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寡黙堂ひとりごと

詩吟と漢詩・漢文が趣味です。火曜日と木曜日が詩吟の日です花も酒も好きな無口な男です。

十八史略 趙普罷免さる

2014-08-30 08:45:23 | 十八史略
又有立功當遷官者、上素嫌其人不與。普力請下。曰、朕固不與奈何。普曰、刑賞天下之刑賞。安得以私喜怒專之。上不聽起。普随之。上入宮。普立宮門不去。上卒可之。普常設大甕於閤後、表疏意不可者、投其中焚之。其多得謗以此。雷驤之子又訐之。上始疑普。先是雖置參知政事以副普、不宣制、不押班、不知印、不升政事堂。至是始詔二參政、升政事堂同議政、更知印・押班與普齊。未幾普遂罷。薛居正・呂餘慶等、其後繼爲相。

又功を立てて当(まさ)に官に遷(うつ)すべき者有り。上素(もと)より其の人を嫌うて与えず。普、力(つと)めて下すさんと請う。曰く「朕固く与えずんば奈何(いかん)」と。普曰く「刑賞は天下の刑賞なり。安んぞ私の喜怒を以って之を専(もっぱ)らにするを得ん」と。上聴かずして起つ。普、之に随う。上、宮に入る。普、宮門に立って去らず。上、卒(つい)にこれを可(ゆる)す。
普、常に大甕(だいおう)を閤後(こうご)に設けて、表疏(ひょうそ)の意に可とせざるものをば、其の中に投じて之を焚く。その多く謗りを得るは此を以ってなり。雷徳驤の子、又之を訐(あば)く。上、始めて普を疑う。是より先、参知政事を置いて以って普に副すと雖も、制を宣せず、押班せず、知印せず、政事堂に升(のぼ)らず。是に至って始めて二参政に詔(みことのり)して、政事堂に升って同じく政を議し、更に知印・押班、普と斉(ひと)しからむ。未だ幾ばくならずして普、遂に罷められる。薛居正(せつきょせい)・呂余慶(りょよけい)等其の後継いで相と為る。


閤後 閤は部屋、宰相の部屋のうしろ。 表疏 奏上文。 参知政事 宋代に設けられた官で宰相の副、執政とも。 宣制 天子の詔を宣布すること。 押班 押は点呼、班は席次。 知印 知はつかさどる、印は宰相の印、宰相と交代して印を押した。 参政 参知政事のこと。

また手柄を立てて昇進させなければならない者があったが、帝がその者をこころよく思っていなかったので許さなかった。趙普は重ねて昇進を願い出た。すると帝は「わしがどうしても許さなかったらどうするか」と言うと普は「刑罰と恩賞は天下の必然であります。陛下の喜怒に左右されるべきものではございません」と答えた。それでも帝は聴きいれず玉座を立ってしまった。普が付いて行くと帝は宮中に入ってしまった。普は宮門を立ち去る様子を見せなかった。帝は根負けしてその願いを許された。
趙普は執務室のうしろに大きな甕を置いて、帝にたてまつる上表、上疏の中で自分の気に入らないものを甕に投げ込んで焚いてしまった。趙普が多くの謗りを受けたのはそのためであった。嘗て雷徳驤が趙普を弾劾して罰を受けたことがあったが、その徳驤の子がまた趙普の不正を上訴した。帝は始めて趙普を疑った。これに先立って、帝は参知政事の官職を新たに設けて宰相の補佐とされたが、全くの名目にされてしまい、天子の詔を内外に宣布するでもなく、席次に従って点呼するでもなく、宰相の印鑑を預かって代理を勤めるでもなく、政事堂に登って評議することも無かった。この時になって二人の参知政事に詔を下して、趙普と同格とすることになった。それから間もなく趙普は宰相を免職になり、薛居正と呂余慶等が宰相となった。


唐宋八家文 柳宗元 箕子碑(3ノ2)

2014-08-28 10:02:06 | 唐宋八家文
箕子碑(三ノ二)
及封朝鮮、推道訓俗、惟無陋、惟人無遠。用廣殷祀、俾夷爲華。化及民也。
率是大道、藂于厥躬。天地變化。我得其正。其大人歟。
於虖當其周時未至、殷祀未殄、比干已死、微子已去。向使紂惡未稔而自斃、武庚念亂以圖存、國無其人、誰與興理。是固人事之或然者也。然則先生隠忍而爲此、其有志於斯乎。唐某年、作廟汲郡、歳時致祀。嘉先生獨列於易象、作是頌云。

