goo blog サービス終了のお知らせ 

寡黙堂ひとりごと

詩吟と漢詩・漢文が趣味です。火曜日と木曜日が詩吟の日です花も酒も好きな無口な男です。

十八史略 王莽大司馬となり、成帝崩ず

2011-03-31 14:06:36 | 十八史略
綏和元年、王根病免、王莽爲大司馬。
二年、帝崩。在位二十六年、改元者七、曰建始・河平・陽朔・鴻嘉・永始・元延・綏和。帝有威儀。臨朝若神。然荒于酒色、政在外家。張禹・薛宣・翟方進、爲相、漢業愈衰焉。太子即位。是爲孝哀皇帝。

綏和(すいわ)元年、王根病んで免ぜられ、王莽大司馬と為る。
二年、帝崩ず。在位二十六年、改元すること七、 建始・河平・陽朔・鴻嘉・永始・元延・綏和と曰(い)う。帝、威儀有り。朝に臨んで神の若(ごと)し。然れども酒色に荒(すさ)み、政は外家(がいか)に在り。張禹・薛宣(せっせん)・翟方進(てきほうしん)相と為り、漢業愈々衰う。太子位に即く。是を孝哀皇帝(こうあいこうてい)と為す。

綏和元年(前8年)に王根が病気のため職を免ぜられ、王莽が大司馬になった。
綏和二年に成帝が崩御した。在位すること二十六年、改元すること七度、建始・河平・陽朔・鴻嘉・永始・元延・綏和である。成帝は威厳があり、朝廷に出られたときには神々しいほどであった。しかし酒色に溺れ、政治の実権は外戚の手に握られた。張禹・薛宣・翟方進が宰相になったが、漢室は益々衰えるばかりであった。太子が即位した。これが孝哀皇帝(哀帝)である

十八史略 朱雲、折檻す

2011-03-29 10:38:00 | 十八史略
龍逢・比干に従って、地下に遊ぶを得ば足れり
故槐里令朱雲、上書求見。願賜尚方斬馬劔、斷佞臣一人頭、以其餘。上問、誰也。對曰、安昌侯張禹。上大怒曰、小臣居下、廷辱師傅。罪死不赦。御史將雲下。雲攀殿檻。檻折。雲呼曰、臣得下從龍逢・比干、遊於地下足矣。未知聖朝如何耳。左將軍辛慶忌、叩頭流血爭之。上意乃解。及當治檻、上曰、勿易。因而輯之、以旌直臣。

故(もと)の槐里(かいり)の令、朱雲、上書して見(まみ)えんことを求む。願わくは尚方(しょうほう)の斬馬剱を賜り佞臣(ねいしん)一人の頭を断って、その余(よ)を励まさんと。上問う、誰ぞやと。対(こた)えて曰く、安昌侯張禹なりと。上、大いに怒って曰く、小臣下(しも)に居り、師傅(しふ)を廷辱(ていじょく)す。罪、死をも赦さず、と。御史、雲を将(ひき)いて下る。雲、殿檻(でんかん)を攀(よ)づ。檻折る。雲呼んで曰く、臣、しも龍逢・比干に従って、地下に遊ぶを得ば足れり。未だ聖朝の如何知らざるのみ、と。左将軍辛慶忌(しんけいき)、叩頭(こうとう)して血を流して之を争う。上の意乃(すなわ)ち解く。当(まさ)に檻を治むべきに及んで、上曰く、易(か)うること勿れ。因って之を輯(あつ)めて、以って直臣を旌(あらわ)せ、と。

もと槐里の県令であった朱雲が上書して拝謁を願い出でて言うには「願わくは、尚方(しょうほう)の斬馬剣を拝領して佞臣一人の首を刎ね、ほかの人達を励ましたと存じます」と。帝は「それは誰か」と問うと、「安昌侯張禹でございます」と答えた。帝は非常に怒って「小臣者が下賤の身でありながら朝廷でわが師傅を辱めたその罪は死んでも赦されぬ」御史が朱雲を引き立ててさがろうとしたが、朱雲は御殿の檻(てすり)にすがりついて、引きはがそうとすると檻が折れた。朱雲は大声で「臣は地下で龍逢・比干に従って遊ぶことができれば満足でございます、ただ朝廷の行く末が知れないのが気がかりでございます」と叫んだ。左将軍の辛慶忌(しんけいき)が頭を床に打ち付け、額に血を流しながら朱雲の助命を嘆願したので成帝も怒りを解いた。その後檻を修理する時になると、「とり易(か)えてはならぬ、木片を集めて元通りにして直諌の臣を表彰せよ」と命じた。

槐里 地名、峡西省にある。 尚方 御物を管理する役所。 檻 欄干。折檻の典拠になった。龍逢 関龍逢、夏の桀王の臣、王を諌めて殺された。比干は殷の紂王の叔父で胸を裂かれて殺された。

十八史略 張禹王氏の怨む所となるを恐る

2011-03-26 10:32:46 | 十八史略
安昌侯張禹、以帝師傅、毎有大政、必與定議。時吏民多上書言、災異王氏専政所致。上至禹第、辟左右、親以示禹。禹自見年老子孫弱、恐爲王氏所怨、謂上曰、春秋日食・地震、或爲諸侯相殺、夷狄侵中國。災變之意、深遠難見。故聖人罕言命、不語怪神。性與天道、自子貢之屬不得聞。何況淺見鄙儒之所信。新學小生、亂道誤人。宜無信用。上雅信愛禹。由是不疑王氏。

