赤眉樊崇等、立宗室劉盆子爲帝。年十五。時在軍中主牧羊。被髪徒跣、敝衣赭汗、見衆拝、恐畏欲啼。
賊入長安。更始走。帝下詔、封爲淮陽王。
宛人卓茂、嘗爲密令。教化大行。道不拾遺。上即位、先訪求茂、以爲太傅、封褒侯。
車駕入洛陽。遂都之。
關中未定。禹引衆而西。號百萬。所至停車駐節、勞來百姓。垂髫戴白滿車下。名震關西。至□邑。久不進兵。赤眉大掠而出。禹乃入長安。赤眉復入。禹戰不利走。徴還京師。遣馮異入關。禹慚無功、要異共攻赤眉。大戰於囘溪、敗績。収散卒堅壁。已而大破赤眉於崤底。璽書勞異曰、始雖垂翅囘溪、終能奮翼澠池。可謂失之東隅、収之桑楡。
赤眉の樊崇(はんすう)等、宗室劉盆子を立てて帝と為す。年十五なり。時に軍中に在って、牧羊を主(つかさど)る。被髪徒跣(ひはつとせん)し、敝衣赭汗(へいいしゃかん)、衆の拝するを見れば、恐畏(きょうい)して啼かんと欲す。
賊、長安に入る。更始走る。帝、詔を下して、封じて淮陽(わいよう)王と為す。
宛人(えんひと)卓茂(たくも)、嘗て蜜の令と為る。教化大いに行わる。道遺ちたるを拾わず。上、位に即くや、先ず茂を訪求し、以って太傅(たいふ)と為して、褒侯に封ず。
車駕(しゃが)洛陽に入る。遂に之を都(みやこ)す。
関中未だ定まらず。禹、衆を引いて西す。百万と号す。至る所車を停め節を駐(とど)めて、百姓(ひゃくせい)を労来(ろうらい)す。垂髫戴白(すいちょうたいはく)車下に満つ。名、関西(かんせい)に震う。じゅん邑(木偏に旬)に至る。久しく兵を進めず。赤眉大いに掠(かす)めて出づ。禹乃(すなわ)ち長安に入る。赤眉も復た入る。禹、戦い利あらずして走る。徴(め)されて京師に還る。馮異を遣わして関に入らしむ。禹、功無きを慚(は)ぢ、異を要して共に赤眉を攻む。大いに回渓に戦い、敗績す。散卒(さんそつ)を収めて壁を堅うす。已にして大いに赤眉を崤底(こうてい)に破る。璽書(じしょ)して異を労して曰く、始め翅(つばさ)を回渓に垂ると雖も、終りに能く翼を澠池(べんち)に奮う。之を東隅に失い、之を桑楡(そうゆ)に収むと謂う可し、と。
赤眉の樊崇らも、漢室の血を引く劉盆子を皇帝に立てた。年は十五歳、当時軍中で羊の世話をしていた。ざんばら髪で裸足、破れた衣服をまとい、日焼け顔に汗を滴らせて、群臣が自分を拝するのを見ると、恐れてほとんど泣き出さんばかりであった。
赤眉の賊軍が長安に攻め入り、更始は逃げた。光武帝(劉秀)は詔を下して、更始を淮陽王に封じた。
宛の人卓茂は以前密県の令であったが、教化が行きとどいて、道に落ちている物を誰も拾おうとしないほどであった。光武帝は即位するや、まず卓茂を探し出し、太傅に迎え褒侯に封じた。
光武帝の車駕が洛陽に入りここを都と定めた。
一方、赤眉が長安にいるので関中はまだ平定していなかった。禹が大軍を率いて西にむかった。その数百万と称していた。行く先々で車を停め、旗印を立てて人々を労わった。垂れ髪の子供から白髪の老人まで、車の周りに群がり迎えた。禹の名は関西中にひびきわたった。じゅん邑県に至ったとき、進軍を止め、赤眉の動静をうかがった。やがて赤眉は掠奪をしながら、長安を出た隙に禹は長安に入城した。すると今度は赤眉がとって返した。禹は戦いに敗れて逃げた。光武帝は禹を洛陽に呼び戻し、代わりに馮異を遣わした。禹は敗戦を恥じ入り、馮異を待って共に力を合わせて赤眉を攻めた。回渓で激戦となり、再び大敗した。そこで散り散りになった兵卒を集めて、今度は堅く守った。やがて好機がめぐり、崤山の麓で大いに破った。光武帝は勅書をおくって馮異をねぎらい、「始め回渓で翅を垂れてしまったが、澠池で羽ばたくことができた、日の出る朝に失い、日の沈む夕べに取り返したというべきか」といった。
太傅 天子の指南役。 節を駐め 将軍の旗印を立て。 要 出迎える、まちぶせる。 東隅 日の出る処、朝。 桑楡 西方の日歿するところ、夕暮れ、六朝の王融の詩序にも見える。
