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寡黙堂ひとりごと

詩吟と漢詩・漢文が趣味です。火曜日と木曜日が詩吟の日です花も酒も好きな無口な男です。

十八史略 孝武皇帝

2012-04-28 08:38:49 | 十八史略

烈宗孝武皇帝名昌明、年十歳即位。
桓温來朝。詔謝安・王担之、迎于新亭。都下洶洶。云、欲誅王・謝、因移晉祚。担之甚懼。安色不變。温既至。百官拝于道側。温大陳兵衞延見朝士。担之流汗泱沽衣、倒執手板。安從容就席、謂温曰、安聞、諸侯有道、守在四鄰。明公何須壁後置人邪。温笑曰、正自不能不爾。遂命撤之。與安笑語移日。郗超臥帳中、聽其言。風動帳開。安笑曰、郗生可謂入幕之賓矣。温有疾還姑孰。疾篤。諷求九錫。安・担之故緩其事。尋卒。

烈宗孝武皇帝、名は昌明、年十歳にして位に即く。
桓温来朝す。謝安・王担之に詔(みことのり)して、新亭に迎えしむ。都下洶洶(きょうきょう)たり。云う、王・謝を誅して晋祚を移さんと欲す、と。担之甚だ懼る。安、神色変ぜず。温既に至る。百官、道の側(かたわら)に拝す。温大いに兵衛を陳して、朝士を延見す。担之、汗を流して衣を沽(うるお)し、倒(さかしま)に手板(しゅはん)を執る。安、従容として席に就き、温に謂って曰く、「安聞く、『諸侯道有れば、守り四隣に在り』と。明公何ぞ壁後に人を置くを須(もち)いんや」と。温笑って曰く、「正に自ら爾(しか)らざる能(あた)わず」と。遂に命じて之を撤す。安と笑語して日を移す。郗超(ちちょう)、帳中に臥して、其の言を聴く。風動いて帳開く。安笑って曰く、「郗生は入幕の賓と謂う可し」と。温、疾(しつ)有って姑孰(こじゅく)に還る。疾(やまい)篤し。諷して九錫を求む。安・担之故(ことさら)に其の事を緩(ゆる)うす。尋(つ)いで卒す。


新亭 江蘇省にある宴の地。 洶洶 懼れおののくさま。 祚を移す 祚は天子の位。 神色 顔色。 兵衛 護衛兵。 陳して 並べること。 延見 引見。 手板 笏。 従容 ゆったりと、落ち着いた様子。 諷 ほのめかす。 尋いで 間もなく。

烈宗孝武皇帝、名を昌明という、年十歳にして即位した。
桓温が姑孰から来朝した。帝は謝安と王担之に詔して、新亭まで迎えさせた。都の内は懼れおののいて、「王担之と謝安を誅殺して、晋室を奪うのではないか」と噂し合った。王担之は大いに恐れたが、謝安は顔色を変えなかった。桓温が到着すると、百官は道の両側で拝礼した。温の衛兵は威圧するが如く居並び、やがて朝吏を引見した。担之は冷や汗で着物を濡らすほどで笏を逆さまに持つほどの醜態を見せたが、謝安はゆったりと席に着き桓温に向かって「私は『諸侯に徳有れば、四隣がそのまま守りとなる』と聞いております。壁の後ろに人を配置するなど必要無いでしょうに」と言った。桓温は苦笑して「その徳が無いばかりに、こうせざるを得ないのだよ」と。遂に衛兵に退去を命じ、謝安と談笑して時を移した。郗超は帳の中に潜んで、そのやりとりを聞いていたが一陣の風に帳がめくれてしまった。謝安は笑って「郗君は幕僚中の賓客というところですかな」と言った。
やがて桓温は病を得て姑孰に帰った。重篤になって、九錫のことをほのめかすと、二人はわざと返事を引き延ばしていたが遂に桓温は死去した(373年)。


十八史略 簡文帝崩ず

2012-04-26 09:11:45 | 十八史略
簡文皇帝名、元帝子也。清虚寡欲、尤善玄言。桓温迎即位。九閲月而不豫。急召桓温入輔。如諸葛武侯・王丞相故事。温望帝臨終禪位、否即居攝。不副所望。時謝安・王担之在朝。温疑担之・安沮其事。心甚銜之。帝在位改元者一、曰咸安。太子立。是爲烈宗孝武皇帝。

簡文皇帝、名は(いく)。元帝の子なり。清虚寡欲にして、尤も玄言(げんげん)に善し。桓温迎えて位に即く。九たび月を閲(こ)えて不豫(ふよ)なり。急に桓温を召して、入って輔けしむ。諸葛武侯・王丞相の故事の如くす。温、帝の終わりに臨んで位を禅り、否(しから)ざれば、即ち摂(せつ)に居らんと望む。望むところに副(かな)わず。時に謝安(しゃあん)・王坦子(おうたんし)、朝に在り。温、坦之と安と、其の事を沮(はば)むと疑う。心甚だ之を銜(ふく)む。帝、在位改元する者(こと)一、咸安と曰う。太子立つ。是を烈宗孝武皇帝と為す。

