寡黙堂ひとりごと

詩吟と漢詩・漢文が趣味です。火曜日と木曜日が詩吟の日です花も酒も好きな無口な男です。

十八史略 韓延壽

2011-01-29 09:52:15 | 十八史略
五鳳元年、殺左馮翊韓延壽。延壽爲吏、好古教化。由潁川太守、入爲馮翊。民有昆弟相訟。延壽閉閤思過。訟者各悔、不復爭。郡中翕然相敕。恩信周徧、莫復有詞訟。民吏推其至誠、不忍欺紿。至是坐事棄市。百姓莫不流涕。

五鳳元年、左馮翊(さひょうよく) 韓延壽を殺す。延壽、吏となり、いにしえの教化を好む。潁川(えいせん)の太守より、入って馮翊となる。民に昆弟(こんてい)相訟うるもの有り。延壽、閤(こう)を閉じて過ちを思う。訴うる者、各々悔い、復た争わず。郡中翕然(きゅうぜん)として相敕(ちょくれい)す。恩信周徧(おんしんしゅうへん)にして、復た詞訟(ししょう)有ること莫(な)し。民吏、其の至誠を推(お)し、欺紿(きたい)するに忍びず。是(ここ)に至って、事に坐して棄市(きし)せらる。百姓(ひゃくせい) 流涕(りゅうてい)せざるは莫し。

五鳳元年(前57年)に左馮翊(さひょうよく) 韓延壽が殺された。延壽は官吏となってから、古の聖人が民を教化したやり方を踏襲したいと考えていた。潁川郡の太守から朝廷に入って左馮翊の長官になった。その民で兄弟が互いに訴え出た者があった。延壽は部屋に閉じこもり、自分に落度があったのではないかと思い悩んだ。訴えでた兄弟は互いに後悔して、二度と争わなくなった。郡中の民は相いましめ、励ましあった。延壽の恩情と信望はあまねく行きわたって、訴えを起こすこともなくなった。民も役人も延壽の至誠にうたれ、他人を騙すことをしなくなった。ところがこのたび、ある事件に連坐して死罪になり、市中にさらされた。これを見た市民は皆涙を流した。

昆弟 兄弟。 閤 小窓。 翕然 集まるさま。 敕 いましめ励ます。
欺紿 欺くこと。

十八史略 宰相は細事をみずからせず

2011-01-25 14:58:33 | 十八史略
至是吉代爲丞相。吉尚寛大好禮讓。嘗出、逢羣鬭死傷、不問。逢牛喘。使問遂牛行幾里矣。或譏吉失問。吉曰、民鬭京兆所當禁、宰相不親細事、非所當問也。方春未可熱、恐牛暑故喘、此時氣失節。三公調陰陽、職當憂。人以爲知大體。

是(ここ)に至って、吉、代って丞相と為る。吉、寛大を尚(たっと)び、礼譲を好む。嘗て出でて、群闘死傷するに逢う、問わず。牛の喘(あえ)ぐに逢う。牛を遂(お)うて行くこと幾里ぞ、と問わしむ。或るひと、吉の問を失うを譏(そし)る。吉曰く、民の闘うは、京兆(けいちょう)の当(まさ)に禁ずべき所、宰相は細事を親(みずか)らせず、当に問うべき所に非ざるなり。春に方(あた)って未だ熱す可からず、恐らくは牛、暑きが故に喘ぐならん、此れ時気の節を失するなり。三公は陰陽を調う、職として当に憂うべし、と。人以って大体を知ると為す。

こうして魏相が亡くなると、丙吉(へいきつ)が代って丞相となった。丙吉は寛容で、礼儀が正しく人に遜(へりくだ)ることを好んだ。ある時、外出して数人が喧嘩をして死傷者まで出ている所に行きあわせたが、何も問わずに過ぎた。次に牛があえぎながら来るのに出あった。従者に「一体何里引かせて来たのか」と聞かせた。ある人が、丙吉の問いが的はずれではないかと非難したが、丙吉は「民が争うのは、京兆の長官が取り扱うべきことがらで、宰相が細かいことを自ら口出すことはない。今は春でまだ暑くなる時季ではないのに、牛はあえいでいる、これは時候が順当ではないのだ。三公というものは、陰陽を調えて民の利益を図るもので、当然宰相の職務として憂うべきことなのだ」と説明した。人々はこれを聞いて、丙吉は大きな筋道を心得ていると評した。

