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寡黙堂ひとりごと

詩吟と漢詩・漢文が趣味です。火曜日と木曜日が詩吟の日です花も酒も好きな無口な男です。

十八史略 蕭道成台頭す

2012-06-30 09:03:06 | 十八史略

明皇帝名。即位八年殂。改元者一、曰泰始。自帝之初、蕭道成將兵、征討有功。尋鎭淮陰、収養豪俊。賓客始盛。已而爲南兗州刺史。至是褚淵薦爲右衞將軍。與顧命大臣、共掌機事。太子立。是爲後廢帝。
後廢帝名。明帝無子。實嬖人李道兒之子也。明帝子之。殺諸王十五六人、惟恐之不立。十歳即位。桂陽王休範擧兵反、攻建康。蕭道成撃斬之。道成爲中領軍。

明皇帝名は(いく)。位に即いて八年にして殂す。改元する者(こと)一、泰始と曰う。帝の初めより、蕭道成(しょうどうせい)、兵に将として、征討して功有り。尋(つ)いで淮陰(わいいん)に鎮(ちん)して豪俊を収養す。賓客始めて盛んなり。已にして南兗州(なんえんしゅう)の刺史となる。是(ここ)に至って、褚淵(ちょえん)薦めて右衛将軍(ゆうえいしょうぐん)と為す。顧命の大臣と共に機事(きじ)を掌(つかさど)る。太子立つ。是を後廃帝と為す。
後廃帝名は(いく)。明帝、子無し。、実は嬖人(へいじん)李道兒の子なり。明帝、之を子とす。諸王十五六人を殺し、惟だの立たざらんことを恐る。十歳にして位に即く。桂陽王休範、兵を挙げて反し、建康を攻む。蕭道成、撃って之を斬る。道成、中領軍となる。


淮陰 江蘇省の地名。 南兗州 江蘇省中部。 顧命 天子の遺言。 機事 機密に属する事項。 嬖人 寵臣。 

明皇帝の名はという。即位して八年で亡くなった。改元すること一回、泰始という。帝の即位の初めから蕭道成が兵を率いて各地を討伐して功を立てた。そして淮陰を鎮定し、英俊豪傑を召し抱えたので賓客が盛んになった。やがて南兗州の刺史となったが、明帝が亡くなると褚淵の推薦で右衛将軍になった。遺命を託された重臣たちと共に、国の枢要にあずかるようになった。太子が即位した(472年)。これが後廃帝である。
後廃帝名はである。明帝には子がなく、は明帝お気に入りの李道兒の子であったが之を子とした。自分の後継ぎにするために、兄孝武帝の子十五、六人を殺した。は即位した時に十歳であった。
桂陽王の休範が叛して兵を挙げ、建康を攻めた。蕭道成がこれを破って斬り殺し、功によって中領軍となった。


十八史略 廃帝子業、不道をなす

2012-06-28 12:55:17 | 十八史略

廢帝名子業。即位居喪、傲惰無戚容。孝武疏忌骨肉、多誅殺、至是尤甚。
魏帝濬殂。諡曰文成皇帝、廟號高宗。初太武經營四方、國頗虚耗。文成嗣以鎭靜、懷集中外。人心復安。子弘立。
宋主畏忌諸父湘東王等、幽於殿内棰曳、無復人理、恣爲不道。中外騒然。宋人弑之。在位二年。改元者一、曰景和。湘東王立。是爲太宗明皇帝。

廃帝名は子業。位に即き喪に居て、傲惰(ごうだ)にして戚容(せきよう)無し。孝武、骨肉を疏忌(そき)して誅殺すること多かりしが、是に至って尤も甚(はなはだ)し。
魏帝濬(しゅん)殂(そ)す。諡(おくりな)して文成皇帝と曰い、廟を高宗と号す。初め太武、四方を経営し、国頗(すこぶ)る虚耗(きょこう)す。文成嗣(つ)いで以って鎮静し、中外を懐集(かいしゅう)す。人心復た安し。子弘立つ。
宋主、諸父(しょほ) 湘東王等を畏忌(いき)し、殿内に幽して棰曳(すいえい)し、復た人理無く、恣(ほしいまま)に不道を為す。中外騒然たり。宋人之を弑す。在位二年。改元する者(こと)一、景和と曰う。湘東王立つ。是を太宗明皇帝と為す。


