寡黙堂ひとりごと

詩吟と漢詩・漢文が趣味です。火曜日と木曜日が詩吟の日です花も酒も好きな無口な男です。

十八史略 隗囂、病餓恚憤して卒す

2011-05-31 10:07:25 | 十八史略

未幾反。復嘗問班彪以戰國從横之事。彪作王命論諷之。囂不聽。馬援詣行在。上復使游説。仍自賜囂書。囂竟臣於公孫述。述立囂爲朔寧王。上征囂。馬援在上前、聚米爲山谷、指畫形勢、開示軍所從徑道。上曰、虜在吾目中矣。遂進軍。囂奔西城、病餓恚憤而卒。子純降。隴右悉平。

未だ幾(いくばく)ならずして反す。復(また)嘗て班彪(はんぴょう)に問うに戦国縦横の事を以ってす。彪、王命論を作って之を諷(ふう)す。囂聴かず。馬援行在(あんざい)に詣(いた)る。上、復遊説せしむ。仍(よ)って自ら囂に書を賜う。囂竟に公孫述に臣たり。述、囂を立てて朔寧王と為す。上、囂を征す。馬援、上の前に在り、米を聚(あつ)めて山谷(さんこく)を為(つく)り、形勢を指画(しかく)し、軍の従(よ)る所の、径道を開示す。上曰く、虜(りょ)は吾が目中に在り、と。遂に軍を進む。囂、西城に奔(はし)り、病餓恚憤(びょうがいふん)して卒(しゅっ)す。子純降(くだ)る。隴右(ろうゆう)悉く平らぐ。

それから幾ばくもなく隗囂が叛いた。ある時、班彪という学者に戦国時代の合従連衡の策について尋ねたことがあった。班彪は「王命論」を著して、利の無いことを暗にほのめかしたが、囂は耳を貸さなかった。馬援は囂が叛くと、光武帝の宿舎に馳せ参じた。そこで帝は、囂への親書を書いて帰順を説いたが、それでも囂は聴かず、蜀の公孫述の臣となった。述は隗囂を立てて朔寧王にした。光武帝は隗囂征伐を決意した。そのとき馬援は帝の前に居て、米で山や谷をつくり、天水の地形を指で画いて説明し、軍隊が進むべき道を示した。帝は「慮はすべてわが眼中に入った」と喜び、軍を進めた。隗囂は西域に逃れ、病と餓えに苛まれたのちに憤死した。囂の子純も降服して、隴右(甘粛省の東)の地はすべて平定された。

班彪 漢書の著者班固の父。 虜 隗囂のこと。 西城 パミール以西の地域。 恚憤 いかり、いきどおる

十八史略 

2011-05-28 11:42:07 | 十八史略
高帝無可無不可
援歸。囂問東方事。援曰、上才明勇略、敵也。且開心見誠、無所隱伏、闊達多大節、略與高祖同。經學博覧政治文辯、前世無比。囂曰、卿謂何如高帝。援曰、不如也。高帝無可無不可。今上好吏事、動如法度。又不喜飮酒。囂不懌曰、如卿言反復勝乎。遣子入侍。

援帰る。囂、東方の事を問う。援曰く、上、才明勇略、人の敵に非ざるなり。且つ心を開き誠を見(あら)わし、隠伏する所無く、闊達にして大節多きこと、略(ほぼ)高祖と同じ、経学博覧、政治文弁、前世比無し。囂曰く、卿、高帝に何如と謂(おも)う、と。援曰く、如(し)かざるなり。高帝は可もなく不可も無し。今、上、吏事を好み、動くこと法度(ほうど)の如くす。又飲酒を喜(この)まず、と。囂懌(よろこ)ばずして曰く、卿の言の如くんば反(かえ)って復(また)勝れるか、と。子をして入(い)って侍(じ)せしむ。