三公  前漢時代最高位にある、丞相、大司馬、御史大夫の三つの官職。

十八史略 魏相

2011-01-22 13:54:08 | 十八史略
三年、丞相魏相薨。故事、上書者皆爲二封、署其一曰副、領尚書者、先發副封、所言不善、屏去不奏。自霍光薨後、相即白去副封、以防壅蔽。及爲相、好觀漢故事及便宜章奏、數條漢興以來便宜行事、及賢臣賈誼・鼂錯・董仲舒等所言、請施行之。敕掾吏案事郡國。及休告從家還至府、輒白四方異聞。或有逆賊風雨災異、郡不上、相輒奏言之。與御史大夫丙吉、同心輔政。上皆重之。

三年、丞相魏相薨(こう)ず。故事(こじ)に、上書は皆二封を為(つく)り、其の一に署して副と曰(い)い、尚書を領する者、先ず副封を発(ひら)き、言う所善からざれば、屏去(へいきょ)して奏せず。霍光薨(こう)じてより後、相、即ち白(もう)して副封を去り、以って壅蔽(ようへい)を防ぐ。相と為るに及んで、好んで漢の故事及び便宜の章奏(しょうそう)を観、数しば、漢興ってより以来の便宜の行事、及び賢臣賈誼(かぎ)・鼂錯(ちょうそ)・董仲舒(とうちゅうじょ)等の言う所を条し、請うて之を施行す。掾吏(えんり)に敕(ちょく)して、事を郡国に案ぜしむ。及び休告して家より還って府に至れば、輒(すなわ)ち四方の異聞を白(もう)さしむ。或いは逆賊風雨の災異にして、郡の上せざる有れば、相、輒ち之を奏言す。御史大夫丙吉と、心を同じうして政を輔(たす)く。上、皆之を重んず。

神爵三年(前59年)に丞相の魏相がみまかった。漢ではしきたりとして上書する者は、皆同文二通をつくり、一通に副と表書きした。取次ぎの役人が副の封書を見て、その内容が善くないと判断すれば握りつぶして奏上しないことになっていた。丞相の霍光が薨じたのち、魏相は早速宣帝に上奏して、副封の制を止めて障碍を取り払い、すべての上奏文が帝に伝わるようにあらためた。その魏相が丞相になると、漢室のしきたりや、便宜を図って出された上奏文をつぶさに調べ、漢が興って以来簡素化したことがらや賈誼・鼂錯・董仲舒等の建言を箇条書きにして裁可のうえ施行した。また役所の属官に命じて、郡国を巡察して不行き届きがないか調査させた。そして休暇明けで役所に戻った者には帰省中に見聞した、変事を報告させた。また地方で賊や災害で郡から上申しない事があると、魏相はいつもそれを奏上した。御史大夫の丙吉と心を合わせて政治を補佐したので帝はこの二人を重任した。

薨 貴人の死、天子を崩、大夫を卒、ほかを死といった。 屏去 退け抜き去る。 白 もうす。 壅蔽 ふさぎおおう。掾吏 下級官吏、属官。 勅 天子の命令。休告 休暇の申し出ること。

十八史略 老臣に踰(こ)ゆるもの無し

2011-01-20 08:27:30 | 十八史略
神爵元年、先零與諸羌畔。上使問後將軍趙充國。誰可將者。充國年七十餘、對曰、無踰老臣。復問、將軍度羌虜何如、當用幾人。充國曰、兵難遙度、願至金城、圖上方略。乃詣金城、上屯田奏、願罷騎兵、留歩兵萬餘、分屯要害處。條不出兵留田便宜十二事。奏毎上、輒下公卿議。初是其計者什三、中什伍、最後什八。魏相任其計可必用。上從之。
二年、司隷校尉蓋寛饒、奏封事。上爲怨謗、下吏。寛饒自剄。

神爵元年、先零(せんれい)、諸羌(しょきょう)と畔(そむ)く。上(しょう)後将軍趙充国に問わしむ。誰か将たる可き者ぞ、と。充国年七十余、対(こた)えて曰く、老臣に踰(こ)ゆるもの無し、と。復た問う、将軍、羌虜を度(はか)ること何如ん、当(まさ)に幾人を用うべき、と。充国曰く、兵は遥かには度りがたし、願わくは金城に至って、図して方略を上(たてまつ)らん、と。すなわち金城に詣(いた)り、屯田の奏を上り、願わくは、騎兵を罷(や)め、歩兵万余を留め、分(わか)って要害の処に屯(とん)せん、と。兵を出ださずして留田(りゅうでん)する便宜十二事を條(じょう)す。奏上る毎に輒(すなわ)ち公卿に下して議せしむ。初めは其の計を是とする者十に三、中ごろは十に五、最後には十に八。魏相、其の計の必ず用う可きを任ず。上、之に従う。
二年、司隷校尉(しれいこうい)蓋寛饒(こうかんじょう)、封事を奏す。上以って怨謗(えんぼう)すと為して吏に下す。寛饒、自剄す。

