未幾反。復嘗問班彪以戰國從横之事。彪作王命論諷之。囂不聽。馬援詣行在。上復使游説。仍自賜囂書。囂竟臣於公孫述。述立囂爲朔寧王。上征囂。馬援在上前、聚米爲山谷、指畫形勢、開示軍所從徑道。上曰、虜在吾目中矣。遂進軍。囂奔西城、病餓恚憤而卒。子純降。隴右悉平。
未だ幾(いくばく)ならずして反す。復(また)嘗て班彪(はんぴょう)に問うに戦国縦横の事を以ってす。彪、王命論を作って之を諷(ふう)す。囂聴かず。馬援行在(あんざい)に詣(いた)る。上、復遊説せしむ。仍(よ)って自ら囂に書を賜う。囂竟に公孫述に臣たり。述、囂を立てて朔寧王と為す。上、囂を征す。馬援、上の前に在り、米を聚(あつ)めて山谷(さんこく)を為(つく)り、形勢を指画(しかく)し、軍の従(よ)る所の、径道を開示す。上曰く、虜(りょ)は吾が目中に在り、と。遂に軍を進む。囂、西城に奔(はし)り、病餓恚憤(びょうがいふん)して卒(しゅっ)す。子純降(くだ)る。隴右(ろうゆう)悉く平らぐ。
それから幾ばくもなく隗囂が叛いた。ある時、班彪という学者に戦国時代の合従連衡の策について尋ねたことがあった。班彪は「王命論」を著して、利の無いことを暗にほのめかしたが、囂は耳を貸さなかった。馬援は囂が叛くと、光武帝の宿舎に馳せ参じた。そこで帝は、囂への親書を書いて帰順を説いたが、それでも囂は聴かず、蜀の公孫述の臣となった。述は隗囂を立てて朔寧王にした。光武帝は隗囂征伐を決意した。そのとき馬援は帝の前に居て、米で山や谷をつくり、天水の地形を指で画いて説明し、軍隊が進むべき道を示した。帝は「慮はすべてわが眼中に入った」と喜び、軍を進めた。隗囂は西域に逃れ、病と餓えに苛まれたのちに憤死した。囂の子純も降服して、隴右(甘粛省の東)の地はすべて平定された。
班彪 漢書の著者班固の父。 虜 隗囂のこと。 西城 パミール以西の地域。 恚憤 いかり、いきどおる