goo blog サービス終了のお知らせ 

寡黙堂ひとりごと

詩吟と漢詩・漢文が趣味です。火曜日と木曜日が詩吟の日です花も酒も好きな無口な男です。

十八史略 李愬、降将李祐の計を用う

2013-04-30 11:47:09 | 十八史略

以度同平章事。上曰、吾倚度一人足破賊。命度兼彰義節度使、充淮西宣慰招討使、督諸軍進討。唐節度使李愬、先擒賊將丁士良・呉秀琳・李祐。釋而用之。用祐計、雪夜七十里、引兵入蔡州城。撃鵝鴨池混軍聲。鶏鳴入據元濟之外宅。元濟登牙城拒戰。已而就擒。檻送京師斬之。自叛及誅、凡用兵二歳。時元和十二年也。

度(たく)を以って同平章事とす。上曰く「吾、度一人に倚(よ)って賊を破るに足れり」と。度に命じて彰義節度使を兼ねしめ、淮西の宣慰招討使に充(あ)て、諸軍を督して進討せしむ。唐(とう)の節度使李愬(りそ)、先ず賊将丁士良(ていしりょう)・呉秀琳(ごしゅうりん)・李祐(りゆう)を擒(とりこ)にす。釈(ゆる)して之を用う。祐が計を用いて、雪夜七十里、兵を引いて蔡州城(さいしゅうじょう)に入る。鵝鴨池(がおうち)を撃って軍声を混ず。鶏鳴に入って元済の外宅に拠(よ)る。元済、牙城に登って拒戦(きょせん)す。已にして擒(きん)に就く。檻(かん)して京師(けいし)に送って之を斬る。叛してより誅に及ぶまで、凡(すべ)て兵を用うること二歳。時に元和十二年なり。

宣慰招討使 宣慰使と招討使を兼ねた官。宣慰使は朝廷と地方の中継ぎ、招討使は降る者を招き叛する者を討伐する。 唐 唐州と州。 軍声を混ず 兵馬の音を紛らした。 擒に就く とりこになる。 

裴度を同平章事に任じた。憲帝は「賊を破るのは、度一人に任せて十分であろう」と言って彰義節度使を兼ねさせ、さらに淮西の宣慰招討使に任じ、各節度使の軍を指揮して討伐に向かわせた。唐節度使の李愬が賊軍の将丁士良・呉秀琳・李祐を虜にして味方にした。李祐の献策を用いて雪をついて夜行七十里、蔡州城域に入った。池の面を叩いて水鳥を驚かせその声に紛らして鶏の声とともに急襲して呉元済の私邸を占拠した。元済は城に登って抗戦したが、生け捕りになり、檻車で都に送られて斬殺された。
反逆してから誅殺に至るまで、凡そ兵を用いたのは二年間で時に元和十二年(817年)であった。


十八史略 番外偏

2013-04-30 11:31:00 | 詩吟

武元衡の詩       全唐詩より
嘉陵駅       
悠々たる風旆(ふうはい)山川を遶(めぐ)り   山駅空濛として雨煙と作(な)る
路は嘉陵に半ばにして頭(こうべ)すでに白し   蜀州西のかた更に青天に上らん


次に劉禹錫の詩二編を序文付きで      吟剣詩舞道漢詩集より
元和十年郎州より召されて京に至り戯れに花を看るの君子に贈る

紫陌紅塵面を払って来る   人の花を看て回(かえ)ると道(い)わざるは無し
玄都観裏桃千樹   尽く是れ劉郎去って後栽(う)う

再び玄都観に遊ぶ
余、貞元二十一年(805年)屯田員外郎と為る。時に此の観に未だ花有らず。是の歳出でて連州に牧たり。尋(つ)いで朗州司馬に貶せらる。居ること十年召されて京師に至るに人々皆言う「道士仙桃を手植する者有り。満観紅霞の如し」と。遂に前編あり、以って一時の事を志す。旋(たちま)ち又出でて牧たり。今十有四年にして復た主客郎中と為り、重ねて玄都に遊ぶ。蕩然として復た一樹無し。唯兎葵燕麦、春風に動揺するのみ。因って再び二十字を題し以って後遊を俟(ま)つ。時に太和二年(828年)三月也。