馬援が帰ると、隗囂が洛陽での様子を尋ねた。援は答えて「光武帝は、才明らかに、勇にして機略に富む。敵う人はありますまい。その上、心をさらけ出して誠意をあらわにし、少しも隠すところがありません。度量が広く、信念を堅く守って道義をはずさないことは、かの高祖に似ており、経学にひろく通じ、政治に詳しく、文章、弁舌さわやかです。今までに比べられる人はおりません」と。囂は「高祖とはどちらか」と聞くと、「それは及びません。高帝は可も不可も無い、是非善悪の埒(らち)外におられます。光武帝は役人の実務にも目を向け、行動も礼に外れることなく、酒も好まれません」と答えた。隗囂は不機嫌になって言った「貴公の話だとむしろ光武帝が勝っているようにきこえるぞ」と。そして子の恂を人質に遣って光武帝に仕えさせた。

可も無く不可も無い 孔子が自らを評した言葉、 恂 隗囂には恂と純の子がいたが、どちらが兄か不明。

新ジャガとあじさい

2011-05-28 11:36:36 | 自由律俳句
昨日5月27日は旧海軍記念日でした。毎年この日になると遠い昔の感傷に浸るのです。中学3年の時、密かに憧れていたそのひとの誕生日だったのです。
成績はトップクラスのそのひとと、発育不全ででこぼこの坊主頭、新ジャガと女生徒たちにからかわれていた成績の悪い私、ただ一方通行の片思いでした。

例年になく早い入梅を迎えましたが、駅からの帰りに燕を見ました。中野通りの紫陽花も色をつけはじめていました。
永らく自由律俳句に遠ざかっていたのですが、先日図書館で齊藤師に出会ったので未熟ながら少しづつ掲せてみたいと思います。

曇天につばくろ高く低く
半世紀経っても色あせぬわたしのあじさい

十八史略 ただ君の臣を択ぶのみに非ず、臣も亦君を択ぶ

2011-05-26 10:22:19 | 十八史略

囂乃使援奉書雒陽。初到、良久即引入。上自殿廡下、岸幘迎、笑曰、卿遨遊二帝間。今見卿、使人大慚。援頓首曰、當今非但君擇臣、臣亦擇君。臣與公孫述同縣。少相善。臣前至蜀。述陛戟而後進臣。臣今遠來。陛下何知非刺客姦人、而簡易若是。帝笑曰、卿非刺客。顧説客耳。援曰、天下反覆、盜名字者不可勝數。今見陛下、恢廓大度、同符高祖。乃知、帝王自有眞也。

囂乃ち援をして書を雒陽(らくよう)に奉ぜしむ。初め至るや、良(やや)久しうして即ち引き入れる。上、殿廡(でんぶ)の下より、岸幘(がんさく)して迎え、笑って曰く、卿(けい)、二帝の間に遨遊(ごうゆう)す。今卿を見るに、人をして大いに慚(は)じしむ、と。援、頓首して曰く、当今は但(ただ)君の臣を択ぶのみに非ず、臣も亦君を択ぶ。臣と公孫述とは同県なり。少(わか)くして相善し。臣前(さき)に蜀に至る。述、陛戟(へいげき)して後に臣を進む。臣今遠く来る。陛下何ぞ刺客(せきかく)姦人に非ざるを知って、簡易なること是(かく)の如きか、と。帝、笑って曰く、卿は刺客に非ず。顧(おも)うに説客(ぜいかく)のみ、と。援曰く、天下反覆(はんぷく)、名字(めいじ)を盗む者数うるに勝(た)う可からず。今陛下を見るに恢廓大度(かいかくたいど)、符を高祖に同じうす。乃ち知る、帝王自ら真有ることを、と。

