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寡黙堂ひとりごと

詩吟と漢詩・漢文が趣味です。火曜日と木曜日が詩吟の日です花も酒も好きな無口な男です。

唐宋八家文 韓愈 原毀 二ノ二

2014-02-27 09:32:32 | 唐宋八家文
原毀 二ノ二
今之君子則不然。其責人也詳、其待己也廉。詳故人難於爲善廉故自取也少。己未有善、曰、我善是、是亦足矣。己未有能、曰、我能是、是亦足矣。外以欺於人、内以欺於心、未少有得而止矣。不亦待其身者已廉乎。其於人也、曰、彼雖能是、其人不足稱也。彼雖善是、其用不足稱也。擧其一不計其十。究其舊不圖其新。恐恐然惟懼其人之有聞也。是不亦責於人者已詳乎。
夫是之謂不以衆人待其身、而以聖人望於人。吾未見其尊己也。雖然爲是者、有本有原。怠與忌之謂也。怠者不能修、而忌者畏人修。吾嘗試之矣。嘗試語於衆曰、某良士、某良士。其應者、必其人之與也。不然則其所疎遠不與同其利者也。不然則其畏也。不若是、強者必怒於言、懦者必怒於色矣。又嘗語於衆曰、某非良士、某非良士。其不應者、必其人之與也。不然則其所疎遠不與同其利者也。不然則其畏也。不若是、強者必説於言、懦者必説於色矣。
是故事修而謗興、高而毀來。嗚呼、士之處此世、而望名譽之光、道之行難已。將有作於上者、得吾説而存之、其國家可幾而理歟。

今の君子は則ち然(しか)らず。その人を責むるや詳(しょう)にして、その己に待つや廉なり。詳なるが故に人善を為すを難(かた)しとす。廉なるが故に自ら取ること少なし。己は未だ善有らずして、曰く「我是れを善(よ)くす、是れ亦足れり」と。己は未だ能有らずして曰く「我是れを能くす、是れ亦足れり」と。外は以って人を欺き、内は以って心を欺き、未だ少しも得ること有らずして止む。亦その身に待つもの已(はなは)だ廉なるにあらずや。
その人に於けるや、曰く「彼是れを能くすと雖も、その人は称するに足らざるなり。彼是れを善くすと雖も、その用は称するに足らざるなり」と。その一を挙げて、その十を計らず。その旧を究めて、その新を図らず。恐々然として、惟だその人の聞こゆる有らんことを懼るるのみ。是れ亦人に責むるもの已だ詳なるにあらずや。
夫れ是れをこれ衆人を以ってその身に待たずして、聖人を以って人に望むと謂う。吾未だその己を尊くするを見ざるなり。然りと雖も是れを為すは、本(もと)有り原(げん)有り。怠(たい)と忌(き)との謂いなり。怠るものは修むること能わずして、忌むものは人の修むることを畏る。吾これを嘗試(こころ)みたり。
嘗試みに衆に語って曰く「某は良士なり、某は良士なり」と。その応ぜし者は、必ずその人の与(ともがら)なり。然らずんば則ちその疎遠にして与(とも)にその利を同じゅうせざるところの者なり。然らずんば則ちそれ畏るるものなり。是(かく)の若(ごと)くならずんば、強者は必ず言に怒り、懦者(だしゃ)は必ず色に怒れり。また嘗試みに衆に語って曰く「某は良士に非ず、某は良士に非ず」と。その応ぜざる者は、必ずその人の与なり。然らずんば則ちその疎遠にして与にその利を同じゅうせざるところの者なり。然らずんば則ちそれ畏るる者なり。是の若くならずんば、強者は必ず言に説(よろこ)び、懦者(だしゃ)は必ず色に説べり。
是(こ)の故に事修まりて謗(そし)り興り、徳高くして毀(そし)り来る。嗚呼(ああ)、士の此の世に処(お)りて、名誉の光、道徳の行いを望むこと、難きのみ。将(まさ)に上(かみ)に作(な)すこと有らんとする者、吾が説を得てこれを存せば、それ国家は幾(き)して理(おさ)むべきか。