傲惰 傲はあそぶ、遊び怠ける。 戚容 悼み悲しむ容貌。 疏忌 うとんじる嫌う。 経営 もとは縄ばりをして建物や町をつくることだが、ここでは兵を出して征服すること。 虚耗 衰える。 懐集 てなづけ集める。 諸父 叔父伯父。 畏忌 おそれ嫌う。 棰曳 棰はむち打つ、曳は引きずり廻す。

廃帝の名は子業という。即位して未だ喪中でありながら、自堕落になり、先帝を悼むそぶりも見せなかった。孝武帝駿も肉親を嫌い多くを誅殺したが、廃帝になってさらに甚だしくなった。
魏帝の拓跋濬が亡くなった。文世帝と諡して廟号を高宗と呼んだ。前の太武帝は四方に出兵して、国力が疲弊したので文世帝が国情を平静にし、内外から人をなつかせ集めたので、人心は安らかになったのであった。子の弘が位に即いた(465年)。
宋の主子業は叔父の湘東王らに謀反の疑いをもち、宮殿に幽閉し、杖で打ったり、引きずり廻したり、およそ人倫をわきまえず、非道の振るまいを繰り返したので、内外が騒然となり、宋人の寿戚之がついに子業を弑殺した。在位二年、改元すること一回で景和という。湘東王が立った。これを太宗明皇帝という。


十八史略 魏の宗愛と宋の太子劭、主を弑殺す。

2012-06-26 09:02:25 | 十八史略

魏中常侍宗愛、譖東宮官屬。多坐誅死。太子晃以憂卒。魏主追悼不已。愛懼弑主。後諡曰太武皇帝、廟號世祖。晃之子濬立。討愛誅之。
宋太子劭、巫蠱呪詛。事覺、宋主擬廢之。劭。弑主而自立。主在位三十年。改元者一、曰元嘉。武陵王擧兵弑劭。王立。是爲世祖孝武皇帝。
孝武皇帝名駿。即位十二年殂。改元者二、曰孝建、曰大明。太子立。是爲廢帝。

魏の中常侍(ちゅうじょうじ)宗愛、東宮の官属を譖(しん)す。多く坐して誅死せらる。太子晃(こう)、憂いを以って卒す。魏主追悼して已(や)まず。愛、懼れて主を弑す。後諡(おくりな)して太武皇帝と曰い、廟を世祖と号す。晃の子濬(しゅん)立つ。愛を討って之を誅す。
宋の太子劭(しょう)、巫蠱(ふこ)呪詛(じゅそ)す。事覚(あら)われ、宋主之を廃せんと擬す。劭、主を弑して自立す。主、在位三十年、改元する者(こと)一、元嘉と曰う。武陵王、兵を挙げて劭を誅す。王立つ。是を世祖孝武皇帝と為す。
孝武皇帝、名は駿。位に即いて十二年にして殂(そ)す。改元する者二、孝建と曰い、大明と曰う。太子立つ。是を廃帝と為す。


巫蠱 巫は巫女(みこ)蠱は虫を用いてするまじない。 擬・・しようとする。 

魏の中常侍の宗愛という者が、太子づきの役人を讒言し、多くの役人が罪に連坐して殺された。太子の晃は心痛のあまり世を去った。魏主はたいそうこれを悼んだ。宗愛は自分に対する恨みになるのを恐れて弑殺してしまった。後におくり名して太武皇帝といい、廟号を世祖と呼んだ。晃の子濬が即位し(452年)宗愛を討って誅殺した。
宋では太子の劭が巫蠱によって文帝を呪い殺そうとした。事が露見して文帝は太子を廃嫡しようとしたが、劭が先手を打って帝を弑殺して自ら天子になった(453年)。文帝は在位三十年、改元は一回、元嘉という。武陵王が兵を挙げて劭を殺して立った。これが世祖孝武皇帝である。
孝武皇帝、名は駿。即位して十二年にして亡くなった。年号を改めること二回、孝建と大明という。太子が後を継いだ。これが廃帝である。