百畝(ほ)の庭中半ばは是れ苔   桃花落ち尽くして菜花開く
桃を種(う)うるの道士何れの処にか帰せる   前後の劉郎今独り来る


牧 州の長官。 玄都観 道教寺院の名。 司馬 州の刺史(ちじ)の次官

十八史略 武元衡暗殺さる

2013-04-27 08:39:43 | 十八史略

初彰義節度使呉少誠死。弟少陽自領軍府。少陽陰養亡命。少陽死。子元濟自領軍府。縦兵侵掠及東畿。詔發十六道兵討之。平盧節度使李師道、請赦元濟。不許。裴度宣慰淮西行營、還言、淮西可決取。上悉以兵事、委同平章事武元衡。師道素養刺客姦人。客請、密往刺元衡、則佗相必爭勸天子罷兵矣。元衡入朝。賊暗射殺之。又撃度傷首。上怒。討賊愈急。

初め彰義節度使の呉少誠死す。弟少陽自ら軍府を領す。少陽陰かに亡命を養う。少陽死す。子元済自ら軍府を領す。兵を縦(はな)って侵掠して東畿(とうき)に及ぶ。詔(みことのり)して十六道の兵を発して之を討つ。平盧の節度使李師道、元済を赦(ゆる)さんと請う。許さず。裴度(はいたく)淮西(わいせい)の行営を宣慰し、還って言う「淮西決して取る可し」と。上、悉(ことごと)く兵事を以って、同平章事武元衡に委(い)す。師道素(もと)より刺客姦人(せっかくかんじん)を養う。客請う、密かに往いて元衡を刺さば則ち佗(た)の相は必ず争うて天子に勧めて兵を罷(や)めん、と。元衡入朝す。賊暗(ひそ)かに之を射殺す。又度を撃って首(こうべ)に傷つく。上怒る。賊を討つこと愈々急なり。

佗 他に同じ。

初め淮西彰義軍の節度使の呉少誠が死ぬと弟の呉少陽が自ら軍府を掌握した。少陽は密かに逃亡者を養っていた。少陽が死ぬと子の元済がそのまま軍を引き継ぎ、兵を出して周囲を侵略し、洛陽畿内にまで及んだ。そこで詔を発して十六道の兵を集めて淮西討伐に向かった。平盧節度使の李師道が元済を助命しようとしたが聞き入れられなかった。裴度は淮西討伐軍を慰撫して還ると「淮西は必ず取れるでしょう」と奏上した。憲宗は兵事の一切を同平章事の武元衡に委ねて討伐にかかった。
李師道は予て刺客姦人を養っていたがその中に「密かに都に入って元衡を刺せば他の宰相どもは天子に討伐を中止するよう勧めるでしょう」と進言する者がいた。元衡が朝廷に出向くとき賊に射殺された。裴度もまた頭に傷を負わされた。だがこれが憲宗の怒りに油を注ぐ結果となった。

十八史略 李藩・李絳

2013-04-25 13:09:59 | 十八史略
藩嘗爲給仕中。制敕有不可者、即批之。吏請更連素紙。藩曰、如此則状也。何名批敕。■薦之爲相。知無不言。絳鯁直。吉甫善逢迎。絳毎與爭論於上前、上多直絳。時在朝如崔群・白居易等、皆讜讜直。元和之世、朝廷明以此。
七年、魏博兵馬使田興、請吏奉貢。詔以爲節度使。遣裴度宣慰、賜錢百五十萬緡犒其軍。六州百姓、皆給復一年。軍受賜歡聲如雷。成・兗・鄆諸鎭使者見之、相顧失色。歎曰、倔強者果何乎。賜興名弘正。

藩嘗て給仕中と為る。制敕不可なる者有れば、即ち之を批(ひ)す。吏、更(あらた)めて素紙(そし)を連ねんことを請う。藩曰く「此(かく)の如くんば則ち状なり。何ぞ批敕(ひちょく)と名づけん」と。■(き)之を薦めて相と為す。知って言わざる無し。絳は鯁直(こうちょく)なり。吉甫は善く逢迎(ほうげい)す。絳、与に上の前に争論する毎に、上多く絳を直とす。時に在朝崔群(さいぐん)・白居易等の如き、皆讜讜として直(なお)し。元和の世、朝廷清明なること此れを以ってす。
七年、魏博の兵馬使田興、吏を請うて奉貢(ほうこう)す。詔(みことのり)して以って節度使と為す。裴度(はいたく)を遣って宣慰(せんい)せしめ、銭百五十万緡(びん)を賜うて其の軍を犒(ねぎら)う。六州の百姓、皆給復すること一年なり。軍賜を受けて歓声雷の如し。成・兗(えん)・鄆(うん)の諸鎮の使者之を見て、相顧みて色を失う。歎じて曰く「倔強なる者果たして何の益あらんや」と。興に名を弘正と賜う。


