陳蕃薦處士徐穉・姜肱等。穉字孺子、豫章人。陳蕃爲守時、特設一榻以待穉去則縣之。穉不應諸公之辟。然聞其死、輒負笈赴弔。豫炙一鷄、以酒漬綿、暴乾裹之、到冢隧外、以水漬綿、白茆藉飯、以鷄置前。祭畢留謁、不見喪主而行。肱彭城人、與二弟仲海・季江倶孝友。常共被。嘗遇盗。兄弟爭死。盗兩釋之。穉・肱被徴。皆不至。黄璚卒、四方名士、會葬者七千人、穉至。進爵哀哭、置生芻墓前而去。諸名士曰、此必南州高士徐孺子也。使陳留茆容追之。問國事。不答、太原郭泰曰、孺子不答國事、是其愚不可及也。泰初游洛陽。李膺與爲友。膺嘗歸郷里。送車數千兩。膺惟與泰同舟而濟。衆賓望之者、如神仙焉。
容年四十餘、畊於野。遇雨避樹下。衆皆箕踞。容獨危坐愈恭。泰見而異之遂勸令學。
陳蕃(ちんばん)処士徐穉(じょち)・姜肱(きょうこう)らを薦(すす)む。穉、字は孺子(じゅし)、予章の人なり。陳蕃守たりし時、特に一榻(いっとう)を設けて穉を待つ。去れば則ち之を懸(か)く。穉、緒公の辟(めし)に応ぜず。然れども其の死を聞けば、輒(すなわ)ち笈(きゅう)を負うて赴き弔す。予(あらかじ)め一鶏を炙り、酒を以って綿に漬(ひた)し、暴乾(ばくかん)して之を裹(つつ)み、冢隧(ちょうすい)の外(ほとり)に到り、水を以って綿に漬し、白茆(はくぼう)を飯に藉(し)き、鶏を以って前に置く。祭り畢(おわ)って謁(えつ)を留め、喪主を見ずして行(さ)る。
肱(こう)は彭城(ほうじょう)の人なり。二弟仲海・季江倶(とも)に孝友なり。常に被(ひ)を共にす。嘗て盗に遇う。兄弟(けいてい)死を争う。盗両(ふた)りながら之を釈(ゆる)す。
穉・肱徴(め)さる。皆至らず。黄璚(こうけい)卒す。四方の名士、葬に会する者七千人。穉至る。爵を進めて哀哭(あいこく)し、生芻(せいすう)を墓前に置いて去る。諸名士曰く、此れ必ず南州の高士徐孺子ならん、と。陳留の茆容(ぼうよう)をして之を追わしむ。国事を問う。答えず。太原の郭泰(かくたい)曰く、孺子国事を答えざるは、是れ其の愚及ぶ可からざるなり。泰初め洛陽に游ぶ。李膺与(とも)に友たり。膺嘗て郷里に帰る。送車数千両。膺惟(ひと)り泰と舟を同じうして済(わた)る。衆賓之を望む者、神仙の如しという。
容、年四十余、野に畊(たがや)す。雨に遇うて樹下に避く。衆皆箕踞(ききょ)す。容、独り危坐して愈々恭(うやうや)し。泰、見て之を異とし、遂に勧めて学ばしむ。
処士 仕官していない人。 榻 しじ、腰掛けと寝台を兼ねたもの。 辟 招聘。 笈 背負い箱。 暴乾 日にさらす。 裹 つつむ。 冢隧 冢は墓、隧は墓の通路。 白茆 ちがや。 藉 敷く。 謁 名札、名刺。 孝友 親孝行で仲が良い。 被 ふとん。 進爵 盃を進める。 生芻 刈りたてのまぐさ。 愚及ぶ可からざるなり 孔子の言った言葉、別掲。 箕踞 あぐら。
陳蕃は在野の士、徐穉や姜肱らを推挙した。徐穉はあざなを孺子といい、予章の人である。陳蕃が太守であった時、特に腰かけを徐穉のために用意して迎え、帰ると壁に懸けて他人には座らせなかった。徐穉は諸侯からの招きに応じなかった。しかし、その人たちが死んだことを聞くと、笈を背に、駆けつけて弔った。まず鶏を一羽炙り、酒にひたして乾かした綿でそれを包み、墓穴のそばに来て、水で綿をひたして酒をもどし、茅(ちがや)を飯の下に敷き、鶏をその前に供えて弔った。まつり終わると、名札を置いて、喪主には会わずに立ち去った。
姜肱は彭城の人で、二人の弟、仲海と季江と共に親孝行で兄弟仲がよく、いつも一つ布団に寝ていた。あるとき盗賊に出会ったが、互いに自分を先に殺せと庇ったので、盗賊は見逃して立ち去ったことがあった。徐穉と姜肱は共に朝廷から召されたが、応じなかった。
黄璚が世を去った。各地の名士で会葬する者七千人に及んだ。徐穉も杯を進めて哀しみ哭し、刈りたてのまぐさを墓前に置いて立ち去った。名士たちは口々に「南州の高士徐孺子に違いない」と言って、陳留の茆容に後を追わせて国事について聞かせたが、何も答えなかった。太原の郭泰がこれを聞いて「孺子が何も語らなかったのは、孔子が言うところの及ぶ可からざる愚ということだ」と評した。泰は初めて洛陽に遊学したとき、李膺は郭泰を友として遇した。ある時、李膺が故郷に帰るとき、見送りの車が数千輌にのぼったが、李膺は郭泰だけを舟に伴って黄河を渡って行った。見送る人たちはこれを見て「まるで神仙のようだ」と感嘆した。
茆容は四十余りのころ、畑を耕していて雨に遇い、樹の下に避けていた。そのとき皆はあぐらをかいていたが、容だけは行儀よく正坐していた。郭泰はそれを見て、見込があると思い、勧めて学問をさせたのである。