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寡黙堂ひとりごと

詩吟と漢詩・漢文が趣味です。火曜日と木曜日が詩吟の日です花も酒も好きな無口な男です。

十八史略

2010-10-07 08:06:29 | 十八史略
地節三年、路温舒上書言、秦有十失。其一尚存。治獄之吏是也。俗語曰、畫地爲獄、議不入、刻木爲吏、期不對。此悲痛辭。願省法制、寛刑罪、則太平可興。上爲置廷尉平。獄刑號爲平矣。
膠東相王成、勞來不怠、治有異績。賜爵關内侯。
魏相爲丞相、丙吉爲御史大夫。

地節三年、路温舒(ろおんじょ) 上書して言う、秦に十失有り。其の一尚存す。治獄(ちごく)の吏是なり。俗語に曰く、地を画(かく)して獄と為すも、入らざらんことを議し、木を刻して吏と為すも、対せざらんことを期す、と。此れ悲痛の辞なり。願わくは法制を省き、刑罪(けいざい)を寛(ゆる)うせば、則ち太平興す可し、と。上、為に廷尉平を置く。獄刑(ごくけい)、号して平と為す。
膠東(こうとう)の相、王成、労来(ろうらい)して怠らず、治に異績(いせき)あり。爵、関内侯を賜う。
魏相丞相と為り、丙吉、御史大夫と為る。

地節三年(前67年)に路温舒という者が宣帝に書を上(たてまつ)っていうには「秦に十の過失がありました。その一つは今もなお残っております。それは罪をさばく役人の苛酷さであります。俗に地面に線を引いてここは獄舎だと言えばその中には入るまいと思うし、木を削って獄吏だといえば、その前に立つことを厭うといいます。これは民の悲痛な声であります。どうか法を簡略にし、刑罰をゆるやかにしてください。そうすればおのずと太平の風が興りましょう」と。宣帝はこの上書を取り上げて廷尉平という官を設けた。その結果裁判が公平になったと称せられるようになった。
膠東王の宰相で王成という者は、民を労わり、なつかせて大きな治績をあげたので、関内侯の爵位を授けられた。
魏相が丞相となり、丙吉が御史大夫となった。

治獄之吏 裁判官。 議不入 議は思いめぐらす。期不對 期は心に決めること、対は裁判官の前に出て調べを受けること。 廷尉平 裁判の不公平をただす役。

今日、東京女子医大病院に入院して、大腸がんを摘出します。退院までの日数は未定ですが、その間しばしお休みさせてください。

十八史略 公孫病已立つ

2010-10-05 09:38:16 | 自由律俳句

及長、高材好學、亦喜游俠、具知閭里姦邪、吏治得失。昭帝元鳳中、泰山有大石、自起立。上林有僵樹、復起。蠶食其葉、曰公孫病已立。及賀、病已年十八矣。光等奏、病已躬節儉、慈仁愛人。可以嗣孝昭後。迎入即位。既立六年、霍光卒、始親政。

長ずるに及び、高材にして学を好み、亦游侠を喜(この)み、具(つぶさ)に閭里(りょり)の姦邪(かんじゃ)、吏治(りち)の得失を知る。昭帝の元鳳中、泰山に大石有り、自ずから起立す。上林に僵樹(きじゅ)有り、復立つ。蠶(かいこ)其の葉を食い、公孫病已立つと曰(い)う。賀、廃せらるるに及び、病已、年十八なり。光等奏す、病已、躬(みずか)ら節倹にして慈仁、人を愛す。以って孝昭の後を嗣(つ)がしむ可し、と。迎え入れて位に即(つ)かしむ。既に立って六年、霍光卒(しゅっ)し、始めて政(まつりごと)を親(みずか)らす。

成長するに従い、病已は才幹が優れ向学心に富み、また遊侠の気風を好み、村里の中の悪事、小役人の仕事の裏表にまで通じていた。昭帝の元鳳年間に、泰山の大石が自然に立ったり、宮中の庭苑の倒れた木が立ち上がり、蚕がその葉を食って、「公孫病已立つ」と読める食い跡を残した、という不思議が起こった。
後に賀が廃せられたとき病已は十八歳になっていた。霍光等は皇太后に、「病已は、自らつつしみ情け深く、人を愛する徳を備えており、孝昭皇帝のお後継ぎにふさわしいと存じます」と奏上した。お許しがあって朝廷に迎え入れて天子とした。即位して六年目に霍光が亡くなり、帝ははじめてみずから政務を執るようになった。

僵樹 倒れた木。