十八史略 元嘉の政衰う

2012-06-21 09:27:43 | 十八史略
春燕林木に巣くう

宋主登石頭城、北望歎曰、檀道濟若在、豈使胡馬至此。道濟立功前朝、老於用兵。先是以讒被収。目光如炬、脱幘投地曰、乃壞汝萬里長城。既誅。魏人聞之喜曰、呉子輩、不足復憚。至是長驅。無能禦者。宋人或欲斬玄謨。沈慶之止之曰、佛狸威震天下。控弦百萬、豈玄謨所能當。殺戰將以自弱、非計也。魏師還。殺掠不可勝計。丁壯者斬截、嬰兒貫槊上盤舞。所過赤地、春燕歸巣於林木。自宋主即位、二十八年、號爲小康。至是兵革之後、邑里蕭條。元嘉之政衰矣。

宋主、石頭城に登り、北望して歎じて曰く、「檀道濟(だんどうさい)若(も)し在らば、豈(あに)胡馬(こば)をして此(ここ)に至らしめんや」と。道濟、功を前朝に立て、兵を用うるに老(た)けたり。是より先、讒(ざん)を以って収(とら)えらる。目光炬(きょ)の如く、幘(さく)を脱して地に投じて曰く、「乃(すなわ)ち汝が万里の長城を懐(やぶ)る」と。既に誅せらる。魏人之を聞いて喜んで曰く「呉子の輩、復た憚るに足らず」と。是に至って長躯す。能く禦(ふせ)ぐ者無し。宋人或いは玄謨(げんぼ)を斬らんと欲す。沈慶之(しんけいし)之を止めて曰く「佛狸(ふつり)の威天下に震(ふる)う。控弦(こうげん)百万、豈玄謨が能く当る所ならんや。戦将を殺して以って自ら弱むるは、計に非らざるなり」と。魏師還る。殺掠(さつりゃく)、勝(あ)げて計るべからず。丁壮の者は斬截(ざんせつ)し、嬰児は槊上(さくじょう)に貫いて盤舞(はんぶ)す。過ぐる所は赤地となり、春燕、帰って林木に巣(すく)う。宋主位に即きしより、二十八年の間、号して小康と為す。是(ここ)に至って、兵革(へいかく)の後、邑里(ゆうり)蕭條たり。元嘉の政衰う。

老 老練。 炬 たいまつの火。 幘 頭巾。 呉子の輩 建康はその昔呉の地だからいう。 佛狸 魏の太武帝の字。 控弦 軍勢、控は弓を引くこと。槊上 ほこに貫かれる。 盤舞 ぐるぐる振り回す。 赤地 まるはだかの土地。 兵革 武器とよろい、戦争のこと。

宋の文帝は石頭城に登って北を眺めやり、歎息して言った。「檀道濟が居てくれさえすれば、ここまで胡の馬を眼にすることはなかったろうに」と。この道濟は武帝の時に功績を上げて、用兵に老練であった。これより前、謀反の企てがあると讒言されて捕えられた。このとき道濟は真っ赤な目を剥き頭巾を叩きつけて、「自分で自身の守りの長城を壊すつもりか」と叫んだ。道濟が誅殺されると魏では大喜びで「これで宋に心配な人物は居なくなった」といった。ここに及んで魏軍が深く攻め寄せてきても、宋では防ぎ止める者が居なかった。人々の恨みは王玄謨に集まり、斬るべしの声が上がったが沈慶之が「魏主の仏狸の威光は天下を震い動かしている。その部下百万人が弓をしぼってくるのに玄謨がかなう訳がない、大将を殺して自分から力を弱めるのは得策ではなかろう」と言って庇った。やがて魏軍は引きあげたが、虐殺略奪の限りをつくし去った。若者壮年は斬りきざまれ、嬰児は矛で突き刺され、ぐるぐる廻された。過ぎ去った跡は丸裸になり、燕が帰ってきても巣をかける家がなく林の木に巣をかけるありさまであった。宋の文帝が即位して二十八年間平穏に過ぎたが、ここにきて兵乱を受け、村里は荒れ果て、元嘉の治は最後に衰えたのであった。

