goo blog サービス終了のお知らせ 

寡黙堂ひとりごと

詩吟と漢詩・漢文が趣味です。火曜日と木曜日が詩吟の日です花も酒も好きな無口な男です。

十八史略 武后朝をみる 

2012-12-15 08:26:34 | 十八史略
初帝以賤妾子忠爲太子。武后廢之、立后之子弘。弘仁孝、中外屬心。忤后意。鴆之立其次。曰賢。又以事廢之、而立其次哲。
上在位改元者十三、曰永徽・顯慶・龍朔・麟・乾封・總章・咸亨・上元・儀鳳・永隆・開耀・永淳・弘道。凡三十四年。而政在中宮者三十年矣。自褚遂良等死後、羣臣無敢諌者。李善感、嘗因事一諌。人以爲鳳鳴朝陽。上崩。太子哲即位。是爲中宗皇帝。
中宗皇帝初名顯、改名哲、既即位、立韋妃爲后、改元曰嗣聖。明年、武后廢帝爲廬陵王、而立其弟旦。旦擁虡器者七年、改元曰垂拱、曰永昌。太后廢旦爲皇嗣、而稱帝。是爲則天武氏。

初め、帝、賤妾の子忠を太子と為す。武后、之を廃して、后の子弘を立つ。弘、仁孝にして、中外心を属(しょく)す。后の意に忤(さから)う。之を鴆(ちん)して其の次を立つ。賢と曰う。又、事を以って之を廃して、その次哲を立つ。
上、在位改元する者(こと)十三、永徽(えいき)・顕慶・龍朔(りょうさく)・麟徳・乾封(けんぽう)・総章・咸亨(かんこう)・上元・儀鳳・永隆・開耀(かいよう)・永淳・弘道と曰う。凡(すべ)て三十四年。而して政(まつりごと)中宮(ちゅうきゅう)に在る者(こと)三十年なり。褚遂良等死せし自(よ)り後、群臣敢えて諌むる者無し。李善感、嘗て事に因(よ)って一たび諌む。人以って鳳、朝陽に鳴くと為す。上、崩ず。太子哲位に即く。是を中宗皇帝と為す。
中宗皇帝、初めの名は顕、哲と改名す。既に位に即き、韋妃(いひ)を立てて后と為し、改元して嗣聖(しせい)と曰う。明年、武后、帝を廃して廬陵王(ろりょうおう)と為し、而してその弟旦を立つ。旦、虚器を擁する者(こと)七年、改元して垂拱(すいこう)と曰い、永昌と曰う。太后、旦を廃して皇嗣となし、而して帝と称す。是を則天武氏と為す。


属心 心を寄せる、望みを託すこと。 忤 先に殺した蕭淑妃の二人の娘に同情したこと。 鴆して 鴆毒で殺して。 賢 後漢書の注を著したほどすぐれていたが、武后に自殺を命じられた。 事を以って ある者が暗殺された事件で賢が疑われた。 改元十三 実際は儀鳳と永隆の間に調露が入り、十四あった。 中宮 皇后、皇太后、太皇太后、すなわち武后。 虚器を擁す 実権の伴わない地位にあって他人に操られること。

初め高宗は身分の低い側妾の生んだ忠を太子に立てていたが、后が武氏に代わると之を廃して自分の子の弘を立てた。弘は情け深く、朝廷の内外から心を寄せられていた。ところが武后の意に逆らったので毒殺してしまった。次に賢を立てたが、ある事件の関連を疑われて廃位され、弟の哲を立てた。
高宗は位に在って年号を十三回改めた。永徽・顕慶・龍朔・麟徳・乾封・総章・咸亨・上元・儀鳳・永隆・開耀・永淳・弘道という。在位年は三十四年であるが、そのうち政治が武后の手にあったのが三十年に及んだ。
褚遂良等が死んだ後は、あえて諫言する者はなく、李善感がある事で一度だけ諌めたことがあった。人びとは「鳳凰が朝日に鳴いた」と驚いた。
高宗が崩じ、皇太子の哲が立った。これが中宗皇帝である。
中宗皇帝は初め顕と名乗っていたが、後に哲と改名した。位に即いて韋妃を皇后に立て、年号を嗣聖と改めた。しかし翌年、武后は中宗を廃位して廬陵王にして、弟の旦を立てた。旦は名ばかりの天子(睿宗)となって七年、年号を垂拱、永昌と改めた。武后は旦を廃して皇太子にして、自ら皇帝と称した。これが則天武氏である。