玄言 玄は老子の深遠な理、 老子の論。 不豫 天子の病、豫は悦の意。 諸葛武侯 孔明。 王丞相 王導。 摂 摂政。 

簡文皇帝、名をといい、元帝の子である。潔白で欲がなく、老子に造詣が深かった。桓温はを迎えて位に即けた。九ヶ月をこえて病に罹られた。急ぎ桓温を召しだして政治を輔けさせた。ちょうど諸葛亮が後主を、王導が成帝を輔佐した如くであった。簡文帝が亡くなる間際、桓温は自分に位を譲るか、摂政の地位に居ることを望んでいたが、かなわなかった。
当時、朝廷では謝安と王坦子が政務を執っていたが、桓温はこの二人が邪魔をしたのであろうと思い、心中おおいに恨んだ。簡文帝は在位中改元すること一回で、咸安という。太子が立った。これを烈宗孝武皇帝という。


十八史略 芳を百世に流す能わずんば亦当に臭を万年に遺すべし

2012-04-24 10:08:59 | 十八史略

秦王猛督諸軍伐燕。遂圍鄴。秦主苻堅入鄴。執燕主慕容暐以歸。
晉桓温陰蓄不臣之志。嘗撫枕歎曰、男子不能流芳百世、亦當遺臭萬年。欲先立功還受九錫。及枋頭之敗、威名頓挫。郗超。勸温行伊霍之事、以立大威權。温遂入朝。白太后廢帝。在位六年。改元者一、曰太和。會稽王立。是爲簡文皇帝。

秦の王猛諸軍を督して燕を伐つ。遂に鄴(ぎょう)を囲む。秦主苻堅(ふけん)鄴に入る。燕主慕容暐(ぼようい)を執(とら)えて以って帰る。
晋の桓温、陰(ひそか)に不臣の志を畜(たくわ)う。嘗て枕を撫して歎じて曰く、「男子芳を百世に流す能わずんば、亦当に臭を万年に遺すべし」と。先ず功を立て、還って九錫を受けんと欲す。枋頭(ほうとう)の敗に及んで、威名頓(とみ)に挫(くじ)く。郗超(ちちょう)、温に勧めて、伊霍(いかく)の事を行い、以って大威権を立てよと。温、遂に入朝す。太后に白(もう)して、帝を廃す。在位六年。改元する者(こと)一、太和と曰う。会稽王立つ。是を簡文皇帝と為す。


不臣の志 臣にあるまじき志。 芳 芳名。 臭 悪名。 九錫 天子から賜る九種の品と利権。 伊霍 伊尹と霍光 殷の伊尹が太甲を一旦追放し、漢の霍光が主の昌邑を廃した故事。 

秦の王猛は諸軍を指揮して燕を討ち、遂に鄴を包囲した。秦の主苻堅は鄴に入って燕主の慕容暐を捕えて帰った。
晋の桓温は密かに帝位を奪う野心を抱いていた。ある時、枕を撫でながら歎息して「男子たるもの美名を百代の末に伝えることができないなら、いっそ悪名を万年に遺すべきかもしれん」まず大功を立てて凱旋し、九錫を受けるという筋書きを書いたが、枋頭での大敗で威名がにわかに衰えてしまった。郗超は桓温に「伊尹と霍光にならって帝を廃し、新帝を擁立して大きい権勢を確立するのです」と勧めた。桓温は遂に意を決して参内し、太后に申し上げて帝奕を廃した(370年)。在位六年、改元すること一度、太和という。会稽王が立った。これが簡文皇帝である。


十八史略 哀帝、帝奕

2012-04-21 09:30:40 | 十八史略
哀皇帝名丕、即位二年而寝疾。又一年而崩。改元者二、曰隆和・興寧。弟瑯琊王立。是爲帝奕。
帝奕名奕、成帝之幼子也。既即位。以會稽王、爲丞相。
桓温自哀帝時、爲大司馬、都督中外諸軍事、録尚書事。加揚州牧。移鎭姑孰。以郗超爲參軍、王爲主簿。人語曰、髯參軍短主簿、能令公喜、能令公怒。
燕人攻陥洛陽。戍將死之。温帥師伐燕。戰于枋頭。大敗而還。
燕慕容垂既撃破晉軍。威名日盛。燕王忌之。垂奔秦。

