原毀 二ノ二
今之君子則不然。其責人也詳、其待己也廉。詳故人難於爲善廉故自取也少。己未有善、曰、我善是、是亦足矣。己未有能、曰、我能是、是亦足矣。外以欺於人、内以欺於心、未少有得而止矣。不亦待其身者已廉乎。其於人也、曰、彼雖能是、其人不足稱也。彼雖善是、其用不足稱也。擧其一不計其十。究其舊不圖其新。恐恐然惟懼其人之有聞也。是不亦責於人者已詳乎。
夫是之謂不以衆人待其身、而以聖人望於人。吾未見其尊己也。雖然爲是者、有本有原。怠與忌之謂也。怠者不能修、而忌者畏人修。吾嘗試之矣。嘗試語於衆曰、某良士、某良士。其應者、必其人之與也。不然則其所疎遠不與同其利者也。不然則其畏也。不若是、強者必怒於言、懦者必怒於色矣。又嘗語於衆曰、某非良士、某非良士。其不應者、必其人之與也。不然則其所疎遠不與同其利者也。不然則其畏也。不若是、強者必説於言、懦者必説於色矣。
是故事修而謗興、高而毀來。嗚呼、士之處此世、而望名譽之光、道之行難已。將有作於上者、得吾説而存之、其國家可幾而理歟。
今の君子は則ち然(しか)らず。その人を責むるや詳(しょう)にして、その己に待つや廉なり。詳なるが故に人善を為すを難(かた)しとす。廉なるが故に自ら取ること少なし。己は未だ善有らずして、曰く「我是れを善(よ)くす、是れ亦足れり」と。己は未だ能有らずして曰く「我是れを能くす、是れ亦足れり」と。外は以って人を欺き、内は以って心を欺き、未だ少しも得ること有らずして止む。亦その身に待つもの已(はなは)だ廉なるにあらずや。
その人に於けるや、曰く「彼是れを能くすと雖も、その人は称するに足らざるなり。彼是れを善くすと雖も、その用は称するに足らざるなり」と。その一を挙げて、その十を計らず。その旧を究めて、その新を図らず。恐々然として、惟だその人の聞こゆる有らんことを懼るるのみ。是れ亦人に責むるもの已だ詳なるにあらずや。
夫れ是れをこれ衆人を以ってその身に待たずして、聖人を以って人に望むと謂う。吾未だその己を尊くするを見ざるなり。然りと雖も是れを為すは、本(もと)有り原(げん)有り。怠(たい)と忌(き)との謂いなり。怠るものは修むること能わずして、忌むものは人の修むることを畏る。吾これを嘗試(こころ)みたり。
嘗試みに衆に語って曰く「某は良士なり、某は良士なり」と。その応ぜし者は、必ずその人の与(ともがら)なり。然らずんば則ちその疎遠にして与(とも)にその利を同じゅうせざるところの者なり。然らずんば則ちそれ畏るるものなり。是(かく)の若(ごと)くならずんば、強者は必ず言に怒り、懦者(だしゃ)は必ず色に怒れり。また嘗試みに衆に語って曰く「某は良士に非ず、某は良士に非ず」と。その応ぜざる者は、必ずその人の与なり。然らずんば則ちその疎遠にして与にその利を同じゅうせざるところの者なり。然らずんば則ちそれ畏るる者なり。是の若くならずんば、強者は必ず言に説(よろこ)び、懦者(だしゃ)は必ず色に説べり。
是(こ)の故に事修まりて謗(そし)り興り、徳高くして毀(そし)り来る。嗚呼(ああ)、士の此の世に処(お)りて、名誉の光、道徳の行いを望むこと、難きのみ。将(まさ)に上(かみ)に作(な)すこと有らんとする者、吾が説を得てこれを存せば、それ国家は幾(き)して理(おさ)むべきか。
現代の君子はそうでない。他人の欠点を追求することには厳重周到で、自分に対しては寛容である。他人に対して細かく追求するから、人は善行をしにくい。自分に寛容であるから、他人の美点を自分のものにすることが少ない。自分ではまだ善を身につけていないのに「自分はこの点が良いから十分だ」と言い、「自分はこれができるからこれで十分だ」と言う。これは外において人を欺き、内において自分の心を欺いて少しも得るものがないまま終ってしまう。これは自分に対してあまりに寛容に過ぎるのではなかろうか。