現代の君子はそうでない。他人の欠点を追求することには厳重周到で、自分に対しては寛容である。他人に対して細かく追求するから、人は善行をしにくい。自分に寛容であるから、他人の美点を自分のものにすることが少ない。自分ではまだ善を身につけていないのに「自分はこの点が良いから十分だ」と言い、「自分はこれができるからこれで十分だ」と言う。これは外において人を欺き、内において自分の心を欺いて少しも得るものがないまま終ってしまう。これは自分に対してあまりに寛容に過ぎるのではなかろうか。
また他人に対しては「あの人はこんなことが出来るが、その人柄は称するに足りない」とか「あの人はこんな良い点をもっているが、その効用はほめるに足りない」という。他人の一つの短所だけを取り上げて、他の十の長所は勘定に入れない。過去のことをほじくって、新しく進んだ点を見ようとしない。ただその人の評判が上がるのを懼れているのである。これは他人に対してあまりに細かいのではなかろうか。
このような態度は衆人を自分とは別としながら他人に対しては聖人と同じものを望むものである。しかしこれで自己の尊厳を確立した人を見たことがない。それでもこんな態度をとるのには根本の原因がある。それは「なまけ」と「ねたみ」である。怠けは自分の修養ができず、ねたみは他人が修養することをおそれる。私はこのことを試したことがあった。
こころみに人々に向かって「誰それは立派な人だ」と言ってみた。するとそれに賛成するのは必ずその人の仲間であった。さもなければその人と付き合いが無く、共通の利害のない人であった。あるいは、その人を畏れている人であった。これらの人々のほかは、気の強い人は、語気を荒げ、気の弱い人は顔色にあらわした。次にまた人々に向かって「誰それは立派な人でない」と言ってみた。するとその言葉に賛成しないのは、必ずその人の仲間であった。さもなければその人と付き合いが無く、共通の利害のない人であった。あるいは、その人を畏れている人であった。これらの人々のほかは、気の強い人は、必ず嬉しげに話し、気の弱い人は顔に喜色をらわした。
このような訳で仕事がうまくゆくと、悪口が始まり、徳が高くなると非難が高まるものなのである。ああ、士たる者がこの世にあって、名誉の輝きを放ち、道徳を守り行くことを望むことは、まことに難しいことだ。高位にあって何か仕事をしようとしている人が、私のこの説を読んで心にとめてくれるならば国家は必ずうまく治まるのではなかろうか。


十八史略 明宗皇帝

2014-02-25 09:21:06 | 十八史略
明宗皇帝
明宗皇帝本胡人邈佶烈也。爲晉王克用養子、名嗣源。莊宗滅梁、嗣源功最高。爲中書令・蕃漢馬歩總管、受命討鄴、爲叛卒所推、自鄴趨汴入洛、遂即位、更名亶。
契丹阿保機卒。子光立。
閩王王審知卒、子延翰立。驕淫殘暴。其下弑之、而立其弟延鈞。後稱帝、更名璘。
呉王楊溥稱帝。
南平王高季興卒、子從誨立。
楚王馬殷卒、子希聲立。後希聲卒、希範立。
呉越王錢鏐卒、子元瓘立。
夏州李仁福卒、子彝超嗣。
西川孟知祥併東川。以知祥爲蜀王。

明宗皇帝、本胡人邈佶烈(ばくきつれつ)なり。晋王克用の養子と為り、嗣源と名づく。荘宗梁を滅ぼすや、嗣源、功最も高し。中書令・蕃漢馬歩総管(ばんかんばそうかん)となり、命を受けて鄴(ぎょう)を討ち、叛卒の推す所と為り、鄴より汴(べん)に趨(おもむ)き洛に入り、遂に位に即き、名を亶(たん)と更む。
契丹の阿保機(あぼき)卒す。子の徳光立つ。
閩王(びんおう)王審知卒し、子の延翰(えんかん)立つ。驕淫残暴(きょういんざんぼう)なり。其の下(しも)之を弑して、其の弟延鈞を立つ。後帝と称し、名を璘(りん)と更む。
呉王楊溥(ようふ)、帝と称す。
南平王高季興卒し、子の従誨(じゅうかい)立つ。
楚王馬殷(ばいん)卒し、子の希声立つ。後希声卒し、希範立つ。
呉越王銭鏐(せんりょう)卒し、子元瓘(げんかん)立つ。
夏州の李仁福卒し、子の彝超(いちょう)嗣ぐ。
西川の孟知祥、東川を併(あわ)す。知祥を以って蜀王と為す。