安昌侯張禹(ちょうう)、帝の師傅(しふ)を以って大政(たいせい)ある毎に、必ず定議に与(あづか)る。時に吏民多く上書して言う、災異は王氏専政の致すところなりと。上(しょう)禹の第(てい)に至って左右を退け、親(みずか)ら以って禹に示す。禹自ら年老い子孫弱きを見て、王氏の怨むる所と為るを恐れ、上に謂って曰く、春秋の日食・地震は、或いは諸侯あい殺し、夷狄中国を侵すが為ならん。災変の意、深遠にして見難し。故に聖人罕(まれ)に命を言い、怪神を語らず。性と天道とは、子貢の属よりして聞くを得ず。何ぞ況(いわん)や浅見鄙儒(せんけんひじゅ)の言う所ならんや。新学の小生、道を乱り人を誤る。宜しく信用するなかるべし、と。上、雅(もと)より禹を信愛す。是に由って王氏を疑わず。

安昌侯の張禹は帝の教導役ということで大事のある毎に評議に加わっていた。その頃、吏民からこういった天災地変は王氏一族の専横に起因するという訴えが多く出されていた。成帝は張禹の屋敷に行き、左右の者を遠ざけて、みずから上書を張禹に見せた。張禹は自分がすでに年老いて、子や孫もまだ非力であることを考えて、王氏に恨まれることを恐れて、帝に言った「春秋の日蝕や地震は諸侯が殺し合ったり、夷狄が中国を侵したためでありましょう。天災地変の理(ことわり)は深遠で測り難いものであります。故に聖人孔子も天命については滅多に口にせず、怪異や鬼神も語られなかったのです。人の本性と宇宙の道理については、子貢のような高弟でも聞くことができませんでした。まして浅学の儒者風情が言うことではございません。学問をはじめたばかりの青二才どもは道を乱し、人を誤らせます。信用なさらぬことです」と。帝はもとより禹を信愛していたので、王氏を疑わなかった。

第 邸に同じ。 罕言命 論語子罕篇(しかんへん)に「子罕(まれ)に利と命と仁とを言う」とある。 親 天子みずから。 雅 つねに、もとからの意

十八史略 願わくはその景を察せよ

2011-03-24 09:06:58 | 十八史略
故南昌尉梅福、上書曰、方今君命犯、而主威奪。外戚之權、日以盛。陛下不察其形、願察其景。建始以來、日食・地震、三倍春秋、水災無與比數。陰盛陽微、金鐡爲飛。此何景也。書上。不報。
四年、王商卒、王根爲大司馬。

故(もと)の南昌の尉、梅福、上書して曰く、方今(ほうこん)君命犯されて、主威奪わる。外戚の権、日に以って益々盛んなり。陛下其の形を察せずんば、願わくは其の景(かげ)を察せよ。建始以来、日食・地震、春秋に三倍し、水災与(とも)に比数(ひすう)する無し。陰盛んにして陽微に、金鉄ために飛ぶ。此れ何の景(かげ)ぞやと。書上(たてまつ)る。報ぜず。
四年、王商卒し、王根大司馬と為る。

もとの南昌の尉の梅福が帝に書をたてまつってこう言った「昨今帝の命令は犯されて、君主の威厳が損なわれております。そして外戚の権勢は日増しに盛んになってきております。陛下にはその実態を察しておられないならば、どうかそれに起因する天変地異を察知してください。建始以来起こった日蝕や地震は春秋の世に三倍しており、水害などは比べようもありません。陰の気が盛んで陽の気が衰え、鉄が飛び散ったこともありました。これは一体何の現れでありましょう」と。書は上呈されたが、何の沙汰もなかった。
永始四年、王商が死んで王根が大司馬となった。

金鉄ために飛ぶ 鉄を鋳込んだとき空高く飛び散ったことがあった。

十八史略 趙飛燕皇后に立つ

2011-03-22 12:02:55 | 十八史略
19日と同じものを入れてしまったので再送しました。
河平二年、悉封諸舅爲列侯。
陽朔三年、王鳳卒。王音爲大司馬、王譚領城門兵。
鴻嘉四年、王譚卒、王商領城門兵。
永始元年、封太后弟之子莽、爲新都侯。
立皇后趙氏。名飛燕。女弟合爲婕。
二年、王音卒、王商爲大司馬。

河平二年、悉(ことごと)く諸舅(しょきゅう)を封じて列侯と為す。
陽朔(ようさく)三年、王鳳卒す。王音(おういん)大司馬と為り、王譚(おうたん)城門の兵を領す。
鴻嘉(こうか)四年、王譚卒し、王商城門の兵を領す。
永始元年、太后の弟の子の莽(もう)を封じて、新都侯と為す。
皇后趙氏を立つ。名は飛燕。女弟の合徳を婕(しょうよ)と為す。
二年、王音卒し、王商大司馬と為る。

河平二年(前27年)皇太后の兄弟をすべて列侯に封じた。陽朔三年(前22年)王鳳が死んだ。王音が大司馬となり、王譚が宮城の衛兵を統括した。
鴻嘉四年(前17年)、王譚が死に、王商が代わって衛兵を統括した。
永始元年(前16年)、太后の弟の子王莽を新都侯に封じた。
趙飛燕を皇后に立てた。妹の合徳も婕として宮中にいれた。
二年、王音が死に、王商が大司馬となった。

女弟 妹のこと。 婕 高位の女官。