朝鮮に封ぜるるに及んで、道を推(お)し、俗を訓(おし)え、惟れ徳陋(ろう)無く、惟れ人遠き無し。用(もっ)て殷の祀(し)を広め、夷(い)をして華(か)と為らしむ。化は民に及ぶなり。是の大道を率(ひき)いて厥(そ)の躬(み)に藂(あつ)む。天地変化するも、我その正を得たり。それ大人(たいじん)か。
於虖(ああ)、その周の時未だ至らず、殷の祀未だ殄(た)えざるに当たって、比干(ひかん)已(すで)に死し、微子(びし)已に去る。向(さき)に紂をして悪未だ稔(ねん)せずして自ら斃(たお)れ、武庚(ぶこう)をして乱を念(おも)うて以って存を図らしむとも、国にその人無くんば、誰と与(とも)にか理を興さん。是れ固(もと)より人事の或いは然(しか)らんものなり。然らば則ち先生の隠忍して此(これ)を為すは、それ斯(ここ)に志すこと有らんか。
唐の某年、廟を汲郡に作り、歳時に祀を致す。先生の独り易象(えきしょう)に列するを嘉(よみ)して、是の頌を作ると云う。


陋 いやしい。 於虖 感嘆符、嗚呼。 比干 紂王の諸父 紂王を強く諌めて殺された。 微子 紂王の庶兄で諌めて亡命した。 武庚 紂王の子。 易象 易経の象伝。 嘉して めでたく思って。 頌 讃えうた。

箕子が朝鮮に封ぜられるに及び、道徳を広め、風俗を正したために人徳に賤しいことが無く、民は遠近を問わず教化を受けない者は無かった。こうして殷の祀りを広め、蛮夷の風を中華の風に改めた。これが「化が民に行き渡る」ということである。箕子はこうして大道をもって民を率いて一身に集めていた。天地が変化する危難の時にも自身の正しさを保ち続けていたこれこそ大人物といえるだろう。
ああ、周がまだ天下を取らず、殷の国の祀りが絶えないうちに比干は死に、微子は国を去ってしまった。もし紂の非道がひどくならないうちに死んで子の武庚が乱を避けて国の存続を図ろうとしても、国にしかるべき人物が居なければ、だれと共に政治を正していこうというのだろうか。これは人の世の必然と言えようか。だとすれば箕子が耐え忍んで国を去らなかったのも国の存続を思ってのことか。
唐の某年、箕子の廟を汲郡に作り、季節毎のまつりを捧げることにした。箕子先生の易経象伝に挙げられていることを称えてこの頌を作った次第である。


十八史略 趙普、三たび上表す。

2014-08-26 09:01:22 | 十八史略

是歳、契丹弑其主述律。號穆宗。迎立其伯父兀欲之子明記。更名賢。
三年、命潘美伐南漢。四年、克廣州。劉降、南漢亡。
六年、交趾丁、上表求内附。詔以爲靜海節度使・安南都護。
趙普罷相、領河陽三城節度。普沉毅果斷、以天下爲己任。嘗欲除某人爲某官。上不用。明日又奏之。上怒裂其奏。普徐拾以歸、補綴以進。上悟乃可之。

是の歳、契丹、其の主述律(じゅつりつ)を弑す。穆宗と号す。其の伯父兀欲(こつよく)の子明記を迎立す。名を賢と更(あらた)む。
三年、潘美(はんび)に命じて南漢を伐たしむ。四年、広州に克つ。劉(りゅうちょう)降り、南漢亡ぶ。
六年、交趾(こうち)の丁(ていれん)上表して内附を求む。詔して以って静海の節度使・安南の都護と為す。
趙普、相を罷め、河陽三城の節度を領す。普、沉毅果断(ちんきかだん)にして、天下を以って己が任と為す。嘗て某人を除(じょ)して某官と為さんと欲す。上用いず。明日(めいじつ)、又之を奏す。上、怒って其の奏を裂く。普、徐ろに拾って以って帰り、補綴(ほてつ)して以って進む。上悟って乃ち之を可(ゆる)す。


交趾 現在のベトナムハノイ近辺。 内附 内付、服従すること。 河陽三城 河北三鎮、盧竜・成徳・魏博。沉毅 沈毅。 除 旧官を除いて新官に任命すること。 補綴 津奈つなぎ繕う。