蕃漢馬歩総管 蕃人と漢人の騎馬兵・歩兵の総司令官。 夏州 今の陜西省の地。 西川、東川 四川省西部を西川、東部を東川という。

明宗皇帝は、もと胡人で邈佶烈といった。晋王克用の養子となって、嗣源と改名した。荘宗が梁を滅ぼした時、嗣源の功が一番であった。中書令・蕃漢馬歩総管となり、命を受けて鄴を討ったとき、叛乱軍に推されて鄴から汴に赴き洛陽に入り、遂に位に即いて、名を亶にあらためた。
契丹の阿保機が死んで、子の徳光が立った。
閩王の王審知が死んで、子の延翰が立ったが、驕慢淫乱残忍暴虐だったので、その部下がこれを弑して、その弟の延鈞を立てた。後帝と称して、名を璘とあらためた。
呉王の楊溥が帝を称した。南平王の高季興が死に、子の従誨が立った。
楚王の馬殷が死に、子の希声が立った。後に希声が死に、弟の希範が立った。
呉越王の銭鏐が死に、子の元瓘が立った。夏州の節度使李仁福が死に、子の彝超が継いだ。
西川郡の孟知祥が、東川郡を併合した。そこで唐王は知祥を蜀王に封じた。


唐宋八家文 韓愈 原毀 二ノ一

2014-02-22 08:51:10 | 唐宋八家文
原毀 二ノ一
古之君子、其責己也重以周、其待人也輕以約。重以周故不怠。輕以約故人樂爲善。聞古人有舜者、其爲人也仁義人也。求其所以爲舜者、責於己曰、彼人也予人也。彼能是而我乃不能是。早夜以思、去其不如舜者、就其如舜者。聞古之人有周公者。其爲人也多才與藝人也。求其所以爲周公者、責於己曰、彼人也予人也。彼能是而我乃不能是。早夜以思、去其不如周公者、就其如周公者。舜大聖人也。後世無及焉。周公大聖人也。後世無及焉。是人也、乃曰、不如舜不如周公、吾之病也。是不亦責於身者重以周乎。其於人也、曰、彼人也能有是。是足爲良人矣。能善是。是足爲藝人矣。取其一、不責其二。即其新不究其舊。恐恐然惟懼其人之不得爲善之利。一善易修也。一藝易能也。其於人也、乃曰、能有是、是亦足矣。曰、能善是、是亦足矣。不亦待於人者輕以約乎。

古(いにしえ)の君子は、その己を責むるや重以って周、その人に待つや軽以って約なり。重以って周なるが故に怠らず。軽以って約なるが故に人善を為すを楽しむ。
聞く「古の人に舜なる者有り、その人となりや、仁義の人なり」と。その舜たる所以(ゆえん)のものを求め、己を責めて曰く「彼も人なり、予(われ)も人なり。彼は是を能くするも、我は乃ち是を能くせず」と。早夜(そうや)に以って思い、その舜の如くならざるものを去りて、その舜の如くなるものに就(つ)かんとす。
聞く「古の人に周公なる者有り、その人となりや、才と芸と多き人なり」と。その周公たる所以のものを求め、己を責めて曰く「彼も人なり、予も人なり。彼は是を能くするも、我は乃ち是を能くせず」と。早夜に以って思い、その周公の如くならざるものを去りて、その周公の如くなるものに就かんとす。
舜は大聖人なり。後世及ぶ無し。周公は大聖人なり。後世及ぶ無し。是の人や、乃ち曰く「舜の如くならず、周公の如くならざるは、吾の病なり」と。是れ亦た身を責むることの重(じゅう)以って周なるにあらずや。
その人に於けるや、曰く「彼(か)の人や、能く是れ有り。是れ良人(りょうじん)と為すに足れり。能く是れを善くす。是れ芸人(げいじん)と為すに足れり」と。その一を取り、その二を責めず。その新に即き、その旧を究めず。恐々然として、惟だその人の善を為すの利を得ざらんことを懼るるのみ。
一善は修め易きなり。その人に於けるや、乃ち曰く「能く是れ有り、是れ亦足れり」と。亦た人に待つものの軽以って約なるにあらずや。