隗囂はそこでまた馬援に光武帝への親書を託した。到着すると大分待たされてから宮廷に呼び入れられた。光武帝は宮殿の回廊の下から、頭巾も着けないで迎えて入れて笑いかけた。「卿は二人の皇帝の間を気ままに行き来する身のわけだが、なるほど私も恥じ入るほどの器量を備えておられる」。馬援は頭を地につけて言った「当今は君主が臣下を択ぶだけでなく、臣下も君主を択ぶ時勢です。私と公孫述とは同県で、若い頃から親しい間柄でした。ところが先ごろ蜀にまいりますと、述は階下に戟を持った衛兵をつらねて私を迎え入れました。ところが今、陛下とは一面識もない遠来の訪問者でありますのに、どうして刺客でも姦人でもないと見抜かれて、このように気さくにお会い下さるのですか」と。帝はさらに笑って、「卿は刺客などではない、強いて言えば説客(ぜいかく)というところかな」と。援はさらに、「今、天下は変転極まりなく、皇帝の名を騙る者も数え切れぬほどおります。今、陛下を拝しますに、心広く度量が大きく、かの高祖皇帝と符節を合わせたようにお見受けいたしました。帝王となるお方は真の徳を備えておられることをつくずく知らされてございます」と。

雒陽 洛陽に同じ。 殿廡 回廊。 岸幘 岸は額を現わすこと、幘は頭巾、親しみ慣れた様子。 遨遊 遨も遊ぶの意、 反覆 くつがえす。
名字 帝王の称号。 恢廓大度 恢も廓も大きいこと。度量が大きいこと。

十八史略 井底の蛙

2011-05-24 09:23:59 | 十八史略

建武九年、隗囂死。囂自更始初年起兵、至建武初、據天水、自稱西州上將軍。後嘗遣馬援往成都、觀公孫述。援與述舊。謂當握手歡如平生。時述已稱帝四年矣。援既至。盛陳陛衞以延援。援謂其屬曰、天下雌雄未定。公孫不吐哺迎國士。反修飾邊幅、如偶人形。此何足久稽天下士乎。因辭歸。謂囂曰、子陽井底蛙耳。而妄自尊大。不如專意東方。

建武九年、隗囂(かいごう)死す。囂は更始初年より兵を起こし、建武の初めに至るまで、天水に拠(よ)り、自ら西州の上将軍と称す。後嘗て馬援を遣わし成都に往き、公孫述を観(み)しむ。援、述と旧あり。謂(おも)えらく当(まさ)に手を握って歓ぶこと平生の如くなるべしと。時に述已に帝と称すること四年なり。援既に至る。盛んに陛衛(へいえい)を陳(ちん)し以って援を延(ひ)く。援其の属に謂って曰く、天下雌雄未だ定まらず。公孫、哺(ほ)を吐いて国士を迎えず、反って辺幅を修飾すること、偶人(ぐうじん)の形の如し。此れ何ぞ久しく天下の士を稽(とど)むるに足らんやと。因(よ)って辞して帰る。囂に謂って曰く、子陽は井底(せいてい)の蛙(あ)のみ。而(しか)して妄(みだ)りに自ら尊大にす。意を東方に専(もっぱ)らにするに如(し)かず、と。

建武九年に隗囂が死んだ。隗囂は更始帝の初年から挙兵し、建武の初めに至るまで、天水(甘粛省)に割拠して自ら西州の上将軍と称していた。その後馬援を蜀の成都に遣わして、公孫述の人物を観察させた。馬援は公孫述とは旧知であったので、会ったら互いに手を握り歓んでくれると思っていた。ところがこの時公孫述は、帝と称してすでに四年経っていた。馬援が行っても、これ見よがしに衛兵を整列させて馬援を引き入れた。援は随行した属官にもらした。「天下未だ定まらず、多くの人材が欲しい今、食事を中断して、口中のものを吐き出してでも引見すべき時だというに、身の周りばかり飾り立て、ただの人形のようだ。これでは天下の国士を抱えることなど出来はしまい」と。
早々に辞去して帰り、隗囂に告げた「子陽(公孫述のあざな)は井の中の蛙にすぎません。やたらと尊大に振舞っているだけの木偶(でく)の坊です。専ら東の光武帝に向けるのがよろしいでしょう」と。

陛衛 陛はきざはし、宮殿の階段にいる儀衛兵。 延 引き入れる。 哺(ほ)を吐いて 周公旦が来客があると、食べかけた物を吐き、洗いかけた髪を握って出迎えた故事「吐哺握髪」による。 辺幅 うわべ、布の縁から。