この歳(開宝二年969年)に契丹が主の述律を弑した。穆宗とおくり名した。穆宗の伯父の兀欲の子明記を迎え立てて、名を賢とあらためた。
開宝三年、潘美に命じて南漢を征伐させた。同じく四年、潘美が広州で勝ち、劉が降伏して南漢が亡んだ。
開宝六年、交趾の丁が、服従したいと願い出た。上は詔を下して丁を静海の節度使、安南の都護とした。
趙普が宰相を罷めて、河陽三城の節度使となり三鎮を領した。普は沈着果断、天下を治めることを使命としていた。ある時、ある人物をある官職に就けようと思ったが聞き入れられず、普は次の日にもまた奏上した。帝は怒ってその奏上文を破り棄てたが、普はおもむろに棄てられた文書を持ち帰り、綴りあわせて翌日再び差し出した。さすがの帝も引き下がってその上奏を許した。


唐宋八家文 柳宗元 箕子碑

2014-08-23 08:36:27 | 唐宋八家文
箕子碑
凡大人之道有三。一曰、正蒙難。二曰、法授聖。三曰、化及民。殷有仁人、曰箕子。實具茲道以立于世。故孔子述六經之旨、尤慇懃焉。
當紂之時、大道悖亂、天威之動不能戒、聖人之言無所用。進死以併命。誠仁矣。無吾祀。故不爲。委身以存祀。誠仁矣。與亡吾國。故不忍。
具是二道、有行之者矣。是用保其明哲、與之俯仰、晦是暮範、辱於囚奴、昏而無邪、隤而不息。故在易曰、箕子之明夷。正蒙難也。
及天命既改、生人以正、乃出大法、用爲聖師。周人得以序彝倫、而立大典。故在書曰、以箕子歸作洪範。法授聖也。

凡そ人の道に三有り。一に曰く「正にして難を蒙(こおむ)る」。二に曰く「法を聖に授く」。三に曰く「化は民に及ぶ」。殷に仁人有り、箕子(きし)と曰う。実(まこと)に茲(こ)の道を具(そな)え以って世に立つ。故に孔子六経(りくけい)の旨(し)を述ぶるに、尤も慇懃(いんぎん)なり。紂の時に当たり、大道悖乱(はいらん)し、天威の動も戒むる能わず、聖人の言も用うる所無し。死に進んで以って命を併(す)つ。誠に仁なり。吾が祀(し)に益なし。故に為さず。身を委(す)てて以って祀を存す。誠に仁なり。吾が国を亡ぼすに与(あず)かる。故に忍びず。
是(こ)の二道を具(そな)え之を行う者有り。是(ここ)を用(もっ)てその明哲を保ち、これと俯仰(ふぎょう)し、是の暮範(ぼはん)を晦(くら)まして、囚奴に辱(はずか)しめられ、昏(こん)にして邪無く、隤(たい)にして息(や)まず。故に易に在りては曰く「箕子の明夷(やぶ)る」と。正にして難を蒙(こうむ)るなり。
天命既に改まり、生人以って正しきに及んで、乃ち大法を出し、用(もっ)て聖師と為る。周人(しゅうひと)以って彝倫(いりん)を序して、大典を立つるを得たり。故に書に在りては曰く「箕子を以(ひき)いて帰り、洪範(こうはん)を作る」と。法を聖に授くるなり。


箕子 殷の紂王の叔父或いは庶兄とも、紂王を諌めたが聞き入れられず、奴隷となり殷が周に滅ぼされたのち、周の武王に「洪範」をつくったとされる。六経 詩経・書経・礼記・楽記・易経・春秋。 悖乱 行いが道に外れている。 祀 先祖をまつること。 明哲 聡明で道理に通じていること。 これと俯仰し 他人と心と行動を合わせ。 暮範 模範。 昏 道理にくらい。 隤 隤然 従順。 明夷る 明徳を隠す。 生人 人民。 彝倫 人として守るべき道。 

