赤眉西攻長安。王遣將軍禹等兵入關。禹薦寇恂。文武備具、有牧民御衆之才。使守河内。王自引兵徇燕・趙、撃尤來・大槍等諸賊、盡破之。王還至中山。諸將上尊號。不許。至南平棘、固請。又不許。耿純曰、士大夫捐親戚、棄土壌、從大王於矢石之間。固望攀龍鱗、附鳳翼、以成其所志耳。今留時逆衆。恐望絶計窮、則有去歸之思。大衆一散、難可復合。馮異亦言、宜從衆議。會儒生強華、自關中奉赤伏符來。曰、劉秀發兵捕不道。四夷雲集、龍鬭野。四七之際、火爲主。羣臣因復請。乃即皇帝位于鄗南、改元建武。
赤眉西のかた長安を攻む。王、将軍禹等の兵をして関に入らしむ。禹、寇恂(こうじゅん)を薦(すす)む。文武備具し、民を牧し、衆を御するの才有りと。河内(かだい)を守らしむ。王自ら兵を引いて燕・趙を徇え、尤來(ゆうらい)・大槍等の諸賊を撃ち盡く之を破る。王還って中山に至る。諸将、尊号を上(たてまつ)る。許さず。南平棘(なんぺいきょく)に至り、固く請う。又許さず。耿純(こうじゅん)曰く、士大夫、親戚を捐(す)て、土壌を棄てて、大王に矢石(しせき)の間に従う。固(もと)より龍鱗を攀(よ)じ、鳳翼に附き、以って其の志す所を成さんと望むのみ。今、時を留め衆に逆らう。恐らくは望み絶え計窮まらば、則ち去帰の思い有らん。大衆一たび散ぜば、復た合(がっ)す可きこと難からん、と。馮異も亦言う、宜しく衆議に従うべし、と。会々(たまたま)儒生強華、関中より赤伏符(せきふくふ)を奉じて来る。曰く、劉秀、兵を発して不道を捕(とら)う。四夷(しい)雲集し、龍、野(や)に闘う。四七の際、火を主と為す、と。群臣因(よ)って復請う。乃(すなわ)ち皇帝の位に鄗南(こうなん)に即(つ)き、建武と改元す。
赤眉が西方更始帝の長安を攻めた。蕭王劉秀は、将軍禹らの兵を、函谷関から長安の救援に向わせた。禹は出陣にあたって、文武兼ね備え民を教導し衆を統治する才があるとして、寇恂を推薦した。蕭王は寇恂に河内の留守を任せ、自ら兵を率いて燕や趙の平定に向かい、尤來・大槍らの諸賊を攻め、撃ち平らげた。蕭王が凱旋して中山郡に着いたとき諸将が皇帝の尊号を上ったが、ゆるさなかった。常山郡の南平棘に至ったとき将軍たちが再び強く願い出たが、これも却下した。
耿純が王に説いた。「しかるべき家柄の者たちが、親兄弟に別れ、土地を離れて矢玉をくぐり、大王に従っているのは、あたかも龍の鱗に取り付いたり、鳳凰の翼にすがったりするように、王によって、おのおの志を遂げようとしているのに外なりません。今この好期を逃し、将士の期待に背かれましたら、おそらく意気消沈し、先行き不安になって、故郷に帰る者も出てきましょう。この大勢の者たちが一旦散じてしまえば、再び集めることはもはや適いますまい」と。馮異も「どうか皆の意見にお従いください」と言った。ちょうどその折、儒生の強華という者が、関中から赤伏符なる予言書を携えやって来た。それには「劉秀が兵を起こして無道の輩を捕える。天下のつわものどもが雲の湧き出るごとく立ち上がり、龍が野に戦う如くであるが、四七の数にあたって、火の徳にあたる者が天下の主となる」とあった。群臣はこの予言書によって再び天子の位に即くことを願ったので、劉秀は鄗県の南で即位し、建武(西暦25年)と改元した。
民を牧し 牧は導くこと。 捐て 捨てると同義、義捐金は義のためになげうつ金の意。 矢石 弓矢と弩の弾。 龍鱗鳳翼 龍も鳳も天子の象徴。 赤伏符 符は予言書、赤は漢の象徴の火徳をあらわす。 四七二十八、劉秀が二十八歳で兵を起こしたから。鄗県 常山郡(今の河北省)にあった。 建武(けんぶ) 後醍醐天皇が光武帝に倣って建武(けんむ)を用いた(1334年)