哀皇帝名は丕(ひ)、即位二年にして疾(やまい)に寝(い)ぬ。又一年にして崩ず。改元する者(こと)二、隆和・興寧(こうねい)と曰う。弟瑯琊王立つ。是を帝奕(えき)と為す。
帝奕名奕、成帝の幼子なり。既に位に即く。会稽王(いく)を以って丞相と為す。
桓温、哀帝の時より、大司馬となり、中外の諸軍事を都督し、尚書の事を録す。揚州の牧を加えらる。移って姑孰(こじゅく)に鎮す。郗超(ちちょう)を以って参軍と為し、王(おうじゅん)を主簿と為す。人、語して曰く、髯参軍(ぜんさんぐん)短主簿、能く公をして喜ばしめ、能く公をして怒らしむ、と。
燕人攻めて洛陽を陥る。戍将(じゅしょう)之に死す。温、師を帥(ひき)いて燕を伐つ。枋頭(ほうとう)に戦う。大敗して還る。
燕の慕容垂、既に晋軍を撃ち破る。威名日に盛んなり。燕王之を忌む。垂、秦に奔(はし)る。


姑孰 今の安徽省の地名。 参軍 参謀。 主簿 書記官。 短主簿 ちび主簿。 戍将 守将。 枋頭 河南省の地名。

哀皇帝は名を丕という。即位二年で病気に罹りその後一年で崩御した。改元すること二回、隆和・興寧という。弟の瑯琊王が即位した。これが帝奕である。
帝奕は名が奕で、後に廃せられたので諡は無い。成帝の末の子である。即位すると会稽王のを丞相とした。
桓温は哀帝のときに大司馬となり、内外の軍事すべてを掌握し、尚書の事も司った。さらに揚州の長官を加えられ、姑孰に鎮台を移した。郗超を参謀に、王を書記官に任命した。人々は「公を喜ばせるのも怒らせるのも鬚参軍とちび主簿次第」と陰口を言い合った。
燕が洛陽を攻め落とした。守備の将軍が戦死したので、桓温が師団を率いて燕を伐ったが、枋頭の会戦で大敗して帰還した。
燕の慕容垂はすでに晋軍を撃ち破って、威名ますます高くなった。燕王の慕容暐は警戒心を抱きだした。そこで慕容垂は秦に亡命した。


十八史略 穆帝卒す

2012-04-19 10:56:19 | Weblog
秦苻堅弑其君生、自立爲秦天王。有薦王猛於堅者。一見如舊。自謂、如玄之於孔明。一歳中五遷官。擧異才、修廢職、課農桑、恤困窮。秦民大悦。
燕主慕容雋卒。子暐立。
晉桓温以謝安爲征西司馬。安少有重名。前後徴辟皆不就。士大夫相謂曰、安石不出、如蒼生何。年四十餘乃出。
帝在位十七年崩。改元者二、曰永和・升平。無嗣。成帝子瑯琊王立。是爲哀皇帝。

秦の苻堅(ふけん)其の君生(せい)を弑し、自ら立って秦天王と為る。王猛を堅に薦める者有り。一見、旧の如し。自ら謂う、「玄徳の孔明に於けるが如し」と。一歳の中五たび官を遷(うつ)す。異才を挙げ、廃職を修め、農桑を課し、困窮を恤(あわれ)む。秦の民大いに悦ぶ。
燕主慕容雋(ぼようしゅん)卒す。子暐(い)立つ。
晋の桓温、謝安を以って征西司馬と為す。安、少にして重名あり。前後徴辟(ちょうへき)皆就かず。士大夫、相謂って曰く、「安石出でずんば、蒼生を如何(いかん)せん」と。年四十余にして乃ち出づ。
帝、在位十七年にして崩ず。改元する者(こと)二、永和・升平と曰う。嗣(し)無し。成帝の子瑯琊王立つ。是を哀皇帝と為す。


廃職を修め 官署を統廃合すること。 前後 間をおかずに続けて。 徴辟 徴も辟も朝廷に召されること。 安石 謝安の字。 蒼生 たみくさ、人民。 

秦の苻堅が、主君の苻生を殺し、立って秦天王となった(357年)。王猛を推薦する者がいて、会ってみるとたちまち旧知のように思えた。みずから「まるで劉備が諸葛亮を得たようなものだ」と言って、一年のうちに五度も官を進めた。また人材を抜擢し、官署を整備した。民には農耕と養蚕を行わせ、困窮者を救った。秦の人々は善政を謳歌したのであった。
燕の国主慕容雋が死んで、子の慕容暐が立った(359年)。
晋では桓温が謝安を征西司馬に任命した。謝安は若い頃から高名で朝廷から招聘されていたが、出仕しなかった。士大夫たちは「安石が出てこなければ、この民くさは一体どうすればいいのだ」と口々に言い合った。四十を越えて官に就いたのである。
穆帝が在位十七年で崩じた(361年)。改元すること二回、永和・升平という。嗣子が無く、成帝の子の瑯琊王が即位した。これが哀皇帝である。