また他人に対しては「あの人はこんなことが出来るが、その人柄は称するに足りない」とか「あの人はこんな良い点をもっているが、その効用はほめるに足りない」という。他人の一つの短所だけを取り上げて、他の十の長所は勘定に入れない。過去のことをほじくって、新しく進んだ点を見ようとしない。ただその人の評判が上がるのを懼れているのである。これは他人に対してあまりに細かいのではなかろうか。
このような態度は衆人を自分とは別としながら他人に対しては聖人と同じものを望むものである。しかしこれで自己の尊厳を確立した人を見たことがない。それでもこんな態度をとるのには根本の原因がある。それは「なまけ」と「ねたみ」である。怠けは自分の修養ができず、ねたみは他人が修養することをおそれる。私はこのことを試したことがあった。
こころみに人々に向かって「誰それは立派な人だ」と言ってみた。するとそれに賛成するのは必ずその人の仲間であった。さもなければその人と付き合いが無く、共通の利害のない人であった。あるいは、その人を畏れている人であった。これらの人々のほかは、気の強い人は、語気を荒げ、気の弱い人は顔色にあらわした。次にまた人々に向かって「誰それは立派な人でない」と言ってみた。するとその言葉に賛成しないのは、必ずその人の仲間であった。さもなければその人と付き合いが無く、共通の利害のない人であった。あるいは、その人を畏れている人であった。これらの人々のほかは、気の強い人は、必ず嬉しげに話し、気の弱い人は顔に喜色をらわした。
このような訳で仕事がうまくゆくと、悪口が始まり、徳が高くなると非難が高まるものなのである。ああ、士たる者がこの世にあって、名誉の輝きを放ち、道徳を守り行くことを望むことは、まことに難しいことだ。高位にあって何か仕事をしようとしている人が、私のこの説を読んで心にとめてくれるならば国家は必ずうまく治まるのではなかろうか。
今之君子則不然。其責人也詳、其待己也廉。詳故人難於爲善廉故自取也少。己未有善、曰、我善是、是亦足矣。己未有能、曰、我能是、是亦足矣。外以欺於人、内以欺於心、未少有得而止矣。不亦待其身者已廉乎。其於人也、曰、彼雖能是、其人不足稱也。彼雖善是、其用不足稱也。擧其一不計其十。究其舊不圖其新。恐恐然惟懼其人之有聞也。是不亦責於人者已詳乎。
夫是之謂不以衆人待其身、而以聖人望於人。吾未見其尊己也。雖然爲是者、有本有原。怠與忌之謂也。怠者不能修、而忌者畏人修。吾嘗試之矣。嘗試語於衆曰、某良士、某良士。其應者、必其人之與也。不然則其所疎遠不與同其利者也。不然則其畏也。不若是、強者必怒於言、懦者必怒於色矣。又嘗語於衆曰、某非良士、某非良士。其不應者、必其人之與也。不然則其所疎遠不與同其利者也。不然則其畏也。不若是、強者必説於言、懦者必説於色矣。
是故事修而謗興、高而毀來。嗚呼、士之處此世、而望名譽之光、道之行難已。將有作於上者、得吾説而存之、其國家可幾而理歟。
今の君子は則ち然(しか)らず。その人を責むるや詳(しょう)にして、その己に待つや廉なり。詳なるが故に人善を為すを難(かた)しとす。廉なるが故に自ら取ること少なし。己は未だ善有らずして、曰く「我是れを善(よ)くす、是れ亦足れり」と。己は未だ能有らずして曰く「我是れを能くす、是れ亦足れり」と。外は以って人を欺き、内は以って心を欺き、未だ少しも得ること有らずして止む。亦その身に待つもの已(はなは)だ廉なるにあらずや。
その人に於けるや、曰く「彼是れを能くすと雖も、その人は称するに足らざるなり。彼是れを善くすと雖も、その用は称するに足らざるなり」と。その一を挙げて、その十を計らず。その旧を究めて、その新を図らず。恐々然として、惟だその人の聞こゆる有らんことを懼るるのみ。是れ亦人に責むるもの已だ詳なるにあらずや。
