それでは、なめとこ山の後編である。
道は殆ど整備されておらす、高橋案内人のガイドで「目印」を付けながら登る。
《1ブナの新緑》(平成27年5月20日撮影)
《2 オオバクロモジ》(平成27年5月20日撮影)
《3 「熊の爪痕」》(平成27年5月20日撮影)
《4 クマイチゴ?》(平成27年5月20日撮影)
《5 ムシカリ》(平成27年5月20日撮影)
《6 たまに残雪》(平成27年5 . . . 本文を読む
《『昭和2年の賢治の日記帳(印刷上は「大正十六年日記」)』》 約一ヶ月の滞京を終えて前年末に花巻に戻った賢治は、とりわけ「凶饉」とも言える紫波郡内の惨状等を早速目の当たりにしたであろうが、それに対してどう感じて、どのような救援活動をしたのだろうか。
賢治昭和2年の「一年の計」
年が改まって昭和2年となった賢治は、年頭に当たってどのような「一年の計」を立てたのだろうか。一般に賢治は日記を付けなか . . . 本文を読む
5月20日なめとこ山に初めて登った。
「金勢神社登山口」発 8:40 →「金勢神社」着 9:00 →「なめとこ山頂上」着 12:15→ 同 発 13:15→「登山口」着 16:40
《1 登山口の「金勢大権現神社々社殿登山口」》(平成27年5月20日撮影)
《2 チゴユリ》(平成27年5月20日撮影)
《3 ナガハシスミレ》(平成27年5月20日撮影)
《4 トリアシショウマ》(平 . . . 本文を読む
《1 あれっ?》(平成27年5月17日撮影)
《2 これは何だ》(平成27年5月17日撮影)
《3 今まで見たこともない花だ》(平成27年5月17日撮影)
《4 》(平成27年5月17日撮影)
《5 》(平成27年5月17日撮影)
《6 あれれっ、道の反対側にもだ》(平成27年5月17日撮影)
ちょっと行ってみるか。
《7 これはテングクワガタかな》(平成27年5月17日撮影)
. . . 本文を読む
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》昭和2年2月1日付『岩手日報』より
そして、月が変わった2月1日、『岩手日報夕刊』に「農村文化の創造に努む」という報道がなされた、その報道内容は以下のようなものであった。
農村文化の創造に努む
花巻の青年有志が 地人協會を組織し 自然生活に立返る
花巻川口町の町會議員であり且つ同町の素封家の宮澤政次郎氏長男賢治氏は今度花巻在住の青年三 . . . 本文を読む
それでは今度は「奥の牧場」の奥にあるという「黒滝」に行ってみよう。
《1 》(平成27年5月17日撮影)
《2 》(平成27年5月17日撮影)
《3 振り返れば西森山》(平成27年5月17日撮影)
《5 ダケカンバ》(平成27年5月17日撮影)
《6 標識あり》(平成27年5月17日撮影)
《7 》(平成27年5月17日撮影)
《8 立派な道があったが行き止まり》(平成27年5月17 . . . 本文を読む
それでは今度は「奥の牧場」まで行ってみよう。
《1 今年はブナの実も沢山なりそう》(平成27年5月17日撮影)
《2 ナナカマド》(平成27年5月17日撮影)
《3 ムラサキヤシオ》(平成27年5月17日撮影)
《4 》(平成27年5月17日撮影)
《5 エンレイソウ》(平成27年5月17日撮影)
《6 シラカバ》(平成27年5月17日撮影)
《7 ハシバミ?》(平成27年5月17 . . . 本文を読む
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》被害は甚大広がる罹災地
さらには、次のような報道もあった。
【Fig.1 昭和2年1月23日付『岩手日報』】
知事夫人が 旱害罹災者慰問 内務部長夫人と 共に二十五日から
とあり、次の県下各地の旱害罹災地
▲紫波郡赤石、不動村
▲和賀郡中内、谷内村
▲江刺郡羽田村
▲西磐井郡日?村
を訪問するという。このことからは . . . 本文を読む
では今度は「ブナ二次林」を抜けて、先程の「安比高原」入口まで一度戻る(結局、周回することになる)。
《1 》(平成27年5月17日撮影)
《2 》(平成27年5月17日撮影)
《3 ここも一度野焼きがあったようだ》(平成27年5月17日撮影)
《4 ルイヨウボタン》(平成27年5月17日撮影)
《5 風に吹かれたウスバサイシンの葉の裏に卵発見、たぶんヒメギフチョウのもの》(平成27年5月 . . . 本文を読む
5月17日に訪れた安比高原の、まずは「中の牧場」の報告である。
《1 『安比高原』入口案内板》(平成27年5月17日撮影)
《2 タムシバ》(平成27年5月17日撮影)
《3 ムラサキヤシオ》(平成27年5月17日撮影)
《4 ムシカリ》(平成27年5月17日撮影)
《5 ブナ》(平成27年5月17日撮影)
《6 前森山と西森山》(平成27年5月17日撮影)
《7 》(平成27年5月 . . . 本文を読む
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》紫波地方一帯は凶歉
では、話を元に戻して続けよう。
昭和2年1月19日付付『岩手日報』によれば、古館村の旱害被害も甚大だったという次のような記事もあった。
【Fig.1 昭和2年1月19日付『岩手日報』】
得能知事が旱害地視察 寒さと飢えになく村民 正視するに忍びない 彼等のドン底生活
紫波郡地方のかん害惨状は日一日と深刻の度を増し行きやがて來 . . . 本文を読む
岩手山が見えた。するとアマドコロも見えた。そばには、あれっこれはアマドコロとは違うぞ
《1 うむっ?もしかすると》(平成27年5月17日撮影)
《2 ヒメイズイだった》(平成27年5月17日撮影)
《3 こちらはアマドコロ》(平成27年5月17日撮影)
《4 》(平成27年5月17日撮影)
《5 》(平成27年5月17日撮影)
《6 バックは岩手山》(平成27年5月17日撮影)
《7 . . . 本文を読む
5月17日に訪れた安比高原のオキナグサである。
《1 》(平成27年5月17日撮影)
《2 》(平成27年5月17日撮影)
《3 》(平成27年5月17日撮影)
《4 》(平成27年5月17日撮影)
《5 》(平成27年5月17日撮影)
《6 》(平成27年5月17日撮影)
《7 》(平成27年5月17日撮影)
《8 》(平成27年5月17日撮影)
《9 》(平成27年5月17日 . . . 本文を読む
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》 さて、巷間
羅須地人協会時代の賢治は貧しい農民達のために己を犠牲にしながらも献身的に活動した。といわれていると私が今まで思ってきた賢治だったが、シリーズ『大正15年の宮澤賢治』において大正15年の賢治の総体のあらましを調べた限りでは、残念ながら
「羅須地人協会時代」のうちの大正15年をここまで見てきた限りにおいては、それにふさわしいような賢治の活動は殆 . . . 本文を読む
5月14日に訪れた江釣子森山の報告の続きである。
《1 サワオグルマ》(平成27年5月14日撮影)
《2 ジシバリ》(平成27年5月14日撮影)
《3 クサノオウ》(平成27年5月14日撮影)
《4 ヒメヘビイチゴ》(平成27年5月14日撮影)
《5 ヘビイチゴ》(平成27年5月14日撮影)
《6 ハルジオン》(平成27年5月14日撮影)
《7 ノミノフスマ》(平成27年5月14日撮 . . . 本文を読む