重以って周 厳重で周到。 軽もって約 ゆるく簡約。 舜 伝説上の聖人。 周公 周文王の弟旦。 早夜 朝から夜まで。 

古代の君子は、自分の欠点を責めるときは、厳重かつ周到であり、他人に対しては、ゆるやかで簡単であった。厳重かつ周到であるから、自ら怠ることがない。他人には寛容であるから、人々は善行を楽しむことになる。
古代の君子は「昔舜という人がいた。その人となりは仁義の人であった」と聞くと、舜の舜たる理由を追求し、次いで自分の欠点を追及して「舜も人間、われも人間、それなのに舜には出来て、自分には出来ない」と考える。朝から晩まで思いをめぐらせて自分の舜らしくない点を取り去り、舜らしいものに近づこうとするのである。また「昔、周公という人がいた。その人となりは才能と技芸に秀でた人であった」と聞くと、周公の周公たる所以のものを探求し、自分の欠点を追及して「周公も人間、われも人間、それなのに周公に出来て自分には出来ない」と考える。一日中思いをめぐらして、自分の中の周公らしくない点を取り除き、周公らしいものに近づこうとするのである。
舜は大聖人である。後世並ぶ者がいない。周公も大聖人である。後世並ぶ者がいない。しかし古代の君子は、「舜のようになれず、周公のようになれないことこそ自分の欠点なのだ」と考える。これまた自分の欠点を追求するすること厳重かつ周到なものではなかろうか。
また他人に対しては「あの人にはこんな長所がある、これはよい人とするに十分だ、こんなことができる。これは芸に秀でた人とするに十分だ」という。他人の一方をとって両方揃っていることを求めない。進歩した点を見て、過去のことを追及しない。ただその人が善行によって報いられないことを恐れているのである。
一つの善を身につけることはたやすい、一つの芸を身につけることもたやすい。それでも古代の君子は他人に対して「このような善を持てれば十分だ」と言い「このような技芸を身につければ十分だ」と言う。これは他人に対して寛容であると言えるのではなかろうか。


十八史略 荘宗存勗死す

2014-02-20 09:02:47 | 十八史略
荘宗存勗死す
唐主如關東、聞嗣源已據大梁、諸軍離叛、神色沮喪、歎曰、吾不濟矣。即命旋師。從馬直郭從謙、帥兵攻帝於氾水。唐主中流矢而殂。稱帝僅三歳而遇弑。改元者一、曰同光。伶人斂樂器、覆屍而焚之。嗣源聞之痛哭。乃入洛陽。百官上牋勸進不許。又三請嗣源監國。乃許之。繼岌自蜀歸、途聞内難、至長安自殺。監國立。是爲明宗皇帝

主、関東に如(ゆ)き、嗣源、已に大梁に拠(よ)って、諸軍離叛すと聞き、神色沮喪し、歎じて曰く「吾、済(な)らじ」と。即ち命じて師を旋(かえ)す。従馬直(じゅうばちょく)、郭従謙、兵を帥(ひき)いて帝を氾水(はんすい)に攻む。唐主流矢に中(あた)って殂(そ)す。帝と称する者(こと)僅か三歳にして弑に遇(あ)う。改元する者(こと)一、同光と曰う。伶人、楽器を斂(おさ)め、屍(し)を覆うて之を焚(や)く。嗣源、之を聞いて痛哭す。乃ち洛陽に入る。百官、牋(せん)を上(たてまつ)って勧進すれども許さず。又三たび嗣源に請うて国を監せしむ。乃ち之を許す。継岌(けいきゅう)蜀より帰り、途(みち)に内難を聞き、長安に至って自殺す。監国立つ。是を明宗皇帝と為す。

神色沮喪 神は心色は顔色、心神喪失。 済 なしとげる。 従馬直 近衛兵。 殂 死ぬこと。 牋 箋ふだ、文書。 監国 天子に代わって国事を行うもの。 

唐主はそのとき、関東に鎮圧の為に出向いていたが嗣源がすでに大梁に立てこもって、軍が叛いたと聞き、気力も顔色も失せ、歎息して「わしの壮途もこれで終った」と言った。早速軍を引き返した。ところが従馬直の郭従謙という者が、兵を率いて唐主を氾水のほとりで攻撃した。唐主は流れ矢に当たって死んだ。帝と称すること僅か三年で弑せられた。改元すること一、同光という。楽人が帝の楽器を集めて、死体の上に乗せて焼いた。嗣源はそれを聞いて、嘆き悲しんだ。洛陽に入ると、百官が上書して帝位に即くことを勧めたが聞き入れなかった。それでは監国にと三度請願してやっと承諾した。皇太子の継岌は蜀からの帰途内乱を知り、長安に帰ってから自殺した。そこで監国の嗣源が立った。これを明宗皇帝という。

唐宋八家文 韓愈 原性二ノ二

2014-02-18 08:21:53 | 唐宋八家文
原性 二ノ二
叔魚之生也、其母視之、知其必以賄死。楊食我之生也、叔向之母、聞其號也、知必滅其宗。
越椒之生也、子文以爲大戚、知若傲氏之鬼不食也。人之性果善乎。后稷之生也、其母無災。
其始匍匐也、則岐岐然嶷嶷然。文王之在母也母不憂。既生也傅不勤。既學也師不煩。人之性果惡乎。堯之朱、舜之均、文王之管・蔡、習非不善也。而卒爲姦。瞽叟之舜、鯀之禹、習非不惡也。而卒爲聖人。人之性善惡果混乎。故曰、三子之言性也、擧其中、而遣其上下者也。得其一而失其二者也。
曰、然則性之上下者、其終不可移乎。曰、上之性就學而愈明。下之性畏威而寡罪。是故上者可教、而下者可制也。其品則孔子謂不移也。曰、今之言性者異於此、何也。曰、今之言者雜佛老而言也。雜佛老而言也者、奚言而不異。