夫れ是れをこれ衆人を以ってその身に待たずして、聖人を以って人に望むと謂う。吾未だその己を尊くするを見ざるなり。然りと雖も是れを為すは、本(もと)有り原(げん)有り。怠(たい)と忌(き)との謂いなり。怠るものは修むること能わずして、忌むものは人の修むることを畏る。吾これを嘗試(こころ)みたり。
嘗試みに衆に語って曰く「某は良士なり、某は良士なり」と。その応ぜし者は、必ずその人の与(ともがら)なり。然らずんば則ちその疎遠にして与(とも)にその利を同じゅうせざるところの者なり。然らずんば則ちそれ畏るるものなり。是(かく)の若(ごと)くならずんば、強者は必ず言に怒り、懦者(だしゃ)は必ず色に怒れり。また嘗試みに衆に語って曰く「某は良士に非ず、某は良士に非ず」と。その応ぜざる者は、必ずその人の与なり。然らずんば則ちその疎遠にして与にその利を同じゅうせざるところの者なり。然らずんば則ちそれ畏るる者なり。是の若くならずんば、強者は必ず言に説(よろこ)び、懦者(だしゃ)は必ず色に説べり。
是(こ)の故に事修まりて謗(そし)り興り、徳高くして毀(そし)り来る。嗚呼(ああ)、士の此の世に処(お)りて、名誉の光、道徳の行いを望むこと、難きのみ。将(まさ)に上(かみ)に作(な)すこと有らんとする者、吾が説を得てこれを存せば、それ国家は幾(き)して理(おさ)むべきか。
現代の君子はそうでない。他人の欠点を追求することには厳重周到で、自分に対しては寛容である。他人に対して細かく追求するから、人は善行をしにくい。自分に寛容であるから、他人の美点を自分のものにすることが少ない。自分ではまだ善を身につけていないのに「自分はこの点が良いから十分だ」と言い、「自分はこれができるからこれで十分だ」と言う。これは外において人を欺き、内において自分の心を欺いて少しも得るものがないまま終ってしまう。これは自分に対してあまりに寛容に過ぎるのではなかろうか。
また他人に対しては「あの人はこんなことが出来るが、その人柄は称するに足りない」とか「あの人はこんな良い点をもっているが、その効用はほめるに足りない」という。他人の一つの短所だけを取り上げて、他の十の長所は勘定に入れない。過去のことをほじくって、新しく進んだ点を見ようとしない。ただその人の評判が上がるのを懼れているのである。これは他人に対してあまりに細かいのではなかろうか。
このような態度は衆人を自分とは別としながら他人に対しては聖人と同じものを望むものである。しかしこれで自己の尊厳を確立した人を見たことがない。それでもこんな態度をとるのには根本の原因がある。それは「なまけ」と「ねたみ」である。怠けは自分の修養ができず、ねたみは他人が修養することをおそれる。私はこのことを試したことがあった。
こころみに人々に向かって「誰それは立派な人だ」と言ってみた。するとそれに賛成するのは必ずその人の仲間であった。さもなければその人と付き合いが無く、共通の利害のない人であった。あるいは、その人を畏れている人であった。これらの人々のほかは、気の強い人は、語気を荒げ、気の弱い人は顔色にあらわした。次にまた人々に向かって「誰それは立派な人でない」と言ってみた。するとその言葉に賛成しないのは、必ずその人の仲間であった。さもなければその人と付き合いが無く、共通の利害のない人であった。あるいは、その人を畏れている人であった。これらの人々のほかは、気の強い人は、必ず嬉しげに話し、気の弱い人は顔に喜色をらわした。
このような訳で仕事がうまくゆくと、悪口が始まり、徳が高くなると非難が高まるものなのである。ああ、士たる者がこの世にあって、名誉の輝きを放ち、道徳を守り行くことを望むことは、まことに難しいことだ。高位にあって何か仕事をしようとしている人が、私のこの説を読んで心にとめてくれるならば国家は必ずうまく治まるのではなかろうか。