十八史略 南北朝の対立

2012-06-19 08:52:25 | 十八史略

宋・魏連年互相侵伐。王玄謨勸宋大擧。沈慶之諌曰、畊當問奴、織當問婢。今欲伐國。奈何與白面書生謀之。宋竟遣玄謨出師、取碻■、進圍滑臺。先是魏主聞宋取河南、怒曰、我生髪未燥、已聞河南是我地。今天時尚熱。姑斂戍北歸、俟河氷合、以鐵騎蹂之。至冬魏主自將渡河。衆號百萬。鞞鼓之聲震天地。玄謨懼走。魏人追撃、玄謨敗走。魏帝引兵南下、直至瓜歩、聲言欲渡江。建康震懼、民皆荷擔而立。  ■石偏に敖

宋・魏連年互いに相侵伐(しんばつ)す。王玄謨(おうげんぼ)宋に勧めて大挙せしめんとす。沈慶之(しんけいし)諌めて曰く、「畊(こう)は当(まさ)に奴(ど)に問うべく、織は当に婢(ひ)に問うべし。今国を伐たんと欲す。奈何(いかん)ぞ白面の書生と之を謀らん」と。宋、竟(つい)に玄謨をして師を出さしめ、碻■(こうごう)を取り、進んで滑台を囲む。是より先、魏主、宋が河南を取れりと聞き、怒って曰く「我生まれて髪未だ燥(かわ)かざるに、已(すで)に河南は是我が地なりと聞けり。今、天の時尚お熱す。姑(しばら)く戍(まもり)を斂(おさ)めて北に帰り、河氷の合(がっ)するを俟(ま)って、鉄騎を以って之を蹂(ふ)ましめん」と。冬に至って魏主自ら将として河を渡る。衆百万と号す。鞞鼓(へいこ)の声、天地に震(ふる)う。玄謨、懼れて走る。魏人追撃し、玄謨敗走す。魏帝、兵を引いて南下し、直ちに瓜歩に至り、江を渡らんと欲すと声言す。建康震懼(しんく)し、民、皆荷擔(かたん)して立つ。

畊 耕すこと。 師 軍隊。 碻■(こうごう)山東省荏平県。 滑台 河南省滑県。 姑 しばらく、とりあえず。 鞞鼓 馬上で打つ攻め鼓。 瓜歩 江蘇省六合県。 声言 声明する、言いふらす。 荷擔 になう。

南朝の宋と北朝の魏は、何年にもわたって侵攻を繰り返していた。宋の王玄謨は文帝に大攻勢をかけるべきですと進言した。沈慶之が諌めて、「田畑のことは下男に聞くべきです。機織りは下女に聞かねばわかりません。今、北を討つという大事を白面の一書生と謀ってよいものでしょうか」と言った。しかし文帝は玄謨を将として兵を出した。碻■を攻め取り、さらに兵を進めて滑台をとり囲んだ。
これより先、魏の太武帝は宋が河南の地を取ったと聞き、大いに怒って、「わしは生まれてまだうぶ毛も乾かないうちから河南は我が領地と聞かされている。今は暑い時期だから、守備兵をまとめて北に帰るが、黄河に氷が張りつめる冬を待って、わが精鋭の騎馬軍団で存分に蹂躙してくれよう」と言った。
冬になって魏主自ら軍を率いて黄河を渡って南下した。その兵百万と号し、軍鼓は天地に轟いた。王玄謨は恐れて退却した。魏兵が追撃すると玄謨は総崩れとなって敗走した。魏帝は兵を率いてさらに南下し、建康の対岸の瓜歩に急行し、揚子江までもおし渡るぞと言いふらした。
宋都建康は震えおののき、民衆は家財をまとめて逃げようとした。