およそ君子の生き方に三つの道がある。第一は正を貫いて困難な目に遭う。第二は道理を聖王に伝授すること。第三に徳化が民衆にゆき及ぶことである。殷に仁者がいた。箕子という。この三つの道を兼ね備えていた。だから孔子は六経の中で特に丁寧に書いている。
殷三十一代紂王に至って道を外し、天の威光をもってしても紂王の暴虐も戒めることができず、聖人の言葉も聴かず、比干は死を以って諌めた。仁者と言えるが、国の存続、先祖の祀りには役立たなかった。微子は身分を棄てて国外に逃れて宗祀を絶やさぬようにした、それも仁には違いないがやはり国を亡ぼすのに力を貸したと同じことだ。だから箕子はそうしなかった。
この二つの道を兼ね備え行った者が箕子であった。そのために道理を知って身の安全を保ち、他人と同じふりをして模範となるべき資質を隠して奴隷の身となる恥辱を受けて愚かなふりをしながらなお邪悪な行いをせず、従順でしかも怠らなかった。だから易経で「箕子は明を隠す」と言っている。これが「正にして難をこうむる」である。
天命が殷から周に変わり、人民も正しい生活を送るようになったので、箕子は大法を示して聖王の師となった。これによって周の人民は守るべき道が示され、儀式や制度を確立することができた。
故に書経では「周の武王は箕子を連れて帰り、洪範をつくった」と言っている。これが法則を聖王に授けるということである。


十八史略 漢氏の血食せざるを懼る

2014-08-21 08:16:59 | 十八史略
普黙然。良久曰、非臣所知也。太原當西北二邊。使一擧而下、邊患我獨當之。何不姑留以俟削平諸國。彼彈丸子之地、將何所逃。上笑曰、吾意正爾。姑試卿耳。於是用師荊湖、繼取西川。嘗因北漢諜者、語北漢主鈞曰、君家與周氏世仇。宜不屈。今我與爾無所。何爲困此一方人。鈞遣諜者復命曰、河東土地兵甲、不足當中國之什一。區區守此、蓋懼漢氏之不血食也。上哀其言、終鈞之世、不以大軍北伐。及繼元立、始用兵。

普、黙然たり。良(やや)久しうして曰く「臣の知る所に非ざるなり。太原は西北の二辺に当たる。一挙して下らしめば辺患(へんかん)は我独り之に当たらん。何ぞ姑(しばら)く留めて以って諸国を削平(さくへい)するを俟(ま)たざる。彼(か)の弾丸黒子(こくし)の地、将(はた)何の逃るる所あらん」と。上笑って曰く「吾が意も正に爾(しか)り。姑く卿を試むるのみ」と。是に於いて師を荊湖に用い、継いで西川(せいせん)を取る。嘗て北漢の諜者に因(よ)って、北漢主鈞に語(つ)げて曰く「君が家、周氏と世々仇たり。宜(むべ)なり、屈せざること。今、我と爾(なんじ)と間する所無し。何の為にか此の一方の人を困(くる)しむる」と。鈞、諜者を遣(や)り復命せしめて曰く「河東の土地兵甲は、中国の什(じゅう)に一に当たるに足らず。区々として此を守るは蓋し漢氏の血食(けっしょく)せざるを懼れてなり」と。上、其の言を哀れんで、鈞の世を終うるまで、大軍を以って北伐せず。継元の立つに及んで、始めて兵を用う。

西北二辺 西夏と契丹。 辺患 国境侵略の恐れ。 姑 一時。 削平 削って平らげる。 弾丸 弾き玉。 黒子 ほくろ。 荊湖 荊南(高継冲)と湖南(周保権)。 西川(孟昶) 宜なり 尤もなことである。 区々 小さくてつまらなおこと。 血食 先祖をまつること、生贄の血肉を食うから。 

趙普はしばらく黙っていたが、ややしばらくして「それは臣の賛成しかねるところでございます。太原は西夏、契丹の国境に当たっております。一挙に攻め降したならそれらの国が侵攻してきた時はわが国が全て引き受けねばなりません。どうして一時見合わせて他の諸国を平定するのを待っておれないのでしょうか。あの弾き玉やほくろのようなちっぽけな太原の地に逃れる術がありましょうか」と答えた。すると帝は笑って「わしの考えも正にその通りである。そなたを試しただけだ」と言った。そこで兵を荊南と湖南に向かわせて降し、続いて西川を攻略して蜀を亡ぼした。帝は嘗て北漢の間諜を利用して劉鈞に告げて「君の家と周とは仇敵どうしである。君が周に屈服しないのは尤もなことである。今私と君が仲違いすることは何もない、何のために一地方を苦しめる訳があろうか」と言わせた。すると劉鈞も間諜を使って「わが河東の土地も軍隊も中国の十に一にも満たないものです。ちまちまとこれを守って離れないのは、我が漢氏の祀りが絶えることを恐れるからです」と言わせた。帝はその言葉を哀れんで劉鈞が死ぬまで兵を出さなかったが、継元が立つと始めて兵を差し向けた。