叔魚の生まるるや、その母これを視て、その必ず賄(まいない)を以って死なんことを知る。楊食我(よういが)の生まるるや、叔向(しゅくきょう)の母、その号(な)くを聞いて、必ずその宗を滅ぼさんことを知る。越椒(えつしょう)の生まるるや、子文以って大戚(だいせき)と為し、若傲氏(じゃくごうし)の鬼(き)くわざるを知るなり。人の性は果たして善なるか。
后稷(こうしょく)の生まるるや、その母災い無し。その始めて匍匐(ほふく)するや、則ち岐岐然(ききぜん)嶷嶷(ぎぎ)然たり。文王の母に在るや、母憂えず。既に生まるるや、傅(ふ)勤めず。既に学ぶや、師煩わず。人の性は果たして悪なるか。堯の朱、舜の均、文王の管・蔡は、習い善ならざるに非ざるなり。而して卒(つい)に姦を為す。瞽叟(こそう)の舜、鯀(こん)の禹、習い悪ならざるに非ざるなり。而して卒に聖人たり。人の性の善悪は果たして混ずるか。故に曰く「三子の性を言うや、その中(ちゅう)を挙げて、その上下を遺(わす)るるものなり。その一を得て、その二を失うものなり」と。
曰く「然らば則ち性の上下なるものは、それ終(つい)に移すべからざるか」と。曰く「上の性は学に就いて愈々明らかなり。下の性は威を畏れて罪寡(すくな)し。是(こ)の故に上なるものは教うべく、下なるものは制すべし。その品は則ち孔子謂う、移らざるなり」と。
曰く「今の性を言う者の此れに異なるは何ぞや」と。
曰く「今の言う者は仏老を雑(まじ)えて言うなり。仏老を雑えて言えるものは、奚(いずくんぞ)言いて異ならざらんや」と。


叔魚 晋の大夫 貪欲の人相であった。 楊食我 晋の大夫叔向の子 豺狼の声であった。 越椒 楚の司馬子良の子 子文 大戚 戚は憂えること。 若傲氏の鬼食わざる 若傲氏の祖先の霊を祀る者が絶えて、霊が供え物を食えなくなる。 后稷 周の始祖。 岐岐然 りこう。嶷嶷然 かしこい。 傅 守役。堯の朱、舜の均 ともに不肖の子。 文王の管・蔡 文王の子、管叔・蔡叔 ともに周にそむいて殺された。姦 悪事。 瞽叟 舜帝の父、何度も舜を殺そうとした。 鯀 禹の父、処刑された。 仏老 仏教と老子の思想、儒教はこれを排斥した。 奚 いずくんぞ、どうして、反語。

叔魚が生まれたとき、母親はその子を視て、この子はきっと賄賂の罪で死ぬであろうと予知した。楊食我が生まれたとき、叔向の母がその声を聞いて、この子はきっと一族を滅ぼすだろうと知った。越椒が生まれたとき、子文は大きな心配事を起すだろうと思い、若傲氏一族が滅ぼされることを予知した。これらを見るに、人の性ははたして善であろうか。
后稷が生まれたときにその母に災いは起こらなかった。始めてはいはいする頃には聡く賢こかった。母は何の心配もなく、守役を手こずらせることもなく、学問を始めてからも、先生は心配することが無かった。これらをみるに、人の性は果して悪なのであろうか。堯の子朱、舜の子均、文王の子管叔と蔡叔は聖人の子で教育は良かった。しかし結局悪事を働いて帝位を継げなかった。瞽叟の子舜、鯀の子禹は、奸悪の子ゆえ教育習慣は悪かったはずであるのについに聖人となった。人の性は果して善悪が混ざっているのだろうか。
だから私は言った「孟子・荀子・揚子の三人が性を説くのに中の性だけを取り上げて、上下の性を忘れているいるものだ。中の性だけとりあげて上性、下性を失っているのだ」と。
「であれば、上下の性は他の性に移すことができないのか」私の答えは「上の性は学問によってますます明らかになる。下の性は威勢を畏れるから罪は少ない。だから上の性は教え導き、下の性は抑止をかける。性の品等の上下は孔子も言うように移らないのだ」と。では「今の性を言う者があなたと意見を異にするのはなぜでしょう」
「今の世の論者は仏教と老子の教えを混ぜて論ずるからだ。仏教と老子を混ぜて論ずれば、私の見解と違ってくるのは当然だろう」と。