給仕中 天子の詔勅を検討する官。 制敕 詔勅に同じ。 批 是非を書き込むこと。 素紙 白紙。 状 上書、意見書。 鯁直 硬骨正直。 逢迎 迎合。 讜讜直 正しい言葉、直言。 奉貢 貢物を献上する。緡 銅銭を束ねたもの。 給復 租税、賦役を免除すること。 兗・鄆 今の山東省の州の名。 倔強 強情で言うことを聞かない。 ■土偏に自

李藩は給仕中であったとき、詔勅に正しくない点があれば、すぐにそれを書き込んだ。下役が別の紙に書いて詔勅に足してもらいたいと願い出た。李藩は「そのようにすればそれは天子に書を奉ることになってしまう。私の役目は詔勅に非を書き込むことだ」と一蹴した。裴■はこの李藩を宰相に推薦した。李藩は気づいたことを黙って見過ごすことはなかった。
李絳は剛直であった。李吉甫は帝の意に沿うことが多かったが、李絳は決して譲らなかった。吉甫と帝の前で論争しても憲帝は李絳の言葉が正しいとすることが多かった。このころ朝廷にいた崔群や白居易なども直言して憚らない人たちであった。元和の世、朝政が公明清潔であったことはこれがためである。
元和七年(812年)魏博天雄軍の兵馬使の田興が官吏の派遣を願い出て朝貢した。そこで詔を下して田興を節度使に任命した。同時に裴度を派遣して朝廷に従うよう慰撫させた。銭百五十万緡を下賜して兵をねぎらい管下の六州の人々に一年の間租税と賦役を免除した。天雄軍の兵士たちは下賜を受けて大歓声を上げた。成徳や兗、鄆の使者は顔を見合わせて「強情に朝廷に逆らっても何の益があろうか」とつぶやいた。そして憲宗は田興に弘正という名を賜った。


十八史略 人々敢えて干すに私を以ってせず

2013-04-23 09:43:17 | 十八史略
パスワードの変更を怠っていたため遅れましたすみません。
三年、沙陀朱邪盡忠、與其子執宜來降。沙陀。勁勇冠緒胡。吐蕃毎戰以爲前鋒。後疑其貳於囘鶻、欲遷之河外。懼而歸唐。置之靈州。用以征討。皆捷。
自杜黄裳以後、相繼爲相者、武元衡・李吉甫・裴■・李藩・李絳、皆賢相。■嘗爲李吉甫疏人才三十餘、數月用盡。翕然稱爲得人。■器局峻整。人人不敢干以私。

三年、沙陀(さだ)の朱邪盡忠(しゅじゃじんちゅう)、其の子の執宜(しつぎ)と来たり降る。沙陀、勁勇(けいゆう)、諸胡に冠たる。吐蕃戦う毎に以って前鋒と為す。後其の回鶻(かいこつ)に弐(じ)あるを疑い、之を河外に遷(うつ)さんと欲す。懼れて唐に帰す。之を霊州に置き、用いて以って征討す。皆捷(か)つ。
杜黄裳(とこうしょう)より以後相継いで相と為る者、武元衡(ぶげんこう)・李吉甫(りきつほ)・裴■(はいき)・李藩(りはん)・李絳(りこう)、皆賢相なり。■嘗て李吉甫の為に人才を疏すること三十余、数月に用い尽す。翕然(きゅうぜん)として称して人を得たりと為す。■、器局峻整なり、人々敢えて干(おか)すに私を以ってせず。  ■土へんに自


沙陀 突厥の一種族。 勁勇 強く勇敢。 回鶻 ウイグル族。 弐 二心、不忠な心。 吐蕃 チベット族の王国。 疏 箇条書き。 翕然 翕は合う、口をそろえて。 器局 器量。 峻整 峻厳で整うさま。

元和三年に沙陀の朱邪尽忠が、その子執宜を伴って唐に帰服した。沙陀はその勇猛さにおいて多くの胡族の中で群を抜いていたので、戦いでは常に沙陀が先鋒に立っていた。その後吐蕃は、沙陀が回鶻と内通しているのではないかと疑いをもったので、沙陀を黄河の北に移そうとした。危険を感じた沙陀はこうして唐に帰属したのである。朝廷では親子を霊州に住まわせ、事有る毎に用いて常に勝利を得ていた。
杜黄裳からあと、相次いで宰相となった武元衡・李吉甫・裴き・李藩・李絳らはいずれも賢相であった。裴きは嘗て李吉甫のためにこれぞと思う人物三十余人を選んで書き出した。数か月のうちに、全員を登用した。世間は口を揃えてよい人物を得たと褒めそやした。裴きは、能力度量が峻厳で整然であったため、人々は決して私ごとでの依頼をしなかった。