賊入長安。更始走。帝下詔、封爲淮陽王。
宛人卓茂、嘗爲密令。教化大行。道不拾遺。上即位、先訪求茂、以爲太傅、封褒侯。
車駕入洛陽。遂都之。
關中未定。禹引衆而西。號百萬。所至停車駐節、勞來百姓。垂髫戴白滿車下。名震關西。至□邑。久不進兵。赤眉大掠而出。禹乃入長安。赤眉復入。禹戰不利走。徴還京師。遣馮異入關。禹慚無功、要異共攻赤眉。大戰於囘溪、敗績。収散卒堅壁。已而大破赤眉於崤底。璽書勞異曰、始雖垂翅囘溪、終能奮翼澠池。可謂失之東隅、収之桑楡。
赤眉の樊崇(はんすう)等、宗室劉盆子を立てて帝と為す。年十五なり。時に軍中に在って、牧羊を主(つかさど)る。被髪徒跣(ひはつとせん)し、敝衣赭汗(へいいしゃかん)、衆の拝するを見れば、恐畏(きょうい)して啼かんと欲す。
賊、長安に入る。更始走る。帝、詔を下して、封じて淮陽(わいよう)王と為す。
宛人(えんひと)卓茂(たくも)、嘗て蜜の令と為る。教化大いに行わる。道遺ちたるを拾わず。上、位に即くや、先ず茂を訪求し、以って太傅(たいふ)と為して、褒侯に封ず。
車駕(しゃが)洛陽に入る。遂に之を都(みやこ)す。
関中未だ定まらず。禹、衆を引いて西す。百万と号す。至る所車を停め節を駐(とど)めて、百姓(ひゃくせい)を労来(ろうらい)す。垂髫戴白(すいちょうたいはく)車下に満つ。名、関西(かんせい)に震う。じゅん邑(木偏に旬)に至る。久しく兵を進めず。赤眉大いに掠(かす)めて出づ。禹乃(すなわ)ち長安に入る。赤眉も復た入る。禹、戦い利あらずして走る。徴(め)されて京師に還る。馮異を遣わして関に入らしむ。禹、功無きを慚(は)ぢ、異を要して共に赤眉を攻む。大いに回渓に戦い、敗績す。散卒(さんそつ)を収めて壁を堅うす。已にして大いに赤眉を崤底(こうてい)に破る。璽書(じしょ)して異を労して曰く、始め翅(つばさ)を回渓に垂ると雖も、終りに能く翼を澠池(べんち)に奮う。之を東隅に失い、之を桑楡(そうゆ)に収むと謂う可し、と。
赤眉の樊崇らも、漢室の血を引く劉盆子を皇帝に立てた。年は十五歳、当時軍中で羊の世話をしていた。ざんばら髪で裸足、破れた衣服をまとい、日焼け顔に汗を滴らせて、群臣が自分を拝するのを見ると、恐れてほとんど泣き出さんばかりであった。
赤眉の賊軍が長安に攻め入り、更始は逃げた。光武帝(劉秀)は詔を下して、更始を淮陽王に封じた。
宛の人卓茂は以前密県の令であったが、教化が行きとどいて、道に落ちている物を誰も拾おうとしないほどであった。光武帝は即位するや、まず卓茂を探し出し、太傅に迎え褒侯に封じた。
光武帝の車駕が洛陽に入りここを都と定めた。
一方、赤眉が長安にいるので関中はまだ平定していなかった。禹が大軍を率いて西にむかった。その数百万と称していた。行く先々で車を停め、旗印を立てて人々を労わった。垂れ髪の子供から白髪の老人まで、車の周りに群がり迎えた。禹の名は関西中にひびきわたった。じゅん邑県に至ったとき、進軍を止め、赤眉の動静をうかがった。やがて赤眉は掠奪をしながら、長安を出た隙に禹は長安に入城した。すると今度は赤眉がとって返した。禹は戦いに敗れて逃げた。光武帝は禹を洛陽に呼び戻し、代わりに馮異を遣わした。禹は敗戦を恥じ入り、馮異を待って共に力を合わせて赤眉を攻めた。回渓で激戦となり、再び大敗した。そこで散り散りになった兵卒を集めて、今度は堅く守った。やがて好機がめぐり、崤山の麓で大いに破った。光武帝は勅書をおくって馮異をねぎらい、「始め回渓で翅を垂れてしまったが、澠池で羽ばたくことができた、日の出る朝に失い、日の沈む夕べに取り返したというべきか」といった。
太傅 天子の指南役。 節を駐め 将軍の旗印を立て。 要 出迎える、まちぶせる。 東隅 日の出る処、朝。 桑楡 西方の日歿するところ、夕暮れ、六朝の王融の詩序にも見える。