と言って、殿中の宿直役に貶めた。
陳洪進が来朝し、漳・泉二州を献じた。呉越王銭俶が来朝して、とうとうその地を献じた。


唐宋八家文 柳宗元 梓人傳 (四の二)

2014-11-22 09:17:45 | 唐宋八家文
余圜視大駭、然後知其術之工大矣。繼而歎曰、彼將捨其手藝、專其心智、而能知體要者歟。吾聞勞心者役人、勞力者役於人。彼其勞心者歟。能者用而智者謀。彼其智者歟。是足爲佐天子相天下法矣。物莫近乎此也。彼爲天下者、本於人。其執役者、爲徒隷爲郷師里胥。其上爲下士、又其上爲中士爲上士。又其上爲大夫爲卿爲公。離而爲六職、判而爲百役。外簿四海、有方伯連率、郡有守、邑有宰、皆有佐政。其下有胥吏、又下皆有嗇夫叛尹、以就役焉。猶衆工各有執伎以食力也。
彼佐天子相天下者、擧而加焉、指而使焉。條其綱紀而盈縮焉、齊其法制而整頓焉。猶梓人之有規矩繩墨以定制也。擇天下之士使稱其職、居天下之人、使安其業。視都知野、視野知國、視國知天下。其遠邇細大、可手據其圖而究焉。猶梓人畫宮於堵、而績於成也。

余圜視(かんし)して大いに駭(おどろ)き、然る後にその術の工(たくみ)なるを知りぬ。継いで歎じて曰く「彼将(は)たその手芸を捨て、その心智を專(もっぱら)にし、而して能く体要を知る者か。吾聞く『心を労する者は人を役(えき)し、力を労する者は人に役せらる』と。彼はそれ心を労する者か。能者は用いられ、而して智者は謀(はか)る。彼はそれ智者なるか。是れ天子を佐(たす)け天下に相たるの法と為すに足れり。物、此より近きは莫(な)きなり」と。
彼(か)の天下を為(おさ)むるものは、人に本(もと)づく。その役を執(と)る者は徒隷(とれい)たり、郷師・里胥(りしょ)たり。その上は下士たり、またその上は中士たり、上士たり。またその上は大夫たり、卿たり、公たり。離れて六職(りくしょく)と為り、判(わか)れて百役(ひゃくえき)と為る。外は四海に簿(いた)るまで、方伯(ほうはく)・連率(れんすい)有り、郡に守有り、邑に宰(さい)有り皆政(まつりごと)を佐くる有り。その下に胥吏有り、またその下に皆嗇夫(しょくふ)・叛尹(はんいん)有りて、以って役に就く。猶お衆工の各々伎(ぎ)を執って以って力に食(は)む有るがごときなり。
彼の天子を佐(たす)けて天下に相たる者は、挙げて加え、指さして使う。その綱紀を条して盈縮(えいしゅく)し、その法制を斉(ととの)えて整頓す。猶お梓人の規矩縄墨有って、以って制を定むるがごときなり。
天下の士を択(えら)んで、その職に称(かな)わしめ、天下の人を居(お)いて、その業に安んぜしむ。都を視て野を知り、野を視て国を知り、国を視て天下を知る。その遠邇細大(えんじさいだい)、手ずからその図に拠(よ)って究むべし。猶梓人の宮を堵(と)に画(えが)きて、成(せい)に績するがごときなり。


圜視 目を見張る。 体要 本体のかなめ。 能者 技能者。  徒隷 使い走り。 里胥 村役人。 六職 治・教・礼・兵・刑・事(工芸)。 百役 多くの官職。 四海 天下。 方伯 諸侯の旗頭。 連率 連帥、いくつもの藩の節度使。 嗇夫 村の訴訟や税を担当する役人。 叛尹 戸籍係の役人。 綱紀を条して 国の法と規則を条目にする。 盈縮 広めたり縮めたり。 遠邇細大 遠近大小。 成に績する 績は仕事。

