寡黙堂ひとりごと

詩吟と漢詩・漢文が趣味です。火曜日と木曜日が詩吟の日です花も酒も好きな無口な男です。

吟誠会第6回温習会

2008-09-30 17:28:26 | Weblog
 いよいよ10月5日詩吟の発表会が迫ってまいりました。プログラムも完成して、これから詰めの作業があったのですが、一昨日からパソコンのご機嫌が悪くて印刷が出来ない状態になりました。やっと今日修復してほっとしたところです。
詩吟に興味がある方はどうぞご来場ください。中野芸能小劇場午後1時開演で、もちろん無料です。プログラムの最後には少壮吟士でありました、中澤春誠会長の吟をたっぷり聞くことが出来ると思います。  以上春洋流吟誠会のコマーシャルでした。         




伯夷叔斉 史記より

2008-09-26 18:38:46 | Weblog
 
及至西伯卒。武王載木主、号為文王、東討紂。伯夷叔斉、叩馬而諌曰、父死不葬
爰及干戈。可謂孝乎。以臣弑君。可謂仁乎。左右欲兵之。太公曰。此義人也。
扶而去之。武王已平殷乱。天下宗周。而伯夷叔斉恥之、義不食周粟。隠於首陽山、
采薇而食之。及餓且死作歌。

西伯卒するに至るに及んで、武王木主を載せ東に紂を討つ。伯夷叔斉馬をひかえて
諌めていわく、父死して葬らずここに干戈に及ぶ、孝というべきか、臣をもって君
を弑す仁というべきか。
左右之を兵せんと欲す、太公いわく、これ義人なり、たすけて之を去らしむ。
武王すでに殷の乱を平らぐ、天下周を宗とす。而伯夷叔斉之を恥じて、周の粟を食わず、首陽山に隠れ、薇を采ってこれを食う。餓え且つ死に及んで歌を作る。

木主=位牌  叩=ひかえる、ひきとめる。 兵せんと=殺そうと。
干戈=戦争。薇=ぜんまい

私が商業高校2年の時は冒頭 西伯卒し子の發立つ これ武王たり ではじまったように記憶している。出典が違うのかもしれない。


伯夷叔斉

2008-09-26 11:01:26 | Weblog
 伯夷叔斉は司馬遷の史記、列伝中の人物で伯と叔は兄弟の順序、古来長兄を伯、次兄を仲、三番目を叔、一番末を季、としていた。
現在でも力の差が少ないことを実力伯仲といったり、自分の親の兄、姉ならば、伯父伯母、弟妹ならば叔父、叔母のように使い分けている。
伯夷叔斉はともにある国の王子で、王が後継ぎを決めるとき、三男の叔斉を択んだところ、長男がふさわしいとして、国を出てしまった。伯夷も同じく国をでて放浪の生活にはいった。王は結局次男を後継者にした。
二人はよく治まっているといわれていた周の国に向うが、殷の紂王を討つため立ち上がった周の武王を諌めた。このくだりを今でも途切れとぎれで覚えている。
                            以下つづく

伯夷 叔斉

2008-09-24 18:45:40 | Weblog
 いつの時代の詩か知りませんが、私は采薇の歌が好きです。

采薇歌      采薇の歌
登彼西山兮    彼の西山に登りて
采其薇矣     其の薇を采る
以暴易暴兮    暴を以って暴にかえ
不知其非矣    其の非を知らず
神農虞夏忽焉歿兮 神農虞夏忽焉歿し
吾適安帰矣    吾適(まさ)に安(いずく)にか帰せん
嗟吁徂兮     ああ徂(ゆ)かん
命之衰矣     命の衰えたるかな

兮も矣も読みません。音はケイとイです

碩鼠(三)

2008-09-23 16:05:32 | Weblog
 今日門前仲町に墓参りに行ってきた、わぐら橋のたもとの太郎で昼食、ちらし
寿司3人分2700円なり わぐら橋の由来があったので読んでみると、幕府の
お椀蔵が近くにあったそうです。

碩鼠 三
 碩鼠碩鼠 無食我苗 碩鼠よ碩鼠 我が苗を食うなかれ
 三歳貫女 莫我肯労 三歳なんじにつかうれど 我をあえて労するなし
 逝将去女 適彼楽郊 逝きて将になんじを去りて 彼の楽郊にゆかんとす
 楽郊楽郊 誰之永号 楽郊楽郊 誰かこれ永号せん

大ねずみ 大ねずみ わしらの苗を食うでない 三年お前に貢いだが 
わしらをいたわることもせぬ さあ もうお前を見捨てるぞ
楽しい土地へ出て行こう 楽しい土地楽しい土地 そここそ泣かずに
すむところ。

詩経の頃はほとんど四字句です、かなりゆっくりと歌ったようです時代が下るにつれて五字六字句あるいは字数不定の句が現れました。行数も長短さまざまです。