神爵元年(前61年)に、先零をはじめ羌の諸族が叛いた。宣帝が、誰を大将にするべきか後将軍の趙充国に尋ねさせた。時に充国は七十余歳であったが、「この老人にまさる者はございません」と答えた。さらに「将軍が羌虜を討伐する方策はどうか、どれほどの兵を投入するべきか」と問うと、「戦のことは実地を見ずに策をとやかく言うべきではありません。どうか金城郡まで行き、そこで地勢を図にした上でお答え致しとうございます」と言った。そこで充国は金城郡に至ると「騎兵をやめて歩兵一万余りを防備の要地に分けて駐屯させ平時には農耕に従事させるようにさせてください」。そして兵を出さずに留まって耕す利点十二を箇条書きした。上奏される度に、公卿に見せて審議させた。初めはその計を是とする者十人中三人、中ごろには十人中五人、最後には十人中八人に達した。丞相の魏相もその計が必ず用いられるべきであると賛同した。宣帝はその意見に従った。
神爵二年に司隷校尉の蓋寛饒が、密封した意見書をたてまつった。宣帝は自分を怨みそしっているとして役人に下げわたした。寛饒は自ら首をはねて死んだ。

先零 羌の諸族のなかで、最も精強な族。 後将軍 将軍を前後左右の名を冠して分けて呼んだ。 金城 甘粛省にある郡名。 任 保障する。 司隷校尉 警視総監に近い役職

十八史略 疏廣・疏受、骸骨を乞う

2011-01-18 08:23:43 | 十八史略
子孫の為に産業を立てず。
三年、太子太傅疏廣、與兄子太子少傅疏受、上疏乞骸骨。許之、加賜黄金。公卿・故人、設祖道、供張東門外。送者車數百兩。道路觀者皆曰、賢哉、二大夫。既歸、日賣金共具、請族人・故旧・賓客、相與娯樂、不爲子孫立産業。曰、賢而多財、則損其志、愚而多財、則其過。且夫富者衆之怨也。吾不欲其過而生怨。

三年、太子の太傅(たいふ)疏廣(そこう)、兄の子、太子の少傅疏受(そじゅ)と、上疏(じょうそ)して骸骨を乞う。之を許し、黄金を加賜す。公卿・故人、祖道を設け、東門の外に供張(きょうちょう)す。送る者、車数百両。道路観る者皆曰く、賢なるかな、二大夫と。既に帰って、日に金を売り共具(きょうぐ)して族人・故旧・賓客を請い、相与に娯楽し、子孫の為に産業を立てず。曰く、賢にして財多ければ、則ち其の志を損し、愚にして財多ければすなわち其の過ちを益す。且つ夫れ富は衆の怨みなり。吾其の過ちを益し、怨みを生ずることを欲せず、と。

元康三年に太子の太傅疏廣と兄の子で少傅の疏受とが、書をたてまつって辞職を願い出た。宣帝はこれを許したうえで、黄金を賜わった。公卿やなじみの人たちが、道祖神を祭って道中の安全を祈願し、東門の外で送別の宴を張ったところ、見送る者の車数百両にのぼった。これを道路で見物した人々は口ぐちに「えらいお方じゃお二人は」と褒めたたえた。
二人は故郷に帰ると毎日賜った黄金を銭に替えて酒肴をととのえて親戚、友人、賓客を招いてともに楽しみ、子孫の為に財産を残そうとしなかった。そしてこう言った。「子孫がもし賢にして財産があると、その志をくじき、愚かであれば過ちを深くしてしまう。そのうえ富というものはとかく人の恨み、嫉みを招くもとになるものだ。私は子孫が過ちを増し、人の恨みを買うことを望んではいないのだよ」と。

太傅 太子の守役、少傅はその下役。 骸骨を乞う 辞職を願う、仕官して帝に捧げたわが身の残骸を乞いうける意。 供張 供は酒食をととのえること、張は宴を張ること。 産業 生活するための仕事、生業。なお西郷隆盛の詩に「児孫の為に美田を買わず」がある。