私はこれを見て大変驚き、そして棟梁の能力の高さを知った。そこで感歎してつぶやいた「彼は手先の実技を捨てて智慧だけを働かせ、物事の本質を知ることができた者ではなかろうか。わたしは『心を働かせる者は人を使い、体を働かす者は人に使われる』と聞いている。彼こそ心を働かせる者であろう。技能ある者は使われ、考える者は計画を立てる。さすれば棟梁は考える者であろう。天子を補佐し宰相となるべき者の手本とするにこれほどふさわしいものはないであろう」と。
およそ天下を治める場合は人民を根本とすべきであり、その仕事をする者は下役人であり、郷の長や村役人である。その上は下士で、さらに上は中士であり上士である。またその上には大夫があり、卿があり、公がある。仕事は分かれて六職となり多くの官職に至る。朝廷の外では四海の果てに至るまで諸侯の旗頭があり、郡に太守あり、県に長官が居り、みなその下に政治を助ける役人が居り、またその下に村の訴訟や税を担当する係りが居、戸籍係が居てそれぞれに仕事をしている。ちょうど大工がそれぞれの技術を使って労力で生活しているようなものである。
あの天子を補佐して宰相になる者は、能力ある者を登用して地位を与え、指図して使う。国の大法と規則を条目をたてて拡げたり、縮めたりしてその法を整える。ちょうど棟梁が物差し、定規、墨縄を持って図面を決めるようなものである。
天下の有能の士を択んでその職に適合させ、天下の民をそれぞれの持ち場に置いて、その仕事に安心して就かせる。都の状態を見て農村の状況を知り、農村を見て国々を知り、国を見て天下を知る。その遠近大小は、自分の手で図面によって見極めることができる。丁度棟梁が設計図を板に画いて、仕事を完成させるようなものである。

十八史略 伝位の定まること久し

2014-11-20 15:58:51 | 十八史略
伝位の定まること久し
太祖幸蜀。有布衣張齊賢、獻十策。召問賜食。且啗且對。太祖善其某策。齊賢固稱、餘策
皆善。太祖怒斥便出。既還語晉王曰、吾幸西都、得一張齊賢。吾不欲用之。他日留與汝作宰相。蓋傳位之定久矣。太祖不豫。后遣王繼恩召皇子芳。繼恩徑召晉王。王至宮中。散遣左右、所言皆不可得聞。但遥見燭影下、王有離席之状。既而上引柱斧戳地、大聲曰、好爲之。遂崩。

太祖蜀に幸(こう)す。布衣(ほい)張斉賢という者あり。十策を献ず。召し問うて食を賜う。且つ啗(くら)い且つ対(こた)う。太祖その某の策を善しとす。斉賢、固く称す「余の策も善し」と。太祖怒って斥けて便(すなわ)ち出す。既に還り晋王に語って曰く「吾、西都に幸して、一(いつ)の張斉賢を得たり。吾、之を用うるを欲せず。他日留めて汝に与えて宰相と作(な)さん」と。蓋(けだ)し伝位の定まること久し。
太祖不豫(ふよ)なり。后、王継恩を遣わして、皇子徳芳を召さしむ。継恩、径(ただ)ちに晋王を召す。王、宮中に至る。左右を散遣(さんけん)して、言う所皆聞くを得べからず。但遥かに燭影の下に、王の席を離るるの状有るを見るのみ。既にして上、柱斧(ちゅうふ)を引いて地を戳(さ)し、大声(たいせい)して曰く「好く之を為せよ」と。遂に崩ず。


蜀 洛の間違いか。 幸 行幸。 布衣 官職に就かない人。 西都 洛陽。 蓋し まさしく。 不豫 豫はよろこぶ、天子の病気。 徳芳 太祖の次男。 散遣 人払いする。 柱斧 天子の側らに置いた裁断の具。 戳 刺

太祖が洛陽に行幸の折、無官の張斉賢という者が十か条の策を献上した。その男を召し出して説明を求め、食事を賜った。斉賢は食事をしながら下問に答えた。太祖は十か条の内いくつかを善しとしたが、斉賢は他の策も良策であると主張した。太祖はむっとして下がれと命じて追い出してしまった。やがて都に帰り、晋王に「西都で張斉賢という者を見つけた、この者を用いようとはしなかったが、後日そなたが天子となったときに宰相に任命したらよかろう」と語った。まさしく伝位の意志はすでに固まっていた模様である。
太祖の病が重篤に陥ると、皇后は急いで王継恩に命じて皇子の徳芳を呼びに遣った。継恩は徳芳の許に行かず、晋王に注進した。晋王が駆けつけると、帝は左右の者を人払いして二人だけになると、その内容は聞くすべもなく、ただ蝋燭の明かりの下で晋王が席を離れる様子が見てとれるだけであった。まもなく帝は側らに置いた柱斧を取って突き立て、大声で「しっかりやれよ」と言い残して遂に亡くなった。