建武九年、隗囂死。囂自更始初年起兵、至建武初、據天水、自稱西州上將軍。後嘗遣馬援往成都、觀公孫述。援與述舊。謂當握手歡如平生。時述已稱帝四年矣。援既至。盛陳陛衞以延援。援謂其屬曰、天下雌雄未定。公孫不吐哺迎國士。反修飾邊幅、如偶人形。此何足久稽天下士乎。因辭歸。謂囂曰、子陽井底蛙耳。而妄自尊大。不如專意東方。
建武九年、隗囂(かいごう)死す。囂は更始初年より兵を起こし、建武の初めに至るまで、天水に拠(よ)り、自ら西州の上将軍と称す。後嘗て馬援を遣わし成都に往き、公孫述を観(み)しむ。援、述と旧あり。謂(おも)えらく当(まさ)に手を握って歓ぶこと平生の如くなるべしと。時に述已に帝と称すること四年なり。援既に至る。盛んに陛衛(へいえい)を陳(ちん)し以って援を延(ひ)く。援其の属に謂って曰く、天下雌雄未だ定まらず。公孫、哺(ほ)を吐いて国士を迎えず、反って辺幅を修飾すること、偶人(ぐうじん)の形の如し。此れ何ぞ久しく天下の士を稽(とど)むるに足らんやと。因(よ)って辞して帰る。囂に謂って曰く、子陽は井底(せいてい)の蛙(あ)のみ。而(しか)して妄(みだ)りに自ら尊大にす。意を東方に専(もっぱ)らにするに如(し)かず、と。
建武九年に隗囂が死んだ。隗囂は更始帝の初年から挙兵し、建武の初めに至るまで、天水(甘粛省)に割拠して自ら西州の上将軍と称していた。その後馬援を蜀の成都に遣わして、公孫述の人物を観察させた。馬援は公孫述とは旧知であったので、会ったら互いに手を握り歓んでくれると思っていた。ところがこの時公孫述は、帝と称してすでに四年経っていた。馬援が行っても、これ見よがしに衛兵を整列させて馬援を引き入れた。援は随行した属官にもらした。「天下未だ定まらず、多くの人材が欲しい今、食事を中断して、口中のものを吐き出してでも引見すべき時だというに、身の周りばかり飾り立て、ただの人形のようだ。これでは天下の国士を抱えることなど出来はしまい」と。
早々に辞去して帰り、隗囂に告げた「子陽(公孫述のあざな)は井の中の蛙にすぎません。やたらと尊大に振舞っているだけの木偶(でく)の坊です。専ら東の光武帝に向けるのがよろしいでしょう」と。
陛衛 陛はきざはし、宮殿の階段にいる儀衛兵。 延 引き入れる。 哺(ほ)を吐いて 周公旦が来客があると、食べかけた物を吐き、洗いかけた髪を握って出迎えた故事「吐哺握髪」による。 辺幅 うわべ、布の縁から。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます